「はい」

 私の言葉に、「俺だが入っても大丈夫か?」と尋ねられた。紫珠様の声だ。私は少しだけ考えてから、ひと言添えた。

「誰だかわからない人は入れられません」
「そういうところが気に入っている」

 そう言いながら、扉を開いた。やはり紫珠様だった。今は宮女の格好をし、綺麗に化粧を施している。

「どちらにいらっしゃったんですか?」
「梨妃の観劇のために、人手集めの手伝いだな。半夏にずいぶんと仕込まれたみたいじゃないか。上手くやれそうか?」
「できるとは思いますけど……でも、私が皇帝陛下を殺せるかどうかはわかりません」
「まさか親父の首をお前が落とせるとでも?」
「やれって言ったの、紫珠様じゃないですか……」
「ハハハハハハハ」

 いきなり笑い出してから、私の頭を撫で回した。

「な、なにするんですかっ」
「すまんすまん。親父を殺す手伝いをしてくれとは言ったが、お前に直接やれとは言ってなかったんだが……失敗したな」
「……でも、私が必要だったんでしょう?」
「そりゃあな。劇団で梨妃の元にいる者たち皆を騙くらかして、やらなかったいけなかったからなあ……」
「……劇団の皆さんも、皇帝陛下を?」
「あれは全員、後宮で身内を殺された者たちだ」

 あまりにも簡単に言い切ったのに、喉の奥が「ヒュン」と鳴った。

「あの人たち……全員ですか?」
「ああ……半夏は元から劇団員だったが、劇団にいた妹が親父に見初められ、後宮に入れられた……お前に起こりかけたことは全て彼女の身に起きた。耐えきれなくなった彼女は自害した。他にも似たような例が多い」
「そんな……」

 考えてみればわかることだった。
 首都では女は女の格好をして出歩けない。皇帝陛下の醜聞がさんざん流れているからだ。価値があったらそこまで無体な真似はされないだろうが、価値がなかったらそのまま後宮に放り込まれて一生出られない。意味がわからない。

「無茶苦茶じゃないですか……」
「そうなんだ、無茶苦茶だから殺すんだよ」
「だから、紫珠様も? 皆が皆、死んだから?」

 そこで初めて紫珠様の顔が崩れた。
 普段の謎めいた余裕のある表情から、苦虫を噛み潰したかのように、口元が歪む。

「……俺の母は、後宮の薬師だった」
「薬師?」
「ああ。流行り病は親父の起こした人災だった……西方の女を妃として迎え入れた際、彼女は既に患っていた……母曰く、彼女は既に流行り病の耐性を持っていたから無事だったが、後宮内はそうではなかった。気付いたときには手遅れなほどに、後宮内に蔓延していた。毎日倒れていく宮女、宦官。屋敷持ちの妃たちは屋敷内に立て篭もって、薬湯を飲んでやり過ごせたが、下の妃たちや宮女たちはたまったもんじゃない……次々と感染していった。俺が助かったのは、単純に母が口酸っぱく言っただけだ。『絶対に外に出るな』と。母は毎日毎日、危険を承知で屋敷の外に出て、看病して回ったし、上にも進言したが……親父は後宮にぱったりと来なくなった。自分で広めるだけ広めておいて、知らんぷりした。西方の妃はどこかに連れ去られた……あの地獄の中、流行り病が治まった頃には、屍の山が出来上がっていた。放置された後宮の遺体も、流行り病が治まるまで放置されていた。全てが終わってから盛大に合同葬式が行われたが、参列者の目は全員死んでいたよ……弔われた中には、母もいた」

 あまりのひどさに、私は口を開けていた。
 少しばかりは半夏さんからも聞いていたけれど、ここまでひどいとは思ってもいなかった。あれだけのやらかしをしておきながら、官吏は臭い物に蓋をした。皇帝陛下を見て見ぬふりして、自分たちの利益だけを吸うために。
 皇帝陛下は自分の欲望に忠実な行動のせいで、後宮を壊滅寸前にまで追い込んだ事実をわかっていない。だからこそ、紫珠様は……。
 私が震えている中、紫珠様はふっと笑った。

「すまんな。国が滅茶苦茶だから、親父を殺して立て直したいと……お前にはそう言ったが、結局のところは敵討ちだ。母が死に、見知った顔が死んで、どうにもならなかった、やりきれなかった感傷だ」
「……いえ。これは当然の感情だと思います」

 思わず彼の手を取っていた。私よりも大きい手だった。そして驚いたことに、その手は荒れている……指の股が一本一本ささくれ立っているのは、書状をずっと書き続けた結果だろう。
 この人は皇帝陛下を殺すために、どれだけ時間をかけて、人を集めていたのだろう。こんなの……どうにかしたいって思ったってしょうがないじゃないか。

「私はここから逃げ出そうとしました。こんなところにいるのはごめんだと。あなたは立ち向かった。お母様を殺された。理由はそれだけで充分じゃありませんか。私、劇団の舞台に立ちます。なにをすればいいんですか? どうすればいいんですか? どうか教えてください」
「……理不尽だと、思わないのか?」
「あなたには思っていませんよ。ただ、流されて、気付いたらなにもかもを勝手に決めつけられて、がんじがらめになるのが嫌なだけです。がんじがらめになって身動き取れなくなるくらいだったら、動ける内にいっぱい動いたほうがいいじゃないですか」

 私が手を取ったままそう伝えると、紫珠様は目を細めた。

「……丁香、お前を妻に娶る」
「それ、私が復興に必要だからでしょう? うちの実家をどこまで動かせるかはわかりませんけど、なんとかなるでしょ……」
「もちろん最初はそのためだった。だが、お前は……理不尽にめげない。そういうところは気に入っている」

 思わずぱちくりとして紫珠様を見上げた。
 私は彼の本来の姿を未だに知らないし、妻にするという言葉は、宮女の身なりのときにしか言われていない。私はどう答えればいいのかわからず、ただ笑った。

「正式な求婚は、女装を解いてからしてくださいよ。それじゃあ、利用されてるのかどうだかわかんないじゃないですか」
「……違いないな」
「それで、私はどうすればいいんです? 舞台に立って、それから」

 手を取り合いながら、話をする。
 夜に密会するというのは淫靡な話なはずなのに、内容が暗殺計画なのだから色気もなにもあったもんじゃない。
 最後に紫珠様は私の唇をツン、とつついてから、扉に手をかけた。

「それじゃあ、本番を楽しみにしている」

 そう言いながら、私の唇に触れた指で、自分の唇をなぞった。それに私はどっと頬に熱を持った。
 ……からかわれている。

「わかってますよーっだ」

 私たちはこうして、一旦別れたのだった。

****

 それから二日間、私は紫珠様の段取りを聞いた後、半夏さんに稽古を付けられる。
 一日目に飢餓状態で踊ったことは、不思議と身について、自然と足取りが軽やかに踊れるようになっていた。くるくると剣を回しながら、最後に拍子を取る。
 それを見て、あれほど厳しかった半夏さんが、うっすらと笑ったのだった。

「よくやった。これならば本番も大丈夫そうだ」
「はい……ありがとうございます……」

 汗がぐっしょりと出て、着物を濡らす。どれだけ拭っても拭っても、体のどこから水分が出てくるのかわからないくらいに噴き出てくる。
 それを見ながら、半夏さんは水筒をくれたので、私は夢中で水を飲んだ。

「本番、いけるな?」
「……いけます」

 さすがに表立って、皇帝陛下の首を取るとは、私たちも言えない。
 皇帝陛下を事故死と見せかけて殺す。このために、劇団員たちは体の調子に演目の調整、得物の準備まで進めてきたのだ。
 特に剣舞。本来ならば後宮内の見回りをする兵士以外、武装というものは禁止されているため、剣舞に使う剣だって、首を落とすほどの鋭さはないのだけれど。調子を合わせて皇帝陛下の首目掛けて剣を飛ばす。
 何度も何度も練習して、その調子を合わせ続けていたのだ。体を自由自在に操れるようにならなければ、その芸当は不可能だった。
 春妃さんの占術で吉報を占い、劇団員は仕掛けるために腕を磨き続ける。そして紫珠様はそのとき梨妃の屋敷に入る人材の調整を行い続けていた。
 明日、皇帝陛下を殺す。
 そのための準備を、ここまでしてきた以上は、成さなければならなかった。