「に、にににに、に、人間の匂いがするですぅ! オズ様、にっ、人間の!」

 わなわなと震えるキキミックを一瞥して、オズは面倒くさげにため息をついた。このキキミックは鼻がよく効く。エレノアが置いていったマントの匂いにでも気づいたのだろう。
 キキミックは一つしかない目玉をぎょろぎょろと右往左往させ、しきりに辺りを警戒しているようだ。

「騒がしい」
「でっ、ですが、ににに、人間の匂いがこんなにも…!」
「気のせいだ」
「このキキミック自慢の鼻に誓って、気のせいなわけがないですぅ! 忌々しい人間がこの辺りを…!」
「おまえの金切り声は煩くて眠れぬ」
「眠っちゃだめですぅ! あの人間ですよ! あの人間が! オズ様オズ様、オズワーズ様ぁ!」

 慌てふためいているキキミックをよそに、オズは静かに瞳を閉じた。
 人間は憎い。皆殺しにするべき存在だ。だが、何故今、あの娘を庇いたてているのか。オズはそれが分からなかった。

「案ずるな。おまえは里に戻っていろ」

 エレノアがもつあの碧色の瞳は、己のそれとは対極のものであるようだった。人間特有の悪意をあの娘からは感じ取ることはなかったのだ。

「で、ですが、オズ様は…?」
「俺は手負いの身だ。ここでしばし休む」
「ぬああああ! 死んでしまうのですか? 嫌です! オズ様が死んでしまうだなんてキキミックは嫌ですぅ! 人間が憎い! やだやだやだやだ!」
「…死なん。少し黙れ」

 この毛むくじゃらはどうしてここまで煩いのか、とオズは眉間に皺を寄せた。

「ううう…本当に死にませんか…オズ様…」
「死なん」
「それならよかった……。ですが、お怪我の具合は…? あの時、ずいぶんと派手にやられ……て、あれ…? ご自身で手当を施されたのです…? それに何故、人間の匂いが…」

 くんくんと包帯を匂うキキミック。オズはため息をつくと、紋章の浮かぶ右手を天に向かって振り上げ、キキミックの躰を宙へと浮かびあがらせた。

「うわああああ! 何をするのですか、オズ様ぁ!」
「煩い。戻っていろと言っているだろう」
「だって、だってだって、キキミックはオズ様の身を案じているのです! それに人間の匂いが!」
「気のせいだ。三日後には戻る」
「ぎゃあああ! オズ様ぁぁぁ!」

 そのまま森の奥へと腕を振ると、キキミックは宙に浮かんだまま里の方角へと飛んで行った。

 小煩いキキミックを強制的に排除して、オズは川の水を飲むために立ち上がった。川べりに羽を休ませ、水面に移る己の姿を見つめた。

 あの娘の目にこの姿はどのように映ったのだろうか。我を見失った魔族は、空腹を満たすため魔族同士で食い合うこともある。
 知性を保つことができるのはほんの一部で、それもいつまでであるのかは分からない。人間はこれを不気味がり、蔑み、虐げた。そして、人間が持ち得ぬ神秘の力に恐れを抱いた。

(理性を失う末路しか残されていない魔族を、綺麗などと)

 ばかばかしい。世迷言だ。

 オズは再び、緑が茂る空を見上げた。
 ばさり、羽を広げると、ゲッコウ蝶がひらひらと舞った。手を差し出すと一羽、鱗粉を飛ばしながらオズの指にとまった。
 明日を待ってなどいない。憎むべき人間など、殺してやるのだ。そう思う反面で、オズはあの鮮やかな白銀を思い浮かべる。
 小川の水面に、木の葉が一枚落ちていった。