部屋には最小限の火が灯され、甘ったるくも上質な香が焚かれていた。私は光沢のある美しい蚊帳を張った寝台の縁に腰掛け、隣にいる人を直視できずに膝の上でぎゅっと握りしめたこぶしを凝視していた。

 ――私は今、水晶殿に居る。

 柱や窓枠、置かれた花瓶やテーブルなどさまざまな装飾に水晶が使われた、キラキラと目に眩しい作りの豪奢なお屋敷だった。先帝の代から使われていなかったと言うここは、けれどもまるで新築のようにどれもが真新しく美しい。

 なにより一番気に入ったのは、お屋敷内に台所がある所だった。
 それもコンロが3つもあるし、作業スペースも広くて料理がとってもし易そう!

 私のためにわざわざ増設してくれたらしいと雲嵐から聞いた時には、恐れ多くて鳥肌が立った。

 ここに連れてこられた私は、湯あみに着替えに化粧にと有無を言わさぬ勢いで仕上げられて今に至る。

 宦官だと思っていた人は、実は皇帝陛下でした。
 そして平民の出の宮女(私)を四夫人の位の一つである賢妃に召し上げました。
 二人は末永く幸せに暮らしましたとさ。
 めでたしめでたし。

 ――って、なるはずもなく。

 皇命が下ってから、まさに怒涛の展開で頭が全く追いついていない。

 ただ、今の状況を理解できないほどバカでもなく、妃になったということはつまりそういうことなんだろう、とは頭ではわかっている。
 わかっているからといって心の準備ができるわけでもなくて、心臓はもうずっとばくばくと内側から私を叩き続けている。

「そう緊張するな」
「そ、そう言われても……」

 相手は皇帝陛下なんだから、無理があるってものでしょうよ。
 雲嵐は、私の拳に手を添えると、硬く握ったままだった指を優しく解いてするりと指を絡めた。私は、この大きくて骨ばっているのに、私よりすべすべな肌の手が憎らしくも好きだ。

「鈴風」

 火照った顔のまま、私は見上げる。
 私の目の前に居るのは、ぼさぼさ頭の宦官、雲嵐じゃなかった。
 艶やかな漆黒の髪を一つに結わえて後ろへ流し、つるりとした額をさらけ出した麗しき御仁。色気が駄々漏れの美男子は、免疫のない私には目に毒でしかなくて、おろおろと視線を彷徨わせてしまう。
 そんな私に構わず、雲嵐はゆっくりと話し始めた。

「俺は、子どもの頃から何度も毒を盛られてきたせいか、いつからか味を感じなくなっていたんだ」

 もともと王位継承権第5位の末席の王子だった彼は、欲に目がくらんだ母親のせいで自分の命がいつも危険に晒されてきたこと、またその美貌からまだ幼い年頃にも関わらず父親の他の妃たちから誘惑されるなど女性不信に陥っていたことを話してくれた。

 ごはんを食べても味が感じられないって、想像ができない。きっとなにを食べても同じで、食事が苦痛でしかないんじゃないかな。

「だが、偶然食べたお前の食事だけは味が感じられた。きっかけは食事だったが、それから一緒に過ごすうちにお前の真面目でひたむきなその姿に惹かれていったんだ。――お前の意志を無視して強引に事を進めて悪かった。鈴風……、どうしてもお前が欲しくなったんだ」

 風に揺れたロウソクの火が、雲嵐の横顔を柔らかく照らす。近くで見る彼の瞳は、夜を閉じ込めたような深い紺色をしてとても綺麗だった。
 まさか雲嵐が自分を好いてくれていたなんて、欠片も思わなかった私は面と向かって言われているにも関わらずどこか上の空でそれを聞いていた。

 それと、と雲嵐は一変して眉をしかめた。

「これは悪い知らせだが、お前を池に突き落としたのはどうやら昭儀ではないようだ」
「え……、じゃぁ、誰が……」
「それは今調べているが、目撃者が居なくて特定は難しいかもしれない」

 てっきり昭儀さまの命令だと思っていたのに……。得体の知れない恐ろしさに、ぞわりと寒気がした。池に落ちた時の息苦しさが呼び起され、思わず握っていた陛下の手に力を込めてしまう。私の動揺を感じ取った彼は、ふわりと私を腕の中に閉じ込めた。

「大丈夫だ。お前は俺が守る。そのためにも、嫌でも私の側に居てもらうからな」

 雲嵐に抱きしめられるのは二度目だけど全然慣れないし、薄い寝巻き越しに熱が伝わってきて私まで体温が上がってしまう。

「嫌じゃ……ない。……私も、側に居たい」

 側にいられるなら、これほど嬉しいことはなかったけど、そう言うのが、今の私の精一杯だった。雲嵐が突然姿を見せなくなった時の、あの胸の寂しさはもう味わいたくない。
 だから、その気持ちを込めて雲嵐を見上げたのに、彼の顔には戸惑いが見て取れて、何か間違えただろうか、と急に不安になる。

「そんな嬉しいことを言われると、勘違いしそうになるな。……俺の妃にはしたが、気持ちがないのに無理強いするほど愚かではない」

 だから安心しろ、と雲嵐は困り顔で笑った。
 勘違いなんかではない、と伝えられたらいいのに。緊張しすぎて言葉がうまく出せないでいた。

 雲嵐は皇帝陛下で私は彼の所有物なのだから、いくらでも好きにできるのに……。この人は私の気持ちを大切にしようとしてくれている。どこまでも優しいその心遣いに、胸の奥がじんわりと温まるとともに、この人を好きになって良かったと心から思えた。

「――その代わり、覚悟しておけよ。これから全力で口説くからな」
「く、口説くって……、あっ――」

 私を抱きしめたまま雲嵐は寝台へと倒れ込んだ。
 柔らかな寝台は、私たちをふんわりと受け止めてくれたので衝撃はない。

「へ、陛下……」
「名前で呼んでくれ」
「雲嵐……」

 綺麗な響きの彼の名を呼べば、抱きしめる腕に力がこめられる。触れ合った箇所から発せられる熱がじんわりと広がり、まるで、雲嵐の思いがその熱に乗せられて伝わってくるようだった。

 雲嵐が、好きだ。
 この、ちょっとマイペースで、私の料理を美味しそうに食べてくれる、優しい皇帝陛下が。いつも、私をまっすぐに見て、話を聞いてくれる雲嵐が。

 気持ちに気づくのが遅くなったけれど、こうして思いが通じ合ったことがたまらなく嬉しかった。

「ね、ねぇ……、もしかして、このまま寝るの……?」
「だめか? 本当なら、このまま俺のものにしてしまいたいくらいなんだが?」
「へっ? やっ、あ、えっ、だ、大丈夫! このままで大丈夫だから! 寝よう! ね! ね!」

 恥ずかしさと嬉しさがぶつかり合って、雲嵐の胸の中で顔が爆発しそうだ。

 早く思いを伝えてしまいたいとも思ったけど、今からこんな状態ではどうにも耐性が追いつかないに決まってる。それに、口説いてもらえるなら、もう少し黙っていたいと、私の中の欲張りな心が顔を覗かせてもいた。

「そこまで拒否されると、さすがに傷つくぞ」

 ふてくされて言い放った小言に笑いつつ、雲嵐の胸に頬を寄せる。
 見た目よりも着痩せするその逞しく優しい腕の中で、私は幸せに浸りながら目を閉じた。

 雲嵐が私の気持ちを知るのは、もう少し先の話――――


ー end ー