少し離れた場所に、自分の姿が見える。川の堤防にある、下水が流れるところに倒れていた。腕の方向が変な向きになっている。ひどい体勢だ。

 僅かに動いた気がして、もっと近くで見ようとしたが、身体が吹き上がるように地面から離れて行く。耳がいっさい聞こえない。声も出ない。視界だけが鮮明になり妙に明るい。

 ……どうしてたんだっけ。何があったのだろう。

 答えを見つける前に、ぼんやりと街の灯りが見えた。今は夜なんだと認識すると同時に、空を飛んでいることに気がついた。
 ゆっくりと、天に上る。

 遠くに飛行機が見えた。
 雲を超える。空気はひどく冷たいが、寒いとは思わなかった。見上げた先は真っ暗だ。

 ――このままだと、宇宙に行ってしまうんじゃないか。

 そんなことを考えた刹那、銀色に光る大きな『扉』が視界に入った。吸い込まれるように潜り抜け、雲の上に着地した。
 何回か足踏みをすると、雪の上のような感触があった。
 もう浮くことは出来ないようだ。
 不安定な状態が終わるとともに、頭が鈍く痛みだした。麻痺していた感覚が戻ってきたようだ。
「……痛てて……ここ、どこだ?」
 ようやく出てきた自分の声が、ひどく大きく感じた。周りを見ても誰もいない。
「えーと……あれ、オレ……何してたんだっけ?」
 今日がいつなのかも思い出せない。仕方なく人を探そうと歩きはじめると、前方から人の声が聞こえた。
「……だから、こんなはずじゃなかったんだ!」
 男性の声だ。
 誰かに向かって怒鳴っているようだが、白霧のなか、声の主の姿は見えない。
「だって、あいつが……あんな嘘を……なんて……俺は……」
 姿は見えないが、サラリーマンのような男性なのかな、と聖は思った。
「――あいつのせいで、俺は死んだんだ……」

 ……死んだ?

 不穏な言葉に驚いて見回すが、やはり人の姿はない。
 すると今度は違う方向から、女性の声が聞こえてきた。
「どうせ何をやっても……失敗するのよ……もう……何もしたくない……」
「あの時、ああしていれば……だったのに……」
「もう……こんな……私なんて……」
 声はどれも違う人間のものだ。時には「もう嫌ぁっ!」という絶叫まで聞こえてくる。みんな誰かと会話しているようだが、誰の姿も見えない。
 たくさんの声に囲まれて、それなのに誰もいない。ひどく孤独な感じがして、急ぎ足でこの場所から離れた。
 けれど、どこに進めばいいのか分からない。さっきまでは人のいるところを目指していたはずなのに、いつの間にか逃げようとしている。
「何だよここ、すげぇ空気悪いんだけど。天国じゃないのか?」
 勝手にそう思っていたが、違うのかもしれない。
「……ひょっとして、地獄とか……?」

 自分の言葉に不安になった。本当に地獄に来てしまったのだろうか。そこまで悪いことをした記憶はないが、自信がない。
「雲の上にあるのに、地獄だなんて……」
「地獄はこんなものじゃありませんよ」
「うわぁっ!」
 背後から声がして、驚いて振り返る。
 そこには少女がいた。
「こんにちは」
 まず目を引いたのは、目が覚めるような青い髪だった。頭上から柔らかな光の粉が落ちており、雪を散らしたように美しい。
「えっ……あ、こ、こんにちは」
 聖が緊張しながら挨拶を返すと、少女はにっこりと笑った。えらく可愛いひとだな。そう考えていると彼女は続けてこう言った。
「ここは天国に入る前の、受付となります」
「……うけつけ?」
「地上と天国の間です。幽明(ゆうめい)の境とも言いますね」

 天と地の間ということは、雲の隙間にでもあるのだろうか。それにしては空気が薄くない。聖が辺りを見回していると「わたしの名前はモルフォと申します」と会釈をした。外見は若いが、ずいぶんと大人びている。
「モル……?」
「蝶の名前です」
 彼女の手のひらには、いつの間にか一匹の蝶がいた。
 金属光沢を持つ青い羽を持った、綺麗な蝶が画面に映っていた。目の前の彼女は似たような髪の色をしている。
「あなたは事件に巻き込まれました。その件について、わたしが話をさせてもらいます」
 そう言葉を発すると共に、蝶の姿は消えた。
 魔法のようだ。怖い夢を見ていたのに、急にファンタジーの世界へと紛れ込んだように感じる。
「よろしくお願いします」
 頭を下げる彼女に、聖も「あっ、はい、お願いします」と慌ててそれに(なら)った。
「えっと……事件って、何ですか?」
「殺人事件です」
 言われて固唾を飲む。さきほど聞こえた男性の声も、同じようなことを言っていた。

 やはり自分は死んだのだ。ガッカリしたような納得したような気持ちになってうな垂れると、買ったばかりのブーツを履いている自分の足が見えた。
「覚えていませんか? ご自分が亡くなったときのことを」
「……はい。ぼーっとしてて、自分のことも良く分からなくて……確か、聖っていう名前だったと思うんですが」
 軽く頭を振ると、やはり鈍く痛む。
「そうですね。あなたのお名前は『早川聖』さんです。千葉県で一人暮らし。高校を卒業してからはフリーのアルバイターとして働いていました。とても仲の良い友人が一人、一週間前に飼い始めたペットが一匹。それがあなたの大事な存在です」
「……そう、ですか」
 言われてもピンとこない。
 それなのに胸が痛み、自分の胸元に手をやった。そのまま服を握り締める。死んでいても身体が痛むなんて、生きている時と大して変わらない。

「まだ不安定なんですね。落ち着くまで、そこで休憩していて下さい。資料を取ってきますので」
 モルフォが指した場所を見ると、自動販売機があった。紙コップが出てくるタイプだ。そばには備え付けのベンチもある。
「ああ、はい……分かりました」
 歩み寄るが、お金を投入する場所もカードをタッチする部分も無い。
 カフェオレを選び、ミルクは多めで砂糖は無しとボタンを押す。すると、コトンと軽い音を立てて紙コップが落ちてきた。どうやらお金はいらないらしい。
 飲み物が注がれる音に続いて、良い匂いがしてきた。
 ピーと音がしたので、紙コップを手に取ると温かい。その時はじめて、手がところどころ黒ずんでいることに気がついた。
「なんだよ。せっかくのクリスマスなのに遊びにも行けないな……」

 いや、もう行けないのか。死んだから。

 後から追いかけてくる思考に、再び胸が痛む。
 目を覚ますつもりでカフェオレを口に流し込むと、熱い。
 ほろ苦い。死んだという感覚が消失していく。
 そして突然、聖は大声を上げた。