「お怪我はございませんか。エレノア皇女殿下」

 宮殿の中庭にさしかかり、ようやく国民たちの目から解放される。ほっと息を吐くエレノアに、ハインリヒの理知的な瞳が向けられた。

「ありがとうございました。その、とても助かりました」

 エレノアが頭を下げると、ハインリヒは慌てて背筋を伸ばした。

「こ、これは、申し訳ございません! 私はローレンス侯爵家の嫡男、国境防衛軍特別遊撃隊所属、ハインリヒと申します。その、皇女殿下とは以前に一度だけご挨拶をさせていただいたのですが」
「ええ、覚えております」
「なんと、ありがたき幸せ!」

 きりきりと声を張り上げるハインリヒを前にして、エレノアまで緊張をしてしまう。このような威風堂々たる男が、自分のような冴えない娘を妻として迎え入れたいと思ってくれているだなんて、エレノアにとっては青天の霹靂だった。

「この度も素晴らしいご祈祷でございました。これでまた、サンベルクにひとたびの安寧が訪れた。貴女のような尊き女性と再びまみえることができ、このハインリヒ、恐悦至極でございます」

 畏敬の意を表すハインリヒに、エレノアは頬を赤くしてうつむいた。そもそも、年ごろの男とどのように会話をすればよいものか。おしとやかに振舞えているだろうか、とエレノアは悶々とする。

(落ち着くのよ、エレノア。もう十六の大人の女性なのだから)

 ハインリヒのような堅実な男が伴侶になるのであれば、きっと良い家庭を築くことができる。
 伴侶探しは先決であるとは分かっていながらも、果たして立派な母になれるのだろうかとエレノアは不安だった。

「ありがとうございます。――ですが、私は尊ばれるような人間ではございません。これは、この国の皇女としての役目。私の声がオーディア様に届くかぎり、これからも皆の祈りを捧げたいと思っております」

 けれど、己はこのサンベルク帝国の皇女である。恥じぬ振る舞いをせねばならないと背筋を伸ばす。
 ハインリヒはそんなエレノアに敬愛のまなざしを向けた。

「やはり、素敵な女性だ」
「え?」
「誠実で。清らかで。これでは、男どもが躍起になるのも仕方がないのかもしれませんね」

 そしてエレノアの前で跪き、うやうやしく礼をとった。

「――エレノア皇女殿下」

 エレノアは頬を赤らめて動揺をする。男性に対する免疫がなかったためだ。

「あ、あの…ハインリヒ様」
「まずは、貴女様のご生誕を心よりお喜び申し上げます」
「ありがとう、ございます…」

 ハインリヒの瞳には熱意が込められていた。敬意のほかに燃えたぎるばかりの情愛が込められている。

「そして僭越ではございますが、このハインリヒをどうか、貴女様の伴侶候補としてご検討いただきたいのです」

 女性ならば夢にまで見る求婚。エレノアも幼い頃から憧れを抱いていたが、ハインリヒは世の模範となるような男性だ。そのような男性が自分などと――と恐れ多く思う部分があり、エレノアはまごついた。

「私にとってエレノア皇女殿下は太陽でございます」
「そ、そんな」
「とても尊く、眩しく、誰の手も届かぬような崇高な女性。私はそのような貴女様を敬愛しております」
「私は決してそのような人間などでは…」

 そうではないのだ。閉ざされた離宮の中で、一人みっともなく泣いていた。外の世界を知らぬ、ただの幼子であった。
 エレノアの心のよりどころはサンベルク皇帝であり、使命を全うすることで自分の存在意義を見出していたにすぎなかった。幸いにもエレノアの祈りは女神オーディアによく届いた。民はこれを喜び、エレノアもまた嬉しく思った。

 そうすることで、多くの“愛”を授かりたかった。この国の民と繋がっていると思いたかった。

 だから、十六となるこの時に期待を寄せていた。

「女神オーディアに誓って、貴女を生涯愛し、守り抜くことをお約束いたします」

 人は、互いを愛し、愛されたとき、絶大な力を発揮する。一人ではなしえなかったことも二人であれば打ち破ることができるのだという。果たして、エレノアにとってハインリヒはどのような男性であるのだろう。
 熱烈なアプローチを前にエレノアは頬を染めたが、すぐに心の整理をつけることができなかった。