長い廊下をいくつも通ったあと、広い場所に出る。
 その広い場所には天幕が張られ、その中を出入りしている人々が目に留まった。紫珠様がひとりに手を振ると、頭を下げられて通された。

「おっしゃってくだされば、こちらから出向きましたのに」
「わざわざ宦官棟に来させる訳にはいかない。あそこにも敵は紛れ込んでいるのだから」
「それで、彼女が……」
「俺の妻になる予定の娘だ」

 私はそれに「ひぐっ」と喉を詰まらせた。
 これは今言う必要があるのかとか、うちの実家の力が国復興に必要だからでしょうがとか、いろいろ思ったけれど、どうにか飲み下した。
 劇団員はこちらをまじまじと見下ろした。
 もっと劇団員は女の人の華麗な舞ばかり見るのかと思っていたのに、意外なことに腕っ節の強い宦官も混ざっているようだった。
 女性の軽やかな踊りの練習に混ざって、宦官の躍動感ある踊りの練習も目に入る。

「それで、剣舞の腕は……」
「今ここでやればいいんでしょうか?」
「素人芸だと、一発でばれるからな」

 たしかに。劇団員に混ざって皇帝陛下を仕留めるとなったら、まずは皇帝陛下を油断させるほどの演目でなければならないだろう。
 私は青竜刀を手に、紫珠様に見せたものを披露しはじめた。
 剣を振り、体を動かす。先程紫珠様に見せたときは、感心したように見ていたが、こちらは一転、見聞する目だ。こういう目で取引をしているお父様や姉は何度か見たことがある。
 最後に私が一回転したあと、劇団の人は腕を組んだ。

「殿下。時間はどれだけいただけますか?」

 その言葉に、私は「あれ」と思った。
 紫珠様の連れてきた人間の剣舞だから、無理矢理褒めるか、逆に使い物にならないと苦言を呈するかと思っていたのに。
 紫珠様は伝えた。

「次に親父が後宮を訪れるのは、梨妃(りひ)の観劇だ。そのときまでに仕込んで欲しい」
「……たった三日ですか。名はなんと言う?」

 そう劇団の人に尋ねられた。私は背を伸ばす。

「丁香です」
「そうか、丁香。俺は半夏(はんげ)だ。それでは殿下、三日でなんとか使い物になるように仕込みますんで」
「頼んだ」
「ちょ、ちょっと紫珠様!?」
「丁香、せいぜい頑張れよ。半夏の仕込みは、吐くほどに厳しいからな」
「は、吐くんですかぁ……!?」

 私の悲鳴を無視して、さっさと紫珠様は天幕から立ち去ってしまった。
 鬼か、あの人は。私はそう思いながらも、半夏さんから剣舞を徹底的に仕込まれ直すこととなった。
 吐くとは言われていたものの、実際に姿勢ひとつで怒鳴られ、正しい姿勢のために何度も何度も竹の棒を当てられ、「こう! 正しい姿勢はこう!」と仕込まれ続けた。
 一刻二刻と飲まず食わずで踊り続け、三刻目になったときにはへろへろだったけれども。それでも気のせいか体が軽く感じた。腹が減り過ぎたのか、それとも体がきちんと吸収したのか、頭が驚くほど鮮明になり、踊りたかった踊りが指の先から足の爪先まで通っていき、今までで一番いい演技ができた。
 一度も拍手をしなかった半夏さんは、腕を組んだままだった。
 私はぜいぜいと息を切らす。

「……食事をそろそろ摂れ。殿下のお気に入りが飲まず食わずで死んだんじゃシャレにならないからな」
「え?」
「腹を満たしても、今の感覚を忘れるな。これくらい踊れなかったら、十中八九皇帝の首は落とせない。審美眼を騙し通さなきゃならねえのは、なにも皇帝だけじゃねえ。愛妃も騙くらかさなきゃいけねえんだからなあ」
「は、はい……っ!」

 出されたちまきを、私は泣きながら食べていた。優しい味のそれは、五臓六腑に染み渡るように感じ、私の分はあっという間になくなった。

「……あのう、半夏さんは」
「なんだ?」

 この人も踊り手なんだろう。体の筋肉に無駄がなく、薄手の着物で軽々と剣を振って踊っていた。その剣が簡単に人の首を落とせるものだけれど、その動きには重さを感じない。
 そんな人が紫珠様の起こそうとしている皇帝暗殺のことを知っているということは。

「……皇帝がお嫌いですか?」
「嫌いだね」

 今までさっぱりとしていた人から、初めて湿度を感じた。彼の吐き出したそのひと言には、粘りがあった。いったいどれだけ皇帝陛下を憎んでいるのか、そのひと言だけでもわかった。

「……そうなんですか」
「そもそも好きな人間が後宮内にいるもんかね。朝廷は腐敗しきっているが、我関せずで後宮に篭もって女遊びばかり。何度も殿下は諫めたものの聞く耳持たずでな。いろいろ手は打ったものの、守りが堅い上に官吏たちまで見張っている。官吏の目が届かない後宮以外でやれる方法はないと判断したんだよ」
「ここでいきなり誘われたときは驚きましたけど、既にいろいろ手を打ったあとだったんですねえ……」

 そう考えたら、紫珠様が次から次へと変装するのも頷ける。もう手段を選んでられなくなったんだろう。
 姉が逃げたから身代わりに後宮に放り込まれた私からしてみれば、皆の言葉はいちいち重い。
 半夏さんは水を舐めるように飲みながら、ふっと息を吐いた。

「なんだ、殿下に脅かされたか? 皇帝の首を取れと」
「脅かされてはいませんけど……私だって後宮を解体しないことには、二度と外には出られない身ですし、一生訳もわからないままここに縛られるくらいなら、紫珠様の手伝いをしたほうがまだましだと思っただけです」
「違いない。くたびれたら考えるのをなにもかも放棄してしまうからな……そういうところを、殿下は見込まれたんだろうさ」

 そう半夏さんに言われると、私はなにも言えなくなった。思えば私は、助けてくれた人だというのに、紫珠様のことをなにも知らないのだ。

****

 柔軟体操をして、体の負担を軽減させてから「明日も早朝から来るように」と言われて、やっと私は天幕から解放された。
 こそこそと宦官棟に戻ると、黄精さんが「お疲れ様です」と食事の世話をしてくれた。私が剣舞の仕込みを受けていると知っているせいか、出してくれた料理は肉餡をたっぷりと詰めた水餃子、野菜炒めにはきくらげをたくさんにあんかけ麺と、体力増強を考えた料理だった。普段であったら入らない量だけれど、あれだけくたびれるほど仕込みを受けたら、いくらでも食べられる。
 私がむしゃむしゃと食べている中、相変わらず宮女か宦官かすらわからない黄精さんは、こてんと首を傾げながらこちらを眺めていた。

「あ、あのう?」
「いえ。殿下もこのところ元気で。今までは、なかなか手ごたえがございませんでしたから。これだけ不満を溜め込んでいても、人の怒りすら飲み干して、陛下は増長しておりましたから。殿下の怒りは留まることを知りませんでした」
「そこまで、だったんですか……」

 私の中で紫珠は掴みどころのない、花神のように一瞬だけ現れて去っていくような人という、そんな感じだった。
 黄精さんはくつりと笑って頷く。

「流行り病で、後宮が一度解体の危機に陥ったことをご存じで?」
「はい?」

 来たばかりの妃の私すら渡りの対象にする皇帝陛下のことを思い、私は首を捻った。

「それは、いいことではないのですか?」
「手順を踏んで後宮解体でしたら、官吏ですら文句も言いませんでしょうが、あれは解体というものではありません。放置というもので、とてもじゃないですが認められないものでした……後宮が流行り病のせいで崩壊寸前。あの頃に生まれた皇子たちも、殿下を除いて皆死に絶えました……首都にも広がったあの流行り病は、ただの不幸ではございません……人災でした」

 黄精さんのきっぱりとした口調で、私は茫然とする。
 そういえば。紫珠様は流行り病でお母様を亡くしたとおっしゃっていたけれど。もしかして、これがきっかけで皇帝陛下の首を狙っているというの?

「……いったいなにがあったんですか。紫珠様や、ここにいる人たちが皆、皇帝陛下を憎んでいるような出来事……」
「……少々しゃべり過ぎましたね。この辺りは、どうぞ殿下とゆっくりお話しくださいませ」

 黄精さんはそれだけ言い残すと、食器を片付けて立ち去って行った。パタンという扉の閉まる音を聞きながら、私は考え込んだ。
 ただ流されるだけでは、後宮で嘆いているだけの人たちとなにも変わらない。私はただ彼の手足となって、皇帝陛下の首を狙うだけでは、駄目なんじゃないだろうか。
 私は、自分の意思で紫珠様の手助けをして、現状に戦いを挑まないといけないんじゃないだろうか。
 そう、ひとり考えていたところで、扉が叩かれた。