「お待たせ」
授業が終わって図書室に向かい、机に座っている黒田の後ろ姿に声をかける。お団子頭をぶるんと震わせて黒田が振り返る。
「あ、お疲れさま」
黒田は相変わらず数学が苦手なようで、机には数学の教科書が開かれていた。付き合う前、図書室で待ち合わせしたときと同じだ。
おれが来たからと荷物をまとめようとしはじめる黒田の前の席に腰を下ろす。お互いの予備校に移動しやすい駅まで向かってから、近くの店で時間を潰すことになっているけれど、今はなんとなく、この場所で黒田を見ていたくなる。
黒田の顔を見るまで、内心イライラしていた。
でもこうして向かい合っていると、少し落ち着く。
やっぱり、顔を合わせて話すほうがいい。ひとりであれこれ考えてイライラするなんてばかばかしいし、交換日記で話をしようとしたって、無理がある。結局、文字にするよりも直接言葉を交(か)わすほうがずっといいってことだ。
じゃあ、おれらのしている交換日記の存在理由ってなんだろうな。
付き合った当初は、面と向かって話すのに黒田が慣れてなかったからだ。でもいつまでもそうしているのもおかしいよな。
勢いで書いたものだったけれど、冷静に考えると、別にどうってことのない内容なんじゃないかと思えてくる。
「どうしたの?」
「いや、べつに」
頬杖をついて眺めるおれに、黒田が首を捻る。おれが動かないからか、黒田は手を止めてまわりをそっと見回した。つられるようにおれも見回す。テスト期間にはまだはやいからか、図書室にはほとんどひとがおらず、静かだ。
「あの、瀬戸山くん」
黒田がおずおずとおれに話しかけてくる。ひとがいないぶん、黒田の小さな声は図書室によく響く。
「十月の、三日のことなんだけど」
言いにくそうに言葉を紡ぐ黒田に耳を傾けた。
黒田はゆっくりと時間をかけて言葉を選ぶから、急かさず続きを待つ。
「その日、放課後、なにしてる?」
「なに、って? 別になんの予定も入れてないけど」
「誕生日だから、出かけたりするのかな、って」
「誕生日だからって遊びに行かないといけないわけでもないだろ。黒田と会うならまだしも」
なんだかんだ、おれの誕生日に用事があることを黒田は気にしているのだろう。あ、それだけじゃないんだっけ。米田に相談するくらいだもんな。
「黒田と会えないからって女子に祝ってもらうつもりもないし。ヨネがなんか言ってたけど、なんか面倒くさいこと企んでたから断ったしな。だから――」
「あー……そっかあ」
安心するだろうと思って口にしたのに、黒田は沈んだ表情になった。けれど、口をつぐんで、それ以上なにも言わない。気持ちが沈んだ理由を、おれには話さない。
「なあ」
机の上で腕を組み、黒田に呼びかける。
「ヨネに、なにを相談してんの?」
黒田の体がびくりと跳ねた。
「いや、米田くんには相談っていうほどのことは、なにも」
「ヨネにはってことは、別のやつになんか相談でもしてんの?」
「それ、は」
黒田が視線を彷徨わせる。ウソをつくことが下手くそな黒田は、誤魔化すことも下手くそだ。そういうわかりやすいところが、黒田のいいところでもある。でも、今はそんなバレバレのウソをつくなら素直に口にしろよと言いたくなる。
どんなウソを隠していても、これまでならその奥の本音を感じた。
でも、なにもわからない今は、不満しかない。
いやいや、落ち着け、おれ。この感情のまま口にするとさすがにまずい。目を瞑って眉間に皺を寄せる。冷静になろう、と思っているのに、頭の中にはやっぱり不満が渦巻く。
ヨネになにかを話しているのはまちがいない。加えて、ヨネ以外にもなにかしらの相談しているらしい。松本とかヨネの彼女とか、だろうか。
そこに、ふと有山の顔が浮かんだ。
黒田が珍しく話していた男子だ。
体の中に、もやっとしたものが生まれて、体中に広がる。
「どんなことを、誰に、相談してんの?」
「たいしたことじゃ、ないよ」
「じゃあなに」
「それは……」
突っこんで質問を続けると、黒田はどんどん気まずそうに目を泳がしはじめた。おれに言うつもりはないんだろう。そして、それを後ろめたく感じているのがわかる。
「おれのことだから、おれには言えないのか」
「そういうわけじゃ……ないけど」
でも、言わないんだろ。
それに〝おれのこと〟という発言を否定しなかった。つまりやっぱり、おれのことなんじゃねえか。
困ったように眉を寄せる黒田に、唇を噛む。おれの態度に黒田が小さく体を震わせた。ビビらせたいわけでも、萎縮させたいわけでもないのに、なんでこんなことになるんだと、どうすりゃ正解なんだと考えると、ため息しか出てこない。
「なあ、おれに言えないことでもあんの? 別に怒んねえから、なにかあるなら言ってほしいんだけど」
できるだけ怖がらせてしまわないように、ゆっくりとやさしい口調を心がけて伝えた。黒田は迷っているのか口を動かし、けれどなにも言わずに閉じる。それを数回繰り返してから、意を決したように口を開く。
「その、瀬戸山くんの誕生日のことで」
「それだけじゃねえだろ?」
誕生日に女子と出かける話は昨日のことだ。
その相談をずっと前からしていた、なんてことはないはずだ。
「もうウソつかないでいいから。そういうのもういらねえ」
そんなふうに誤魔化してまで言いたくないことなのかよ。
あーもう、むしゃくしゃしてきた。
「言葉にするのがいやなら、交換日記にでも書くか?」
カバンからノートを取り出して、黒田に差し出す。
「書き終わるまで待っててほしいなら待つし、明日のほうがいいなら明日でもいいし」
黒田は一瞬考えてからノートを受け取った。そして「今、書く」と答える。その表情は今にも泣きそうなほど歪んでいたけれど、勇気を振り絞っているのがわかった。
少なくとも、黒田はこれ以上誤魔化そうとしないだろうと安堵する。
面と向かって話し合いたいところだけれど、おれもこのままじゃなにを言うかわかんないし、黒田も口下手だからなかなか話が進まない。目の前でのやりとりならまあいいか。
と思ったところで気づく。
昨晩、勢いで書いた内容が、脳裏に蘇る。
「あ、ちょっと待っ――」
弾かれたように顔を上げてノートに手を伸ばす。けれど、それはすでに遅かった。
黒田はノートを広げてかたまっている。
「これ……」
「それは、その、気にすんな」
「瀬戸山くんは、もうやめたい、の?」
呆然とした顔で訊かれて、返事に詰まる。
やめたいかどうかで言うと、どっちなんだろう。
もういいんじゃねえの、とは思っている。けれど、いやなわけではない。
大事な話をしているわけではないから、なくてもいい。でもどうでもいい会話は、それなりに楽しい時間でもある。
一瞬有耶無耶にするのがいいかと考えたけれど、でも、やっぱりそういうのは、おれには向いていない。
「言いたいこと言わないで、薄っぺらい会話を続ける交換日記って、ウソついて当たり障りのない会話をしてるって感じじゃん」
見られてしまったなら、仕方ない。もうおれも結構我慢の限界だし。いい機会だ。
「本音を書けるノートなら、意味があるんだろうけど」
でも、ここ数日のおれと黒田は、そうじゃない、気がするから。前までは、このノートの中には黒田がいると感じられたのに、そう思えない。
しばらく会えないって言っても物分かりのいい返事をする。
理由を尋ねることもせず、さびしさや不満も顕にしない。
――おれは、それを求めていたんだろう。
誕生日に会えないことを拗ねる自分のように、黒田にもなにかしら感じてほしかった。
自分がウソを吐いたのに、こんなふうに思うおれは心底かっこ悪い。
情けないウソを吐いて黒田の気持ちを試すようなことする交換日記なんかないほうがマシなんじゃないかと思えてくる。
「……そっか」
黒田が静かに呟く。
感情が消えたような声に、黒田を傷つけたんだと実感する。
心臓にナイフが刺さったみたいに苦しくなる。
「黒田はおれがどうする?って訊いたら、どっちでもいいって、言いそうだな」
声に出して、黒田が言葉を続けるのを先回りして回避する。黒田を傷つけておいて、自分が傷つくのを避けるなんて、最低だな、と思ったけれど気がついた時には口にしていた。
黒田の〝どっちでも〟はどうでもいいわけではない。そんなことは知っている。悩んだ末の返事だとわかっている。
でも、今はその返事に〝どうでもいい〟という意味が込められているような気がしてしまう。そんなふうにひねくれて受け止めてしまう。
そして。
「そんなこと、言わないよ」
黒田にそう言われると、気を遣わせて無理をさせているようにも思えてくる。どっちの返事も受けいれられない自分の心の狭さを実感する。
「おれ、ウソついたんだよ」
「え?」
「しばらく会えないっての、ウソ」
おれの告白に、黒田は目を瞬かせた。突然なんの話かと思っているのだろう。
「なんでそんなウソついたのか、聞きたい?」
ふ、と自嘲気味な笑みが溢れる。
正直なところ、そんなの黒田に言いたくない。カッコ悪い自分なんか見せたくない。訊かれたところで、素直に教えられるかもよくわからない。じゃあなんでこんなことを言い出したのかもわかんねえや。
黒田は戸惑いながらもまっすぐにおれを見つめて、しばらく考える。
どっちでも、って答えるかもしれない。
今度こそ、どっちでも――どうでも――いいと言われるかもしれない。
奥歯をグッと噛んで黒田の返事を待っていると、
「瀬戸山くんが、話したくないなら、訊かない」
黒田はそう言った。
なんでこの状況でも、おれのことを考えるんだよ。おれが言いたくないと思っていたのを、黒田はなんで察してしまうんだよ。
おれは、おれのことばかりなのに。
「おれのことはいいよ。黒田は?」
「……どっちでも、いいよ」
その返事を聞いて「そう言うと思った」と笑ってしまった。
「黒田って、他人に興味ねえの?」
「へ?」
「他人に興味がないから、自分の気持ちよりも他人を優先するのかなって」
昔、付き合う前も同じようなことを言った。
おれが高校で入部したサッカー部をすぐにやめた、と話したときだ。みんな、おれに「なんで?」と訊いてきたのに、黒田はなにも言わなかった。
そのときは、ただ興味がないからだと思ったけれど、黒田はそれ以上に相手の気持ちに合わせようとするだけだった。
でも、実際のところ〝知りたい〟という気持ちがその程度だからなんじゃないか。
それって結局、興味がないのと同じなんじゃないか。
そんな意地の悪い捻くれたことを考えてしまう。
いつか、という言葉で黒田はおれの心を軽くしてくれたのに。そんな黒田を好きになったのに。今は、なにもかもが自分に都合のいい解釈をしていただけなんじゃないかと自信がなくなる。
「わたし、瀬戸山くんのことを他人とは思ってないよ?」
「マジか。他人かと思った、おれ」
「なんでそんなこと、言うの?」
さすがの黒田も、表情を歪ませる。
おれは今、黒田をめちゃくちゃ傷つけているんだろう。
そんなことしたいわけじゃないのに、なのに、口が止まらない。
「悪い、おれが、悪い。黒田は悪くない。でも、今日は帰るわ」
「瀬戸山くん」
黒田から目を逸らして、すっくと立ち上がる。
「今のおれ、黒田がなにを考えてるのか、わかんねえんだ」
それはきっと、おれの感情がぐちゃぐちゃだからだ。
黒田はいつもどおりだ。隠していることがあって、それに不満を感じているけれど、おれは、黒田のように言いたくないなら言わなくていい、とは思えない。そのせいで、ひとり苛立って、黒田に八つ当たりみたいなことをしてしまっているんだ。
「瀬戸山くん」
呼び止める黒田の声を無視して、図書室を出て行った。