「おっ、見ろよ恭介。雪だ。すげーな、ホワイトクリスマスじゃん」
イブの夜、早川聖は息を白くしながらそう声をかけた。
「どうりで寒いわけだな」
一緒に歩く、友人の志賀恭介は無表情のまま答える。
「他に感想ねーのかよ」
聖がそう言うと、恭介は顎を上げて「……感想?」と尋ねてきた。意味が分からない、といった表情だ。背が高く、厳しい顔をしている彼が眉根を寄せていると、大型の肉食獣のような迫力がある。
「キレーだなー、とか。そーゆーのだよ」
「そうだな。綺麗だ」
本当にそう思ってんのかよ、と言おうとしたが、恭介は街灯のあたりをじっと見ていた。オレンジ色の灯りのもと、ちらほらと舞う雪は美しい。
「情緒を感じる心があるみたいで安心したよ。あれ? 折りたたみ傘、忘れたな」
鞄の中を探ってから気がついた。恭介は「これくらいなら濡れないだろ」と、相変わらず無表情だ。
「お前も忘れたの?」
「ケーキ、どこかで買ってくか」
それには答えないで、前髪をかき上げながら尋ねてくる。髪を立てるのにヘアワックスを使っているから気になるのだろう。
「クリスマスイブに男二人でケーキかよ」
「悪いのか」
「いや、全然。駅前にケーキ屋があるから、そこで買っていこう。豪華なケーキの売れ残りとかあるといいな」
返事がないので恭介の顔を見ると、笑っていた。
夜の八時を過ぎ、人通りは少ない。しばらく歩くと橋が見えてきた。ゆっくりとなだらかな坂道を上る。
「猫は平気なのか?」
「うん。やっと留守番も慣れてきたよ」
一週間前に拾った子猫の話だ。今日、見せる約束をしている。
「楽しみだな。もう名前はつけたのか?」
「いやー、なぜだか全然思いつかなくて。そうだ、恭介がつけてくれよ」
「俺が? ……分かった、考えておく」
頼んだよ、と笑った直後、聖は後ろを振り返った。
理由などない。
ただ、振り返っただけだ。
人が立っている。街灯がスポットライトのようにその人物を浮かび上がらせていた。
手元が光っている。明かりを反射している。
刃物だ。
そう理解すると同時に、女が駆け出した。恭介に向かって。
「――危ない!」
恭介に体当たりをすると、彼はよろけて膝をつく。それを確認すると同時に、腹部に鋭い痛みが走った。耐え難い圧迫感に、恐怖でも驚きでもない、錆びついた感情が湧き上がる。自分の鼓動がうるさいくらいに大きく聞こえた。
目の前に女がいた。
真っ黒くて長い、ソバージュの髪。ベージュのロングコート。
刺した腹部を確認した後、女は聖の顔を見た。
「……二人とも、殺してやる。恭介君は、わたしのもの……」
声は震えていた。喜びにも似た表情を浮かべて。しかし続けて、僅かに目を見開きながら「……男……?」と呟いた。
「聖、どうしたんだ、急に」
驚いたような恭介の声がして、女がそっちを見た。目的が恭介なんだと目つきで分かった。だから出来るだけその女から遠ざけようと思って、聖は女に掴み掛った。腕を引っ張ると、女とは思えないような力で抵抗されて、橋の欄干に背中をぶつける。背骨が軋むように痛い。そのまま女は聖を橋から落とそうとした。
「ふざけんじゃないわよ、この変質者!」
女の甲高い声が、鼓膜の奥まで響く。変質者はお前だろうがこの通り魔、と頭の中で言い返したが、口に出た言葉は「恭介、逃げろ!」だった。
「聖っ!」
恭介が手を伸ばすと同時に、ふたりは、そのまま絡み合うように橋から落ちた。
一瞬のことだった。恭介の理解が一瞬だけ遅れたことが、聖を助けることに間に合わなかった。
上流で雨が降っていたせいか、水の流れはいつもより多かった。
落下する瞬間、恭介が自分を助けようとしていたことに気がつく。
しかしすぐに水面に身体を打ち付けられて、一気に身体が冷えていった。力が抜けていく。もがくこともできない。刺された場所だけが燃えるように熱い。
恭介の声がした。飛び込む音も。
――バカ、何でお前まで飛び込んで来るんだよ……!
恭介は水から顔を出しながら、聖の名前を叫んでいた。通行人が警察に通報したのか、しばらくするとパトカーのサイレンが聞こえた。
つめたい。意識が遠のく。濁流のなかでも、腹部から血が流れていくのが分かる。生命が失われていくのが、感覚で分かる。
……恭介は助かりますように。
できれば、拾って間もない子猫も。恭介が面倒を見てくれますように。
神様……。
その思考を最後に、聖の意識は消えていった。
イブの夜、早川聖は息を白くしながらそう声をかけた。
「どうりで寒いわけだな」
一緒に歩く、友人の志賀恭介は無表情のまま答える。
「他に感想ねーのかよ」
聖がそう言うと、恭介は顎を上げて「……感想?」と尋ねてきた。意味が分からない、といった表情だ。背が高く、厳しい顔をしている彼が眉根を寄せていると、大型の肉食獣のような迫力がある。
「キレーだなー、とか。そーゆーのだよ」
「そうだな。綺麗だ」
本当にそう思ってんのかよ、と言おうとしたが、恭介は街灯のあたりをじっと見ていた。オレンジ色の灯りのもと、ちらほらと舞う雪は美しい。
「情緒を感じる心があるみたいで安心したよ。あれ? 折りたたみ傘、忘れたな」
鞄の中を探ってから気がついた。恭介は「これくらいなら濡れないだろ」と、相変わらず無表情だ。
「お前も忘れたの?」
「ケーキ、どこかで買ってくか」
それには答えないで、前髪をかき上げながら尋ねてくる。髪を立てるのにヘアワックスを使っているから気になるのだろう。
「クリスマスイブに男二人でケーキかよ」
「悪いのか」
「いや、全然。駅前にケーキ屋があるから、そこで買っていこう。豪華なケーキの売れ残りとかあるといいな」
返事がないので恭介の顔を見ると、笑っていた。
夜の八時を過ぎ、人通りは少ない。しばらく歩くと橋が見えてきた。ゆっくりとなだらかな坂道を上る。
「猫は平気なのか?」
「うん。やっと留守番も慣れてきたよ」
一週間前に拾った子猫の話だ。今日、見せる約束をしている。
「楽しみだな。もう名前はつけたのか?」
「いやー、なぜだか全然思いつかなくて。そうだ、恭介がつけてくれよ」
「俺が? ……分かった、考えておく」
頼んだよ、と笑った直後、聖は後ろを振り返った。
理由などない。
ただ、振り返っただけだ。
人が立っている。街灯がスポットライトのようにその人物を浮かび上がらせていた。
手元が光っている。明かりを反射している。
刃物だ。
そう理解すると同時に、女が駆け出した。恭介に向かって。
「――危ない!」
恭介に体当たりをすると、彼はよろけて膝をつく。それを確認すると同時に、腹部に鋭い痛みが走った。耐え難い圧迫感に、恐怖でも驚きでもない、錆びついた感情が湧き上がる。自分の鼓動がうるさいくらいに大きく聞こえた。
目の前に女がいた。
真っ黒くて長い、ソバージュの髪。ベージュのロングコート。
刺した腹部を確認した後、女は聖の顔を見た。
「……二人とも、殺してやる。恭介君は、わたしのもの……」
声は震えていた。喜びにも似た表情を浮かべて。しかし続けて、僅かに目を見開きながら「……男……?」と呟いた。
「聖、どうしたんだ、急に」
驚いたような恭介の声がして、女がそっちを見た。目的が恭介なんだと目つきで分かった。だから出来るだけその女から遠ざけようと思って、聖は女に掴み掛った。腕を引っ張ると、女とは思えないような力で抵抗されて、橋の欄干に背中をぶつける。背骨が軋むように痛い。そのまま女は聖を橋から落とそうとした。
「ふざけんじゃないわよ、この変質者!」
女の甲高い声が、鼓膜の奥まで響く。変質者はお前だろうがこの通り魔、と頭の中で言い返したが、口に出た言葉は「恭介、逃げろ!」だった。
「聖っ!」
恭介が手を伸ばすと同時に、ふたりは、そのまま絡み合うように橋から落ちた。
一瞬のことだった。恭介の理解が一瞬だけ遅れたことが、聖を助けることに間に合わなかった。
上流で雨が降っていたせいか、水の流れはいつもより多かった。
落下する瞬間、恭介が自分を助けようとしていたことに気がつく。
しかしすぐに水面に身体を打ち付けられて、一気に身体が冷えていった。力が抜けていく。もがくこともできない。刺された場所だけが燃えるように熱い。
恭介の声がした。飛び込む音も。
――バカ、何でお前まで飛び込んで来るんだよ……!
恭介は水から顔を出しながら、聖の名前を叫んでいた。通行人が警察に通報したのか、しばらくするとパトカーのサイレンが聞こえた。
つめたい。意識が遠のく。濁流のなかでも、腹部から血が流れていくのが分かる。生命が失われていくのが、感覚で分かる。
……恭介は助かりますように。
できれば、拾って間もない子猫も。恭介が面倒を見てくれますように。
神様……。
その思考を最後に、聖の意識は消えていった。