馬車が揺れている。私は窓の敷居の隙間から首都の街並みをぼんやりと眺めていた。
 行き交う人々。どこか背中が丸いのは、疲れているのか、日差しのせいか。

「行儀が悪い」

 そうお母様に言われて、敷居の隙間に指を突っ込むのを窘められるけれど、私は無視をした。

「だって私、この光景を二度と見られなくなるのよ? もう二度と見られなくなる光景をこの目に焼き付けておいて、なにがいけないの?」

 そううそぶくと、お母様はこれ以上なにも言わなかった。
 本日吉日。方士曰くそうらしいが、私は方士の占術はいまいちよくわからない。
 今日、私は家を出て、後宮へと嫁がないといけない。

 ──どうしてこうなった。

 そう胸中で不満を溜め込んでいたものの、仕方がなかった。
 なぜなら、後宮に入るはずだった姉が、逃げ出してしまったのだから。

****

丁香(ちょうか)、丁香」

 その日、私は庭先で剣の稽古をしていた。
 うちは槐国(えんじゅこく)内で手広く商売をやっている家系だけれど、基本的に女しか生まれなかった。しかし遣り手の父は言う。

「いい男がいたら婿にできるし、いなかったら娘に継がせるし、なにも困った問題じゃないよ」

 実際に、うちの美貌の姉は、うちの店を継ぐために日々商売の勉強をしていたし、思い人の使用人を婿に取って頑張るのだろうと思っていたが。
 姉に国から急に話が舞い込んできたのだ。

「長女を後宮に妃として献上するように」

 端的に言ってしまえばそういう話だった。
 姉は半狂乱になった。

「嫌よ……だってあそこ、死んでも出られないじゃない……!!」

 お父様は商売は遣り手であったものの、現皇帝陛下の色ぼけ具合は、さすがに予想していなかったみたいだ。
 槐国の後宮は、女にとっての牢獄とは、この国を生きる女であったら誰だって知っていることだった。
 いわく、一度入ったら出ることはできない。一応親戚が訪問に行くことはできるものの、妃が出られることはまずないのだ。
 いわく、皇帝陛下が死んだ場合、出家させられる。大昔は皇帝陛下の妃は、全員皇帝の道連れで全員生きたまま埋められたらしいが、今はさすがにそこまでと判断されたのか、全員出家させられた挙げ句、後宮内の寺に勤めることになる。
 なによりも問題なのは、現在の皇帝陛下。
 はっきり言って評判がすこぶるよろしくない。
 増税や軍事に傾倒しはじめたのはもちろんのこと、すこぶる色ぼけだという評判で、美女という美女が後宮内に連行されてしまうという。そのせいで、首都では女性は男装してないと生活できないというおかしなことになってしまった。
 かくいう姉も、店を継ぐためにずっと男装していたというのに、どこでばれたのかはわからないけれど、こうして後宮に入らないといけなくなってしまったと。
 気の毒になあ。私はそう思いながら剣の稽古を続けていた。
 男のふりをするために、首都では武道の稽古は推奨されている節すらあった。他にもいろいろあったものの、私には剣の稽古が一番性に合っていたらしく、剣を振るっていた中、父が声を上げた。

「……後宮に召喚が来ていた姉が逃げた」
「えっ」
「本当だったとも。使用人と駆け落ちしたんだよ……他の姉さんたちだって、縁談を切ることはできないし」

 私以外の我が家は、既に縁談がまとまっていた。
 首都が辛気臭いからと、姉たちはこぞって首都以外の治安のいい場所に行ける方法として、縁談で良縁の嫁ぎ先に行きたがったし、実際にお父様の見つけてきた縁談は皆良縁だったのだから、それをわざわざ断る理由がないのだ。おまけに商売に都合がいい縁談先なのだから、それを切ってしまえば、商売の信用問題にも関わる。
 その点、私にはその手の話が全くなかった。いや、あったことにはあったのだけれど。
 首都の現状のせいとはいえど、手にまめができるほど剣の稽古に明け暮れる私を、縁談相手はだいたい嫌がったのだ。

「なんで女がそこまで強くないといけないの」
「女は子供が産めれば充分」

 そんなことばかり言われて、私は縁談相手について「やっていける自信がない」とお父様に伝えて断り続けていた。
 こうしてずるずると残っていたのだから、私にお鉢が回ってきたのだ。

「……えー」
「丁香、そう言うな。うちも跡継ぎ問題が知れ渡ったら揉めるの間違いなしなんだから、せめて後宮の召喚問題くらいさっさと解決したい」
「まあ、ねえ……」

 長姉行方不明により、大商家の跡継ぎが浮いてしまったと知ったら、そりゃ姉婿や姉の旦那が沸き立つだろう。なんたって槐国全域で商売をしている大商家の後継ぎなんだから、商売人としては天下を獲ったも同然だ。
 たしかに家の問題で大変な中、後宮の召喚についてまで長引かせたくはないだろう。
 お父様の気持ちはわかった。しかし、私の気持ちは全く考慮されていない。

「……でも、後宮に入ったら、私一生出られないじゃないですか」
「大丈夫だ、丁香。お前ははっきり言って、醜女じゃないだけで、普通だから!」
「……はあ?」

 実の娘に言う話か。
 たしかに私は姉たちと比べたら腕力はあっても華は全くないが。お父様は続ける。

「現皇帝は無類の面食いと聞くから、お前が普通だと知ったら、さっさと開放するかもしれない」
「それ、あくまで噂ですよね!? だって後宮から出てきた人の話なんて聞いたことがないし!」
「物語の主役は美男美女と相場は決まってるんだから、普通の人間の話なんて話題に上るもんか」
「それ、実の娘に言う話じゃないですよね!? むっちゃ失礼だってわかってますか!?」
「とにかく! うちも後宮に物を売っている! ここで大手取引先を無くす訳にはいかないんだよ! 言ってくれるな? 丁香?」

 はっきり言って行きたくなかった。
 皇帝陛下は、前に神輿に乗って首都を練り歩いているのを見たことがあるけれど、太くておっかなくって、しかも助平そうだった。
 後宮には女と宦官以外だったら皇帝陛下しか男の人がいないのに、会える男の人があれだと思うと、ものすごく嫌だった。でも。

「後宮内って、剣を持っていっては駄目ですか?」
「……剣舞用って説明できるんだったらね」
「なら行きます」

 ……姉がいなくなったせいで、実家が没落するのも後味が悪かった。
 そんな訳で、私は化粧を塗りたくられて、重たい服を着せられて、こうして馬車で送られているのだ。

****

 お母様は馬車を降りていく私を、名残惜しそうに見ていた。

「丁香……元気でね」
「お母様も風邪を引かないようにね」
「どうか……どうか……無事でね……」

 お父様と姉たちときたら、絶賛跡継ぎ問題にかかりっきりでそれどころじゃなく、お母様以外誰も見送りがなかった。
 まあいっか。いきなり召喚されて後宮に入れられるものの、お渡り……つまりは後宮に皇帝陛下が訪問……してくるまでは、好きにしていいんだろうし。
 私は宮女に案内され、後宮の中に足を踏み入れた。

「ようこそご足労願いました」
「いえ」

 宮女が案内してくれたのは、意外なことに簡素な屋敷だった。
 後宮内に屋敷があるんだ……と私はぼんやりと見上げる。うちの家もそこそこ裕福だとは思っているけれど、後宮内に存在する屋敷は、ひとりの妃が住むにはやや広い。その上、実家からは特に人を連れてきていない。

「あのう、私は一番下の妃だと思っていたのですが、ここに住むのですか?」
「いえ、違います。今夜はお渡りがございますから、ここはそのための屋敷です」
「……えっ」

 ええっと、後宮に入った場合、一番下の妃はほぼ宮女と同じ立場で、中で働くんじゃなかったっけ。しかも、いきなりお渡り……?
 お渡りとは子作りのことを差す。国からしてみれば、世継ぎづくりは執務の内でも、いきなり召喚された妃に早速手を出すのは、聞いたことがない。しかもうちの場合は足下を見られまくった末に、姉が逃げて私が放り込まれたのだ。
 お父様の嘘つき! 面食いどころか、皇帝陛下は色ぼけじゃない! やっぱり噂の通りだった!
 宮女はこちらを見て、頭を下げた。

「服と化粧の世話は、下働きが派遣されますので。お渡りが終わりましたら、妃様の部屋にご案内致しますので、どうぞご辛抱のほど、よろしくお願いします」

 そう言い残して、薄情にも立ち去ってしまった。
 まだ日は高い。夜の話しかしてないというのに。
 私は腹が立ってきて、ベシッと持ってきた荷物を床に叩き付けた。カランカランと音がするのは、青竜剣を持ってきたせいだ。
 冗談じゃない。こんなところにいられるか。私は逃げるぞ。
 既に実家のことも、姉たちのことも、お父様のことも頭から抜け落ちていた。今は怒りしかない……お母様だけはどうにかしてあげたいけれど、私だけの力じゃ無理だ。
 着ていた着物はごてごてとして動きにくいため、首都で着ていた男装用の着物に着替える。袖も筒状で動きやすく、なによりも袴が動きやすい。荷物をできるだけ軽くしてから、最後に腰に青竜刀を差すと、私は走りはじめた。
 元来た道は覚えている。手慰みで覚えた剣でどれだけ戦えるかはわからないけれど、目くらましで逃げるくらいまでだったら、なんとかなるかもしれない。
 お渡りのある屋敷は、後宮の中でも特殊な立ち位置のせいか、幸い人通りがない。このまま誰にも見つからず、逃げ切れれば……!
 そう思っていたところで。
 ふわり、と匂いがすることに気付いた。

「……え?」

 かぐわしい匂いは、薔薇の匂い。首都でも商家の庭先では育てられることがあるが、今はその季節じゃない。薔薇の調香は高く、その匂いを漂わせている者は、ただ者ではないことだけはわかった。
 私は剣の柄に手をかけるか迷った。

「おやおや、珍しいな」

 低い声が聞こえた。
 振り返って息を飲んだ。

「……花神(かじん)

 黒い御髪を長く伸ばし、桃色の着物を纏って薄衣を巻き付ける姿が、春を告げる存在で知られている花神の化身と言われても信じそうだった。
 それに快活に笑いかけてくる。

「あれの渡りがあると言うと、大概の女はそんなの嫌だと逃げ出すがねえ……まさか、得物を腰に差して、男装して逃げようとするほど気合いの入った逃げ方をするのは、初めて見たさ」

 そのしゃべり方は不思議だった。
 低い声で音こそ小さいが、不思議と聞き取りやすい。なによりもその綺麗な人の存在感は、一瞬だけでも逃げ出そうとしている事実を忘れさせるほどだった。