エレノアは幼い頃の記憶を手繰り寄せた。
 サンベルク帝国の皇女は、女神オーディアとのつながりをより強固にするべく、口にするものが厳格に定められていた。そのため、乳母から提供される食事は毎日同じメニューであったのだ。

 エレノアにとってはそれが当たり前であり、日々女神オーディアに感謝をしながら口にしていた。だが、それらの食事がとびきり美味であったかと問われれば、首をひねるところだ。狭い部屋で十六年間、エレノアは毎日一人で食事をしていた。いただきます、もごちそうさま、もすべて一人きりで。

 女神オーディアに落胆されてしまうかもしれないが、エレノアにとってはおそらく、今、オズと食べているサンドイッチの方が美味であるように思えた。

「こんな風に、外で誰かとサンドイッチを食べるなんて…はじめてよ」

 ふわり、エレノアの銀色の髪が舞い上がる。オズは静かに視線を向けていた。

「ずっと…ずっと、一人だった。これが私に与えられた宿命であると分かっていても、心の中では寂しかったの」

 エレノアは、これを誰かに伝えてしまったらいけないと思っていた。己はサンベルク帝国の皇女である。だから人前で弱くなってはいけないのだと思っていた。だが、オズには本音を聞いてほしかったのだ。

「きっとこんなこと、怒られてしまうと思うけれど、このサンドイッチがたぶん、今まで食べたものの中で一番、美味しいわ」

 エレノアが笑いかけると、オズは月のような瞳をただ向けてきた。油断をすれば、闇に吸い込まれそうな気配があった。

「帝国の人間は愚かだ」

 川霧が生き物のように流れていく。幻想的な光を放つ蝶がエレノアの目の前を飛んで行った。

「国を豊かにし、繁栄させるために、不確かな神の力とやらに執着する。欲を抱くことを禁じ、夢や憧れを抱くことを惰性とし、定められた役割をただ全うすることを美徳とした」

 オズがゆっくりと立ち上がると、川岸に向かって歩みを進めた。そっと手を伸ばす指先に、光る蝶がとまる。まるでそれはさながら、森の主であるようだった。

「――くだらぬ。愚かしい。虫唾が走る。…だが」

 黒光りした一対の翼。大きく伸びる立派な角。鋭く高い鼻。ぎょろりと存在する月の瞳。金色の刺繍が施された羽織物がやけに神々しい。

「忌々しい帝国の"皇女"、エレノアよ」

 ざあああ、と冷たい風が吹いた。

(何故? 今、“皇女”と…)

 エレノアは、己の口からサンベルク帝国の皇女である事実を明かしていない。だが、オズは聞かずとも言い当ててきたのだ。狼狽するエレノアに、オズはすべてを悟ったような冷ややかな視線をくべてくる。

(それに…今、はじめて名前を)

 エレノアは川辺に立つ美しい異種族の男にくぎ付けになった。

「それほど知りたいというのなら、飽くまで目に焼き付けるか…?」
「え…?」
「美しさも、醜さも、おまえの目で見たものが真実だ」
「真実…」

 敬愛してやまない祖国。そして、おぞましいとされている魔族が暮らす世界。それらを好きなだけ見ていくといいとオズは言っている。

「人間は好かぬ。だが…エレノア、おまえには世話になった」

 エレノアは生まれてはじめて、心臓が大きく脈打つ音を聞いた。
 孤独なオズに己が優しくしてやりたい。オズが傷ついた時には己が癒してあげたい。そんなことを四六時中考えているのだ。

(この気持ちは…何?)

 オズが紋章の浮かぶ腕を振ると、光る鱗粉をまとう蝶がエレノアをとり囲んだ。まるで、この森のすべての事物にオズが関与できるようであった。

「ねえ、私のこと、どうして? …あなたは、いったい」

 問いかけると、美しすぎる男はこう言った。

「我が名は、オズワーズ。魔族(イェリ)の王である」