茜音(あかね)先生、お疲れさまです。少し休憩された方がよくありません? 冷たい麦茶用意してきました」

結花(ゆか)先生……。ありがとう。せっかくなのでいただきまぁす」

 お盆の上からグラスを受け取って、ソファに腰を下ろす。

 児童福祉施設・珠実園(たまみえん)は、この年に大きな節目を迎える。

 黎明期の珠実園を作り上げた前園長はそれまでの私設の児童福祉施設を市の公的施設として格上げをした上で、松木健と茜音のふたりに代替わりをさせた。

 それから二十数年の時代が流れ、建物の老朽化による建て替え計画を打診されたとき、園長の健は温めていた大胆な案を提案した。

 これまで珠実園で中心になってきた児童保護施設という部分を大幅に縮小。同時にこの園を中心としたネットワークを構築することで、保護が必要な子の特性に合わせた場所にお願いをする頭脳的な役割に特化させることだけでなく、子育て支援に関する窓口や設備を集約させ、食堂や図書室、療育や遊戯室を備えた支援センターへの転換だった。

 入所中の子は卒園までを約束すること。また新しい施設の規模を小さくする出来ることから、建て替え予算は圧縮できる。

 建物は小さくなる分、中身には拘った。

 それぞれの担当からヒアリングを重ね、必要だと思われる設備などに予算を回すことにした。

 単なる費用圧縮ではないことに渋る市側の担当者もいた。

「常勤の夜勤者を置く必要がありませんから、ランニングコストを考えた総合的な事業予算で見て下さい」

 健は市との交渉を終えると、次の世代へのバトンタッチの準備を始めていた。

 副園長である茜音は同い年だから、リタイアする時期が同じ彼女を昇格させるわけではない。


 すでに茜音は自分の後任を指名してあったから。

「副園長……」

「今はもう誰もいないから、昔の呼び方で行こうよ。ねぇ結花ちゃん?」

 日勤の職員は既に帰宅し、職員室にいるのは二人だけ。

「そうですか……。でも、本当に茜音先生の後継が私でいいんですか?」

 そう、茜音が自らの後継者として選んだのは、心身ともに傷だらけになって自分の元にやってきた親友・原田佳織(かおり)の一人娘、結花だった。

 自らの病気の治療だけでなく、対人恐怖症からのリハビリも必要だった。一番難解だと思われていたのが、彼女が想いを寄せていたのが担任の教師だった点だ。

 彼女は高校生の身分を捨て、心身の回復を優先した。一般的には結花は中卒となる。しかし翌年に高校卒業認定試験を突破し、履歴書上では高卒を手に入れて挽回。それで進学するのかと思えば、今度は風が吹けば切れてしまいそうな細い糸で辛うじて繋がっていた元担任、小島陽人(はると)との恋愛成就を成し遂げて小島結花となる道を選んだ。

 その後も独学で各種の資格を取得し、珠実園に正式な職員として迎える頃には、児童福祉分野で彼女の名前を知らない者はいないという存在にまでなっていた。

 そんな結花の成長を茜音は見続けてきた。

「健ちゃんにも、昔から言ってあったよ。わたしの後任は結花ちゃんだって。そうだなぁ、花菜(かな)ちゃんを復活させてくれた頃からね」

「そんな前から……」

「うん。結花ちゃんも花菜ちゃんも状況としては一番厳しかったよ。それでも結花ちゃんは自分で立ち上がった。花菜ちゃんの時は他の先生たちも躊躇してたくらい。そんな花菜ちゃんの担当を志願して全ての問題を解決まで導いた結花ちゃんだから。後継選びは贅沢な悩みだったよぉ」

 子育て支援員が本職の結花が生活指導員として担当した子は少ない。その最初の一人である松本花菜は、結花と同じように幼なじみであった青年教師、長谷川啓太先生との恋愛に悩み、一人親だった母親まで全てを失った状態で入園した。

 教師と生徒の恋愛。世間一般ではタブー視されがちな関係を認め寄り添えるのは、数々の難しい子たちを担当してきた珠実園のベテラン支援員の布陣でも、自ら経験した結花にしか出来ないこと。

 そして見事に全ての条件をクリアさせ最終的に長谷川花菜として社会復帰させた。

 花菜は調理師・栄養士の勉強を続け、摂食障害の子だけでなく食物アレルギーの子たちの食事も彼女に相談すれば解決できる。今や珠実園の内外で食事を預かる総責任者だ。

 そんな花菜を公私を通じて育て上げたのが結花だったから。

「結花ちゃんの実績と経験があれば、わたしの後任には十分ってあの当時から分かってたから」

 茜音はそう笑ってグラスをテーブルに戻し、氷がコロンと涼しげな音を奏でた。