私が慌てて宦官棟へと戻るとき、かぐわしい花の匂いがした。それに驚いて顔を上げると、壮絶な美女が立っていた。
……いや、この匂いは薔薇。誰なのかはおのずとわかる。
「よろしいんですか? 今は謹慎中の身と伺っていましたが」
「いや? 官吏たちの目をかいくぐって抜けてきた」
「こんなところにいたら危ないでしょう。早く私の部屋にいらしてください、紫珠様」
久々に女装して現れた紫珠様にほっとしつつも、私は彼の手を引いて宦官棟の与えられた個室へと連れ帰った。
紫珠様はどっかりと私の寝台に座り込むのを、私はなんとも言えない顔で椅子に座る。
「どうなさったんですか、いきなりこんなところで」
「なに。後宮にいた宦官のひとりから連絡があってな、丁香が皇后様の子を探しはじめたと」
「……医局のどちらかが、もしくはどちらもが、紫珠様の息のかかった方でしたか?」
「この辺りは丁香は知らないほうがいい。俺もどれだけ情報が抜かれているかがわからないからな。それで。わざわざ皇后様にまでお会いしてきて、皇后様の子の正体がわかったか?」
紫珠様に尋ねられ、私は呼吸を整えた。
正直、推理は得意な人に任せたいし、今の時点では状況証拠だけで確証がない。ただ、わざわざ紫珠様が危険を冒してまで私のところに来たということは、当たらざるものの遠からず。下手に虎の尾を踏むなと警告に来たのだろう。
私は言葉を吐き出した。
「……皇后様の子は、性別がないと伺いました。陰陽がないがために凶兆の子として、隠されていたと。そして本来ならば寺院に入れられて、一生出られなくなったところを、寺院にはいらっしゃりませんでした」
「ふむ」
「そして皇后様からの証言……この国の皇太子がその方のことを隠したと。そこで私もピンと来ました」
紫珠様は書類に手を回し、私の存在を隠した。同じことは、既に出家しているがために存在自体が曖昧な上、表立って記帳して存在を残すことのできない凶兆の子である皇后様の子にもしたんではないのか。
そしてちょうど私は、男なのか女なのかわからず、宦官棟でひとりやけに後宮内の歴史に詳しい人のことを知っている。
私はじっと紫珠様を見て、口を開いた。
「……黄精さんこそが、凶兆の子なのではないのですか?」
「ところで、丁香はそもそも内通者を探していたんじゃなかったのかな?」
紫珠様に混ぜっ返され、思わず目を細める。ここまで否定はされていないってことは、この中で全否定されるようなネタはないのだろうと思いながら、私は続けた。
「……その内通者について、私も考えましたが。春妃の占いでも、不明瞭なことが多く、これは内通者が訳ありであり、敵か味方かわからないというものでした」
「ほう?」
「元々紫珠様の天命は全くの不明瞭で、私が来るまでは全く読み取ることができないものの、私が来たことで天命が晴れてようやく見られるようになったと。でも、失敗したとなったら。紫珠様の話を横流しした人がいるはずです。それで私と春妃は内通者がいるのではないかと思いました。内通者を探している中で、皇后様の話を伺い、凶兆の子を調査することになりました……ここから先は、私の当てずっぽうですが」
私は紫珠様を見つめる。相変わらずきらびやかなこの人は、女装していてもなお威風堂々としていて、それでいて花神ではないかという存在感を誇っている。
私は言葉を続けた。
「黄精さんは、皇后様の恩赦を賭けて、内通者をしてらっしゃるのではないですか? 皇帝陛下に直接情報を横流ししているとは、黄精さんの立場上考えにくいですが……皇帝陛下と紫珠様、ふたりを天秤にかけて、どちらに傾けるべきかを、その都度考えていたのではないですか?」
「ふむ」
紫珠様はにやりと笑うと、私の唇に人差し指をくっつけ、その人差し指を自身の唇に触れ合わせた。
「及第点だな」
「……半夏さんとか、命を賭けて皇帝陛下を殺そうとしていました。どうして黄精さんをそのまま泳がせていたのですか?」
「黄精だが、敵ではない。今はまだ、味方ではないがな」
「……どうして。どうして内通をそのまま許したのですか?」
「黄精は生まれが産まれだから、徹底的に蔑まれていた。それでも殺されなかったのは、凶兆の子をくびり殺した結果、崩御が早まった皇帝がいたからだな。凶兆の子というだけで、それだけ厄介物扱いになる。だからこそ、黄精はこのまま寺院に入れて飼い殺しにするのが関の山だろうと官吏も判断した……さすがに官吏も、天命を動かすところまでは至らなかったからな」
「……それは」
実際にあれだけ無茶苦茶なことをしている皇帝陛下が未だに暗殺成功することもなくピンピンしているのは、彼の天命が全く尽きないからだろう。だからこそ、官吏たちも天命を気にし、吉兆を気にする……それこそ黄精さんの凶兆の星を気にし、なおかつ殺すことも表舞台に出すこともできず、寺院に閉じ込めていたのだろうけど。
でも、その人は紫珠様がわざわざ寺院から連れ出した。
「……そんな方を、どうして仲間に引き入れようとするのですか?」
「親父の天命を削るためには、俺だけでは足りない。丁香は俺の曇った天命を晴らしたが、それでもまだ足りない。だとしたら、凶兆を仲間に引き入れる他あるまいよ」
「それは……危ないんじゃありませんか?」
「丁香。黄精のことをあまり悪く言うな。お前からしてみれば得体が知れない上に、俺たちが紡ぎ上げた計画を壊した忌むべき奴に見えるかもしれないが……あれは俺からしてみれば生き残った唯一のきょうだいだよ。本来だったら玉座を巡って殺し合いも辞さなかったところが、奇跡的に殺し合わずに済んだな」
この人は。私はなんとも言えなくなる。
紫珠様はいつだってやろうとしていることは大がかりなのに、動く基準は身内のためだ。
お母様の仇討ちの次は、流行り病で壊滅しかかった後宮、ほぼきょうだいが全滅した中で唯一生き残ったきょうだいに情けをかける……それが吉兆か凶兆かは、本気で誰にもわからないことだ。
「……わかりました。今はこのことは私の胸に留めます。ですけど紫珠様」
「なんだ?」
私は彼の隣に座り直すと、彼の肩にもたれかかった。ぶわりと薔薇の香りが漂うのに、むず痒い気分になる。
「……お願いですから、あまり無茶なことをしないでください。敵は皇帝だけでなく、天命そのものです。その天命を自身の命をを賭けて削ろうとするような無茶な真似、そう何度も何度も許容できません」
「丁香……わかってくれ。天に喧嘩を売って打ち勝てなければ、親父の首を取ることなんてできまいよ」
「そりゃそうかもしれませんが……私の妃にするおつもりでしょう? 皇帝陛下を殺したら終わりって訳じゃないんですから……」
紫珠様は私の言葉に、ふっと笑ったかと思ったら髪を梳いてきた。そしてひと房手に取ると、それに唇を押し当ててくる。
「あまり可愛いこと言ってくれるな」
「あのですねえ、私はあなたのことを心配して……」
「知っているよ。だから愉快だと言っているんだ」
そうにこやかに言われて、私も思い至る。
……この人は、もうとっくの昔に身を案じている人は根こそぎ死んでいる。彼のことを慕っている人も、旗頭にする人もいるけれど、心配する人だけは、もういないんだ。
私はたまらなくなって、彼の髪をむんずと掴むと、それの口付けを仕返す。それに紫珠様は目をぱちくりとさせた。
「丁香?」
「ああ、もう! どいつもこいつも腹の中でばっかり考えて! 絶対に、絶対にこんな場所、解体してやりますから!」
「……ああ、頼もしいな!」
「もう、頼もしいなじゃありませんよ! ひとまず、黄精さんとお話ししてきます」
「あれは鋭利な刃のようなものだ。あれは時には丁香を激しく傷付けるかもしれないが、あまり嫌ってやってくれるなよ」
「知っていますよ。あの方もほんっとうに遠回しなことばっかり言いますから」
ふたりっきりで、結婚の約束までしている男女が、どうしてこうも色気のない会話を繰り広げるのだろう。傍から見るときっと呆れてしまうだろうけれど。
今の私たちの距離感には、これがちょうどふさわしい。
私は廊下に誰もいないことを確認してから、そっと紫珠様を皇太子宮に帰した。
そのあとは……少しの話し合いだ。
****
夕餉の時間になったら、黄精さんがいつものように食事を運んできてくれた。
「なにやら大変でしたね。あちこちに行ってきたようで」
「はい、医局でまさか検診のお手伝いをすることになるとは思ってもおらず」
「ふふっ、なにか掴めましたか?」
「それが……今の皇帝に皇后様がいたというのは、あそこに行って初めて知りました。私、ずっと首都で暮らしてたんですけどね。そこまでして隠されていたんですかね」
細切りのネギを豚肉で巻きながらいただいていると、黄精さんはじっと私のほうを見てきた。黄精さんは無性のせいでずっと閉じ込められていたとはわからないほどに、この人の仕草も言動も洗礼されている。
きっとこの人は、伏魔殿も同然になっている後宮で生き残るために、ずっと苦労を重ねていたのだろう。
本当に紫珠様といい黄精さんといい、無茶をし過ぎなんだ。
私は黄精さんを見ながら、言葉を選んだ。どうしたら紫珠様の味方になってくれるだろうと思いながら。
「私、皇后様のお子さんがもしまだ生きてらっしゃるのなら伝えたいんです。私はあなたの敵にはならないと」
「……不思議なことをおっしゃりますね、丁香さんも」
黄精さんはやんわりと言った。
「隠されてしまった皇后様の子でしたら、皇帝に対する恨みも、この国の因習に対する恨みもひとしおというもの。それが全てに牙を剥くとは、どうして思わないのですか?」
「私も少しだけそれを考えました。ですけど、多分そこまでひどいことはしないと思ったんです。もしそうならば、紫珠様はとっくの昔に反逆罪で処刑されていてもしょうがないです。私も見つかって皇帝の手籠めにされていたかもしれませんが、そうはならなかった。助けてくれたと思うのは、おこがましいことですか?」
紫珠様は、黄精さんのことを相当気にかけていた。あの地獄のような自体で生き残ったきょうだいだからかもしれないけれど。
同じ親を持つ、たまたま敵が同じだったがために殺し合わずに済んだ身内だっていうのが大きいのかもしれない。黄精さんからしてみれば、紫珠様は自由に出入りできる目障りな存在なのかもわからないけれど、でも完全に皇帝陛下に天秤は傾いてはいないのは事実だ。
黄精さんはじっと私を見た。性差のさっぱりわからない、艶めかしい仕草に見えた。
「……私はこれからも、天秤にかけます。私が生き残るため。お母様を寺社から出すためにいくらでも。今は使えるから死なせない。それだけです。くれぐれも私を味方とお思いならないように」
「……黄精さん、それは多分無理です。私はきっと紫珠様の信じるあなたを信じます」
「どうして?」
「本当に悪い人は、自分が悪い人だと教えてくれないから。わざわざ警告をくれる人が、本当に良心の呵責もなく悪逆ができるとは思えません」
それに一瞬黄精さんは目を丸く見開いてから、すっと細めた。
「……いやな子」
それは余計なお世話という意味か、ただの嫌味か、私にはわからなかった。
<了>
……いや、この匂いは薔薇。誰なのかはおのずとわかる。
「よろしいんですか? 今は謹慎中の身と伺っていましたが」
「いや? 官吏たちの目をかいくぐって抜けてきた」
「こんなところにいたら危ないでしょう。早く私の部屋にいらしてください、紫珠様」
久々に女装して現れた紫珠様にほっとしつつも、私は彼の手を引いて宦官棟の与えられた個室へと連れ帰った。
紫珠様はどっかりと私の寝台に座り込むのを、私はなんとも言えない顔で椅子に座る。
「どうなさったんですか、いきなりこんなところで」
「なに。後宮にいた宦官のひとりから連絡があってな、丁香が皇后様の子を探しはじめたと」
「……医局のどちらかが、もしくはどちらもが、紫珠様の息のかかった方でしたか?」
「この辺りは丁香は知らないほうがいい。俺もどれだけ情報が抜かれているかがわからないからな。それで。わざわざ皇后様にまでお会いしてきて、皇后様の子の正体がわかったか?」
紫珠様に尋ねられ、私は呼吸を整えた。
正直、推理は得意な人に任せたいし、今の時点では状況証拠だけで確証がない。ただ、わざわざ紫珠様が危険を冒してまで私のところに来たということは、当たらざるものの遠からず。下手に虎の尾を踏むなと警告に来たのだろう。
私は言葉を吐き出した。
「……皇后様の子は、性別がないと伺いました。陰陽がないがために凶兆の子として、隠されていたと。そして本来ならば寺院に入れられて、一生出られなくなったところを、寺院にはいらっしゃりませんでした」
「ふむ」
「そして皇后様からの証言……この国の皇太子がその方のことを隠したと。そこで私もピンと来ました」
紫珠様は書類に手を回し、私の存在を隠した。同じことは、既に出家しているがために存在自体が曖昧な上、表立って記帳して存在を残すことのできない凶兆の子である皇后様の子にもしたんではないのか。
そしてちょうど私は、男なのか女なのかわからず、宦官棟でひとりやけに後宮内の歴史に詳しい人のことを知っている。
私はじっと紫珠様を見て、口を開いた。
「……黄精さんこそが、凶兆の子なのではないのですか?」
「ところで、丁香はそもそも内通者を探していたんじゃなかったのかな?」
紫珠様に混ぜっ返され、思わず目を細める。ここまで否定はされていないってことは、この中で全否定されるようなネタはないのだろうと思いながら、私は続けた。
「……その内通者について、私も考えましたが。春妃の占いでも、不明瞭なことが多く、これは内通者が訳ありであり、敵か味方かわからないというものでした」
「ほう?」
「元々紫珠様の天命は全くの不明瞭で、私が来るまでは全く読み取ることができないものの、私が来たことで天命が晴れてようやく見られるようになったと。でも、失敗したとなったら。紫珠様の話を横流しした人がいるはずです。それで私と春妃は内通者がいるのではないかと思いました。内通者を探している中で、皇后様の話を伺い、凶兆の子を調査することになりました……ここから先は、私の当てずっぽうですが」
私は紫珠様を見つめる。相変わらずきらびやかなこの人は、女装していてもなお威風堂々としていて、それでいて花神ではないかという存在感を誇っている。
私は言葉を続けた。
「黄精さんは、皇后様の恩赦を賭けて、内通者をしてらっしゃるのではないですか? 皇帝陛下に直接情報を横流ししているとは、黄精さんの立場上考えにくいですが……皇帝陛下と紫珠様、ふたりを天秤にかけて、どちらに傾けるべきかを、その都度考えていたのではないですか?」
「ふむ」
紫珠様はにやりと笑うと、私の唇に人差し指をくっつけ、その人差し指を自身の唇に触れ合わせた。
「及第点だな」
「……半夏さんとか、命を賭けて皇帝陛下を殺そうとしていました。どうして黄精さんをそのまま泳がせていたのですか?」
「黄精だが、敵ではない。今はまだ、味方ではないがな」
「……どうして。どうして内通をそのまま許したのですか?」
「黄精は生まれが産まれだから、徹底的に蔑まれていた。それでも殺されなかったのは、凶兆の子をくびり殺した結果、崩御が早まった皇帝がいたからだな。凶兆の子というだけで、それだけ厄介物扱いになる。だからこそ、黄精はこのまま寺院に入れて飼い殺しにするのが関の山だろうと官吏も判断した……さすがに官吏も、天命を動かすところまでは至らなかったからな」
「……それは」
実際にあれだけ無茶苦茶なことをしている皇帝陛下が未だに暗殺成功することもなくピンピンしているのは、彼の天命が全く尽きないからだろう。だからこそ、官吏たちも天命を気にし、吉兆を気にする……それこそ黄精さんの凶兆の星を気にし、なおかつ殺すことも表舞台に出すこともできず、寺院に閉じ込めていたのだろうけど。
でも、その人は紫珠様がわざわざ寺院から連れ出した。
「……そんな方を、どうして仲間に引き入れようとするのですか?」
「親父の天命を削るためには、俺だけでは足りない。丁香は俺の曇った天命を晴らしたが、それでもまだ足りない。だとしたら、凶兆を仲間に引き入れる他あるまいよ」
「それは……危ないんじゃありませんか?」
「丁香。黄精のことをあまり悪く言うな。お前からしてみれば得体が知れない上に、俺たちが紡ぎ上げた計画を壊した忌むべき奴に見えるかもしれないが……あれは俺からしてみれば生き残った唯一のきょうだいだよ。本来だったら玉座を巡って殺し合いも辞さなかったところが、奇跡的に殺し合わずに済んだな」
この人は。私はなんとも言えなくなる。
紫珠様はいつだってやろうとしていることは大がかりなのに、動く基準は身内のためだ。
お母様の仇討ちの次は、流行り病で壊滅しかかった後宮、ほぼきょうだいが全滅した中で唯一生き残ったきょうだいに情けをかける……それが吉兆か凶兆かは、本気で誰にもわからないことだ。
「……わかりました。今はこのことは私の胸に留めます。ですけど紫珠様」
「なんだ?」
私は彼の隣に座り直すと、彼の肩にもたれかかった。ぶわりと薔薇の香りが漂うのに、むず痒い気分になる。
「……お願いですから、あまり無茶なことをしないでください。敵は皇帝だけでなく、天命そのものです。その天命を自身の命をを賭けて削ろうとするような無茶な真似、そう何度も何度も許容できません」
「丁香……わかってくれ。天に喧嘩を売って打ち勝てなければ、親父の首を取ることなんてできまいよ」
「そりゃそうかもしれませんが……私の妃にするおつもりでしょう? 皇帝陛下を殺したら終わりって訳じゃないんですから……」
紫珠様は私の言葉に、ふっと笑ったかと思ったら髪を梳いてきた。そしてひと房手に取ると、それに唇を押し当ててくる。
「あまり可愛いこと言ってくれるな」
「あのですねえ、私はあなたのことを心配して……」
「知っているよ。だから愉快だと言っているんだ」
そうにこやかに言われて、私も思い至る。
……この人は、もうとっくの昔に身を案じている人は根こそぎ死んでいる。彼のことを慕っている人も、旗頭にする人もいるけれど、心配する人だけは、もういないんだ。
私はたまらなくなって、彼の髪をむんずと掴むと、それの口付けを仕返す。それに紫珠様は目をぱちくりとさせた。
「丁香?」
「ああ、もう! どいつもこいつも腹の中でばっかり考えて! 絶対に、絶対にこんな場所、解体してやりますから!」
「……ああ、頼もしいな!」
「もう、頼もしいなじゃありませんよ! ひとまず、黄精さんとお話ししてきます」
「あれは鋭利な刃のようなものだ。あれは時には丁香を激しく傷付けるかもしれないが、あまり嫌ってやってくれるなよ」
「知っていますよ。あの方もほんっとうに遠回しなことばっかり言いますから」
ふたりっきりで、結婚の約束までしている男女が、どうしてこうも色気のない会話を繰り広げるのだろう。傍から見るときっと呆れてしまうだろうけれど。
今の私たちの距離感には、これがちょうどふさわしい。
私は廊下に誰もいないことを確認してから、そっと紫珠様を皇太子宮に帰した。
そのあとは……少しの話し合いだ。
****
夕餉の時間になったら、黄精さんがいつものように食事を運んできてくれた。
「なにやら大変でしたね。あちこちに行ってきたようで」
「はい、医局でまさか検診のお手伝いをすることになるとは思ってもおらず」
「ふふっ、なにか掴めましたか?」
「それが……今の皇帝に皇后様がいたというのは、あそこに行って初めて知りました。私、ずっと首都で暮らしてたんですけどね。そこまでして隠されていたんですかね」
細切りのネギを豚肉で巻きながらいただいていると、黄精さんはじっと私のほうを見てきた。黄精さんは無性のせいでずっと閉じ込められていたとはわからないほどに、この人の仕草も言動も洗礼されている。
きっとこの人は、伏魔殿も同然になっている後宮で生き残るために、ずっと苦労を重ねていたのだろう。
本当に紫珠様といい黄精さんといい、無茶をし過ぎなんだ。
私は黄精さんを見ながら、言葉を選んだ。どうしたら紫珠様の味方になってくれるだろうと思いながら。
「私、皇后様のお子さんがもしまだ生きてらっしゃるのなら伝えたいんです。私はあなたの敵にはならないと」
「……不思議なことをおっしゃりますね、丁香さんも」
黄精さんはやんわりと言った。
「隠されてしまった皇后様の子でしたら、皇帝に対する恨みも、この国の因習に対する恨みもひとしおというもの。それが全てに牙を剥くとは、どうして思わないのですか?」
「私も少しだけそれを考えました。ですけど、多分そこまでひどいことはしないと思ったんです。もしそうならば、紫珠様はとっくの昔に反逆罪で処刑されていてもしょうがないです。私も見つかって皇帝の手籠めにされていたかもしれませんが、そうはならなかった。助けてくれたと思うのは、おこがましいことですか?」
紫珠様は、黄精さんのことを相当気にかけていた。あの地獄のような自体で生き残ったきょうだいだからかもしれないけれど。
同じ親を持つ、たまたま敵が同じだったがために殺し合わずに済んだ身内だっていうのが大きいのかもしれない。黄精さんからしてみれば、紫珠様は自由に出入りできる目障りな存在なのかもわからないけれど、でも完全に皇帝陛下に天秤は傾いてはいないのは事実だ。
黄精さんはじっと私を見た。性差のさっぱりわからない、艶めかしい仕草に見えた。
「……私はこれからも、天秤にかけます。私が生き残るため。お母様を寺社から出すためにいくらでも。今は使えるから死なせない。それだけです。くれぐれも私を味方とお思いならないように」
「……黄精さん、それは多分無理です。私はきっと紫珠様の信じるあなたを信じます」
「どうして?」
「本当に悪い人は、自分が悪い人だと教えてくれないから。わざわざ警告をくれる人が、本当に良心の呵責もなく悪逆ができるとは思えません」
それに一瞬黄精さんは目を丸く見開いてから、すっと細めた。
「……いやな子」
それは余計なお世話という意味か、ただの嫌味か、私にはわからなかった。
<了>



