「――鈴風、いるか?」
厨房の窓からぼさぼさ頭がひょっこりと現れた。
「遅い! 待ちくたびれたわよ」
「まぁそう言うな、……ん? 今日もいい匂いがするのは気のせいか?」
約束の時間はとっくに過ぎているのに、ちっとも悪びれた様子を見せずに鼻をひくつかせる雲嵐の様子に怒る気力は失せてしまう。
何度も帰ろうかと思ったけど、約束したし、それになにより雲嵐と話がしたかったというのもある。
「雲嵐のために作って待ってたのよ」
「――ということは、引き受けたんだな」
「やっぱりあなただったのね」
昨日の今日で突然異動の話がくるなんておかしいなと思ったし、心当たりは雲嵐しか居なかったから。
「あぁ、そうだ。知り合いに口利きしておいた」
「あらずいぶんお偉いさんとお知り合いなのね。まぁ、おかげさまで、こうしてあなたにごはんを作れてるってわけだけど」
不思議なことに、私が訊ねるより先に尚食の方から「業務後に調理したいなら、食材は好きに使っていいわよ」と許可が貰えたので、私の料理が食べたいと言っていた彼に食べさせてあげようと腕を振るった。
――と言っても、今日は初仕事でへとへとになってしまったので、夕食のナムルを具にしたおにぎりと卵焼きだけ。
お皿に盛ってあったそれを持って厨房から出ると、二人で食堂の卓に座る。
「はいどうぞ」
「これはなんだ」
「おにぎり。粽子を海苔で巻いたようなものよ。手でもって食べて」
雲嵐は、躊躇いなくおにぎりにかぶりついた。時間が経っているので、海苔はしんなりと白米に馴染んでいて抵抗なくかみ切れた。
私は、うんうんと噛みしめながら食べる雲嵐をまじまじと眺める。
昨日も思ったけど、この人、顔が見えないせいか、なんかかわいい。
私の作った料理を一心不乱に美味しそうに食べるその姿がかわいい。今まで、仕事として誰かのために食事を作ることはあっても、それ以外で食べてもらえる機会がなかったから新鮮なのかもしれない。
大の、しかも(たぶん)年上の男の人にかわいいなんて思うのは失礼な気もするけど、彼を見ていると心が和んだ。
「うん、美味かった」
「もっと食べる? たくさん作ったから」
「無論いただく」
夏の生ぬるい風が辺りを漂っていた。一日の仕事を終えた後宮は、眠りにつこうと静寂に包まれ、宿舎の灯りも点々としていて今にも暗闇に吸い込まれそうだった。
宮女たちの笑い声が夜の空気に乗って聞こえてくる以外、無音だ。
「見事な食べっぷりね。残りは持って帰って明日の朝にでも食べる?」
「いいな、そうしよう。鈴風、こっちに座れ」
二つ目のおにぎりと卵焼きもぺろりと食べ終えた雲嵐は、そう言って自分の隣の椅子をトントンと叩くので、私はそこに移動する。
隣に座ると、ふわりと甘い香りがした。
雲嵐は袂から取り出した小箱を私の手に乗せる。見てくれこそぼさぼさの冴えない宦官だが、雲嵐のこうした何気ない所作や佇まいの端々に気品が漂っているのを私は感じていた。
きっと、いいとこの出なんだろうなというのが見て取れる。
どうして宦官なんかになったのか。自らの性を切り捨ててまでならなければいけない理由があったんだろうから、聞くに聞けない。
「約束の礼だ」
「わぁ、ありがとう!」
和紙で装飾された可愛らしいそれを開けると、黒い漆塗りの艶やかな入れ物に入った軟膏が姿を見せた。
「いい匂いがする」
甘い香の正体はこれだった。リンゴみたいな香り。
「洋甘菊という花の香りで、疲れた心を癒す効果があるらしい」
「ちょっと……これ、すごく高いんじゃ……」
入れ物といい、香りといい、そんじょそこらの商店で買える代物じゃないのが見て取れて、私はおろおろしてしまう。
「私、もっと安い普通の軟膏でよかったのよ……?」
こんな高級品、もったいなくて気軽に使えないじゃない。
「ほら、貸してみろ」
「う、雲嵐……?」
雲嵐は唐突に私の手を取った。
「えっ……ちょ、ちょっと」
雲嵐は軟膏を指にとると、私の手の甲にそっとのせて掌で優しく伸ばしていく。その手は私よりもうんと大きく、節ばっているのに肌は滑らかで、私のあかぎれだらけのカサカサな手とは大違いだ。
荒れてる手が恥ずかしくて引っ込めようと試みたけど、ぎゅっと握られてあれよあれよという間にしっかりと両手に軟膏を塗られてしまった。
「これでよし。――なんだ、照れてるのか? 顔が真っ赤だ」
指摘されて、さらに顔に熱が集中した。
軟膏を塗ってもらっているだけなのに赤面しちゃうなんて……。
「わ、悪かったわね、だ、だって、しょうがないでしょ! 男の人に触られるなんて、慣れてないんだものっ」
「誰も悪いなんて言っていない。反応が初々しくて可愛いぞ」
不敵な笑みを口元に湛えたかと思えば、今度はなにを思ったのかこちらに手を伸ばして私の髪紐を解いた。
「な、なに」
「昨日は気づかなかったが、珍しい髪色をしているな」
はらりと背に流れた髪をひと房取り、まじまじと見つめるものだから気恥ずかしいったらない。
「目の色も薄い」
「母似だって聞いたわ」
「これは、異国の血が混ざっているのかもしれんな」
「よくは知らないの」
今世では、物心ついた頃には一人だったから両親の記憶はない。けれど、親戚夫婦が私を見ては、ことあるごとに「顔だけじゃなくて髪まで母親とそっくりだよ」と忌々しく言われた。
もしかして、両親が親戚から倦厭されていたのには、母の血が関係しているのだろうか。
そう思ったけど、調べる術もなければもう過ぎたことだった。
「――綺麗だな」
雲嵐は、まっすぐこちらを見てそう言い放つ。
長い前髪の隙間から覗く黒い瞳に見つめられ、胸がトクンと音を響かせた。頬の火照りは引かないし、どくどくと体の中から叩く鼓動も一向に鎮まらない。
小さい頃からここに居るせいか、面と向かって男性からそんな風に言われたのは初めてで恥ずかしくてたまらない私は、「お世辞は結構よ」と顔をそむけた。
可愛くない、と自分でも思う。
でも、恥ずかしいものは恥ずかしい。
前世でだって、そんな経験はなかったから慣れていないのだから仕方がないじゃない。
「俺は世辞は言わないぞ」
「そ、そ、そうだ! お皿! 自分で食べたものは自分で洗ってよね!」
「あぁ、そうだな、料理の対価としてそれくらいはやらないとな」
思いのほかすんなり承諾した雲嵐を厨房の裏にある水場に案内して、彼がお皿を洗い終えるのを隣で見届ける。
――火照る頬の熱と高鳴る鼓動は夏の暑さのせい。
そう言い聞かせながらも、雲嵐の滑らかな肌の感触と熱が残る手を、私はぎゅっと握りしめ胸に抱いた。
料理人という夢に向かって、順風満帆な一歩を踏み出したと思われた尚食局への異動だったが、そう簡単には問屋は下ろしてくれないらしい。
「頼んだのは山椒じゃない、胡椒よ! そんなことも覚えられないの?」
珠蘭さんは、私が倉庫から持ってきた箱に入っている山椒を見て目を吊り上げた。
「え」
珠蘭さんは私に間違いなく山椒を取ってくるように言ったのに……。いくら私でも山椒と胡椒は聞き間違えないし、数分前に聞いたことを忘れたりはしない。
朝から態度がとげとげしいな、と思っていたのだけどちょっとこれは酷くないか。
胸の中に溢れてくるもやもやは吐き出されることなく飲み込んで、「すみません、今すぐ持ってきます」と私は重たい箱を抱えて倉庫へと逆戻りした。
その後も、ことあるごとにあからさまな嫌がらせが続いて、一日が終わる頃には心身ともにぐったりと疲弊しきっていた。
終わった後の片付けも一番下っ端の私が担当。
本当なら私と同じ下っ端の珠蘭さんも私と一緒にやらなくてはならないはずなのに、彼女はなにも言わずにさっさと帰ってしまった。
「鈴風お疲れ!」
日が傾きかけ、静かになったころ、雹華が厨房に顔を出した。
「雹華ぁ~」
床を掃いていた私は、手に持っていた箒を放り投げて雹華に抱き着く。慣れない仕事場で張り詰めて疲れていた心が彼女の顔を見て一気に弾けたようだった。
「聞いてよ雹華~」
雹華だって疲れてるはずなのに、私の片付けを手伝ってくれてさらに私の愚痴も嫌な顔一つせず聞いてくれた。
「それは疲れたねぇ……、珠蘭さんか……あぁっ!」
「ちょっと急に大声出すのやめて」
「ごめんって、違うのよ、昨日仕事終わりにね、昭儀さまの侍女が誰かと話してるのを見かけて……、その時は別に気に留めてなかったんだけど、あの後ろ姿は珠蘭さんだったかも……」
「え、それって……」
私たちは見合って、同時にため息を吐く。それはもう、深い深いため息だ。
「手回しに抜かりなしってわけね」
あきれるくらい、仕事が早い。
せっかく、厨房にこもり切りになったことで侍女たちからの嫌がらせが減ると思っていたのに。これでは避けようにも避けられないから、前より悪化したと言ってもいいかもしれない。
「じゃぁ片付けも終わったし、帰ろっか」
「あ……、私、ちょっと用事があるから先に帰ってて」
「用事ってなに? 私手伝うわよ」
「あ……そういうんじゃなくて……えっと……、ある人に、ご飯を作る約束をしてて……」
雲嵐とのことを話し終えると、雹華は両手を口元に当てて「きゃー!」と叫んだ。
「えっ、宦官さまと密会⁉」
「密会なんて、やめてよ。そんないかがわしい関係じゃない」
ただご飯を食べさせてあげているだけ。
って、なんだか餌付けしてるみたい。
「それじゃぁ、お邪魔するのは気が引けるから、私は帰るわね」
「だから~! そういうんじゃないってば!」
「はいはい」
雹華を見送って、私は雲嵐のための夕餉に取り掛かった。
今日はなにを作ろうかと、雲嵐のことを思い浮かべながら一日中考えた結果、オムライスを作ることに決定。
それも、ご飯の上に乗せたふわとろオムレツに切り込みを入れてトロ~っと卵が広がるアレだ。
きっと雲嵐も驚くに違いない!
食材を切り終えたので後はケチャップライスを炒めて卵を焼くだけ。もちろん、ケチャップなんてないからトマトをつぶして砂糖や塩で煮詰めて手作りして準備は万端。
私は雲嵐が来るのを食堂で座って待った。
「――おい、鈴風、起きろ」
「んん……、もう食べられない……雲嵐が食べて……」
私は味見でお腹いっぱいよ……。
「どんな夢を見てるんだ、こいつは」
「――っ⁉ やだ、私寝てた?」
耳に入ってきた自分の間抜けな声と雲嵐の呆れた声で、目が覚めて起き上がる。
「よだれ垂らしてるぞ」
「ちょっと、やだもう!」
口元に手をやるも、濡れてる気配はない。
「騙したわね……」
と、隣に座るぼさぼさ頭の宦官を睨んでやるも、雲嵐は口の端を持ち上げて「夢に見るほど俺に会いたかったのか?」と笑った。
雲嵐は、無駄に良い声をしている。適度に低く艶があって耳にすんなりと届く声は、いつまでも聞いていたいと思わせるくらいに良いのが癪だ。
「ば、ばか言ってんじゃないわよ」
と言ったものの、夢に見ていたのは事実なので、恥ずかしくて顔が火照る。
あぁ、私の顔、絶対真っ赤だ。
そんな顔を見られたくなくて立ち上がった私の手を、雲嵐が掴んだ。厨房へと向かおうとしていた私はバランスを崩し、同じく立ち上がった雲嵐の胸にポスっと顔をうずめる格好になってしまう。
上質な香にふわりと包まれ、拍動がスピードを増した。
「わ、ご、ごめん」
慌てて体勢を戻せば、背の高い雲嵐が私をまっすぐに見下ろしていた。前髪の隙間から覗く瞳は、いつだってキラキラとロウソクの灯りを映していて綺麗で、隠しているのがもったいないと思う。
「冗談だ。……遅れてしまってすまなかった。待っていてくれてありがとう」
この人の、こうしてちゃんと謝れるところも良いなと思う。人の気持ちを大事にしている証拠だから。
「いいわよ別に、そんなに待ってないし。じゃぁ、ご飯作ってくるからお、茶でも飲んで待ってて!」
私は早く雲嵐にオムライスを食べさせたい一心で厨房へと駆け込んだ。
「では、今日は新しい献立の採用試験を行います。半刻後、出来上がった料理を食べて決めますので、各自出来次第私の所に持ってくるように」
「「はい!」」
尚食の話が終わったのを皮切りに、私を含めた4人が一斉に動き出した。
これは、数か月に一度開かれる新メニューを決めるコンテストのようなもの。
私の腕を認めてもらう絶好のチャンス到来!
私はこの日のために数日前から準備してきた。
メニューはとんかつ。
下準備さえしておけば後は揚げるだけ、という点も食堂メニューにもってこいだ。
食材の準備から始めた私は、前日から用意しておいたはずの食材が足りない事に気づく。
仕方ないので、私は食品が保管されている倉庫に取りに向かった。
「卵と……、あと大根……」
と、探していた時、
――バサッ
と、なにかで頭から覆われて視界が奪われた。そして次の瞬間には足を取られて袋ごと転倒。体を床に強く打ち付け、そのあまりの痛みに目に火花が飛ぶ。突然の出来事に恐怖とパニックで声が出ない。
それから、犯人は手際よく袋の口を足の方で縛ると、ご丁寧に袋の上から腹の部分を腕ごと更に縛っていく。おかげで私は手も足も動かせない状態になってしまった。
しばらくして倉庫の戸が閉まる直前、くすくすという聞きなれた笑い声が複数耳に届く。
おそらく、昭儀さまの侍女だろう。
油断した。
まさか、こんなことまでしてくるなんて。
そこはかとない悔しさがこみ上げてくる。
どうして邪魔をするの。
なぜ、こんな仕打ちを受けないといけないの。私がなにをしたって言うの……。
せっかく、夢にもっと近づけるチャンスだったのに。
悔しい。
「だ、誰かー! 助けて! 誰かー!」
しばらく叫んだけれど、人の気配は疎か物音一つしない。この食品保管庫は、温度を一定に保つために壁も厚く作られているせいできっと声も届かないだろう。
仕方がないと私は諦めて、横になったままその場で目を閉じた。
*
今日のコンテストで作るはずだったとんかつを、雲嵐の前に差し出すと「これはなんという料理だ」と驚きの声が上がった。
「豚の揚げ物よ」
食品庫に閉じ込められた私は、コンテスト終了後に、私が居なくなったことを不思議に思った尚食局の人が探しにきてくれたおかげで事なきを得た。
打ち付けた体が痛むくらいで大したケガはせずに済んだけど……、当然コンテストには参加できなくて、悔しい思いをする羽目に。犯人も証拠がなければ捕まえることはできないからと、この件はなかったことにされてしまった。
「お前の料理は、どれも独創的でいて美味いな。大した腕だ」
美味しいと言って、雲嵐はとんかつをあっという間に平らげる。いつも思うけど、ホントよく食べる。作り甲斐があって大変よろしい。
「どうしてこんなに料理が達者なんだ?」
「私、料理人になるのが小さい頃からの夢だったのよ」
胸を張って言えば、雲嵐は「初耳だな」と言った。
小さい頃どころか、前世からの夢よ。
前世では果たせなかった夢が、今叶いつつある。そんなの、頑張るに決まってる。
「私の父が料理人だったの。父の料理を食べるのが好きで……、私と母がそれを美味しそうに食べるのを見る父の幸せそうな顔も大好きだったから……。私も料理で誰かを幸せにできたらって思ってたの」
前世での数少ない両親との思い出。
思い出と言うには朧げだけど、大切な記憶は色あせることなく転生した今も私の胸を温めてくれる。
この夢があるから、私は嫌がらせをされても耐えられる。
今日の出来事はさすがに応えたけど。
「そうか、良き家族に恵まれたんだな」
「雲嵐のご両親は?」
「……俺の話はいい。――ところで、今日はどうした」
「え?」
「元気がない」
いつも通りにしていたつもりなのに……。
「ば、ばれちゃったぁ? ちょっと仕事で失敗し――」
えへへと笑って頭をかいた私の手を雲嵐が掴み取る。そして、「なにがあった」と真剣な声音で言う雲嵐に観念した私は、嫌がらせにあって参加できなかったことを簡単に”閉じ込められた”とだけ説明する。雲嵐に余計な心配はかけたくなかったから。
「犯人に心当たりは?」
私は首を横にふる。あらかた、昭儀さまの侍女だろうとは思うけど、証拠もないので言うのは憚られた。それに、言ったところで、昭儀さまに逆らうようなことはできないのだからそれは無意味だ。
「許せないな……」
私の手首を掴むその手に力が入る。
雲嵐のそのたった一言で、押し殺して奥深くに埋めていた苛立ちや悔しさ、腹立たしさが再び掘り起こされ、感情が刺激された。
「あ……」
あ、ダメだ。
雲嵐の手のぬくもりと私の心に寄り添う言葉に、こみ上げてくるものを抑えられなくて、私はみっともなくぽろぽろと涙をこぼしてしまう。
どうしよう、止まらない。
「さぞ悔しかっただろう」
ずっと、耐えてきた。
身分がすべてのこの世界で、私にとって絶対的立場に居る昭儀さまからの攻撃は、耐えるしかなかった。でも、それはあまりにも理不尽で一方的で、私は彼女の悪意によってぎゅうぎゅうに押しつぶされてしまっていたんだと、今気づいた。
「うん……、くや、しかった……」
背中に、雲嵐の手が触れて、そのままそっと抱き寄せられた。
「気が済むまで泣けばいい」
「……っ、うぅぅ~」
誰も居ない食堂の片隅で、雲嵐は私が泣き止むまでずっと抱きしめてくれた。ずっと耐えて、いつしか凍ってしまっていた心が、確かにゆっくりと溶かされていくのを、私はこの時感じていた。
「今日も来なかったのね」
自室に戻ると、開口一番に雹華が私に訊ねる。私はそれにうん、と頷き返した。
来なかったというのは、雲嵐のことだ。
雲嵐に抱きしめられて泣きはらしたつぎの日から彼はパタリと姿を見せなくなった。かれこれ半月近くになる。
雹華には、そのうちひょっこり顔を出すわよ、と言われていたけれども、それならそうと、一言、たった一言でも言ってくれたっていいじゃない。と私は内心ふくれていた。
――というのは虚勢で、不安で寂しくてたまらなかった。
なにかよくないことがあったんじゃないか、私がなにか気に障ることを言ったんじゃないかと気が気ではない。ただ単に仕事が忙しいだけならそれで良いのだけど、それすらもわからないのがもどかしい。
「そんなに気になるなら、宦官の誰か捕まえて聞いてみたら?」
不安が顔に出ていたのだろう、雹華がそんなことを言った。
そんな簡単な事をどうして思いつかなかったのか。たとえ本人に会えなかったとしても、安否を知れるならそれで構わないのだ。
私は、「それもそうね」と雹華の提案を採用することにした。
――しかし、それは私を安心させるどころか不安を助長させることになってしまった。
「宦官の雲嵐? 聞いたことないな」
「さて、そんな人いましたかねぇ?」
「宦官もたくさん居ますからなんとも……」
見かけた宦官に手あたり次第声をかけたのにも関わらず、雲嵐に関する情報が全く手に入らないという結果に終わる。
聞き込み調査の帰り道の途中、私は、橋の欄干に上半身を預けてぼーっと水面を眺めていた。水面には、白やピンクの蓮の花が浮かび、アメンボの水をはじく足跡をなんとなく目で追っては見失いを繰り返していた。
「雲嵐……あなた一体どこの誰なのよ……」
ぽつりとつぶやいた声は、風にさらわれて消えていく。
ぼさぼさ頭でいつもお腹を空かせていた、かの宦官は何者なんだろうか……。
まるでぽっかりと心に穴が開いてしまったみたい。
もう会えないなんてこと、ないよね?
こんなことなら、約束しておけばよかった。
また明日、って。
約束しなくても、毎晩会えていたあの頃が既に懐かしい。
会いたいな。
私の作るごはんを美味しいと言って食べるあの人に。
「はぁ……」
何度目かわからないため息をついた時、体がふわっと浮いたと思えば、世界が一瞬にして反転。私は、あっという間に池に真っ逆さまに落っこちた。
ぼしゃんッ――
橋が低かったおかげで衝撃はなかったものの、あまりに突然の出来事に驚いて水を吸ってしまった。どうにか水面を目指してもがくも、水を吸った宮女の制服は重く体にまとわりついて自由が奪われていく。
――だめだ、溺れる……
水を飲み込んだせいでむせて声も出せず、助けも呼べない。
あぁ、私は、また死んじゃうのか。
せっかく、こんな私でも誰かの役に立つことができる世界に来れたのに。
一人じゃない、居場所があるのに。
会いたい、と思える人に出会えたのに……――
水中でもがくあまり蓮の根が足に絡まって、水の中に沈んでいく。空気を求めて水上めがけて伸ばした手はむなしく水面を掠めるだけだった。
重たい瞼をゆっくりと開くと、見慣れた天井が見えた。自室の天井だ。
右手を持ち上げようと試みたものの、何かに押さえ込まれていて動かない。すると、不安気な顔の雹華が私の視界にそろりと映りこんできた。
「――鈴風? 気づいたの?」
どうやら私の右手は雹華に握られていたらしい。両手でしっかりと握りしめてずっと側にいてくれたようだ。
「私、池で溺れて……、助かったの……?」
「うん、うん、助かったんだよ。もう……、本当にびっくりしたんだからぁ。あの宦官さまが通りかからなかったらどうなっていたか……」
「雲嵐が? ――痛っ」
追いかけなくちゃ、と飛び起きた私だったけど、頭に刺すような痛みが走って手で押さえた。
「無茶しないの! 水をたくさん飲み込んでるから、安静にしてろって先生に言われてるののよ」
それに、と雹華は続ける。
「宦官さまからも、ちゃんと見張ってるように言われてるんだから。すごく心配してたわよ……。鈴風を抱えて、血相変えて医者を呼べってすごい剣幕だったわ、ぼさぼさ頭が濡れて顔に張り付いて海坊主かと思ったんだから」
「う、海坊主……」
ちょっと想像して笑ってしまった。
せっかく会えたのに、覚えていないどころか飛んだ迷惑をかけてしまって申し訳ない気持ちになる。
「とにかく、鈴風はちゃんと休むこと!」
「はーい……」
その日の夜、私は自室の外で雹華に髪を洗ってもらっていた。まだ起き上がるなと渋っていた雹華も、私の頭からぷんぷん匂う池の泥臭さに観念して手伝ってくれている。
「ねぇ雹華」
「ん?」
「どうしよう……私、雲嵐のこと」
「――待って鈴風」
髪を洗っていた雹華の手が止まり、私を見た。その強い視線に私も口を噤む。
「それ以上は、言っちゃだめ。私たちは、皇帝陛下のものなのよ。誰かに聞かれでもしたら不敬罪で罰せられる……」
雹華は一瞬言い淀んで、「それに」と続ける。
「あなた、殺されかけたのよ。もっと気を付けなくちゃ」
「……やっぱり私、突き落とされたのよね……」
「――だから部屋で大人しくしていろと言ったんだ」
「雲嵐っ!」
振り向けば、手に灯篭を下げた雲嵐の姿があった。相変わらずのぼさぼさ頭で半分が隠されたその顔は、暗闇だとちょっと……というかだいぶ怖い。
「雹華、と言ったな。変わろう」
「へ? ……あ、あぁ、はいはい、邪魔者は消えますよ~」
「え、ちょっと、雹華?」
雹華はさっさと部屋に入ってしまい、雲嵐と二人きりになってしまった。
二人きりなんて、慣れっこなのに……。
久しぶりだからなのか、夜だからなのかはわからないけどひどく落ち着かない。
雲嵐は、雹華が座っていた場所に座ると私の髪に触れた。
「あ、自分でできるから」
「いい、洗ってやる」
有無を言わせない圧を感じて、私は押し黙った。
雲嵐は、手桶で水をかけては流してを繰り返し、丁寧に洗っていく。
チャプ、チャプ、と弾けては夜の闇に消えていく水の音が気恥ずかしさを和らげてくれる。時間がとても穏やかに流れていた。
「あの……、助けてくれてありがとう」
「痛むところはないか」
「うん……おかげさまで」
目覚めた時の頭痛も今は治まっていて、体は回復していた。
ただ、心だけがずっと塞いでいる。
それもこれも、全部この人のせい。
どうして急に居なくなったの。
どこでなにをしていたの。
あなたは、誰なの――――?
知りたい。
でも、それをぶつけてしまえば、もう二度と私の前から姿を消してしまうような気がして怖くてできなかった。
「お前が池に落ちた時、心の臓が止まるかと思った」
一通り髪の汚れを流し終え匂いも気にならなくなったので、髪を絞っていると、雲嵐が唐突にそう言った。
真剣な声音に、私は「あ……、ご、ごめん……」と謝罪を口にする。
「守れなくて、すまない……。それと、これから先、俺がすることをどうか許してほしい」
「許すって、なにを……?」
「今日はもう休め」
「う、うん……わかった」
「また明日な」
次があることが嬉しくて、私は満面の笑顔でうん、と頷き返した。
「おやすみなさい」
「おやすみ」
また会えるなら、この人がたとえ宦官の「雲嵐」じゃなかったとしても構わないと思えた。今、私の隣にいるこの人は紛れもなく雲嵐だ。それは変わらない事実だから。
池突き落とし事件の翌日、雹華の反対を押し切って復帰した私は冷めた視線を周りから送られていることに気づいた。
「あの、すみません、これって――」
「今忙しいから後にして」
「え……、あっ、珠蘭さん、ちょっと聞きたいことが、」
あきらかに目が合ったはずなのに、珠蘭さんは顔を背けてどこかに行ってしまった。珠蘭さんは嫌がらせこそするものの、仕事のことで無視することはほとんどなかったのに……。
どういうことだろう。
池に落ちたことで迷惑をかけてしまっただろうか、と頭を悩ませたものの、考えても仕方がない、と私は気にせず自分の仕事に没頭した。
しかし、それも昼になって理由を知ることになる。
「――鈴風ちょっと!」
昼食を取りにやってきた雹華が、厨房の裏から私を呼ぶ。私はごみを捨てるフリをしてこっそり裏へと出た。
「どうしたの、今忙しいんだけど」
「それどころじゃないわよ! なぜだか鈴風と宦官さまが恋仲だって噂があちこちで広がってるの!」
「えっ」
驚いたのとほぼ同時に、今朝からの周りの冷たい視線や態度に納得がいった。それはそうだ、触らぬ神に祟りなし。誰だって、巻き込み事故には合いたくないものだ。
「まぁ、だからって、証拠もなにもないのに鈴風をどうこうするなんてことはないだろうけど……、宦官さまとは、ほとぼりが冷めるまでしばらく会わない方がいいかもしれないよ」
どうしよう……、私のせいで雲嵐に害が及んだら……。
雲嵐は、陛下の側仕えだから、もし陛下の耳に入ったらそれこそ首を切られかねないのではないか。
「鈴風大丈夫?」
震える手を雹華がぎゅっと握ってくれた。
「う、うん……大丈」
「――李鈴風、出てきなさい!」
突如響いた声に雹華と顔を見合せる。なにごとだ、と声の方に向かうと、食堂の外に色鮮やかな襦裙を纏った昭儀さまとその侍女が、さらにその後ろには槍のようなものを持った兵士が数人立っていた。
「なにあれ……」
「兵部がどうして……まさか」
雹華の予感は的中。
「あの栗毛の宮女が鈴風よ、捕まえなさい」
「はっ」
昭儀さまのひと声で、私は兵部の人たちに取り囲まれてあれよあれよと捕まってしまう。
「えっ、ちょ、待ってくださいってば、ええっ」
「鈴風!」
ご丁寧に両手を縄で縛られて、昭儀さまの目の前に放り投げられた。なにがなんだかわからないまま、私は目の前で目を吊り上げる美人を見上げた。
「あ、あの……、これは一体……」
「李鈴風、姦通罪でお前を処罰します」
「か……か?」
聞いたことのない単語に頭の中ははてなマークで埋め尽くされるが、昭儀さまはお構いなしに続ける。
「これまで数々の愚行に目を瞑り見逃してきたけれど、陛下への裏切りだけは許せないわ」
数々の愚行?
見逃してきた?
どの口が言うのか、これまで散々嫌がらせをしてきたのはどっちよ。
と、のどまで出かかったけど、そんなことを言えば火に油を注ぐようなものだから、押しとどめる。
きっと余程間抜けな顔をしていたんだろう、周りの侍女たちが次々に補足をしてくれた。
「前に食堂で宦官と抱き合ってたのを見たわ! なんて破廉恥な!」
「昨日は夜這いに来ていたでしょう!」
「陛下に仕える宮女とあろうものが、ほかの男と通ずるなどあってはならないことよ!」
どうやら姦通罪とは、男女の仲にあってはならない相手との関係を罰する罪名なのだとようやく理解できた。そして、雹華から聞いた通り、私と雲嵐の関係が疑われてのことらしい。
「誤解です! 決して男女の仲などでは、」
「おだまりなさい。目撃者がいるのにこの期に及んで言い逃れできるとでも?」
冷めた目で見下ろされて、もうだめだと私は悟った。
完全に潰しにかかってる。
私を池に突き落としたのも、もしかしたら昭儀さまかもしれないと私と雹華は疑っていた。きっと、私が死ななかったから、とどめを刺すためにこうして動いたんだ。
私を後宮から追放するために。
「罪を認めなさい!」
「……」
嫌だ……、私はなにも悪いことなんてしていないのに。
どうして、見た目が気に入らないからというだけで、こんな理不尽な扱いを受けなくちゃいけないの?
犯してもない罪を認めたら、もう雹華や雲嵐と二度と会えなくなってしまう。それどころか、一生牢屋から出れないかもしれない。
そんなの、絶対に嫌。
「――宦官と会っていたのは認めます。だけど、私はただ彼に食事を作って食べさせていただけです!」
「どうしても認めないつもりね。いいわ、それなら吐かせるだけよ。――さぁ、この者が自供するまで拷問にかけなさい! あと相手の宦官も見つけ次第捕らえるのよ!」
その声を合図に、兵たちは私の腕を掴むと強引に引っ張り上げた。痛みに顔をしかめたその時、
「――その宦官とは、もしや私のことか?」
張りのある艶やかな声とともに、どこからともなく雲嵐が姿を見せたのだった。
昭儀さまが目配せすると、側に居た侍女が「はい、この者で間違いございません」と声を張る。
「お前のようなぼさぼさ頭の冴えない宦官が、陛下の所有物である宮女に手をだすとは甚だおかしいわ」
なにが面白いのか、昭儀さまは声高らかに笑った。
って、雲嵐のバカ!
なんで……、なんでわざわざ名乗り出るのよ!
見つかるのは時間の問題だったかもしれないけど、自分から出てくるなんてバカじゃないの。
私は脱力のあまり、その場に再びへたり込む。そして、ありったけの念を込めて雲嵐を睨みつけたけれど、彼はそんな私を見て肩をすくめてみせるだけだった。
この人、今のこの状況わかってるんだろうか。
今すぐ胸ぐらをつかんで聞いてやりたい気持ちに駆られる。
「捕らえよ」
昭儀さまの声で動き出した兵よりも先に、雲嵐が手を挙げる。それが合図だった。
「悪いが、その罪状は無効だな」
今度は先ほどとは違う色の制服を着た兵士たちがぞろぞろと現れ、あっという間に周りを取り囲む。
「なっ、禁軍だと……⁉」
「一体なにがどうなってる!」
昭儀さまの連れてきた兵士たちは動揺が隠せずおろおろとするばかりだった。
「なんで、陛下の近衛兵たちがここに……」
昭儀さまの口からも驚きがこぼれる。私もなにがなんだかわからないでいると、近衛兵の一人が手の縄を解いてくれた。
「昭儀よ、兵まで使ってこのような騒ぎを起こすとは、少々行き過ぎだぞ」
雲嵐が、声を低くして言う。私に向けられたわけではないのに、すごい威圧感に体の芯がすーっと冷えた。
「え……」
「宦官ごときが、昭儀さまになんという口の利き方! 分をわきま」
「お、おやめっ」
よかれと思って取った行動を窘められた侍女は、不服そうな表情で主を振り返る。しかし、昭儀さまは雲嵐を見て恐怖に震えていた。
「やっと気づいたか、昭儀。だが、お前の侍女はまだわからんようだな」
これでどうだ、と雲嵐は結っていた髪を解き、鼻までかかっていた前髪を手でかき上げて後ろへと流した。
その場にいた誰もが、露わになったその美しい顔に目を奪われ、息を呑む。数人が、崩れ落ちるようにその場に平伏の姿勢を取ったのが視界の端に入り、「へ、陛下……」と驚きの声がどこからか上がった。
この人が……、雲嵐が、皇帝陛下……?
艶やかな雰囲気を纏うその顔を目にした瞬間私は、以前雹華に聞いた陛下の二つ名を思い出した。
――妖艶の帝。
男までも魅了する美しさからつけられた異名らしい。それを聞いた時は、そんな大げさなと思ったけど……、今目の前にいる雲嵐は、確かにその名にふさわしい端正な顔立ちをしていた。
漆黒の髪は、先ほどまで結われていたというのに、癖などなく背中に流れ、切れ長の瞳はびっしりと生えた長いまつ毛に縁どられ、色香を演出している。
「――ぼさぼさ頭の冴えない私に仕えるのはさぞ屈辱であっただろうな、昭儀」
雲嵐は、端正な顔を皮肉にゆがめた。
「どっどうか、お許しください!」
昭儀さまと侍女は、その場に平伏し、謝罪の言葉を口にする。その姿を眺めながら、私は完全に思考が停止していた。
「昭儀を廃位し、実家に帰すよう命を下す。これまでご苦労であった」
どよめきが走る。
昭儀さまはその場に泣き崩れた。
後宮は、皇帝陛下のもの。
たった一人の主の口から放たれた言葉は覆ることはないのだろう。
そして、雲嵐の視線が私に注がれ、パチリと目が合ってしまった。半ば放心状態だった私はハッとして、目で訴えかける。
――皇帝陛下って、どういうこと!
もちろん、届くわけもないのだけど、雲嵐はあほ面を晒す私にふっと微笑みかけてきた。
その破壊力たるや……!
心臓に悪いったらない。
雲嵐が片手を挙げると、文官と思しき青色の官服を着た人がどこからともなく現れて私の前で止まる。そして、巻物のようなものをこれ見よがしに広げて叫んだ。
「尚食局の宮女、李鈴風に皇命を下す!」
皇命。
頭の中でその二文字を思い浮かべる。
この宮殿内に住んでいる者ならば誰しも一度は耳にしたことがあるかもしれないが、まさかそれが自分に向けられようとは17年生きていたけど夢にも思わなかった。
私は地面に尻もちをついたまま、文官とその傍らに立つ雲嵐を交互に見やり、池で餌を待つ鯉よろしく口をぱくぱくとさせていた。
周囲は、その人並外れた美貌の皇帝陛下を一目見ようと、あわよくば一目見てもらおうと押し合いへし合いあれよあれよともみ合っている。
けれど、今は外野に構っている余裕などどこにもない。
皇命って、一体なに……?
もしかして、不敬罪で死刑?
だって、私、知らなかったとはいえ、雲嵐にため口で……あろうことか説教や皿洗いまでさせてしまっている。これはもう救いようがないのではないだろうか。
よくて流刑とか?
だったらせめて温かい所にある島にしてくれないかな……、そしたら釣りでもして自給自足ができそうな気がする。寒いのだけは嫌。文明の利器のエアコンやストーブのないこの世界で極寒の冬を過ごすのだけは勘弁して欲しい。
どうかお願いします、流刑は南の島でお願いします!
ありったけの念を込めて祈り、文官が次の文言を発するべく息を吸う様を私は見つめた。
「本日付けでその任を解き、正一品の賢妃の位を授け、居は水晶殿に置くこととする!」
言い切った後、一拍をおいて「えぇ⁉」とか「きゃー!」とか「うそー!」とか「なんで?」とか、周りから宮女たちの声があがる。
あまりにも予想とかけ離れていたそれに、私の口からは間抜けな声がこぼれ落ちた。
「――はぁっ?」
王位継承権第5位の末席の王子だった俺は、現皇太后である母親の手腕によって政権争いの末、玉座を経た。母親は、自分が皇太后になりたいがために、時には重臣たちを色仕掛けで懐柔するなどありとあらゆる手段を使い俺を今の地位にのし上げた。
その争いに巻き込まれ、小さい頃から刺客を送られたり、毒を盛られたりと命の危険と隣り合わせだった俺は、気づいた時には食べ物の味を感じることができなくなっていた。
なにを食べても味がしない食事の時間はいつだって苦痛でしかない。かと言って食べなければ死んでしまうから、最低限の食事を取るようにする日々だった。
そんなある日。
時折、宦官の格好で後宮の様子を伺っていた俺は、厨房から漂う”美味しそうな香り”に誘われる。食べ物の匂いを美味しいと感じたのすら、久しぶりで気づけば足は食堂へと向かっていた。
そう、これが鈴風との出会いだった。
鈴風の作った焼き餃子を一口食べた瞬間感じた”味”。
その美味しさに、箸が止まらなくてあっという間に食べてしまったのを思い出す。きっと鈴風からしたらさぞ滑稽に見えただろうな、と苦笑がもれる。
しかし、味覚が戻ったのかと思ったら、そうではなかった。
翌朝、宮廷の料理人が作る朝餉は、いつもと同じで味が感じられなかった。
なぜだか知らないが、鈴風の作る料理だけが味があって、この上なく美味かった。
嫌な顔一つせず俺に料理を作ってくれる鈴風は、素直で裏がなくて居心地が良くて、気づけば彼女との時間が唯一の俺の楽しみになっていた。喜怒哀楽が豊かで、父親の背中を必死に追いかけるその健気な姿に、俺の心が揺さぶられる。
素性を明かすつもりは毛頭なかったのに、次第に鈴風を知っていく内に、本当の俺を見てほしいという感情が沸き始めた。
言ってしまおうか……、しかし、そうしたら鈴風は、今みたいに接してくれなくなってしまうかもしれない……。
そんな葛藤に悩まされていた頃、鈴風が池に突き落とされる事件が起きた。
西方の使者団を迎え入れる準備に追われて鈴風の所に顔を出せなくなって半月。
やっとのことで空いた昼の時間で一言謝りに行こうと後宮を訪れた俺は、偶然にも池に鈴風が突き落とされる場面に遭遇したのだった。
青白い顔でぐったりと意識を失う鈴風を抱きしめながら、俺は意志を固めた。
――鈴風は、俺が守る。
たとえ、彼女の夢を奪うことになって、嫌われたとしても構わない。
大切な人を守るためなら、俺は、俺が持て得るすべてを使うと心に決めた。
部屋には最小限の火が灯され、甘ったるくも上質な香が焚かれていた。私は光沢のある美しい蚊帳を張った寝台の縁に腰掛け、隣にいる人を直視できずに膝の上でぎゅっと握りしめたこぶしを凝視していた。
――私は今、水晶殿に居る。
柱や窓枠、置かれた花瓶やテーブルなどさまざまな装飾に水晶が使われた、キラキラと目に眩しい作りの豪奢なお屋敷だった。先帝の代から使われていなかったと言うここは、けれどもまるで新築のようにどれもが真新しく美しい。
なにより一番気に入ったのは、お屋敷内に台所がある所だった。
それもコンロが3つもあるし、作業スペースも広くて料理がとってもし易そう!
私のためにわざわざ増設してくれたらしいと雲嵐から聞いた時には、恐れ多くて鳥肌が立った。
ここに連れてこられた私は、湯あみに着替えに化粧にと有無を言わさぬ勢いで仕上げられて今に至る。
宦官だと思っていた人は、実は皇帝陛下でした。
そして平民の出の宮女(私)を四夫人の位の一つである賢妃に召し上げました。
二人は末永く幸せに暮らしましたとさ。
めでたしめでたし。
――って、なるはずもなく。
皇命が下ってから、まさに怒涛の展開で頭が全く追いついていない。
ただ、今の状況を理解できないほどバカでもなく、妃になったということはつまりそういうことなんだろう、とは頭ではわかっている。
わかっているからといって心の準備ができるわけでもなくて、心臓はもうずっとばくばくと内側から私を叩き続けている。
「そう緊張するな」
「そ、そう言われても……」
相手は皇帝陛下なんだから、無理があるってものでしょうよ。
雲嵐は、私の拳に手を添えると、硬く握ったままだった指を優しく解いてするりと指を絡めた。私は、この大きくて骨ばっているのに、私よりすべすべな肌の手が憎らしくも好きだ。
「鈴風」
火照った顔のまま、私は見上げる。
私の目の前に居るのは、ぼさぼさ頭の宦官、雲嵐じゃなかった。
艶やかな漆黒の髪を一つに結わえて後ろへ流し、つるりとした額をさらけ出した麗しき御仁。色気が駄々漏れの美男子は、免疫のない私には目に毒でしかなくて、おろおろと視線を彷徨わせてしまう。
そんな私に構わず、雲嵐はゆっくりと話し始めた。
「俺は、子どもの頃から何度も毒を盛られてきたせいか、いつからか味を感じなくなっていたんだ」
もともと王位継承権第5位の末席の王子だった彼は、欲に目がくらんだ母親のせいで自分の命がいつも危険に晒されてきたこと、またその美貌からまだ幼い年頃にも関わらず父親の他の妃たちから誘惑されるなど女性不信に陥っていたことを話してくれた。
ごはんを食べても味が感じられないって、想像ができない。きっとなにを食べても同じで、食事が苦痛でしかないんじゃないかな。
「だが、偶然食べたお前の食事だけは味が感じられた。きっかけは食事だったが、それから一緒に過ごすうちにお前の真面目でひたむきなその姿に惹かれていったんだ。――お前の意志を無視して強引に事を進めて悪かった。鈴風……、どうしてもお前が欲しくなったんだ」
風に揺れたロウソクの火が、雲嵐の横顔を柔らかく照らす。近くで見る彼の瞳は、夜を閉じ込めたような深い紺色をしてとても綺麗だった。
まさか雲嵐が自分を好いてくれていたなんて、欠片も思わなかった私は面と向かって言われているにも関わらずどこか上の空でそれを聞いていた。
それと、と雲嵐は一変して眉をしかめた。
「これは悪い知らせだが、お前を池に突き落としたのはどうやら昭儀ではないようだ」
「え……、じゃぁ、誰が……」
「それは今調べているが、目撃者が居なくて特定は難しいかもしれない」
てっきり昭儀さまの命令だと思っていたのに……。得体の知れない恐ろしさに、ぞわりと寒気がした。池に落ちた時の息苦しさが呼び起され、思わず握っていた陛下の手に力を込めてしまう。私の動揺を感じ取った彼は、ふわりと私を腕の中に閉じ込めた。
「大丈夫だ。お前は俺が守る。そのためにも、嫌でも私の側に居てもらうからな」
雲嵐に抱きしめられるのは二度目だけど全然慣れないし、薄い寝巻き越しに熱が伝わってきて私まで体温が上がってしまう。
「嫌じゃ……ない。……私も、側に居たい」
側にいられるなら、これほど嬉しいことはなかったけど、そう言うのが、今の私の精一杯だった。雲嵐が突然姿を見せなくなった時の、あの胸の寂しさはもう味わいたくない。
だから、その気持ちを込めて雲嵐を見上げたのに、彼の顔には戸惑いが見て取れて、何か間違えただろうか、と急に不安になる。
「そんな嬉しいことを言われると、勘違いしそうになるな。……俺の妃にはしたが、気持ちがないのに無理強いするほど愚かではない」
だから安心しろ、と雲嵐は困り顔で笑った。
勘違いなんかではない、と伝えられたらいいのに。緊張しすぎて言葉がうまく出せないでいた。
雲嵐は皇帝陛下で私は彼の所有物なのだから、いくらでも好きにできるのに……。この人は私の気持ちを大切にしようとしてくれている。どこまでも優しいその心遣いに、胸の奥がじんわりと温まるとともに、この人を好きになって良かったと心から思えた。
「――その代わり、覚悟しておけよ。これから全力で口説くからな」
「く、口説くって……、あっ――」
私を抱きしめたまま雲嵐は寝台へと倒れ込んだ。
柔らかな寝台は、私たちをふんわりと受け止めてくれたので衝撃はない。
「へ、陛下……」
「名前で呼んでくれ」
「雲嵐……」
綺麗な響きの彼の名を呼べば、抱きしめる腕に力がこめられる。触れ合った箇所から発せられる熱がじんわりと広がり、まるで、雲嵐の思いがその熱に乗せられて伝わってくるようだった。
雲嵐が、好きだ。
この、ちょっとマイペースで、私の料理を美味しそうに食べてくれる、優しい皇帝陛下が。いつも、私をまっすぐに見て、話を聞いてくれる雲嵐が。
気持ちに気づくのが遅くなったけれど、こうして思いが通じ合ったことがたまらなく嬉しかった。
「ね、ねぇ……、もしかして、このまま寝るの……?」
「だめか? 本当なら、このまま俺のものにしてしまいたいくらいなんだが?」
「へっ? やっ、あ、えっ、だ、大丈夫! このままで大丈夫だから! 寝よう! ね! ね!」
恥ずかしさと嬉しさがぶつかり合って、雲嵐の胸の中で顔が爆発しそうだ。
早く思いを伝えてしまいたいとも思ったけど、今からこんな状態ではどうにも耐性が追いつかないに決まってる。それに、口説いてもらえるなら、もう少し黙っていたいと、私の中の欲張りな心が顔を覗かせてもいた。
「そこまで拒否されると、さすがに傷つくぞ」
ふてくされて言い放った小言に笑いつつ、雲嵐の胸に頬を寄せる。
見た目よりも着痩せするその逞しく優しい腕の中で、私は幸せに浸りながら目を閉じた。
雲嵐が私の気持ちを知るのは、もう少し先の話――――
ー end ー