「こ! これは、だな! 特別に触らせてやっているだけだ!」
「ほう、そうか」
「にっ、人間など嫌いだ! 決して気など許してはおらぬからな!」

 ガストマとキキミックが言い争っている光景がエレノアにとっては新鮮であった。

(まるで兄弟みたいだわ)

 エレノアにはそのような存在がいないから、口喧嘩をしたこともなかった。そればかりか、物心がつく前に亡くなってしまった母はもちろん、父であるサンベルク皇帝とも言い争ったことはない。

 子は父母を敬い、兄姉は末の子の模範となることをよしとする。信心深い民は、身内との距離感にも気をつかっていたが、魔族の民は王に対しても気さくであるようだった。

「えっと…」

 エレノアが声をあげると、ガストマの三つの目玉がエレノアに向けられる。じい、と見つめられると、喉が鳴った。

「まあ、よい。里の娘どもが着ている衣類を、こしらえてやった。身に着ければ、より誤魔化しがきくだろう。そう易々と食われてしまっては、オズワーズ殿に百度殺されてしまうからな」
「あの、ガストマ…」
「来い」

(…衣類?)

 ゆさりゆさりと歩くガストマの背をエレノアは追いかけた。鋭い爪にどきりとしつつ、この者たちも魔族であることを忘れてはならないのだと肝に銘じた。


 エレノアは魔族の町娘たちが好む衣服を身に着けた。聞くところによると、ガストマはオズからの依頼を受けて準備をしてくれていたのだという。エレノアは舞い上がりそうな気持ちになった。

 支度が整うと、ガストマとキキミックに連れられて町へと降りてゆく。エレノアはその幻想的な風景にため息を漏らした。

 民族柄の刺繍の施された提灯が並び、暗い森でも昼間のように明るい。立ち上る煙に、食べ物の匂い。そこらじゅうで動物の肉や皮がぶら下がり、馬車を挽いている魔族が紙袋と引き換えに硬貨を手渡している。ひしめき合うように立ちならぶ商店とうねるように生えている木々が共存していた。民の往来も多く、活気に満ちた呼びかけの合間に、――あの唄が聞こえてきた。

「我らのぉ~、日が昇らん~」
「青空のもと~、手をつなぎぃ~」

(とてもあたたかな声。魔族たちは、唄を愛しているのね)

 エレノアはしきりに周囲を見回して、ふと、森の中で襲い掛かってきた魔族のことを思い出した。やはり、ここにいる民とは様子がまるで違うのだ。

 理性を失ったただの化け物であった。飢えに苦しみ、自分が何者かもわからぬままに死に絶えるとはどんなに悲しいことか。エレノアは喘いだ。

――生命の源とは何であるのか。

(サンベルク皇帝ならば、ご存じかしら)

 エレノアは深くマントを被り、しきりに町中を見回す。ちょこちょこと歩くキキミックは、得意げにある店の前で立ち止まった。

「ニーナ、相変わらず元気そうだな!」
「あーら、キキミック。いらっしゃい」

 緑色の躰。分厚い唇。細長い舌が触手のように動いている。蛙のような顔をした店主は、気さくにキキミックに声をかけた。そして、エレノアとガストマへと視線を向ける。オズが魔術をかけてくれているとは理解していながらも、怪しまれていないかとドキドキしてしまう。

「おやおや、ガストマと…それから、お嬢ちゃんも一緒かい」
「…っ!」

(だ、大丈夫そうね!)

 とくにいぶかしむ様子のないニーナを前に、エレノアは安堵する。

「この娘はエレノアという。オズ様のお客人だ」
「それは本当かい…? まあまあ…あの堅物の王が…ついに、女の子を…ねえ。びっくりだよ。ああ、すまないねえ、あたしゃニーナっていうんだ。よろしくね、エレノア」

 ニーナはエレノアに向けてにこやかに笑いかけた。だが、エレノアはまた別の意味でドキドキと胸を高鳴らせることになってしまった。考えるのはオズのことだ。きっとそういうつもりでそばに置いてくれているわけではないのだ、と自分に言い聞かせる。

「こ、こちらこそよろしく、ニーナ」

 エレノアは軽く頭を下げた。

「ところでニーナ。いつものやつを三本頼もう」
「あいよ。ちょいとお待ち」

 すると、キキミックが自分の躰の中から硬貨を取り出し、ニーナに手渡した。エレノアはキキミックの躰の利便性に驚きつつ、何が出てくるのかとそわそわする。

「今日もずいぶんと賑わっているようだが、町はとくに変わりなく?」

 ニーナがキッチンに立つと、ガストマが周囲を見回してそれとなく口にした。

「ああ、そうだねえ…。ほら、ここ最近、ガキどもが失踪する騒ぎが起きてはいるけれど」
「…そうか」
「大方、どこからか入ってきた人間が攫っているんだろうって話だよ。そうやって、大人どもをおびき寄せて、罠にかけるって魂胆さ」

 火を起こしたニーナは、怪訝そうに眉を潜めている。一方で、人間であるエレノアの心情は複雑であった。

(本当に、そのようなことが――…)

「ねえニーナ。森は、人間を拒むのでしょう? それなのにどうして、好き勝手できるのかしら」

 胸が痛い。本当に人間が魔族にそのような酷い仕打ちをしているのだとすれば、皇女であるエレノアがなんとかせねばならない。だが、どう考えても、人間には魔族を凌駕する力があるとは思えなかったのだ。

「あいつらは、特殊な兵器を乗り回しているんだよ」
「兵器?」
「どういうわけか、あれは森の魔術をかいくぐる。あれに対抗できるのは、王くらいさ」

 エレノアは絶句をした。何故、己は皇女という立場にありながら、これほどまでに無知であるのかと嘆いた。
 軍部は魔族について何か誤解をしているのかもしれない。ならば、エレノア自身が説き伏せねば――と思うまでには、信じがたい内容であった。

「ああ、本当に忌々しいよ。姑息な手段を使うなんて、いかにも人間らしい」
「…そ、う」
「罠だと知りながらも、ガキどもを救うためにあたしらの王は立ち向かっていくんだ。こっちは度量が違うんだよ、まったく」