「今日も来なかったのね」

 自室に戻ると、開口一番に雹華が私に訊ねる。私はそれにうん、と頷き返した。
 来なかったというのは、雲嵐のことだ。
 雲嵐に抱きしめられて泣きはらしたつぎの日から彼はパタリと姿を見せなくなった。かれこれ半月近くになる。
 雹華には、そのうちひょっこり顔を出すわよ、と言われていたけれども、それならそうと、一言、たった一言でも言ってくれたっていいじゃない。と私は内心ふくれていた。

 ――というのは虚勢で、不安で寂しくてたまらなかった。

 なにかよくないことがあったんじゃないか、私がなにか気に障ることを言ったんじゃないかと気が気ではない。ただ単に仕事が忙しいだけならそれで良いのだけど、それすらもわからないのがもどかしい。

「そんなに気になるなら、宦官の誰か捕まえて聞いてみたら?」

 不安が顔に出ていたのだろう、雹華がそんなことを言った。
 そんな簡単な事をどうして思いつかなかったのか。たとえ本人に会えなかったとしても、安否を知れるならそれで構わないのだ。
 私は、「それもそうね」と雹華の提案を採用することにした。



 ――しかし、それは私を安心させるどころか不安を助長させることになってしまった。

「宦官の雲嵐? 聞いたことないな」
「さて、そんな人いましたかねぇ?」
「宦官もたくさん居ますからなんとも……」

 見かけた宦官に手あたり次第声をかけたのにも関わらず、雲嵐に関する情報が全く手に入らないという結果に終わる。

 聞き込み調査の帰り道の途中、私は、橋の欄干に上半身を預けてぼーっと水面を眺めていた。水面には、白やピンクの蓮の花が浮かび、アメンボの水をはじく足跡をなんとなく目で追っては見失いを繰り返していた。

「雲嵐……あなた一体どこの誰なのよ……」

 ぽつりとつぶやいた声は、風にさらわれて消えていく。
 ぼさぼさ頭でいつもお腹を空かせていた、かの宦官は何者なんだろうか……。

 まるでぽっかりと心に穴が開いてしまったみたい。

 もう会えないなんてこと、ないよね?

 こんなことなら、約束しておけばよかった。
 また明日、って。
 約束しなくても、毎晩会えていたあの頃が既に懐かしい。

 会いたいな。
 私の作るごはんを美味しいと言って食べるあの人に。

「はぁ……」

 何度目かわからないため息をついた時、体がふわっと浮いたと思えば、世界が一瞬にして反転。私は、あっという間に池に真っ逆さまに落っこちた。

 ぼしゃんッ――

 橋が低かったおかげで衝撃はなかったものの、あまりに突然の出来事に驚いて水を吸ってしまった。どうにか水面を目指してもがくも、水を吸った宮女の制服は重く体にまとわりついて自由が奪われていく。

 ――だめだ、溺れる……

 水を飲み込んだせいでむせて声も出せず、助けも呼べない。

 あぁ、私は、また死んじゃうのか。
 せっかく、こんな私でも誰かの役に立つことができる世界に来れたのに。
 一人じゃない、居場所があるのに。
 会いたい、と思える人に出会えたのに……――

 水中でもがくあまり蓮の根が足に絡まって、水の中に沈んでいく。空気を求めて水上めがけて伸ばした手はむなしく水面を掠めるだけだった。