「オオオ、オズ様! お助けを! にっ、人間に…殺されてしまいますぅ!!」

 あまりに露骨に怯えられるものだから、エレノアは居たたまれなくなってオズを見つめた。氷のように冷たい表情を浮かべている魔族の王は、警戒心剥き出しの同胞を一瞥する。

「ひいいいい! このっ、忌々しい人間め!! イェリの森に何用だっ! 妙な真似をしてみろ、今にオズ様が鉄槌を…!」
「……キキミック」
「我らの王であらせられるオズさ――…んぐっ!?」

 紋様が浮かぶ右手を振り上げると、キキミックと呼ばれた魔族の口が強制的に閉ざされていく。口がきけなくなったキキミックは、むぐむぐと口を動かすも、まるで糊付けされてしまったかのごとくそれが開くことはなかった。

「オズ…! 可哀想よ!」

 エレノアはすかさずキキミックのそばに寄ると、どうにかして魔術を解くことができないかと探った。するとどうだろう。毛玉のように丸っとした躰は、もふもふしていて気持ちがいい。

「ごめんなさい。驚かせてしまって。私はあなたに危害を加えるつもりは少しだってないの」
「…!」
「私はあなたとも仲良くなりたいわ。人間は憎いかもしれないけれど……、どうか私を受け入れてくれると嬉しい」

 エレノアの半分ほどの背丈のキキミックの正面で、腰を下ろす。キキミックは目玉をぎょろぎょろとさせて、その場で硬直した。

 キキミックにとっては信じがたい光景であった。魔族の中で、最も人間を忌み嫌っている者は王であるオズワーズであるからだ。その王が、人間をそばに置いているとは。八つ裂きにされていない人間を見るのはずいぶんと久しい。

 何故王は人間の娘を殺さずに野放しにしているのか。キキミックは恐れおののきながら、エレノアを凝視した。

「オズ、魔術を解いてあげて?」

 懇願するエレノアに、満月のような瞳が落とされた。
 静かに佇む王は、茶色い毛玉の獣を見た。そのまま人差し指をキキミックへと向けると、チャックを開けるような動作で魔術を解いたこだった。

「……オ、オズ様、何故…」
「よかった。これでおしゃべりができるわね」
「ひい! 触るな! 人間め!」
「キキミック。あなた、もふもふしていてかわいいわ」
「…かっ、かわいいなどとっ…にっ、人間に褒められても、うっ、うれしくなどないぞ!」

 キキミックの頭を撫でてやると、少しばかり照れたような様子をみせる。エレノアは、友だちができたようで嬉々と微笑んだ。

「私はエレノアというの。よろしくね」
「…誰が、人間などと慣れあうか!」
「あら、そんな寂しいことを言わないで?」
「そうやって、人間は魔族に良い顔をして、果てには搾取をするのだ! 甘言には惑わされぬ!」

 キキミックの甲高い声が響き渡った。先ほどから威勢を放っているものの、キキミックが先ほどからぶるぶると震えていることに、エレノアは気づいていた。

(このように怯えるほどの出来事が、過去にあったということよね)

 仲良くしたいなどと、やはり、世迷言にすぎないのだろうか。せめて、人間と魔族についてもう少し学んでおけば――…。無知な己が愚かしいと思った。

「私が謝ったところで、あなたたちの傷は癒えないのでしょうね」
「…!」
「すぐに人間を好きになってほしいとは言わないわ。だけれど…、私は、憎しみを抱きながら生きるなんて、とても悲しいと思うの」
「何を…偽善めいたことを!」
「オーディア様はきっと、そんな世界を創造したかったわけではないと思うから――」

 だからといって、エレノアに何ができるというのだろうか。

「キキミック」

 静寂を裂くような低い声。綺麗な男には圧倒的な存在感があった。

「この娘を、我が客人として扱え」

 オズは黒翼を羽ばたかせると、瞬きをした刹那にエレノアの目の前へと降り立った。
 エレノアの銀色の髪が宙を舞う。ずい、と顔を寄せられると、丸々とした瞳が視界の中に飛び込んでくる。

「帝国の愚かな娘よ。俺は人間を食わぬ。…だが、喉元を掻き切るには容易い」

 畏怖すべき対象であるが、エレノアの瞳にはとても美しく映った。

「ええ、そうね。あなたは魔族の…王だもの」

 エレノアを試すように、鋭い爪が喉へと向けられる。きり、と肌を伝うもの。
 オズはエレノアを食さない。けれど、エレノアをひと思いに殺すことはできる。そんな危うさの中でも、エレノアの心は満たされていった。

 おぞましいほどの美しさに飲まれそうだ。オズの爪が円を描くような動きをみせると、エレノアの躰は不思議な光に包まれる。

「これで幾分か紛れるか」
「え…?」

 何が起こったのか。躰を触ってみてもとくに変わった部分はなかったが、突然、キキミックがしきりにすんすんと鼻をきかせた。魔族が忌み嫌う人間の匂い、気配が消えたのだった。

「人間は好かぬ」
「…オズ」
「だが…おまえは……」

 すう、と目を細めるオズは霧の中に佇む。不意に横目を向けると、指を横に動かした。川辺で水を飲んでいた愛馬のレックスが、まるで誘導されるようにエレノアのもとへと近づいてきたのだ。

「じきに日が暮れる」

 オズの魔術によって操られたエレノアは、ふわりとその場に浮かび上がり、愛馬に跨った。
エレノアは後ろ髪を引かれながら、切り開かれた森の中を進んでいったのだった。