宦官棟に戻ると、黄精さんが出迎えてくれた。

「お帰りなさいませ」
「ただいま戻りました。あのう、紫珠様は……」
「皇帝陛下に宣戦布告をしたも同然ですからね。今は皇太子宮に篭もってらっしゃいますよ。もちろん根回しの仕事もなさっていますが」
「ああ……」

 皇帝陛下の後宮で、堂々と皇帝が目を付けた女を「皇太子妃」と宣言したんだから、喧嘩を売ったと思われてもおかしくはないだろう。
 ……もっとも、正一位の妃の前で皇帝が他の女を口説くなんて馬鹿な真似をしなかったら、紫珠様も皇帝陛下の隙を突くこともできなかっただろうし、私を助けることもできなかっただろうなあ。あれは何個も運が重なった結果だ。

「この件で皇帝陛下に紫珠様嫌がらせされませんか?」
「それは問題ないかと思います。むしろしばらくは皇帝陛下の女遊びも控えめになるかと」
「うん?」
「梨妃様を怒らせてしまったのがまずかったですね。彼女の実家は槐国名門の将軍家系なんですよ。もし彼女になにかあったら、彼女の実家が黙っていません。このことを実家に報告すると言ったら最後、首のすげ替えが行われてもおかしくはありませんから、しばらくの間はかの皇帝陛下も梨妃のご機嫌取りをするかと思いますよ」
「なるほど……」

 梨妃は、綺麗だがどうにも下品な印象があり、不可解だったけど。力でねじ伏せる家系の人だったのなら、なんとなく理解ができた。彼女を怒らせたら命がないから、しばらくの間は女遊びは辞めるってことね。
 逆に言ってしまえば、紫珠様たち反乱側にも猶予が生まれたって訳だ。

「でもこれからどうしようって悩んでいるところ」
「とおっしゃいますと?」
「紫珠様と連絡取れない間、私にできることってなんだろうと」

 さすがに春妃から、内通者がいると指摘されたことまでは言わなかった。黄精さんがそうかどうかはわからないけれど、一番いる可能性があるのはこの宦官棟なのだから、まだその情報は伏せておきたい。
 私がそう言うと、黄精さんは顎に手を当てた。

「そうですね……でしたら、医局に潜り込むというのはいかがでしょうか?」
「はい?」

 思ってもいない話に、私は目をパチクリとさせた。黄精さんは言う。

「はい、医局には医師がいらっしゃいますから。さすがにそこに勤める医師は、政治大局に関わっては困るという人材を入れておりますから、どの妃や宦官とも癒着ができません。そこで助手という名目で詰めれば、それぞれの妃たちの情報や宦官たちの情報も手には入るかと。今の後宮はどうにも政治がどのようになっているのか、紫珠様も含めて把握が難しいほどに混沌としておりますから。今書類を捏造しているあなたくらいでなければ、医局に潜り込むなんてこと、できないかと思いますよ」

 なるほど。そりゃ一度この後宮も流行り病のせいで全滅しかかったんだから、まともな人材しか医局に置いておける訳がない。紫珠様のお母様だって、流行り病の治療が原因で亡くなったし、宦官も亡くなったと伺っているから、慢性的な人手不足は否めないだろう。

「わかりました。ただ……私はあまり医療知識などないんですが、そんなのが医局にお手伝いに行って大丈夫なんでしょうか?」
「ですが丁香様。あなたは大商家の名門家系の出。目利きは得意でしょう? 医局に詰めてらっしゃる医師たちは、腕利きではあるんですが、少々人がよ過ぎてぼったくられやすいんです。薬や容器、様々なものを商人に売りつけられた際に、諫めてくださればと」
「……そんなことでお役に立てますかね? それならば、私にもできそうですけど」
「はい。知見を広げてくださいませ。それで殿下のお力になれるかと。それでは、そろそろ食事を用意致しますね」
「はい、ありがとうございます」

 私が会釈すると、黄精さんはにこりと笑って立ち去っていった。
 本当に、あの人は謎なんだよなあ。未だにあの人、宮女なのか宦官なのかすらわからないし……しかも。
 紫珠様が生き残ったっていう、後宮解体一歩手前の惨劇、なんであの人は知っているんだろう。あの人が言った内容は、噂話と言うにはあまりにも生々しくて、しかも現状を見てきた紫珠様とほぼ同じことを言っていた。
 あの人は、私と同じで紫珠様に匿われた身分の人なんだろうか。それとも。
 そこまで考えて、私は黄精さんに「医局にお手伝いに行くにはどうすればいいですか?」と夕餉の際に尋ねることにした。
 とにかく今、この後宮で誰が敵で誰が味方かわからないことが問題なんだ。
 妃も宮女も、そのほとんどは無理矢理後宮に連れてこられた人たちとはいえど、皇帝に逆らうだけの度胸や胆力がある人ばかりではない。長いものに巻かれろと、上級妃に着いてしまう人だっているだろうから、確実に敵味方を見極めなかったら、大変なことになってしまう。
 私は「やるぞーっ!」とひとりになったときに自分自身に気合いを入れたのだった。

****

 半夏さんたち楽団も、しばらくは後宮で興行もないため、外に出なければいけない。
 せめて見送りくらいはしても大丈夫かと黄精さんに確認を取ってから、私はこっそりと宮女の格好をして見送りに来ていた。
 私は紫珠様がしばらく皇太子宮で軟禁状態だという旨を伝えると、半夏さんは渋い顔をしていた。

「そうか……皇帝陛下がしばらく身動き取れなくなったのはいいが、殿下も動けなくなったと」
「はい。私もしばらくは紫珠様と連絡ができませんから、その間は情報収集に努めようかと思っています」
「お前さんも熱心だな。皇帝陛下に顔を覚えられたのに」
「いや、全然。あの人私の顔なんて覚えちゃいませんよ」

 舞台化粧で盛られていただけで、私の顔つきは特に派手さも繊細さもない顔だ。現に私は半夏さんたちが天幕を張っていた興行現場に来る際に梨妃のところで見かけた宮女たちとすれ違ったけれど、誰ひとりとして私に気付かなかった。
 女好きが過ぎる皇帝陛下も、まさか同じ女に二度に渡って逃げられたとは思ってないだろう。そもそも付け火やら暗殺未遂やらで同じ女が関わっている事実を全く把握してない皇帝だ。あの人自身、後宮側からも官吏側からも相当情報規制を受けていて、自分の危険に関わる情報把握してないんじゃないかと思う。
 私のけろっとした態度に、半夏さんはなんとも言えない顔をした。

「なんというか……お前さん図太いな?」
「図太くなきゃやっていけませんよ。私は後宮が解体されない限り、ここから出られない身の上ですから」
「なるほどなるほど。俺たちも、殿下と連絡が付き次第、どうにか次の策を決行する方法を探るさ。また、次の祭りでな」
「祭り……また他にもあるんですか?」
「ああ。後宮に来てそこまで経ってないから、行事には疎いか。次は建国記念の花祭りでうちは興行する予定だ。そのときにでも、ここにまた来るさ」
「ああ……!」

 このところ、どこもかしこも不景気で、首都ですら建国記念の祭りは年々縮小されていたし、他の地方ではそれどころではなかったはずだけれど。我関せずな後宮ではずっとやっていたらしい。
 逆に言ってしまえば今回もやる予定なんだから、そのときにまた暗殺の機会もやってくるという話だ。

「わかりました。お待ちしております」
「ああ。丁香。それまで殿下をよろしく頼む……あとお前さんもあんまり思いつめるなよ」

 言うだけ言って、半夏さんは天幕を畳む作業に戻っていった。私も頭を下げる。
 あの人たちは演舞と一緒に暗殺の技術を磨くだろうし、機会を窺っている。まだちっとも折れてはいないんだ。
 私だって。せめて味方を増やさないといけないんだから、なんとかしないと。私は握り拳をつくりながら、一旦宦官棟へと帰っていった。
 明日からは、医局で仕事だ。