「アンジェリーナ。お前はいつまで殿下の懇意を受け取らなんだ」

 眉を顰めるお父様は、最近そればかりを口にする。
 私が、幼少時よりも目に見えて()()()を避けているからだ。

 あの人――エルネスト・ディ・アストレイ。アストレイ王国国王の嫡子、そして第一位の王位継承権を持つ人。
 私の家は代々、宰相位を世襲するファリノス公爵家。エルネスト殿下と婚約関係を結んだのは、齢3歳のころだったという。

 誰にでも社交的なエルネスト殿下とは違い、私はかなり閉鎖的な性格をしていた。
 登城しても書庫に閉じこもって本を読み漁り、殿下がいようといまいと態度は変わらない、実に可愛げのない婚約者だったと思う。
 そんな私にも、幼い頃のエルネスト殿下はお優しかった。

『なにを読んでいるの?』
『なんだって良いでしょう』
『つれないなぁ。僕はアンジーのことが知りたいんだ。どんな本を読んでいるのか、教えてくれてもいいじゃないか』
『……』
『また無言だ。きみは返答に困ると、いっつも口を閉じちゃうね。あはは、かわいい。そうだ、かわいい君にぴったりの絵本があるんだよ』
『私は絵本なんてもう卒業しました!』
『まあまあ、たまに読むと楽しいよ。呪いで化け物に変えられたお姫様が、王子の口づけで救われる話。絵本だけど、とても心が温まる優しい物語で、僕が一番好きな本。知っている?』
『……知らないです、そんな幼児向け絵本』

 勝手にアンジーと愛称を決め、勝手に呼びはじめた調子の良いエルネスト殿下。
 不敬と捉えられてもおかしくない私の言動に、いつも楽しげにしていた。

『アンジー、アンジー。今日はなにをしようか。天気がいいから、庭園を散歩するのもいいね』
『私は室内にいますから、どうぞ殿下は外に出ていらしてください』
『よし、それじゃあ行こうアンジー。僕のポニーも見せてあげる。ちょっとお転婆な子だけど、真っ白で瞳が優しい薔薇色で、アンジーとそっくりなんだよ』
『じゃじゃ馬と言いたいんですか』
『ちがうちがう。アンジーの髪と瞳にそっくりってこと。あはは、でもうまいこと言うね!』

 エルネスト殿下はいつも、私のそばにやって来る。
 やわらかな陽射しのような微笑みと、優しい立ち振る舞い、穏やかな空気感。
 そんな彼に、誰もが好意を抱いた。
 王室教師からの評判も良く、いずれ彼がこの国を背負っていく輝かしい未来を待ち望んでいた。

『アンジー』
『なに、エル』
『ううん。ただ、呼んだだけだよ』

 皆から好かれ慕われる、エルネスト殿下。
 私は彼の、婚約者。


 ***


「アンジー。また本を読んでいるのかい?」
「……私がどうしようと、殿下には関係ないでしょう」
「そんなこと言われると悲しいな。君は僕の婚約者なのに」

 長机に手のひらを置いて、私の顔をそっと覗き込むエルネスト殿下。
 寂しげな声を出されるたびに、苛立ちが募っていく。

「君はいつも本ばかり読んでいるね。たまには僕と過ごしてくれてもいいのに」

 調子の良いセリフや私に対する態度は、十九歳を迎えても変わることはない。
 
「書庫は私語厳禁です。用がないのならば、退室願えますか」
「……。なら、いつも通り二時間後に迎えに来るよ」

 傷ついたような笑みを浮かべたあの人が、ようやく書庫から立ち去っていく。
 ぱたん、と静かに閉められた扉の音に、私は盛大なため息を吐いた。

「……エルネスト…………エル」

 いつかのように名前を呼ぶ。
 それでも、応えてくれる人は、ここにはいない。


 エルネスト殿下には、恋人がいる。
 貴族間ではかなり有名な話であり、誰もが黙認していることだった。
 何せ、肝心の婚約者はエルネスト殿下に対してあまりにも淡白なため、殿下が別の女性に目移りしても仕方がないという空気が作られているからである。

 エルネスト殿下の恋人と言われているのが、ボルダー子爵家の息女リーリア様だ。
 殿方ならば庇護欲をそそられる愛らしい容姿の彼女は、エルネスト殿下の心を癒す存在だと囁かれている。

 幼少期から変わることのない私のエルネスト殿下への態度に、周囲の人間は呆れていた。
 それでも宰相家の人間である私は、珍しくもない政略でエルネスト殿下と婚姻を結ぶことを決められているのだ。
 私がどんなに足掻こうが、その事実は変わらない。

「は〜い、わがままお姫様。また殿下を追い出したのか?」
「兄様……ここは私語厳禁なんですけど」
「なに、俺とお前しかいないんだ。少しぐらい許されるだろう」
「……」

 あの人が書庫を出て行って早々に、兄のレオンがやって来た。
 どこか軽薄に感じられる雰囲気は、兄の性格をそのまま表したといってもいい。
 
「いい加減、素直になったらどうなんだ。さすがに殿下が不憫すぎる」
「兄様まで、あの人に何か吹き込まれたの? 私との仲を取り持ってくれとでも?」
「あの人って……婚約者に対して随分な言い草だなぁ」

 呆れ果てた兄の表情から逃れるように、私はそっぽを向く。
 もう何度となくこのやり取りは繰り返している。それでも兄が引かないのは、相手が王子殿下だからだ。

「……なら、ここからは少し真剣な話をしよう、アンジェリーナ。お前がそのままの態度を貫くとなると、お前は飾りの王后……実質、()になるかもしれないんだ」

 この国において、王の正妻は后、それ以外の妃は公妾に位置づけられる。
 このままエルネスト殿下が王太子となられた場合、私は王太子后となり、王后となるのかもしれない。
 ただ、今の状態では形だけの『后』であり、エルネスト殿下の寵愛も、后としての実権も『妃』に奪い取られる可能性があると、兄は言っているのだ。

 王妃になるかもしれない方……言わずもがなリーリア様だ。
 子爵家の人間が王家に嫁ぐかもしれない。そんな憶測が流れ出したのは、エルネスト殿下がリーリア様と親しくするようになってからだ。
 代々、王党派に属するファリノス公爵家からしてみれば耳が痛い話である。
 リーリア様のご実家であるボルダー子爵家は、数多くの貴族からの支援を受けて成り上がった貴族派。
 このままリーリア様がエルネスト殿下と親しくなり、王家に名を残すことになれば、貴族間の均衡が揺るぎかねない。
 王党派の貴族も、お父様も兄様も、それを危惧しているのだ。

「……いっそ、婚約を破棄してくれたほうがありがたいわ」
「冗談が過ぎる、アンジェリーナ」

 兄の鋭い視線が注がれるが、私は反抗するように開いていた本を乱暴に閉じた。

「冗談だと言いたいのは私のほうだわ、兄様。こんな状況、私だって嘆きたい」
「……はぁ、いつまで子どものままでいるつもりなんだよ。これまでの言動を振り返れば、お前に原因があるのは分かりきったことだろう?」
「……っ、兄様には、私がただ、癇癪を起こしたように見えるのね。今の私は、自分のおこないが招いた結果、立場を脅かされ怯えている憐れな人間にでも見えるの?」
「ちょ、急に立ち上がってどうしたんだよ。少し落ち着いて――」
「私語厳禁だと、言っているでしょう! 兄様が話を続けるというのなら、私が出ていくまでよ」

 椅子から立ち上がった私の後ろを、兄が慌ててついて歩く。

「おいおい、今日は一段と機嫌が悪いじゃないか。何があったんだよ」
「それは、白々しいあの人の顔を見たからじゃない?」
「だからお前は、また殿下をそんなふうに。子どもの頃から何一つ変わらないじゃないか」
「……変わったのは、あっちだというのに」
「え? 今なんて?」
「なんでもない。それとお兄様、ここには私とお兄様だけしかいないと言っていたけれど、司書様がいることを忘れないでくれる?」

 こつこつと足音を鳴らし、司書のいるカウンターまでやって来る。

「……っ!? な、そ、そっか〜……司書さんが、いたんだ〜」

 兄が司書に顔を向けた瞬間、分かりやすく言葉を失っていた。
 はじめて見た人は、同じような反応をする。

 この書庫を管理する司書は、顔面の右半分が火傷跡で爛れ、原型を一切とどめていない。
 あまりにも酷い跡のため、左側も皮膚が巻き込まれたように不自然な張りをしている。
 その顔を隠すように頭に覆われた黒い被りが、より不気味な印象を放っていた。

「お願いします」
「……」

 読み終わった本に司書に手渡すと、無言に終わる。彼が、口を利くことすらできない人だからだ。


 書庫を出ると、兄が盛大なため息を吐いて尋ねてくる。

「……あの司書、いつからいるか覚えてるか?」
「二年前からよ。その頃からずっと、書庫の管理をしているの」
「へぇ、そうだったんだ。全然気づかなかったよ……それにしても、かなり酷い火傷の跡だったな。自分がああなったらと思うと、恐ろしい……」
「兄様、人の顔をとやかく言わないで。どんな感想を抱くかは勝手だけど、それを誰がいるかも分からない場所で口にするのはやめて」
「……っ、それもそうだ。兄様が悪かったよ、ごめん」

 私は軽く首を振って、廊下を歩き出した。
 二時間後に迎えに来ると言っていたが、忘れたフリをして帰るとしよう。

 司書の火傷跡なんて、怖くもなんともない。
 
 ――私にとって恐ろしいのは、底が知れないのは、エルネスト(あの人)だけだ。


 ***


 どんなに私が冷めた対応をしていようと、エルネスト殿下は婚約の破棄をする気がないらしい。
 けれど一方で、リーリア様とは順調に親交を深めていると耳にした。


 この日も、私は書庫にいる。

「司書様、お聞きしてもよろしいですか」
「……」
「人を呪う黒魔術の類の本は、置いていますか」
「……、……」

 司書は困ったように肩を竦めた。
 突然、人を呪う黒魔術と言われれば、こうなるのも無理はない。

「お前ってやつは……殿下を呪い殺しでもする気かよ!」
「あら、兄様。また懲りずに来たの?」
「そりゃあ来るさ。この間、殿下がお前を迎えに行くと言っていたそうじゃないか。それなのにアンジェリーナ……お前は何食わぬ顔で俺と屋敷まで帰って!」
「まあ、兄様もご存知かと思ったのに」
「そんなわけないでしょ普通さぁ……知ってたら一緒に帰ったりするもんか」
「それで司書様、人を呪うまでいかなくても、それと似たようなまじないの本などはありませんか」
「アンジェリーナ! まじないや呪いなんて、おとぎ話にしか出てこない空想上のものだろう。なにを真剣になってるんだよ。まさか、本当に殿下に……?」

 うるさい兄を横目に司書を見つめるが、心当たりはないのか動きがない。
 それでも懸命に考えてくれているのか、思い立ったようにパタパタとある本棚へと向かった。

 すぐに戻ってきた司書は、私に一冊の本を差し出してくる。

「……これ、どうして……」

 私はすぐに受け取ることができず、ただ凝視するしかなかった。

「ん〜? なになに"呪われた化け物と王子様"? あれ、これってたしかアンジェリーナの部屋に……」
「なぜ、これを選んだのですか?」

 後ろから覗き込んできた兄の声を遮ってしまうくらいには、動揺していたのだと思う。
 まさか司書から、この絵本を渡されるとは思ってもいなかったから。

「……? ……、…………」

 司書はなにかを伝えようとしていたけれど、声を出すことができない。
 それを申し訳なく思ったのか、一度カウンターの中に引っ込むと、紙とペンを握って出てきた。
 さらさらとペンの走る音が聞こえ、司書は遠慮ぎみに紙を私に見せてくる。

"呪われて化け物に変えられたお姫様が、王子様の口づけで救われるというお話の絵本です。呪いと仰ったので、こちらをお持ちしました"
"とても心が温まる優しい物語で、僕が一番好きな本です"

 ほっこりとした空気が伝わってくる。
 人を呪う類の本を探していると言ったのに、出てきたのは司書がお気に入りだという童話の絵本。
 声が出せず、ただ私は司書の顔をじっと見据えた。

「――……っ」

 なぜだろう。
 今、彼の顔が……ほんの一瞬だけ、

「――ああ、アンジー。今日もここにいたんだね」

 ぞわりと悪寒が背筋を駆け上がり、司書から目が逸れる。
 書庫の扉には、エルネスト殿下が立っていた。

「……」
「アンジー、どうかしたのかい?」

 口を閉ざした私に、彼が心配そうに語りかける。
 私はただ、平静を装うので必死だった。

「……? ……、…………」

 エルネスト殿下が姿を現すと、司書は空気を読んでカウンターの奥にある司書室へと姿を消してしまった。
 気づけば、私の手には絵本が握られている。

「ん? ……その本は」

 エルネスト殿下がこちらに近づいてくるのも気にせず、絵本の表紙を眺めていると、彼が疑問を口にした。

「君にしては珍しいね、絵本だなんて……あまり似合わない気もするけど」
「……ええ、本当ですね。こんな、子供騙しの物語。エルネスト殿下も、ご存知ないでしょう?」

 私が唇をゆったり笑わせれば、彼は目を見開いてきょとんとした。
 いつもの私を考えれば、この些細な歩みは珍しいのだろう。

「……あ、ああ、そうだね。僕も、知らなかったよ」
「私もです。このような物語を好むのは、幼い子どもが多いでしょうしね」

 後ろにいた兄は、私の発言に奇妙な目を向けていたが、ありがたいことに口に出すことはしなかった。

「そうだ、今日は君に大切な話があるんだよ」
「……なんでしょうか?」

 すると彼は、瞳を三日月に細めて、嬉しそうに言った。

「――僕と君の、婚姻式の日取りの話さ」


 ***


 こんな話があるだろうか。
 二年前から、国王陛下は体調を崩され寝台から離れられなくなってしまった。
 そして医者の診断によれば、もう長くはないらしい。

 そのために急遽、私はエルネスト殿下と婚姻式を執りおこなうことになった。
 もっと他に、陛下がご存命の間に処理しなければならない事柄は沢山あるはずだ。
 だというのに婚姻式をこうも早くおこなうのは、長年、私とエルネスト殿下を見守ってきた陛下たっての願いだからだった。

 目まぐるしく準備が整われ、婚姻式当日を迎えた。
 どんなにエルネスト殿下を拒否していた私でも、婚約や婚姻式の決定を覆せるほどの発言力はない。
 強引すぎる時の流れに、抵抗も虚しく身を引きずられていくことしかできないのだ。

 婚姻式は、見事なまでの満月の夜だった。
 この国では、夜に式をおこなうのも珍しくはない。
 満月の強い光と、備え付けられた多くの灯火が揺れる光景は、夜にしかない美しい世界を作り出してくれる。
 そんな夜間の婚姻式を希望したのは、他でもないエルネスト殿下だった。
 
 礼拝堂には、多くの参列者が並んでいる。
 私とエルネスト殿下は、祭壇前に立ち牧師と向き合っていた。

「――エルネスト・ディ・アストレイ、妻となるアンジェリーナ・ファリノスに、誓いを捧げよ」
「はい。アンジー、手を」

 婚姻式は、夫となる者が、妻となる者の手の甲に口づけを落としてすべてが成される。
 私の手袋をそっと外したエルネスト殿下は、その唇を手の甲に近づけようと頭を軽く下げた。

 満月の光が、祭壇の後ろにあるステンドグラスから、眩しいくらいに注がれる。
 婚姻式の最後を飾る神秘的な光景を前に、参列者からはほうっとため息がこぼれ、

「――っ!」

 手に口づけをされそうになった瞬間、私は素早い動きで彼の手首を叩き落としていた。

「くっ……アンジー、君はいったいなにを」
「……あなたとは婚姻を結ぶことができません。だってあなたは、エルではないのだから」
「な、にを……言って」

 顔を青くさせ、驚愕に染めあげられたエルネスト殿下――いや、エルを偽る誰かが、動揺の声をこぼす。
 周囲の人々は何を言っているのか理解できていないようだが、気を配っている時間はなかった。

 この誓いは、成立させてはいけない。
 満月の夜、婚姻式……私にとっては聞き覚えのある状況だった。

「アンジェリーナ!! お前はなにをしでかしているのか分かっているのか!?」

 参列席に座っていたお父様が、血相を変えてやって来る。
 その威圧は凄まじいものだったけれど、私には今すぐにでもやらなければならないことがあった。

「私がこの先、誓いを、愛を捧ぐのは――この人です」
「……!?」

 礼拝堂の隅っこに、彼はいた。
 火傷跡が痛々しく残る顔は、驚きに満ち溢れている。
 それもそうだ。今の彼はきっと、なにも知らないのだから。

「司書様――ううん、エル」
 
 私の愛する婚約者。
 本物のエルは、こんなところにいた。



 ある時から、奇妙な違和感があった。
 それは、エルネスト・ディ・アストレイが、別人に見えるようになったこと。

 別人といっても、姿はエルのままである。
 けれど、彼を見ればすぐに心の奥底で拒否反応が起こった。

 あなたは、エルなんかじゃない。心がずっと、必死に訴えている。
 吐きそうな嫌悪感までもが込み上げるようになりはじめ、いつからか私はエルを遠ざけた。
 
 まさか自分は、病にでもかかったのかと不安になった。
 あれほど共にいたエルのことを、エルの皮を被った化け物に見えるようになるなんて。

『兄様、あの人は……エルネスト殿下ではない気がするの』

 ある時、意を決して兄に言ったことがある。
 はじめ兄は驚いた顔を見せ、なぜそう思ったのか尋ねてきた。
 けれど、ほんの少しだけ時間が経つと――

『……あれ、今何の話をしていたっけ?』

 その記憶は、ぽっかりと兄の頭から消え去っていた。
 まるでおかしな力が働いているかのように、私がエルネスト殿下の不自然さについて話した内容だけが、綺麗に無くなっていたのだ。
 次の日も、次の日も、それは同じだった。
 いくら私があの人について言及しても、数秒くらい経つと切り替えたように、話した記憶自体がなかったことにされていた。
 兄様だけではない。お父様も、お母様も、誰に試してみても同じような反応になってしまっていたのだ。

 何が起こっているのか分からなかったが、何かがおかしくなっているのだと察するのに時間は必要なかった。
 そして同時に、あの人を絶対に受け入れてはいけないという思いだけが日に日に強くなっていった。

 照れくさくて、エルと呼ぶのは彼の前だけだった。
 今さら恥ずかしくて、笑いかけることも他の人がいる前ではできなかった。
 それでも私は、幼い頃から少しずつ、たしかに、エルを好きになっていた。

 私の面倒な心境の変化なんて、誰も知らないだろう。
 だからこそ、家族も他人も私の態度を「いつもと同じ」と片付け、呆れを滲ませた。
 
 彼から婚姻式の日取りを告げられたとき、二年間拒み続けていた違和感が、確信に変わった気がした。
 幼い頃の記憶も、話し方も、立ち居振る舞いも、まさにエルネストであった彼の、大きな違い。

 あの絵本は、彼が私に勧めてくれたものだった。
 そして贈ってくれたのも彼である。
 いつかのエルは、こう言っていた。

『もしも、他に誰か好きな人ができて、僕との婚約が障害になってしまうのなら、その時は婚約を破棄しよう。大丈夫、父上は僕が説得するし、誰にも文句は言わせないように準備だってするよ』

 だからもし、自分から離れたくなったら、

『この絵本を、僕に返して。それを、アンジーが自由になる合図にしよう』

 子どもながらの約束だった。
 それでもエルは、私と会うときいつも手元を確認して、それがないと分かると心底ほっとしていた。

 私は、あの絵本を今でも大切に持っている。
 おそらくそれは、この先ずっと永遠に。


 呪われた化け物と王子様という絵本は、真実の愛の口づけで、姫の呪いを解くという都合の良い結末を迎える。
 たった二度、森の中で出会ったというだけなのに、姫と王子は互いに惹かれ、口づけで呪いが解けるのだ。

 それを現実に実践したところで意味は無い。
 頭ではそう思っているのに、身体は勝手に動いていた。

「私の知るエルネストは、この人です」
「……お前は一体、なにを言っているのだ? その者が殿下だと?」
「アンジェリーナ、その人は司書さんだろう? だいたいどうして司書さんが、ここにいるんだよ」 

 兄が戸惑いながら、司書に目を向ける。
 司書は不安そうな顔をしていたが、ちらりと視線を、私が誓いを拒んだその人に移した。

「答えてください。あなたが連れてきたのでしょう? なぜ、司書である彼を、婚姻式の場に連れてくる必要があったのですか?」
「そ、それは……」

 エルの顔をした誰かが、あきらかに動揺の色を見せた。
 しかし、何も答えようとはしない。

「……この婚姻式は、エルネストとのものなのですよね。でしたら、誓いを捧げる相手は、この人です」

 見た目はまるっきり違っているのに、私は司書が、エルに見えて仕方がなかった。
 私は周囲の制止を振り切って、その火傷跡の顔に手を添える。
 各方向から悲鳴があがるのも気にせず、私はそのまま彼の上唇に口づけをした。
 

「……アン、ジー…………?」

 唇を離した時、目と鼻の先にあったのは、私が愛する人の顔だった。

「やっぱり……あなたが、エルだったのね」

 なぜだか、涙が込み上げてくる。
 金の髪が揺れ、エメラルドのように美しい瞳が、私を強く映し出していた。
 

 ***


 その後、婚姻衣装に身を包むエルを偽った火傷跡の男を、衛兵らが囲み拘束し、事の顛末が明るみになった。

 火傷跡の男の正体は、ボルダー子爵家の嫡子スコット様だった。
 つまり、偽エルネストと恋人関係だと噂されていたリーリア様の実兄だったのだ。

 そしてボルダー子爵と嫡子のスコット様、リーリア様は、とんでもない計画を企てていた。
 信じ難い話だけれど、スコット様は呪いのまじないによってエルの姿を乗っ取り、その記憶すらも奪い取ったというのだ。
 偽者のエルとなったスコット様は、不自然にならないように注意を払いながら、エルの姿でリーリア様と接触し、周囲にあたかも親しいような間柄を見せつけた。
 その後、婚約者である私と婚姻を結び、リーリア様は妃として王家に招き、頃合を見て離別する算段だったのだ。
 結納金、結納品、また離別の際に発生する王家からの示談金こそが、ボルダー子爵とリーリア様の目的だった。
 幼い頃に負った火傷跡のせいで何もかもうまくいかないと嘆いていたスコット様は、エルに成り代わることで新たな人生の幕を開けるつもりだったらしい。冗談じゃないわ。


「――ところが、アンジーにだけはその呪いのまじないが効いていなかった。だから僕は、こうして元の姿に戻れたというわけだね」

 王城内にある応接室には、私とエル、そして兄のレオンが腰を下ろしている。
 隣に座るエルは、まるで人ごとのように言ってのけた。

「いやいや〜、笑いごとじゃないですって殿下。まさか呪いの類いが実在してたなんて……アンジェリーナが正気じゃなきゃ、色々と終わってましたよ」

 兄は肩を竦めているが、エルはいつものように穏やかな笑みを浮かべる。
 ああ、この顔。なんだか久しぶりな気がして、胸に温かな温度が灯った。

 スコット様の姿に変えられ、司書としていたときの記憶がエルにはある。
 とはいえ、まじないが解けるまでは自分が王子だったことも、ましてやエルネストとして育った記憶はすべてスコット様に奪われていたため、あの偽りの姿をしていたときは、なんの疑問も感じていなかったのだとか。

 すべてが乗っ取られていたはずだった。だけど、一つだけ奪われていない記憶があった。
 それが、絵本の記憶である。
 どういうわけか、その記憶だけは姿が変わってからもずっとエルの中にあり、私にあの日絵本を差し出したのだ。

「なんでだろうね。これだけは譲るものかって、無意識にあらがっていたのかな」

 エルは冗談交じりにそんなことを言っていた。いくら済んだこととはいえ、愉快そうに話すのは不謹慎すぎない?
 ……と、思うものの、エルの性格を考えれば、そんなことをいちいち気にしているのも馬鹿らしい。

 まるでおとぎ話のようでいて、本当に起こった呪いのまじないによる出来事。
 王子であるエルに危害を加え、あろうことか陛下にも呪いのまじないをかけていたという始末。二年前から陛下が床に伏せるようになったのも、これが原因だったのだ。
 諸々の件の企みにより、ボルダー子爵、並びにリーリア様とスコット様は捕縛され、極刑が下るとのことだった。
 また、発端となった『呪いのまじない』の書は、国総出で残らず探し出し、二度とこのようなことが起こらないように、すべて燃やし尽くしたのだった。


「本当に、君がいなかったら僕は一生あのままだったに違いない。ありがとう、アンジー」
「……もう、何度も聞いたわ。そんなにお礼ばかり言われても、何も出ないわよ」
「君は相変わらずだね」

 エルが慣れた手つきで、私の頬にかかる横髪を流した。顔が近い。とても近い。

「……えーと、二人って、そんな感じでしたっけ?」

 兄が難しい顔をして尋ねてくる。
 すると、エルはくすくすと笑って答えた。

「ここまでくるのに十年以上かかったんだ。アンジーは照れ屋さんだし、すぐ猫のように威嚇するから、周りからは不仲なんじゃないかと言われることもあったけど」
「……!!」
「そんなことないって、理解してくれた?」

 肩を抱かれ、頭に生温かな吐息が触れる。その正体がエルの口づけだと分かり、顔が火照っていくのを感じた。

「……はぁー、なるほど。俺が心配する必要なかったってことかぁ」
「エル……エルネスト殿下! そういうことを、兄様の前でなさらないでください!!」
「そういうことって?」
「だ、だから! 頭に、く、口づけしたり、とか!」
「だけどアンジーは、ここにしてくれたよね。しかも、大勢の人の前で」

 とん、と人差し指を唇に添えたエルの姿に、さらに頬が熱くなった。

「あ……あれは、緊急事態だったし、呪いを解くためのことで……!」

 そう、呪いのまじないを解くきっかけになったのが、エルとの口づけだった。
 絵本の中にもあった、王子と化け物になった姫の口づけ。
 私があの場でそれを実行したのは、本当に体が勝手に動いたからだとしか言えない。
 エルの偽者から手のひらに誓いの口づけをされるぐらいなら、この人に私からしてやると躍起になっていたのだ。
 それが功を奏して、まじないが解かれたのである。

 なんでも、エルとスコット様の入れ替わりは完璧ではなかったらしい。
 本当のエルに成り代わるためには、あの婚姻式の晩に、満月の光の下で二人が至近距離にいなければならなかった。
 だから司書という立場にも関わらず、スコット様が礼拝堂の隅にエルを連れてきていたのだ。

 なぜ婚姻式の場でそれが必要だったのか。それについての正確な詳細は、まだ謎に包まれたままだった。

 けれど……満月の夜の婚姻式という場面には、少なからず心当たりがある。
 絵本の中の一場面。それは化け物に変えた姫と成り代わるため、魔女が最後の儀式として用意した場に、そっくりだったということ。
 終わったこととはいえ偶然だと思えなくて、私はふと振り返ったときに奇妙な関連性を疑ってしまっていた。


「……まあ、この話はここまでにしよう。これ以上アンジーをからかい過ぎると書庫にこもってしまうことは知っているし」

 顔を真っ赤にした私を見て、エルが愛おしそうに瞳を細める。
 もう、分かってる。
 彼の視線は、私を大切だと一心に伝えてくるから、嫌でもエルが私をどう思っているのか分かってしまう。
 それが、あの頃はくすぐったくて、照れくさくて、自分の中に生まれる初めての感情に戸惑って、エルに素直になれずにいた。
 それが周囲の人々に不仲だと噂される要因になってしまったけれど、本当はもういい加減、素直になりたい。

「……そうだ、アンジー。今日は君にとても大切な話があるんだ」
「……なに?」
「僕と君の、婚姻の話だよ」
「……!?」

 仕切り直しだよと、そう言ったエルの手には、小さな箱が握られていた。
 開けると中には宝石がはめ込まれた指輪があり、私の瞳と全く同じ色をしている。

「これは、婚約指輪なんだ。婚姻指輪はべつにあるんだけどね」

 指輪……そんな習慣は、この国にはない。
 だけど婚約指輪や、婚姻指輪の意味や違いなら分かる。これも絵本の中で、王子が姫に渡していたものだから。

「……実は、この指輪を注文するために街へ降りたとき、呪いのまじないをかけられてしまったようでね。受け取りがかなり遅くなったんだ」
「……はは、殿下、本当に笑いごとじゃないですって、それ」
「まあ、ようやく渡すことができてよかった。……それにしても、アンジーの婚姻衣装は僕も選ぶ予定だったというのに。どこかの馬の骨が選んだものに袖を通していただとか……ああ、腹立たしいな」
「だいぶ本音が漏れてますねー殿下」

 エルの発言にすら反応できずに、私は輝く薔薇色の宝石を見つめていた。
 そして……婚姻指輪の宝石が、彼の綺麗な瞳と同じ色だと知るのに、時間はかからなかった。


 ***


 ――リーン、ゴーンと、鐘の音がこだまする。
 どこかの街で、結婚式が開かれていた。

 幸せそうに笑い合う花嫁と花婿は、互いに指輪を嵌め合って、最後に誓いの口づけを交わす。

 この文化を浸透させたのは、何百年も前の時代に生きた、男女だったという。

 ひとりは一国の王子であり、ひとりは一国の宰相の娘だった。
 呪いにかけられた王子を、娘は真実の愛の口づけで助け出したというのは、その時代ではかなり有名な話だった。
 二人は無事に結ばれて、多くの祝福を受けた婚姻式の場では、大胆に唇を合わせたそうだ。

 それが嘘か誠か、今を生きる人々には突き止めようもない。
 けれど本当に実在したかもしれない二人のように、『口づけ』は真実の愛を確かめ合うための、大切な儀となった。