下級妃の定期検診はだいたい終わった。干し棗も配り終えた中、石楠さんと泡桐さんは帳簿に記録を付ける。
「全く……今年はいくらなんでも食事が困難になっている妃が多過ぎる」
「本来後宮内だけは食事に困らないところなんですけどね。首都は閑散としているし、よその地方はもっと悲惨だし」
ふたりが文句を言いながらも記録を付けている中、私はそれらを妃の位ごとに帳簿を片付けていた。
「お疲れ様です……あのう、なんかこの帳簿の棚、おかしくないですか?」
「うん? どうかしたか?」
「たしか今の後宮には、皇后はいなかったはずですよね? 皇后の記録があるんですけれど……」
皇后は本来、皇帝陛下の正妻であり、後宮内でも一番身分の高い人のはずだけれど。今はその席は空白のはずだった。
皇后を決めるっていうのは、唾競り合いになることが多く、政治的な権限も大きくなるために、いくらあれだけ酒池肉林に溺れている皇帝陛下であったとしても、自分ひとりの権限だけでは決められないはずなんだ。
私の言葉に、石楠さんは黙り込んでしまった。
「あ、あのう……私まずいことを言いましたか?」
「一応、皇帝陛下にも本来は皇后様がいらっしゃったはずなんですよ」
「え……そうだったんですか。すみません。勉強不足で」
「ええ、ええ。彼女のことは、もう医局の記録でしか確認できないでしょうしねえ」
「あれ、でも皇后ですよね? そんな人のこと、どうこうなんてできるんですか?」
政治的にも一番影響力があり、官吏だって諸侯だって黙らせる程度の立ち振る舞いの末に就任するはずだ。
もしも皇后よりも立場や影響力が強くなるとなったら、それはもう皇太子の母の座を獲得するしかない。今の皇太子は紫珠様で、紫珠様のお母様はとっくの昔に亡くなっているから、影響力もへったくれもないのだけれど。
石楠さんが返答に困っている中、泡桐さんが口を開いた。
「彼女は廃籍されたんだ。今は寺院に入ってらっしゃる」
「それは……あれ、それって大丈夫なんですか? 政治的な意味で」
「本来ならば一番考慮するべきことだが。だがこれを公表したら、皇帝陛下の地位が崩れると判断した官吏により、闇に葬られた」
「そんな……皇后が廃籍されるようなことが起こったんですか?」
「……彼女にはなんの落ち度もないが……この国ではなかなかまずい自体になった。彼女の産んだ子供の存在を、彼女ごとなかったことにされたのだ」
私は言葉を失った。
忌み子。なにかしら問題がある子が産まれたがために、その子の存在を隠すため、皇后ごとなかったことにされた。そして、その子の存在自体が皇帝陛下の地位を揺るがしかねないと。
私は尋ねた。
「その子は……もう亡くなってしまったのでしょうか?」
「今生きていたら既に成人されているはずだが……ここに残っている帳簿は、母子の成長記録くらいしか残ってないぞ」
「それでかまいません。少し読んでみてもいいですか?」
「かまわないが……だがこの記録をよそに写すのは駄目だぞ。我々の首だって飛びかねない」
「わかっています」
私はどきどきしながら、その帳簿を読んだ。
【花歴七年 誕生 母子共に健康】
【花歴七年 母子共に身長体重問題なし】
本当にただの成長記録であり、子はどんどんと大きくなっていくのがわかるものの、私は何度も何度も読みながら、どうしても違和感が拭えなかった。
「あのう……産まれた皇后の子は、性別書いていませんよね? 読み落としたのかと思って何度も何度も確認しましたけど、記録が漏れているようなんですが……」
「記録は漏れていません。それが正確なんですよ」
普段は柔和な石楠さんの口調が硬い。私はその硬い返答に言葉を詰まらせた。
「待ってください……性別が書いてないんじゃなくって、書けなかったんですか?」
「はい。ときおり産まれる子の中には、陰陽どちらも備わっている子が産まれることがあります。それは吉兆の証として、その子はほぼなんの問題もなく皇帝の座が据えられることがありますが……」
本当に稀に存在するらしい。男性であり、女性でもあるという人が。元々槐国でも女性は蔭、男性は陽と示されることがたびたびあるけれど、それらをどちらも兼ね備えているというのは縁起がよかった。
でも……ここにわざわざ書かれてないってことは、陰陽どちらもない、つまりは男性でもなければ女性でもない……。
「凶兆の子が産まれたということで、それはそれは官吏は慌てました。まさかその子のことを公表する訳にもいかない。もしその子の存在がわかれば、諸侯は反旗を翻しますし、元々低かった民意がますます国から離れていきます。それを避けるために、母子共々寺院に送り込み、いなかったものとしてしまったのですよ。皇后の実家には病死だと示した末に」
「そんな……」
「まあ、実際にその子は男でもなければ女でもない。皇帝陛下からしても扱いに困ったんだろう。本来、皇后の子ならば、たとえ皇太子にならずとも、それなりに土地を与えて諸侯にすることだって、政略結婚の駒にすることだってできたはずなのに、どちらにもできない子というのに」
「あの人いくらなんでも無茶苦茶過ぎませんか!? 私、ここに来て皇帝陛下の株が上がったことなんてちっともないんですけど、下がりっぱなしなんですけど」
女好きな上に、自分の正妻と子に対してもそんな仕打ちをするって。いったいどれだけあの人、勝手に落ちぶれていくんだよ。これで天命が尽きないって、いったいどうなっているのか。
頭が痛くなりながら、「寺院って、私も行けるんでしょうか?」と思いついたことを言ってみた。
「後宮内の寺院ですけど、お参りに行く程度のことは」
「あれはよほど信心深い人間でない限りは、正月くらいしか行けなかったはずだが」
「ちょっといろいろ思うところがありまして、その皇后のお子さんについては調べたいと思いまして」
「そりゃまあ……あれの存在を公表できたら、皇帝を失脚させられるだろうしな」
「でも下手な立ち回りをしたら、槐国そのものが傾きかねませんよ。人はどうしても星の巡りを大切にしますから、星の巡りが悪いというものについては、冷徹になりがちです」
そうきっぱりと石楠さんに咎められ、私は肩を竦めた。
……そうだった。仮に皇帝陛下を失脚できたとしても、これが原因で紫珠様が皇帝に就くことができなくなったらおんなじなんだ。
私は肩を竦めながら「それでも」と口を開いた。
「私、その人の行方を追いたいんです」
皇帝の弱点を掴んでさえいれば、他にもできることがあるかもしれない。もしかしたら、内通者だって捕まえられるかもしれないのだから。
手詰まりだったはずの内通者捜しをするために訪れた医局だったけれど、思わぬ発見があった。
結局はふたりは「医局の薬を届けるという名目程度なら」と私にお使いという形で寺院に派遣されることになった。
医局より離れた先。後宮内の中でも比較的頑丈な壁に取り囲まれている場所がある。そこが後宮内に存在している寺院だ。
「何用だ?」
女兵士に警戒されたので、私は頭を下げる。
「医局より、お薬の手配に伺いました」
「医局の者か、わかった」
大きな門が開けられるのを見ると、なんとも言えずに苦々しく思う。
これは私がかつて後宮に入れられたときと同じ。出家してしまったら二度とここから出られなくなってしまう門は、後宮にかろうじて住まうものだけが出入り自由にできる。
ここから先は、後宮の負の側面を覗きに行くことになる。元々この国の後宮は歪んでいて、正の部分なんてほぼほぼ見当たらないけれど、後宮に入れられて二度と出られなくなってしまった妃たちに、ここで死んで弔われた人々の墓。それを弔い続ける女性たちに会いに行くのだ。
「全く……今年はいくらなんでも食事が困難になっている妃が多過ぎる」
「本来後宮内だけは食事に困らないところなんですけどね。首都は閑散としているし、よその地方はもっと悲惨だし」
ふたりが文句を言いながらも記録を付けている中、私はそれらを妃の位ごとに帳簿を片付けていた。
「お疲れ様です……あのう、なんかこの帳簿の棚、おかしくないですか?」
「うん? どうかしたか?」
「たしか今の後宮には、皇后はいなかったはずですよね? 皇后の記録があるんですけれど……」
皇后は本来、皇帝陛下の正妻であり、後宮内でも一番身分の高い人のはずだけれど。今はその席は空白のはずだった。
皇后を決めるっていうのは、唾競り合いになることが多く、政治的な権限も大きくなるために、いくらあれだけ酒池肉林に溺れている皇帝陛下であったとしても、自分ひとりの権限だけでは決められないはずなんだ。
私の言葉に、石楠さんは黙り込んでしまった。
「あ、あのう……私まずいことを言いましたか?」
「一応、皇帝陛下にも本来は皇后様がいらっしゃったはずなんですよ」
「え……そうだったんですか。すみません。勉強不足で」
「ええ、ええ。彼女のことは、もう医局の記録でしか確認できないでしょうしねえ」
「あれ、でも皇后ですよね? そんな人のこと、どうこうなんてできるんですか?」
政治的にも一番影響力があり、官吏だって諸侯だって黙らせる程度の立ち振る舞いの末に就任するはずだ。
もしも皇后よりも立場や影響力が強くなるとなったら、それはもう皇太子の母の座を獲得するしかない。今の皇太子は紫珠様で、紫珠様のお母様はとっくの昔に亡くなっているから、影響力もへったくれもないのだけれど。
石楠さんが返答に困っている中、泡桐さんが口を開いた。
「彼女は廃籍されたんだ。今は寺院に入ってらっしゃる」
「それは……あれ、それって大丈夫なんですか? 政治的な意味で」
「本来ならば一番考慮するべきことだが。だがこれを公表したら、皇帝陛下の地位が崩れると判断した官吏により、闇に葬られた」
「そんな……皇后が廃籍されるようなことが起こったんですか?」
「……彼女にはなんの落ち度もないが……この国ではなかなかまずい自体になった。彼女の産んだ子供の存在を、彼女ごとなかったことにされたのだ」
私は言葉を失った。
忌み子。なにかしら問題がある子が産まれたがために、その子の存在を隠すため、皇后ごとなかったことにされた。そして、その子の存在自体が皇帝陛下の地位を揺るがしかねないと。
私は尋ねた。
「その子は……もう亡くなってしまったのでしょうか?」
「今生きていたら既に成人されているはずだが……ここに残っている帳簿は、母子の成長記録くらいしか残ってないぞ」
「それでかまいません。少し読んでみてもいいですか?」
「かまわないが……だがこの記録をよそに写すのは駄目だぞ。我々の首だって飛びかねない」
「わかっています」
私はどきどきしながら、その帳簿を読んだ。
【花歴七年 誕生 母子共に健康】
【花歴七年 母子共に身長体重問題なし】
本当にただの成長記録であり、子はどんどんと大きくなっていくのがわかるものの、私は何度も何度も読みながら、どうしても違和感が拭えなかった。
「あのう……産まれた皇后の子は、性別書いていませんよね? 読み落としたのかと思って何度も何度も確認しましたけど、記録が漏れているようなんですが……」
「記録は漏れていません。それが正確なんですよ」
普段は柔和な石楠さんの口調が硬い。私はその硬い返答に言葉を詰まらせた。
「待ってください……性別が書いてないんじゃなくって、書けなかったんですか?」
「はい。ときおり産まれる子の中には、陰陽どちらも備わっている子が産まれることがあります。それは吉兆の証として、その子はほぼなんの問題もなく皇帝の座が据えられることがありますが……」
本当に稀に存在するらしい。男性であり、女性でもあるという人が。元々槐国でも女性は蔭、男性は陽と示されることがたびたびあるけれど、それらをどちらも兼ね備えているというのは縁起がよかった。
でも……ここにわざわざ書かれてないってことは、陰陽どちらもない、つまりは男性でもなければ女性でもない……。
「凶兆の子が産まれたということで、それはそれは官吏は慌てました。まさかその子のことを公表する訳にもいかない。もしその子の存在がわかれば、諸侯は反旗を翻しますし、元々低かった民意がますます国から離れていきます。それを避けるために、母子共々寺院に送り込み、いなかったものとしてしまったのですよ。皇后の実家には病死だと示した末に」
「そんな……」
「まあ、実際にその子は男でもなければ女でもない。皇帝陛下からしても扱いに困ったんだろう。本来、皇后の子ならば、たとえ皇太子にならずとも、それなりに土地を与えて諸侯にすることだって、政略結婚の駒にすることだってできたはずなのに、どちらにもできない子というのに」
「あの人いくらなんでも無茶苦茶過ぎませんか!? 私、ここに来て皇帝陛下の株が上がったことなんてちっともないんですけど、下がりっぱなしなんですけど」
女好きな上に、自分の正妻と子に対してもそんな仕打ちをするって。いったいどれだけあの人、勝手に落ちぶれていくんだよ。これで天命が尽きないって、いったいどうなっているのか。
頭が痛くなりながら、「寺院って、私も行けるんでしょうか?」と思いついたことを言ってみた。
「後宮内の寺院ですけど、お参りに行く程度のことは」
「あれはよほど信心深い人間でない限りは、正月くらいしか行けなかったはずだが」
「ちょっといろいろ思うところがありまして、その皇后のお子さんについては調べたいと思いまして」
「そりゃまあ……あれの存在を公表できたら、皇帝を失脚させられるだろうしな」
「でも下手な立ち回りをしたら、槐国そのものが傾きかねませんよ。人はどうしても星の巡りを大切にしますから、星の巡りが悪いというものについては、冷徹になりがちです」
そうきっぱりと石楠さんに咎められ、私は肩を竦めた。
……そうだった。仮に皇帝陛下を失脚できたとしても、これが原因で紫珠様が皇帝に就くことができなくなったらおんなじなんだ。
私は肩を竦めながら「それでも」と口を開いた。
「私、その人の行方を追いたいんです」
皇帝の弱点を掴んでさえいれば、他にもできることがあるかもしれない。もしかしたら、内通者だって捕まえられるかもしれないのだから。
手詰まりだったはずの内通者捜しをするために訪れた医局だったけれど、思わぬ発見があった。
結局はふたりは「医局の薬を届けるという名目程度なら」と私にお使いという形で寺院に派遣されることになった。
医局より離れた先。後宮内の中でも比較的頑丈な壁に取り囲まれている場所がある。そこが後宮内に存在している寺院だ。
「何用だ?」
女兵士に警戒されたので、私は頭を下げる。
「医局より、お薬の手配に伺いました」
「医局の者か、わかった」
大きな門が開けられるのを見ると、なんとも言えずに苦々しく思う。
これは私がかつて後宮に入れられたときと同じ。出家してしまったら二度とここから出られなくなってしまう門は、後宮にかろうじて住まうものだけが出入り自由にできる。
ここから先は、後宮の負の側面を覗きに行くことになる。元々この国の後宮は歪んでいて、正の部分なんてほぼほぼ見当たらないけれど、後宮に入れられて二度と出られなくなってしまった妃たちに、ここで死んで弔われた人々の墓。それを弔い続ける女性たちに会いに行くのだ。



