「この森は迷い込んだ人間を外には戻さぬ」
「え…」
「そうして、理性を失った魔族に食い殺される」

 満月のような瞳が冷たく向けられた。

「だが、これを聞いたとておまえは再びここにやってくるのだろう」

 すうと、オズが右手を上げると腕に赤い紋章が浮かびあがった。神の御業にも等しい異能の力。はらはらと木の葉が舞い、エレノアの目の前に再び道が生じた。
 一人では森の外に出られないエレノアをこの前同様手助けしてくれているのだ。そう考えるとエレノアはたまらなく嬉しくなった。

「ええ、また明日。オズ」

 愛馬を呼び寄せ、軽々とまたがる。オズに与えたマントはそのままに、エレノアは森の出口へと進んでいった。



 イェリの森の口が閉じた後、オズはしばらく空を見上げていた。森の木々が覆うように生えているため、昼間であるが、夜のように暗い空であった。
 この闇のような森の中に身を置いてからもう幾何の年月が流れたのだろう。鬱蒼とした緑に遮られた空を何度眺めてきたのだろう。数十年のような気もすれば、数百年のような感覚もある。
 凪のように流れる時を生きていると、さまざまな感情を忘れていくものだ。オズの場合は、明確な怨恨のみが染みついていた。

 人間を根絶やしにする。

 ただそれだけのために生きていたため、オズには生への執着はなかった。我が身を冷酷に焼き付くし、すべてのものを拒絶した。

 だが、オズはこの時、エレノアと名乗る人間の娘のことを考えていた。魔族であるオズと親密になりたいなどとほざく奇妙な娘だった。

 はじめ、声をかけてきたときには食い殺そうと思っていた。善意を向けてこようとも、人間だ。そのような手口で魔族に近づき、裏切った輩はうんざりするほどに見てきた。

 人間の娘は怯えながらもオズの傷の治療をした。念がこもっている薬草を塗り込み、帝国が崇め奉る女神の名を口にするその姿を、オズは茫と眺めてしまっていたのだ。
 白銀の髪に碧色の瞳をもつエレノアは、まるで湖面に落ちる一滴のようであった。

「殺しそびれた…か」

 腰を下ろし、クスノキの下で羽を休ませながらオズはつぶやいた。

 あれほど憎らしい人間であるにもかかわらず、わざわざ森の出口を作ってやるとは。エレノアが置いていったマントを眺め、静かに目を閉じる。

 ――明日、か。

「オズ様…! オズ様ぁ…! オズワーズ様ぁ~、ここにいらしたのですぅ!」

 ひと眠りするかというところで、騒がしい声が聞こえてきた。オズは不快感をあらわにしつつ、薄目を開ける。そこには茶色の毛玉のような躰をした、一つ眼の魔族の姿があった。

「…なんだ」
「なんだ、ではないのですぅ! どこを探してもいらっしゃらないから、もう死んでしまったかと思って…このキキミック、肝を冷やしましたぞ!」
「勝手に殺すな、阿呆が」
「ぬぁ! そんな! 相変わらず手厳しい……ですっ!」

 小うるさい者に見つかった。普段なら多少の傷を作ったとて同胞に知らせを送る余裕はあったのだが、此度はかなりの深手を負ってしまったようだ。
 クスノキの下には血だまりができ、いよいよ死ぬのかと思っていたところであの娘がやってきた。
 しかしながら、あの念じる力は――…。

「ぬあああああ!」

 オズが再び目を閉じると同時に耳をつんざく奇声。オズは眉を顰め、「なんだ」と声を荒立てた。