イェリの森の中庭でオズはまん丸とした月を見上げていた。魔族が暮らす森には太陽の日差しは届かないが、人間が寝静まる夜になると月が顔を出す。故に魔族たちにとって、太陽は遠く焦がれる存在であったが、月はその点でいうと身近だった。
 月の引力はオズの魔力と共鳴している。

 揺れるヒカゲ草の中心でぼう、と眺めながら今は亡き先王の面影を思い浮かべる。
 人間たちが魔族を謀ったあの日の惨劇を、オズは片時も忘れたことがなかった。

 燃え広がる炎。鉄の雨が降る。
 魔族たちのうめき声と、その中心で失意の念に駆られている父王。幼子であったオズは必死に父王の名を呼んだが、無残にも打ち取られた首が周囲に晒された。

 ――人間は憎い。忌々しい。

 だが、女神オーディアの声を聞きし人間の娘、エレノアに抱く感情は、それとは異なっていた。
 人間を拒み続けるイェリの森の魔力の源も、オズであるといっても過言ではなかった。森にエレノアが入ってきたことをオズが察知できるのもそのためであり、イェリの森に食われぬよう、クスノキが生えている小川の畔に必ずたどり着くように導いてやっていたのだ。

 オズは、エレノアが放つ優しい祈りの光をいつまでも見ていたいと思った。白銀の髪に触れたいと思った。澄み渡る碧眼がただ美しいと思った。
 己の中に眠る力が、エレノアを呼んでいることにも気づいていた。

 共存など、馬鹿げている。何千年も続いてきた人間と魔族の争いは、憎しみに憎しみを生み、その怨念は末代まで受け継がれている。魔族の生命の源を搾取し、衰退の一途をたどらせていながら、さらに奪いにくる人間たちを魔族は決して許さない。
 だが、エレノアは和平を望むのだろうか。

「オズワーズ殿、ここにいらしたか」

 土を踏みつける音が聞こえてくると、オズは静かに横目を向けた。瘦躯で大柄なガストマが背中を丸めて立っている。

「人間どもが再び侵攻をはじめましたぞ」
「ああ」
「こちらの消耗も激しい。兵どもは乱血薬を使うと息巻いている」

 オズは考えていた。いや、これまでは考えるまでもなく反撃ののろしを上げていたというのに、脳裏によぎるのはエレノアの顔であるのだ。
 オズは黙ったまま月を見上げた。

「そうか」
「そうでもしないかぎり、人間どもが使う特殊な兵器には手も足もでますまい」

 乱血薬は、魔族の肉体を強制的に引き上げ、体内に宿る魔力を増大させる秘薬だが、使用したが最後、必ずなれ果てることになる。敵味方の判別も不可能になり、やがて、薬を使用した反動でもがき苦しみながら死ぬ。
 我が身を顧みるより、人間の死を願う。それは、オズ自身の胸にも当然の如く宿っていた。

「三日後、出向く」
「御意」

 オズは瞳をすっと閉じて粛然と言い放った。ガストマは胸に手を当てて敬礼をする。それでもしばらく、オズは月を眺めた。

「憚りながら、オズワーズ殿」
「なんだ」
「あの人間の娘、いつまで置いておくおつもりで?」

 ガストマはオズの真意を探るように問いかける。

「人間のくせに、魔族の子に手を差し伸べるとは妙な娘だとは思いますぞ。たしかに、害をなすようには見受けられないが」
「ならば、放っておけ」
「…ほっ? はああ~。我らの王が、いったいどうなさったのだ」

 ガストマはがっくりと肩を落とすも、君主であるオズを責め立てることはできない。
 人間を極度に恐れているキキミックを手懐けていることにしろ、エレノアには他者の心をひきつけるような不思議な力があるように思えた。

「我らが人間を食らって生きながらえていることを、あの娘には話しておられぬのだろう」
「…」
「知れば、どの道逃げ出すに決まっていますぞ。そうして、我々を謀るやもしれぬ」

 ガストマは亡き先王になぞらえてオズを説き伏せる。オズはそれでも、まん丸とした月を見上げていた。

「用は、それだけか」
「…うっ」
「であれば、もうよい。下がれ」
「…わ、我が君の仰るままに」

 ガストマは再び肩を落として引き下がる。
月の光を浴びて輝くヒカゲ草が辺り一面で揺れている。エレノアも今頃、同じ月を見ているものかと、オズは静かに考えていた。