「――鈴風、いるか?」

 厨房の窓からぼさぼさ頭がひょっこりと現れた。

「遅い! 待ちくたびれたわよ」
「まぁそう言うな、……ん? 今日もいい匂いがするのは気のせいか?」

 約束の時間はとっくに過ぎているのに、ちっとも悪びれた様子を見せずに鼻をひくつかせる雲嵐の様子に怒る気力は失せてしまう。
 何度も帰ろうかと思ったけど、約束したし、それになにより雲嵐と話がしたかったというのもある。

「雲嵐のために作って待ってたのよ」
「――ということは、引き受けたんだな」
「やっぱりあなただったのね」

 昨日の今日で突然異動の話がくるなんておかしいなと思ったし、心当たりは雲嵐しか居なかったから。

「あぁ、そうだ。知り合いに口利きしておいた」
「あらずいぶんお偉いさんとお知り合いなのね。まぁ、おかげさまで、こうしてあなたにごはんを作れてるってわけだけど」

 不思議なことに、私が訊ねるより先に尚食の方から「業務後に調理したいなら、食材は好きに使っていいわよ」と許可が貰えたので、私の料理が食べたいと言っていた彼に食べさせてあげようと腕を振るった。

 ――と言っても、今日は初仕事でへとへとになってしまったので、夕食のナムルを具にしたおにぎりと卵焼きだけ。
 お皿に盛ってあったそれを持って厨房から出ると、二人で食堂の卓に座る。

「はいどうぞ」
「これはなんだ」
「おにぎり。粽子(ちまき)を海苔で巻いたようなものよ。手でもって食べて」

 雲嵐は、躊躇いなくおにぎりにかぶりついた。時間が経っているので、海苔はしんなりと白米に馴染んでいて抵抗なくかみ切れた。

 私は、うんうんと噛みしめながら食べる雲嵐をまじまじと眺める。
 昨日も思ったけど、この人、顔が見えないせいか、なんかかわいい。
 私の作った料理を一心不乱に美味しそうに食べるその姿がかわいい。今まで、仕事として誰かのために食事を作ることはあっても、それ以外で食べてもらえる機会がなかったから新鮮なのかもしれない。

 大の、しかも(たぶん)年上の男の人にかわいいなんて思うのは失礼な気もするけど、彼を見ていると心が和んだ。

「うん、美味かった」
「もっと食べる? たくさん作ったから」
「無論いただく」

 夏の生ぬるい風が辺りを漂っていた。一日の仕事を終えた後宮は、眠りにつこうと静寂に包まれ、宿舎の灯りも点々としていて今にも暗闇に吸い込まれそうだった。
 宮女たちの笑い声が夜の空気に乗って聞こえてくる以外、無音だ。

「見事な食べっぷりね。残りは持って帰って明日の朝にでも食べる?」
「いいな、そうしよう。鈴風、こっちに座れ」

 二つ目のおにぎりと卵焼きもぺろりと食べ終えた雲嵐は、そう言って自分の隣の椅子をトントンと叩くので、私はそこに移動する。
 隣に座ると、ふわりと甘い香りがした。
 雲嵐は(たもと)から取り出した小箱を私の手に乗せる。見てくれこそぼさぼさの冴えない宦官だが、雲嵐のこうした何気ない所作や佇まいの端々に気品が漂っているのを私は感じていた。
 きっと、いいとこの出なんだろうなというのが見て取れる。
 どうして宦官(タマナシ)なんかになったのか。自らの性を切り捨ててまでならなければいけない理由があったんだろうから、聞くに聞けない。

「約束の礼だ」
「わぁ、ありがとう!」

 和紙で装飾された可愛らしいそれを開けると、黒い漆塗りの艶やかな入れ物に入った軟膏が姿を見せた。

「いい匂いがする」

 甘い香の正体はこれだった。リンゴみたいな香り。

洋甘菊(カモミール)という花の香りで、疲れた心を癒す効果があるらしい」
「ちょっと……これ、すごく高いんじゃ……」

 入れ物といい、香りといい、そんじょそこらの商店で買える代物じゃないのが見て取れて、私はおろおろしてしまう。

「私、もっと安い普通の軟膏でよかったのよ……?」

 こんな高級品、もったいなくて気軽に使えないじゃない。

「ほら、貸してみろ」
「う、雲嵐……?」

 雲嵐は唐突に私の手を取った。

「えっ……ちょ、ちょっと」

 雲嵐は軟膏を指にとると、私の手の甲にそっとのせて掌で優しく伸ばしていく。その手は私よりもうんと大きく、節ばっているのに肌は滑らかで、私のあかぎれだらけのカサカサな手とは大違いだ。

 荒れてる手が恥ずかしくて引っ込めようと試みたけど、ぎゅっと握られてあれよあれよという間にしっかりと両手に軟膏を塗られてしまった。

「これでよし。――なんだ、照れてるのか? 顔が真っ赤だ」
 
 指摘されて、さらに顔に熱が集中した。
 軟膏を塗ってもらっているだけなのに赤面しちゃうなんて……。

「わ、悪かったわね、だ、だって、しょうがないでしょ! 男の人に触られるなんて、慣れてないんだものっ」
「誰も悪いなんて言っていない。反応が初々しくて可愛いぞ」

 不敵な笑みを口元に湛えたかと思えば、今度はなにを思ったのかこちらに手を伸ばして私の髪紐を解いた。

「な、なに」
「昨日は気づかなかったが、珍しい髪色をしているな」

 はらりと背に流れた髪をひと房取り、まじまじと見つめるものだから気恥ずかしいったらない。

「目の色も薄い」
「母似だって聞いたわ」
「これは、異国の血が混ざっているのかもしれんな」
「よくは知らないの」

 今世では、物心ついた頃には一人だったから両親の記憶はない。けれど、親戚夫婦が私を見ては、ことあるごとに「顔だけじゃなくて髪まで母親とそっくりだよ」と忌々しく言われた。

 もしかして、両親が親戚から倦厭されていたのには、母の血が関係しているのだろうか。
 そう思ったけど、調べる術もなければもう過ぎたことだった。

「――綺麗だな」

 雲嵐は、まっすぐこちらを見てそう言い放つ。
 長い前髪の隙間から覗く黒い瞳に見つめられ、胸がトクンと音を響かせた。頬の火照りは引かないし、どくどくと体の中から叩く鼓動も一向に鎮まらない。

 小さい頃からここに居るせいか、面と向かって男性からそんな風に言われたのは初めてで恥ずかしくてたまらない私は、「お世辞は結構よ」と顔をそむけた。

 可愛くない、と自分でも思う。
 でも、恥ずかしいものは恥ずかしい。
 前世でだって、そんな経験はなかったから慣れていないのだから仕方がないじゃない。

「俺は世辞は言わないぞ」
「そ、そ、そうだ! お皿! 自分で食べたものは自分で洗ってよね!」
「あぁ、そうだな、料理の対価としてそれくらいはやらないとな」

 思いのほかすんなり承諾した雲嵐を厨房の裏にある水場に案内して、彼がお皿を洗い終えるのを隣で見届ける。

 ――火照る頬の熱と高鳴る鼓動は夏の暑さのせい。

 そう言い聞かせながらも、雲嵐の滑らかな肌の感触と熱が残る手を、私はぎゅっと握りしめ胸に抱いた。