「エレノア、十六の誕生日本当におめでとう」
 格式のある高い天井に向けて、やさしくてあたたかな声が響く。
 伝統的な装飾が施されているマントを翻し、男はエレノアの顔をよく窺った。エレノアは緊張しながら表情を引き締める。

「サンベルク皇帝陛下のご尊顔を拝し、恐悦至極に存じ奉ります」

 大地の女神の国――サンベルク帝国。エレノアの正面に立っている人物は、この国を統治する王、その人だ。
 エレノアは敬愛のまなざしを向ける。片足を引いて礼をとると、サンベルク皇帝はこれを制した。

「ここでは父上でよいと言っているであろう」

 エレノアは気恥ずかしくなってとっさにうつむいてしまう。

「で…ですが、よろしいのでしょうか」
「かまわん。どうか父と呼んでおくれ。我が娘、エレノア」

 ――エレノア・ラ・サンベルク。
白銀の髪に碧色の瞳を持つサンベルク帝国第十三代皇女は、この日十六になった。

「は、はい…ち、父上」
「長らく離宮で過ごすのは寂しかったろう。宰相どもが口煩く、自由に外出することも叶わなかったからなあ」
「いえ、そのようなことはございませんでした。それに、父上がたくさんの贈り物をしてくださっておりましたから」

 エレノアはこの日を心待ちにしていた。
 エレノアは生まれてから現在に至るまでを郊外の小さな離宮にて過ごしていたため、外の世界すらまともに知らなかったのだ。

 実の母親は物心がつく前には他界しており、エレノアは離宮で乳母に育てられた。実父はサンベルク皇帝であることから、なおのこと両親に甘えられない環境で育ったが、エレノアは自身の大事な使命を忘れたことはない。

「私はこのサンベルクの“大地の姫”でございます。女神オーディア様に祈りを捧げることができるのは代々、皇女のみ。この力を決して途絶えさせてはならぬと心得ております」

 かつて2000年前、大陸の民を未曾有の大厄災から救ったとされる、大地の神──女神オーディア。
 その際に流れた女神オーディアの血が雨や川となって大地に染みわたり、朽ち果てていた大陸が再び息を吹き返したという神話は、サンベルクの民であれば子供のころから聞かされる。

「それでもエレノア、おまえは私の大事な娘。一人の女として幸せになってほしいと思っているのだよ」
「…お気遣い、ありがとうございます。父上」

 エレノアはつい嬉しくて頬を赤らめた。サンベルク皇帝はなんて思慮深いのだろう。“娘”という響きがエレノアにとってはどうにもむずがゆく思えてしまった。

「十六になり、エレノアも伴侶を持てる年齢になった。人生を添い遂げるにふさわしいと思う男を見つけるがよい」
「は、はい…」

 エレノアが十六になり、離宮を出た目的。それは、生涯をともにする伴侶を得て、次なる“大地の姫君”を産む必要があったからだ。
 しかし、エレノアは漠然とした不安を感じる。

(誰かを好きになるってどういうものなのかしら)

 狭い部屋でひとり閉じこもって本ばかりを読んでいたエレノアは、恋というものを知らない。
 母と父はどのように愛をはぐくんだのだろう。何よりもはやく力を継承する女児を産まねばならないのに、一方で、自身を愛してくれる人物など想像もつかなかった。

「婿候補といえば、ハインリヒからもおまえに挨拶をさせてほしいと申し出があった」
「ハインリヒ様ですか…?」

 ハインリヒはサンベルク帝国の国境防衛軍特別遊撃隊の隊長を担っている男だ。
 ローレンス侯爵家の嫡男であり、この国で最も軍功を上げている隊の年若の長。
 かつてエレノアは、王都の大聖堂で“祈り”をした帰り際に、一度だけハインリヒに声をかけられたことがあった。軍人らしい精悍な出で立ちであり、エレノアからすると雲の上の存在であるように思えていたのだが。

「おまえに求婚をしたいそうだ」
「そ…そんな! 何かの間違いではないのでしょうか…?」
「虚言ではないぞ。エレノア、おまえは私自慢の美しい娘だ。皇女が結婚相手を探している、と今頃は国中の話題になっているだろうからなあ。ほかの男どもに出遅れてはならぬと息巻いているのであろう」
「で、ですが…いきなり求婚だなんて、私どうしたら」
「そう慌てずともよい。子をなすことは大切だ。だが、エレノア。私は王でありながらも、おまえの父である。幼い時代をともに過ごしてやれなかったことが口惜しいけれど、おまえが心から誰かを愛し、そして愛されることを願っているからね」

 エレノアは予想もしていないことに赤面をして慌てた。
 伴侶となる男性からの愛情。それは、きっとあたたかいものなのだろう、とエレノアは思う。母の腕に抱かれることはなかったが、父であるサンベルク皇帝から向けられるひだまりのようなあたたかなまなざし。
 離宮の中で一人ぼっちであったエレノアにとって、サンベルク皇帝からの尊い愛情がすべてだった。

 帝国の未来のために、力を宿す女児を産まねばならないという使命感はあるものの、やはり、心のどこかでは憧れがあった。
 母と父も、愛し合ったのだろうか。どのように出会い、産み落とされた私をどのように腕に抱いたのだろう。

 十六になった朝、閉ざされていた離宮の門がゆっくり開いたとき、エレノアはまぶしいほどの太陽の祝福を受けることになった。
 サンベルク皇帝には見栄を張ってしまったが、閉ざされた部屋は孤独であり、夜眠るときには寂しさに胸を焦がし、誰も外の世界に連れ出してはくれない事実に恐怖すら抱いたこともあった。
 いつまで外には出られないのか? 問えば、十六になれば伴侶となる男性を得るために外に出ることができる――と回答があるのみ。当時、幼子であったエレノアにとっては途方もない、未来の話のように思えた。

 鮮やかなまでの緑。鳥のさえずり。
 狭く薄暗い部屋で本ばかり読んでいたあの頃とは――もう、決別するのだ。不安と期待が入り混じるエレノアを、サンベルク皇帝はやさしく包み込んだ。