三
翌日、エレノアはターニャの目を盗み、ウサギを見つけた森の手前まで愛馬を走らせていた。
目の前には先が見えない深い森が広がっていて、一歩踏み入れたのならすぐに迷子になってしまうような気さえした。
あれからエレノアは、イェリの森で出会ったオズという男の身を案じてしかたがなかった。
(オズ…)
人間を拒絶する瞳は刃のようだ。そしてひどく傷ついた色をしていた。
(あなたの傷はどうしたら癒えるのかしら)
己に向けられた圧倒的な敵意の目がどうにもエレノアの脳裏から離れなかった。
たとえ中に入ったとしても、再び迷うだけかもしれない。無謀だとは理解している。だが、自らを奮い立たせて手綱を切った。
「また来てみたのはいいけれど……あの小川の畔までたどりつけるかしら」
森の中に入ると、先日同様に濃霧が立ち上った。
ここがイェリの森だということは本当なのだろう。およそ人間が住むような雰囲気を感じない。昼間だというのに薄暗く、肌寒い。まるで夜道を歩いているようだ。この森自体が人間を拒絶しているのか、背筋が粟立つ感覚がある。
怯える愛馬を宥めつつ、エレノアは昨日オズと出会った場所を探した。
「このあたり…だったような」
同じような形状をした木々が連なる小道をエレノアは只ひたすらに突き進んだ。確証はないのだが、エレノアは何故かオズともう一度会えるような気がしていた。
森の中に入ってからしばらく、まるでエレノアを迎え入れるように霧が薄まっていく。
すると目の前にあの綺麗な蝶が飛び交う小川が現れたのだ。傍らに生えている大きなクスノキも見覚えがあった。
「レックス、ここで少し休んでいて」
エレノアは愛馬から降りて、頭をやさしく撫でるとクスノキの方向に目をやった。オズがまだこの場にいることは気配で分かった。
薬草をたんまりをこしらえたポーチを片手に、エレノアはクスノキの下まで歩み寄る。昼間であるのに、月のようにきらきらした光がその場を彩った。エレノアはそっと息を飲む。
木の幹に寄りかかるようにして、この世の神秘ともいえる美しい男が静かに眼をおろして眠っていた。
(どうしましょう。起こすのも可哀そう…よね?)
青白い顔。目も口も鼻も人間のようであるのに、首から下は鎧のような、鱗のような黒い肌をしている。立派な角も翼も、人間にはないものだ。やはりこの男が魔族であることを物語っている。
(ずいぶんと冷たくて、悲しいオーラをまとっている…)
仲間はいないのだろうか? 傷は少しは癒えているのだろうか? エレノアは美々しすぎるオズの顔をじっと見つめていた。
「――何故、来た」
「っ!」
すると、銀色の瞳が冷ややかに開いたのだ。エレノアは泡を食うようにして尻もちをついた。
「お、起きていたの…?」
「去れ、人の娘」
「…っ!」
「聞こえぬか。今すぐに、立ち去れ」
鳥肌が立つような低音。オズの喉の奥で雷鳴が響いているようであった。
「い、いやよ。最後まで手当をさせてほしいと言ったわ」
恐ろしい。けれど何故か放っておけない。氷のような瞳にエレノアの顔が映り込んだ。
(人間のことがよほど嫌いなのね…)
「お約束します。私はあなたを傷つけない。絶対に」
エレノアはポーチから薬草を取り出すと、薬研に入れて丁寧に磨り潰す。
肌寒い森の中でそのままでいては、体が冷えるだろう。大きな翼はあるが、着ている依頼はボロボロだ。エレノアは思い立って羽織っていたマントを脱ぎ、オズにかけてやる。
「要らぬ」
「いけません。凍えてしまう」
オズは再び、エレノアの真意を詠むように目を細めた。
「何のつもりだ」
ざわざわと木々が薙ぐ。霧が流れるように川の上を滑っていった。
「何のつもりでもないわ。あなたにあたたかくしてほしいの」
「……こんなもの要らぬ」
「要らなくないったら。それからこの汚れた包帯は取ってしまうわね」
返事はなかったが、巻かれている包帯を取るために手を伸ばした。
傷口は塞がっているようだが、包帯にはべっとりと血が滲んでいた。
多少強引に手当を施しているエレノアに、オズはもう何も言わなかった。
磨り潰した薬草をたっぷりと胸元に塗り込む。仕上げに両手を合わせて女神オーディアへの祈りを授ける。エレノアを包み込むやわらかい光をオズは茫と眺めた。
翌日、エレノアはターニャの目を盗み、ウサギを見つけた森の手前まで愛馬を走らせていた。
目の前には先が見えない深い森が広がっていて、一歩踏み入れたのならすぐに迷子になってしまうような気さえした。
あれからエレノアは、イェリの森で出会ったオズという男の身を案じてしかたがなかった。
(オズ…)
人間を拒絶する瞳は刃のようだ。そしてひどく傷ついた色をしていた。
(あなたの傷はどうしたら癒えるのかしら)
己に向けられた圧倒的な敵意の目がどうにもエレノアの脳裏から離れなかった。
たとえ中に入ったとしても、再び迷うだけかもしれない。無謀だとは理解している。だが、自らを奮い立たせて手綱を切った。
「また来てみたのはいいけれど……あの小川の畔までたどりつけるかしら」
森の中に入ると、先日同様に濃霧が立ち上った。
ここがイェリの森だということは本当なのだろう。およそ人間が住むような雰囲気を感じない。昼間だというのに薄暗く、肌寒い。まるで夜道を歩いているようだ。この森自体が人間を拒絶しているのか、背筋が粟立つ感覚がある。
怯える愛馬を宥めつつ、エレノアは昨日オズと出会った場所を探した。
「このあたり…だったような」
同じような形状をした木々が連なる小道をエレノアは只ひたすらに突き進んだ。確証はないのだが、エレノアは何故かオズともう一度会えるような気がしていた。
森の中に入ってからしばらく、まるでエレノアを迎え入れるように霧が薄まっていく。
すると目の前にあの綺麗な蝶が飛び交う小川が現れたのだ。傍らに生えている大きなクスノキも見覚えがあった。
「レックス、ここで少し休んでいて」
エレノアは愛馬から降りて、頭をやさしく撫でるとクスノキの方向に目をやった。オズがまだこの場にいることは気配で分かった。
薬草をたんまりをこしらえたポーチを片手に、エレノアはクスノキの下まで歩み寄る。昼間であるのに、月のようにきらきらした光がその場を彩った。エレノアはそっと息を飲む。
木の幹に寄りかかるようにして、この世の神秘ともいえる美しい男が静かに眼をおろして眠っていた。
(どうしましょう。起こすのも可哀そう…よね?)
青白い顔。目も口も鼻も人間のようであるのに、首から下は鎧のような、鱗のような黒い肌をしている。立派な角も翼も、人間にはないものだ。やはりこの男が魔族であることを物語っている。
(ずいぶんと冷たくて、悲しいオーラをまとっている…)
仲間はいないのだろうか? 傷は少しは癒えているのだろうか? エレノアは美々しすぎるオズの顔をじっと見つめていた。
「――何故、来た」
「っ!」
すると、銀色の瞳が冷ややかに開いたのだ。エレノアは泡を食うようにして尻もちをついた。
「お、起きていたの…?」
「去れ、人の娘」
「…っ!」
「聞こえぬか。今すぐに、立ち去れ」
鳥肌が立つような低音。オズの喉の奥で雷鳴が響いているようであった。
「い、いやよ。最後まで手当をさせてほしいと言ったわ」
恐ろしい。けれど何故か放っておけない。氷のような瞳にエレノアの顔が映り込んだ。
(人間のことがよほど嫌いなのね…)
「お約束します。私はあなたを傷つけない。絶対に」
エレノアはポーチから薬草を取り出すと、薬研に入れて丁寧に磨り潰す。
肌寒い森の中でそのままでいては、体が冷えるだろう。大きな翼はあるが、着ている依頼はボロボロだ。エレノアは思い立って羽織っていたマントを脱ぎ、オズにかけてやる。
「要らぬ」
「いけません。凍えてしまう」
オズは再び、エレノアの真意を詠むように目を細めた。
「何のつもりだ」
ざわざわと木々が薙ぐ。霧が流れるように川の上を滑っていった。
「何のつもりでもないわ。あなたにあたたかくしてほしいの」
「……こんなもの要らぬ」
「要らなくないったら。それからこの汚れた包帯は取ってしまうわね」
返事はなかったが、巻かれている包帯を取るために手を伸ばした。
傷口は塞がっているようだが、包帯にはべっとりと血が滲んでいた。
多少強引に手当を施しているエレノアに、オズはもう何も言わなかった。
磨り潰した薬草をたっぷりと胸元に塗り込む。仕上げに両手を合わせて女神オーディアへの祈りを授ける。エレノアを包み込むやわらかい光をオズは茫と眺めた。