エレノアはあくる日も、あくる日も、そのあくる日も監視の目を潜り抜け、イェリの森にやってきた。
 すっかり乗馬の腕が上がったエレノアは、颯爽と大地を駆け抜ける。森の中に入ると、この日はオズではなくキキミックがエレノアを出迎えた。

「あら、キキミック。今日はあなただけ?」

 マントを深く被り、クスノキの下でくつろいでいる毛玉のような生物に声をかける。キキミックは待ちくたびれてしまったのか、ふわ、と大きなあくびをした。

「オズ様はお忙しい方だ。本日は戦に出ておられる」
「…いく、さ」

 きんきんとした野太いキキミックの声が、エレノアの脳内を掻きまわすように刺激する。エレノアは一瞬、目の前が真っ白になったのであった。

「オズ様はお強いぞ! エレノア、おまえの国など今に滅ぼされるのが関の山だ」
「…っ」
「だが…そうだな、おまえくらいは生かしてやってもよいかもしれぬ。サンドイッチとやらにありつけなくなったら困るからな」

 エレノアは現実をつきつけられ、言葉を失った。
 人間と魔族がともにあれる未来が訪れたら――などと夢や理想を描いていたが、現状は何も変わっていない。
 争いに目を瞑り、我が帝国が滅べばいいのか?
 それは違う。サンベルク帝国の十三代皇女として、自国の民は守らねばならない。

(オーディア様なら、いったいどうなさるの…?)

 意気揚々と森の奥へと歩き始めるキキミックについていく足取りは重い。何よりも、このような状況にあっても私情が優先されてしまう。

(どうか、どうか……無事に帰ってきて)

エレノアは戦場に赴いたオズの身を案じた。

 その日の広場は、いつになく騒がしかった。キキミックとともに出店を回っていると、皆が寄って集まって何かを購入している。

「おーい! エリィ~!」

 いったい何が売っているものかと不思議に思っていると、溢れかえっている魔族たちを掻きわけるようにして赤い素肌の少女が走ってくる。

「フィーネ、ご機嫌よう」
「…ご、ご機嫌ようって、あんたってほんと、お嬢様だよなあ」

 気になったのはフィーネの手元だった。他の魔族たちがこぞって抱えている白い袋。それと同じものをフィーネも持っているのだ。
 キキミックはぎょろぎょろと目玉を動かし、物欲しそうな様子であった。

「ね、ねえ、フィーネ? 今日はいつもと雰囲気が違うのね」

 戦がはじまったからなのか。めでたいと言わんばかりの雰囲気が立ち込める。エレノアは周囲をしきりに見回した。

「ああ、エリィは知らないのか。戦がはじまると、あれが入ってくるんだよ」
「あれ?」

 魔族たちは袋の中に入っているものを大事そうに持ち帰る。

「あれっつったら、あれだろ。まさかエリィ、買ったことないとか言わないよな」
「…ああ、え、ええ、そうね。そうなのだけれど、私が知っているものと同じなのかと思って聞いたのよ?」

 エレノアはとっさに話をあわせて誤魔化した。すると、フィーネは腑に落ちたのか、持っていた袋を見せつけてくる。

「人間だよ。最近じゃあ、この里でもなかなかありつけなくなってきてるけど」

 フィーネの言葉はエレノアの鼓膜を痛いほどに揺さぶった。愕然とし、何の言葉を発することもできなくなる。魔族は人間を食らう。それは理解しているつもりだったが、いざ食料となって切り分けられている同胞を目にすると、吐き気を催した。

「エリィ…? どうしたんだ?」
「い、いえ…なんでも、ないわ」

 キキミックはちらちらとエレノアの表情をうかがっている。ボロが出ぬようにとヒヤヒヤしているようであった。

「これがねえと、あたしら魔族はなれ果てちまうからなあ」
「…それは、」
「人間は、あたしらから知性を――生命の源を奪った。だから、あたしらは人間を食って、尊厳を保つしかなくなった……なんてさ、いったい人間は何がしたかったんだか、皮肉なもんだな」

(知性を…)

 エレノアは依然、なれ果てた魔族に襲われかけた時、オズに聞かされた内容を思い出した。

(人間を食さねば、魔族としての尊厳を維持できない――)

 恐ろしいことだが、あまりに悲しい事実でもある。

(生命の源があれば、魔族は人間を食わずとも生きられる?)

 そうすれば、人間が魔族の食量になることもなく、争う火種も消し去ることができるのではないか。
 イェリの森での生活があまりにたのしく、ただご都合主義な夢や理想を抱いていただけの己が恥ずかしい。サンベルク皇帝に一刻も早く進言せねばならない――と、エレノアはこぶしを握った。

「戦で殺めた人間を、市場に卸しているのね…」
「ああ、そうだな。今日だけで結構な数が入ったらしいが、それでも全員には行き渡らねえんだ。人間って希少だし、高価だから買えないやつもいる」
「そう…」

 しかし、オズは人間を食さないと言っていた。オズは本当に、今までに一度も人間を口にしていないのだろうか。ならば何故、理性を保てている?
 ふと、エレノアの脳裏によぎったのは、オズの母親が人間であることだった。

「すべては戦場で奮闘してる兵たちのおかげなんだって、忘れちゃならねえな」

 しみじみと頷くフィーネに、エレノアはどのような顔をすべきか考えあぐねた。

「あぁ~、エレノアお姉ちゃんに、フィーネお姉ちゃんだあ!」

 ざわざわとひしめき合っている広場で、聞き覚えのある声が聞こえてきた。見れば、鬼形の子どもであるベスが母親とともに買い物にきていたところであった。