「きれいな夕焼けだぁ……」

 少しだけ口に含んだ夕食を済ませ、窓の外を眺めていると、突然扉が開いた。

「茜音先生!」

「結花ちゃん! お仕事は……」

 部屋に飛び込んでくるなり、そのまま泣きじゃくる結花をそれ以上深く追求することはやめた。

 佳織が例のものを結花に渡したのだろう。

 渡された品の意味を瞬時に理解し、居ても立ってもいられなくなった彼女は堪えられずに飛び出してきたのだと。

「途中、お母さんが『今日の茜音を見てきて』ってメールをくれました……。この髪型をまたしてくれたんですね……。うれしい……」

「結花ちゃんもよく作ってくれたもんね。上手だったの覚えてるよ」

「はい。私も三つ編みはこれを作らせてもらいたくて特訓しました」

 そんな結花の長い髪をゆっくりとかしてやる。彼女の母親である佳織や、パートナーの陽人からも一度も染めたりパーマをかけたことのないとお墨付きの黒髪だ。

「……昨日ね……、健ちゃんの夢を見たよ……。迎えに来てくれたみたいなんだぁ……」

「そんなこと言わないでください……。わた…し……、まだ…お礼言えてない!」

「陽人さんと幸せになってくれた。あれで十分。それは花菜ちゃんもちぃちゃんも一緒。わたしは幸せでいっぱいだったんだよ」

 二人の子どもたちも孫を連れてよく顔を見せに来てくれた。それで十分だったよ。

「結花ちゃん、ちょっといい?」

 茜音は自分の片方の三つ編みに結ばれているリボンを外し、結花の髪をひとすくいして、ヘアピンと共に結びつけた。

「茜音…さ…ん…」

「結花ちゃんは……、知っているよね。わたしの名前の由来……」

 茜音の名前は、両親が祈る思いで彼女を身籠り、初めてその両腕で抱き上げた日、三人で病室から見た空が綺麗な茜色をしていたところに由縁があると。

「結花ちゃんも、佳織が『人生の花束をつくれる素敵な女の子になれるように』ってつけたの。そして結花ちゃんはもう名前どおりの女の子になってる。それを見届けられたわたしは、本当に幸せ者だよ」

 苗字は三回変わったけど、両親から最初の贈り物の名前は最後まで気に入って使えた。

「結花ちゃん、わたしは……、ずっと結花ちゃんも、花菜ちゃんもみんな……、健ちゃんと二人でお星さまになって見えてるの。……いつでも『また明日』って会えるのだから。わたしはリボンの片方を持っているし結花ちゃんも片方。わたしたちの目印。……だから寂しくないんだよ」

「はい……。茜音先生、突然失礼しました。ありがとうございました。『また明日』ですね」

「うん。『また明日』……だね。佳織と陽人さんが心配するよ。ちゃんとおうちに帰ってね」

「はい! お先に失礼します」

 精いっぱいの笑顔を作って、結花は部屋を出ていった。



「パパ、ママ……。お父さん、お母さん……。健ちゃん……。わたしも、……もう、おうちに帰ってもいいよね……」


 その夜、茜音は部屋のカーテンを閉めず、星空が見えるように頼んだ。


 確かに結花は最後に彼女らしくない反則をしたかもかもしれない。

 他にも声をかけたかった親友や教え子は何人もいる。

 でも、彼女にだけは自分の言葉で伝えたかった。

 出会った当時は、周囲の社会に怯える傷だらけの17歳の少女だった。原田結花と名簿に名前を書いたことを今でも覚えている。

 そんな彼女はまだ自信を持つことができなかった珠実園での松木茜音を育ててくれた最初の教え子なのだから。

「ごめんね……結花ちゃん……。ずっと……ありがとう……」

 頭のいい彼女だ。さっきの会話の意図だって理解しているはず。

 ただ、結花が運悪く自分の最期の瞬間に立ち会ってしまったら、父の葬儀のように泣き崩れてしまうであろう彼女を支えられる人がこの場にいない。

 その知らせが伝わる前に佳織や陽人がいる安全なところに帰した方がいい。

 それでも最後に顔を見せてくれて嬉しかった。


 だから……、彼女の罰は自分が受ければいいんだ。





 気がつけば、体はあの10年の約束を守るために各地を駆け巡った高校生に戻っている。

 そして、懐かしい家の扉を開けると、待っていたのは、佐々木の両親、片岡の両親、そして健の五人。みんな思い思いの年だけど、茜音を育ててくれた大好きな人たちだ。

「おかえり」

「待ってたよ」

「さあ茜音、お食事できてるわよ。主役が揃うまで何年も待ってたんだから」


 やり残したことがないわけではない。でも、もう時間も力も残っていない。こんな人生でもよく頑張ったよね……わたし……。


 もう、ゴールしてもいい。大好きな人たちの腕の中に飛び込みたい……。


 もう一度振り返って外を見る。



「うん、楽しかったよ……」



 そう呟いて玄関のドアを閉め、靴を脱いで上がる。



「みんな、ただいまぁっ!」



 茜音は涙を拭って、笑顔で五人の輪に飛び込んだ。