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忙しくてしばらく会えない
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瀬戸山くんからの返事に、体がびくりと震えた。
そっけない、ような気がする。いや、わたしの考えすぎかも、とも思う。
でも、不安が体を駆け巡る。
その理由は――わたしがウソをついているから、だ。
「どうしたの、希美」
江里乃の声に、体がびくりと跳ねる。慌ててノートを閉じて振り返り「なんでもない、と思う」と曖昧な返事をした。もちろん、友人である江里乃にそんな下手くそな誤魔化しは通用しない。江里乃はそっとわたしの手元にあるノートを見て、
「瀬戸山となんかあったんでしょー?」
と呆れたように笑った。そして、江里乃のそばにいた優子は「ケンカでもしたの?」と目を丸くして言う。
ノートを見ただけで瀬戸山くんの名前がふたりの口から出てくるのは、わたしが瀬戸山くんと交換日記をしていることを知っているからだ。
瀬戸山くんと交換日記をはじめてから、そろそろ一年近くになる。
といっても、最初は少し、おかしな関係からはじまった。
去年のちょうど今頃、瀬戸山くんが江里乃に宛てたラブレターが、いろんな勘違いが重なったことでわたしに届いたのがきっかけだ。
名前が書かれていなかったことや顔を合わせたときの瀬戸山くんの態度からそのラブレターをわたし宛てのものだと思いこんでしまったことから、手紙のやりとりがはじまった。
そのあとでラブレターが江里乃宛てのものだと発覚し――思い返すとなんであんなことになったのか自分でも不思議なのだけれど――わたしは江里乃のふりをして瀬戸山くんと交換日記をした。
瀬戸山くんと接点が増えていくたび、言葉を交わすたび、いつの間にか真っ直ぐな性格で、真っ直ぐにわたしのことを受けいれてくれる彼のことを好きになった。
そして――瀬戸山くんはわたしのズルいウソまでも受け止めてくれた。
ウソつきなわたしを好きだと言ってくれた。
瀬戸山くんと付き合うことになったあの日のことを思い出すだけで、胸がきゅーっと締めつけられる。と同時に、人前で告白されたこととしたことも思いだし、羞恥に悶える。もうあれから十ヶ月も経つというのに。
「交換日記をするほど仲良しカップルなのに、珍しいー」
たしかに、わたしと瀬戸山くんはこれまでほとんどケンカをしたことがない。
優柔不断で自分の意見をはっきり言えないわたしと、思ったことはその場ではっきりと口にできる瀬戸山くんは、正反対の性格だ。おまけに瀬戸山くんは女子から人気もあるので、好きになったときも、付き合ってからも、不安はあった。
けれど、付き合ってから今日まで、瀬戸山くんはいつだってわたしにやさしい。ときどきあまりにはっきりした物言いに落ちこむときもあるし、拗ねてしまうときもある。でも、楽しいとか、好きだなあと思うことのほうがずっと多い。
そんな日々を積み重ねて、今は付き合った頃よりも、好きな気持ちはずっと大きくなっている。
思ったことはその場ではっきり言う瀬戸山くんなら、ノートでのやりとりなんて時間がかかってまどろっこしい、と思っているはずだ。それでも口下手なわたしのために、付き合ってからもこうして交換日記を続けてくれる。
内容は、今日あったこととか今の気持ちとか、ときに今度のデートでやりたいことの相談とか、一、二行の短いやりとりで、かなりのんびりしたペースだ。
そんな、メッセージを送るほどでもない会話をする交換日記だからこそ、瀬戸山くんのやさしさが詰まっていて、受け取るたびに幸せに思う。
いつまでも続けていたいなあ、と思っているけれど、さすがにそれは無理だろうなあ。でも、今はまだ、やめたくないなあ。
「ちょっと、ケンカの理由を聞いたのになんでにやにやしてんの」
「これ以上聞いたら、たぶん惚気を聞かされるだけだよ、優子」
「な、そ、そんなことないよ!」
優子が怪訝な顔をして、江里乃が肩をすくめて笑う。
にやにやはしちゃったかもしれないけど!
「ケンカばっかりのあたしと米田とはちがうなあ、やっぱり」
瀬戸山くんの親友である米田くんと付き合ってる優子が頬杖をついてぼやく。
優子と米田くんは、わたしが瀬戸山くんと付き合う少し前に付き合った。同じ中学校出身のふたりは、もともと友だちだったからか、言いたいことを言い合っていて、たしかにケンカが多い。でも〝ケンカするほど仲がいい〟という感じだ。
「伝説の公開告白カップルはやっぱりちがうよねえ」
「いや、それ江里乃が言えることじゃないけどね」
江里乃のセリフにすかさず優子がツッコミをいれて、つい噴き出してしまった。
わたしと瀬戸山くんの公開告白もたしかに騒ぎになったけれど、江里乃だって似たような告白をしたのは校内では有名な出来事のひとつだ。
まさかクールでしっかり者の江里乃が、生徒のいる廊下で愛を叫ぶなんて、とわたしもびっくりした。相手はひとつ年上の、江里乃とはタイプが正反対の先輩だったのにも驚いたっけ。
江里乃はあまり自分の恋バナを口にしないので、先輩とどんなふうに付き合っているのかは知らないけれど、たぶん、大人っぽいお付き合いをしてるんだろうな。江里乃と先輩も絶対すっごく仲がいいと思う。
優子も江里乃も、わたしとはまったく性格がちがう。けれど、だからこそ、一緒にいると落ち着く、楽しい、大切な親友だ。
そんなふたりに、ここ数日悩みに悩んでいることを打ち明けてみたら、なんて言うだろう。普段は、自分から瀬戸山くんとのことを話すなんて恥ずかしくてできない。
けれど――。
「ケンカはしてないんだけど……ちょっと、ギクシャク、してる、かも」
きゅっと唇を噛んで、ここ数日わたしたちのあいだに漂っている微妙な空気を口にする。
「なんで? どうしたの?」
さっきまで笑っていた江里乃が、やさしい口調でわたしに話しかけてくる。
「わたしのせいなの」
「なにかしたの? 希美が?」
優子も意外そうに言ってわたしの席の前に腰を下ろした。
ふたりの、心からわたしを心配してくれている視線に胸がギュッと締め付けられる。これまで考えすぎじゃないか、気にしすぎじゃないか、と自分に何度も言い聞かせて過ごしていたけれど、ふたりのやさしさに心が弱る。
瀬戸山くんと一緒にいると落ち着かなくなったのは、二学期がはじまってすぐの頃からだ。そして、明らかに、目を逸らせないくらいに違和感を抱くようになったのは、先週から。
「実は……悩んでることがあるの」
うんうん、とふたりはわたしをまっすぐ見つめたまま頷いた。
「サプライズって、やっぱりだめなのかな?」
意を決して、口にする。
真剣なわたしの視線に、ふたりは目を瞬かせてから顔を見合わせて、
「やっぱり惚気じゃん」
と言った。
約一週間後の十月三日は、付き合ってからはじめての、瀬戸山くんの誕生日だ。
付き合ったのが十二月の末だったため、クリスマスはデートだけでプレゼントはお互いに贈らなかった。その後、バレンタインとホワイトデー、そしてわたしの誕生日を瀬戸山くんと過ごした。
わたしの誕生日は、一緒に出かける約束をしていたのだけれど、「今日は黒田の誕生日だから、黒田はなにも選ばなくていい日にしよう」と瀬戸山くんは事前に決めていたというデートコースをまわった。お気に入りのレコードショップに行ってすでにチケットを取っていてくれた映画を観て、ウインドウショッピングをしてから瀬戸山くんの家に行った。
一緒にケーキを食べているときに、その日わたしが目を止めたハンドクリームとリップ、そしてレコードショップで試聴していたアルバムをプレゼントしてくれた。わたしの気づかないあいだにここっそりと購入してくれていたらしい。てっきり映画やケーキがプレゼントだと思っていたので驚きのあまり泣いてしまったのだけれど、それを見て瀬戸山くんは満足そうに笑ってくれた。
とても素敵な誕生日だった。
江里乃や優子、友だちと過ごす誕生日とはまったくちがった一日だった。
そんな日を、瀬戸山くんにも過ごしてもらいたい。
でも、どんな一日にすればいいだろう。瀬戸山くんがわたしにしてくれたことと同じようなことをするのは、なんだかちがう。
瀬戸山くんに、特別な一日だった、と思ってもらいたい。
瀬戸山くんのため、だけではなく、わたしが、そうしたいから。
そのためには、〝わたし〟がちゃんと考えて決めなくちゃいけない。
――それは、優柔不断なわたしにとって、難題だ。
どうしようかと、なにをしたら喜んでもらえるだろうか、と二学期がはじまってからずっと考え悩んでいた。
やっとのことでどうするか決めたのは、先週のことだ。
「瀬戸山の誕生日のことでしょ? サプライズでお祝いするって言ってたよね?」
江里乃に言われてこくりと頷く。
瀬戸山くんは自分の誕生日にあまり特別感を抱いていない、と以前言っていた。祝ってもらうのはうれしいし、ひとの誕生日はもちろんおめでとうと心から思うけれど、と、米田くんの誕生日に話していたのを覚えている。わたしの誕生日の数ヶ月前で、だからこそ、わたしの誕生日を素敵な一日にしてくれたことに、驚き喜びでいっぱいになった。
そこで、サプライズでお祝いをしたらどうだろう、と思ったのだ。
瀬戸山くんの誕生日である十月三日は平日だ。学校帰りにどこかへ一緒に出かける約束をすれば、サプライズにはならない。そこで瀬戸山くんの妹である美久ちゃんにも協力をお願いした。学校が終わってすぐに瀬戸山くんの家に向かい、美久ちゃんと部屋を飾りつけして、一緒にご飯とケーキを作る。
そしてなにも知らずに帰ってきた瀬戸山くんを驚かす、という計画だ。
幸い、その日はわたしも瀬戸山くんも予備校がないので、放課後は時間がある。理系コースの瀬戸山くんはわたしよりも帰宅が一時間遅いので、急げば準備は間に合うだろう。
そして、その日は瀬戸山くんとゆっくり過ごせたらいいな、と思っている。
高校三年生になって、なかなか以前のようにゆっくり会えなくなった。付き合ってはじめての夏休みも、ほとんど勉強漬けで終わってしまった。
遊びたい気持ちに蓋をして、今を乗り越えたら気兼ねなく過ごせる日々がやってくるよね、とふたりで話しながら勉強に向き合った。
今はできないけれど、でも、ずっと受験が続くわけじゃないから。
でもやっぱり、遊びたい、受験なんかうんざりだ、と瀬戸山くんはいつも言っている。本音を言えば、わたしも同じ気持ちだ。
だから、その日だけはなにもかも忘れて、楽しく過ごしたい。
瀬戸山くんの誕生日だから、瀬戸山くんのために、というだけじゃなくて、わたしのためにも。
ただ、やっぱりわたしひとりで決断するのは不安があったので、江里乃や優子にもサプライズを計画しているんだけどどうだろう、と相談した。ふたりはそれを「いいと思うよ」「絶対喜ぶよ」と言ってくれた。
「決めたのになに悩んでんの? あ、もしかして有山がなんか変なこと言ったんじゃない?」
「え? 俺? 林、今俺の話した?」
優子がわたしのとなりの席に座っていた有山くんをじろりと睨む。偶然にも席に戻ってきたところだった有山くんがびくりと肩を震わせる。
「いや、ちがうちがう……! 有山くんはすごく、相談にのってくれたから」
「そうだよ、なんだよやめろよ林、ビビるだろー」
元野球部の有山くんは大きな体を縮こまらせて優子を怖がるような仕草をした。ほんとにー?と優子が冗談交じりに訝しむと、江里乃が「やめなよ優子、有山が泣くでしょ」とからかいながら止める。
有山くんは一見怖そうな雰囲気だけれど、とてもやさしくて怖がりだ。男子と話すのが苦手なわたしだけれど、有山くんはとても話しやすい。といっても、よく話すようになったのは、二学期になって席がとなりになってからだ。
優子と江里乃と瀬戸山くんへのプレゼントについて悩んでいるとき、「それ、今流行ってるって姉ちゃんが言ってたよ」と話しかけて来てくれたのがきっかけだった。
どうやら有山くんのお姉さんが雑貨のセレクトショップの経営をしているらしく、男性のあいだで人気のあるものや、プレゼントに良さそうなものに詳しいのだとか。
そこで、有山くん経由でお姉さんからお店にあるおすすめの商品の写真を見せてもらっている。
「有山くんはいろんなこと教えてくれたよ。ただ、わたしが悩んでるだけで」
「ならいいけどー。っていうかプレゼントなにするかも、まだ悩んでるの?」
「うーん……これっていうのが、なかなか、決められなくて」
「優柔不断の希美ひとりで決められるのー?」
優子に言われて、言葉に詰まる。
「松本と林は黒田のこと優柔不断って言うけど、結構『これはちがう』『こっちのほうがいいかな』ってはっきり言うよな」
そのせいで未だに決まってないとも言えるけど、と言葉をつけ足した有山くんは「な」とわたしに同意を求める。
「そう、かもしれない。自分のだったらどれもいいって思うのに、なんか、うーんってなっちゃって。あ、でも、だいぶ絞ったよ」
「俺のイチオシはサコッシュだけど、それ?」
「……いや、それは……ちがうかな」
有山くんには申し訳ない気持ちで首を振る。
いや、サコッシュはいいんだけど、いいんだけどね。瀬戸山くんがそれを持つ姿がいまいち想像できないっていうか、持ちそうにないっていうか。
しょんぼりする有山くんを見て慌ててフォローをしようとする、と。
「なにしてんの、黒田」
瀬戸山くんの声が聞こえてきて、体がびくんと大きく跳ねる。
「っせ、瀬戸山くん?」
「いや、驚きすぎだろ。どした」
振り返ると、目を丸くしたわたしに瀬戸山くんが苦笑する。
話を聞かれていたのでは、と思ったけれど、その様子はなくほっと安堵する。
びっくりした……サプライズのことを聞かれていたり、内緒でプレゼントを考えていることがバレたりしたら、お祝いどころではなくなってしまう、かもしれない。
「ど、どうしたの?」
「べつに。ヨネについてきただけ」
瀬戸山くんがくいと顎でそばにいた米田くんをさした。どうやら米田くんは優子に会いに来たようで、いつの間にかふたりは楽しげに話をしている。
「学校でしかゆっくり話す時間ねえもんな。予備校がちがうとなかなか遊べねえし」
お互い予備校に通いはじめてから、一緒に帰るのも週に一度あるかないかになっている。理系コースと文系コースは学校が終わる時間がちがうのもあるけれど。
「来月半ばにはテストもはじまるしな。黒田、勉強してる?」
「まあ……うん、たぶん」
「なんだよ、たぶんって」
ぷは、と瀬戸山くんが噴き出す。
「テストもあるし、受験勉強もあるし、忙しいよな」
「そうだね。なかなか、ゆっくり会えないね」
「そういうことだな」
瀬戸山くんはそう言って、わたしの目をまっすぐに見つめてきた。
どことなく、わたしの様子を探っているような、確認するかのような視線だ。
もしかしたら、瀬戸山くんは交換日記に〝忙しくてしばらく会えない〟と書いていたことに対しての理由をつけ加えるために、こうして会いに来てくれたのかもしれない、と思う。
秋になって、大学受験が目の前に迫ってきた。
わたしと瀬戸山くんは、別々の大学を第一志望にしている。わたしはなんとかA判定をもらえているけれど、たしか瀬戸山くんは前回C判定だったと落ちこんでいた。
だから、これから受験まで勉強に集中するつもりなのだろう。しかも今は受験だけではなく中間テストも控えている状態だ。
そっか、そうだよね。
そう考えて、換日記を受け取ってから胸の中にずっと居座っていた不安の種が小さくなったような気がした。
うん、やっぱり、わたしの考えすぎだった、のだろう。そうに違いない。
ここ最近一緒にいるときもメッセージのやりとりをしているときも、なんとなく瀬戸山くんがぎこちない気がしていたのだけれど、それもきっと、受験のせいだ。
しばらく会えないのは、わたしのウソに気づいて怪しんでいるからなのでは、と思ったけれど、後ろめたさからついつい瀬戸山くんの言動を深読みしようとして怯えてしまった。
……たぶん。うん、そう、そのはず。
「っていうか、黒田って有山と仲良かったんだな」
「へ? 仲がいいというか、クラスメイトだしとなりの席だからたまに話すだけだよ」
「なんか選んでたのか?」
「え? あ、え? いつから、そばにいたの?」
一瞬にして冷や汗が流れる。
聞こえてなかったんだー、とほっとしたところなので、頭が真っ白になってしまう。
もしかして、バレた? え? どうしよう!
「いつって、さっき?」
首を傾げて瀬戸山くんが答える。この仕草は……バレていない、と思う。
瀬戸山くんの性格なら、サプライズを計画していることを知ればすぐに、『おれの誕生日のこと?』とか『サプライズしようとしてね?』とわたしに言うはずだ。
だから、きっと大丈夫だ。
では、今この状況をどう誤魔化せばいいのか。
瀬戸山くんと有山くんは顔見知りだったのか、という今この状況ではどうでもいいことが頭に浮かんでくる。
「診断テストだよ」
あわあわしていると、江里乃が横からひょこっと顔を出してわたしのかわりに答えてくれた。
「これこれ。『あなたの恋愛傾向』ってやつ」
「なんだそれ、しょうもねー」
まるで準備していたかのように、江里乃が一冊の雑誌を広げて瀬戸山くんに見せる。そこにはたしかに『あなたの恋愛傾向』の診断テストがあった。イエスとノーのどちらかを選んでいくものだ。
さすが江里乃!
ちらりと江里乃に視線を送ると、瀬戸山くんに気づかれないようにわたしににっと笑ってみせた。
「こういうのって当たんの?」
「うーん、どうだろ。でも、ゲームみたいな感じで楽しいよ」
「ふうん」
江里乃の見せた雑誌をまじまじと見ていた瀬戸山くんが、わたしを見た。
「こういうのなら選べるんだな」
「さ、さすがにそのくらいはできるよ」
くくっと笑われてしまう。普段は〝どっちでもいい〟とばかり言ってしまい選べないわたしだけれど、このくらいはできる。ただ、選ぶのにものすごく時間はかかるけれども。選ばないと先に進めないので。
「なんでもかんでも優柔不断なわけじゃない、と思う」
「ふは、なんだそれ。全然自信ねえじゃん」
ぱたんと雑誌を閉じた瀬戸山くんが、はい、とわたしにそれを差し出してきた。いつのまにか江里乃がいなくなっているので、わたしがかわりに受け取る。
「でもおれは、黒田の〝なんでもいい〟って返事、好きだけどな」
にひひ、と白い歯を見せる瀬戸山くんは、なんの恥ずかしさも躊躇もない。そのくらい自然に、わたしに〝好き〟だと言う。
……そういうのを、さらっと、人前で口にされると、反応に困るんだけど!
思わず顔を赤くしてしまうと、
「どこに照れる要素あった?」
と瀬戸山くんが不思議そうな顔をする。
付き合って十ヶ月にもなろうとしているのに、これだけは慣れないままだ。いつだって瀬戸山くんは何気ないセリフでわたしをドギマギさせる。
「あんまりひとの多い場所で照れた顔晒さないほうがうれしいんだけどな」
「……瀬戸山くん、もう、もうやめて」
そういうことをなんの躊躇もなく言われるとますます照れるから!
両手で顔を覆って俯くと「照れるポイントがマジで謎だよな」と瀬戸山くんが心底わからないらしい返事をする。
わたしにはなぜ自分の発言のせいだと瀬戸山くんが気づかないのか謎なんだけど。
わかっている。瀬戸山くんはただ思ったことを口にしているだけだ。
それは瀬戸山くんの気持ちがまっすぐに伝わってきて、うれしい。
うれしいけど、だからこそ余計に恥ずかしい!
江里乃がどこかから、にやにやした顔か、もしくは呆れたような顔でわたしを見ているはずだ。もしかすると今教室にいる全員がそんな顔をしているかもしれない。
目を覆ったことで幾分か気持ちが落ち着き、ゆっくりと顔を上げる。まだ頬が熱い感じがするけれど、平常時に戻るには一時間ほどかかるだろうと諦める。
「中間終わったら、ゆっくり会える時間作るか」
「え、あう、うん、そうだね」
瀬戸山くんに言われて頷く。
「でも、わたしのために無理して時間を作ろうとは、しないでね。会えるのはうれしいけど、でも、できる範囲で、会えるのが一番うれしいよ」
しばらく会えない、と交換日記に書いていたことを思い出して言葉を付け足すと、瀬戸山くんは眉を少し下げた。困っているような、なにかを耐えているような、そんな表情だ。もしかしたら瀬戸山くんは、思った以上に志望校のC判定を気にしているのかもしれない。だから、そんならしくない顔をするのだろう。
「しばらく会えなくても、いいのか?」
「わたしは、大丈夫。連絡は……するけど」
メッセージや電話はできるし、学校に来れば数分だとしても会うことができる。それだけで充分だ。
瀬戸山くんに気を遣わせないために笑顔を見せて答える。
「そっか。んじゃ、また連絡する」
「うん、ありがとう」
次の授業を知らせるチャイムが鳴り、瀬戸山くんは米田くんと一緒に理系コースの校舎に向かって去っていった。
その後ろ姿を見つめながら、考える。
……このタイミングでサプライズパーティーをしても、いいのかなあ。
誕生日はちょうど、期末テストがはじまる直前だ。そんな日の放課後に、誕生日を祝える余裕があるのだろうか。瀬戸山くんの負担になりはしないだろうか。
なにより。
――『サプライズって、賭けじゃねえ?』
瀬戸山くんが以前言っていたセリフが蘇る。
「相変わらず、ストレートな性格だねえ」
江里乃がどこからともなく現れて、わたしと同じように瀬戸山くんの背中を見ながら言った。そして「瀬戸山ならサプライズも喜んでくれるんじゃない?」と言葉をつけ足す。
わたしもそうなんじゃないかな、と思っていた。素直に感情を顕わにする瀬戸山くんだから、誕生日を特別な日だと思っていなくても、わたしの祝いたい気持ちを受けいれてくれるんじゃないかと。
でも。
「……瀬戸山くん、サプライズきらいなんだって……」
力なく笑って呟くと、江里乃は「え、そうなの?」と驚いた声をあげた。
「瀬戸山くんが、そう言ったの」
「ああ、なるほど。だから悩んでたのか。まあサプライズ苦手なひともいるよねえ」
「うん……なんか、反応を返さなきゃいけないのが気を遣うから苦手なんだって……だから、自分も誰かのサプライズパーティーとかはしたくないって、言ってた」
瀬戸山くんのクラスの担任の先生が結婚する、という話がきっかけだった。クラスで担任の先生のサプライズパーティーをしようという計画が出たらしい。そのことに対して、瀬戸山くんは『サプライズにしないで堂々と祝ったほうがいいんじゃないかと思う』と言っていたのだ。
しょんぼりしながら説明すると、
「それだったらサプライズは諦めたほうがいいかもねえ」
と江里乃が言う。
そうだ。そのほうがいいだろう。
でも、問題は。
「もう、誕生日当日、用事があるって言っちゃったの……」
そのウソをついたあとに、サプライズがきらいだという事実を知ってしまったのだ。
わたしが誕生日当日、会えないのだと言ったとき、瀬戸山くんは「そっか、じゃあしゃーないな」というあっさりした返事だった。残念そうにはまったくしていなかった。そのくらい、瀬戸山くんにとって誕生日はそれほど大事なイベントではないということだ。
それはわかっていた。わかっていてサプライズを計画し、ウソをついた。そのことにも少し後ろめたさと、ほんの少しのさびしさを感じていたとき。
――『サプライズって、祝いたい側が楽しむ感じしねえ?』
そう、笑顔で言われてしまった。
数十分前に言ったばかりで撤回してもいいだろうか、いや、すぐに取り消すべきだ、そう思った。けれど。
――『それにサプライズって、ウソつかねえといけねえじゃん』
――『ウソついて、実はお祝いでしたーって、テレビのどっきりみたいだよな。おれ、あのバラエティーのドッキリって好きじゃねえんだよなあ。悪趣味だよな』
瀬戸山くんの言葉に、なにも言えなくなってしまった。
たしかに、と思ったからだ。わたしもドッキリはあまり好んで見ることはない。それに、わたしもサプライズをされると戸惑いのほうが大きくて、困ってしまうし反応に気を遣ってしまうので苦手だ。
瀬戸山くんにされたら、そんなことは思わないけど。
瀬戸山くんになら、うれしい気持ちでいっぱいになる。
でも、それはわたしの場合だ。
結局、わたしは、また、瀬戸山くんにウソをついてしまった。
その後ろめたさから、瀬戸山くんと一緒にいるとどこか挙動不審になってしまい、落ち着かない。瀬戸山くんの態度もどことなくいつもと違うような気もしてきて、余計に自然と振る舞えなくなっている。
それが、わたしたちのあいだにある空気が微妙に感じる原因だ。
つまり、すべてわたしのせいだ。
瀬戸山くんはなにもかわらない、はず。でもやっぱり、なにか気づいているような気もする。もしくはべつの理由で、わたしになにかしら思うことがあるんじゃないか。
だってわたしはウソつきだし、優柔不断だし、自分の意見をはっきり口にできないし。瀬戸山くんがそんなわたしに愛想を尽かす――という可能性だってある。
「……マイナス思考が暴走する……」
はあーっとため息を吐く。
サプライズなんて、わたしには向いていない無謀な計画だったのかもしれない。瀬戸山くんもきらいならば、考え直したほうがいいかもしれない。いや、そうしたほうがいい。
わかっているのに、なかなかその決心はつかない。
やっぱりわたしは、優柔不断だ。自分がいやになる。
瀬戸山くんとの交換日記を手に取り、ぎゅっと抱きしめた。
せめて、この交換日記ではウソをつかないようにしなくちゃ。
そう思ったけれど、今のわたしにウソ偽りない言葉を書けるのか、自信がない。
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テスト終わったら会えるかな?
それまでわたしも勉強頑張るね
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一日の授業が終わって帰ろうとすると、黒田からの返事の書かれたノートがおれの靴箱に入っていた。中を見て、黒田の書いた返事に思わず舌打ちをする。
なんだこの返事、なんだそれ。もっと言うことあるんじゃねえの?
でも、黒田ならこういう返事をすることはわかっていた。〝忙しくてしばらく会えない〟と伝えたのはおれだ。なんでどうして、と言われるよりも、こうやって相手に寄り添った考えのできる黒田のことを、おれは好きになった。だから、黒田らしいなとほっとすべきところだ。
というのはわかっているのに、釈然としない。というか不満しかない。
「だっせえな、おれ」
一体どんな返事を求めてたんだか。
察してちゃんかよ、と自分に突っこんでノートをカバンに入れる。
「お、セトも今帰りかー?」
昇降口を出ると、ちょうど目の前に立っていたクラスメイトたちが声をかけてくる。
「一緒に駅まで行こーよ」
「おー」
ふたりの男子と三人の女子の集団にまじって歩きはじめる。
「予備校マジでめんどくせーよなあ」
「予備校に模試に中間テストに受験。高三って勉強ばっかりだよなあ。もっかい夏休み来ねえかなあー」
「えー、絶対やだ。夏休みこそ勉強漬けだったじゃん。うんざり! 私がこんなに頑張ってるのに大学生の彼はめっちゃ遊んでるし、ほんと最悪!」
「セトも、彼女とのはじめての夏だったのに、なにもできなかったんじゃない?」
話を振られて「いや、べつに?」と答える。
「まあ、受験生じゃなかったらもっと遊んだかもしんねえけど。でもそれも今だけだろ。来年になれば思う存分一緒に過ごせるだろうしな」
「セトに彼女の話をすんなよ。こいつはしれっと惚気るんだから」
「惚気って、普通に答えただけだろ」
「テスト前でもやりたいことを我慢できないタイプだったくせにね」
「高校生で来年再来年のことをふっつーに考えられるところが惚気よね。うざ」
「は? 付き合ってるんだからそら来年のことも考えるだろ。なに言ってんの?」
意味がわからず首を傾げると、女子たちに「高校生の夏は今年が最後なのに」とか「付き合ってはじめての夏と来年の夏は一緒じゃないでしょ」とか「いい彼氏なんだろうけど、なんか、つまんないよねえ」と散々なことを言われた。マジで意味がわからん。
「この先もずっと一緒にいるんだから、それを考えたほうがいいじゃん」
そう答えるけれど、もちろん高校最後の夏でなおかつ黒田と付き合ってはじめての夏、になにも感じないわけではない。
一学期のあいだはまだ気楽に遊ぶ時間もあったけれど、夏休みに入ってからはお互いほぼ毎日予備校があったし、模試もあったため、顔を合わせるのは週に一回あるかないかだった。そのほとんどがおれの家で、勉強するのと映画やドラマを観るのが半々くらいの割合だ。ふたりで出かけたのは、二回だけだった。
そのことに、つまんねえな、と思わないでもない。
いや、正直すげえうんざりしていた。
もともとおれは、我慢のできない性格だ。テスト前だろうとやりたいゲームがあれば勉強そっちのけで遊んだし、休みの日に遊びに行く予定が天候で中止になるとめちゃくちゃテンションが下がる。アウトドアなわけではなく、ただ、やりたくないことを強いられるのはストレスが溜まる。
でも、仕方のないことだ。
そう思えるようになったのは、あれがしたいこれがしたいと言うおれに、黒田が『いつか、しようね』と言ったからだ。
黒田と一緒にいると、黒田が笑ってそう言うと、不思議なくらい素直にその言葉を受けいれることができる。いつかできるなら、今はまあいいかと思える。
――『いつか、できたらいいね』
サッカーができなくてむしゃくしゃしていたときにもらった黒田の言葉は、今もおれをやさしい気持ちにさせてくれる。
すげえな、といつも思う。
おれはついつい、目の前にあるものばかりに意識が向いてしまう。でも黒田はいつだって、視野が広い。いろんなことを見て感じ取れるから、なにかを選んだり自分の意見をはっきり口にしたりするのが苦手なのだ、とおれは思う。
おれは黒田のそういうところが好きだ。
だから、我慢にはうんざりするけれど、いつか、と黒田が言うから、思ってくれるから、おれも同じ気持ちになれる。焦ることはなにもない。この先の〝いつか〟には、おれのそばに黒田がいるってことだから。
と、少し前までは思えていたんだけどなあ。
実際のところ、黒田はどこまで本気でその言葉を口にしていたんだろうか。
ふと、そんな考えが頭に浮かんでから、脳内にこびりついて忘れることができない。
そもそも、黒田はおれのことが好きだった、ってわけじゃないもんな。
おれの勘違いからはじまった関係だった。
思い出すと自分の暴走っぷりに頭を抱えたくなるが、好きかどうかもまだわからない相手に告白した結果、それが別の人物――黒田に渡り、いろんな誤解やすれ違いや勘違いやウソが重なって交換日記をするようになった。交換日記なんて柄じゃないのに、その提案を受けいれるくらいどうにかつながりを持ちたくて必死だった自分を不思議に思う。
それ以上に不思議なのは、こうして黒田と付き合うようになったことかもしれない。
おれが黒田に惹かれたのは、別の人物だと思っていたが実際は黒田だったのだから、必然だったと思う。だからこそ、黒田と話すようになってすぐに、交換日記関係なく、黒田に興味を持った。
でも、黒田はそうじゃなかったはずだ。むしろ最初の頃の黒田はおれを避けていた。第一最初の手紙で断られてるし。その後はウソをついていたこともあって黒田はおれに対してかなり警戒していた。おれの態度も振り返れば良くなかった。
黒田が好きだと自覚してからのおれは、かなり強引だっただろう。黒田の押しに弱い性格につけこんだ、とも言える。
そして、その結果、今、おれは黒田とこうして付き合っている。
それでなんの問題もなかった。黒田は思っていることが顔に出るので、ウソや隠し事をしてもすぐにわかる。思っていることを口にするのが苦手なだけで、自分の考えもちゃんとある。だから、おれのことを好きでなければ付き合うはずがない。
だから黒田のおれに対する気持ちに、疑問も不安も、感じたことがない――はずだったのに。
「っていうか、セト、もうすぐ誕生日だったよな」
「よく覚えてんな、ひとの誕生日なんか」
「そういうこと彼女には言うなよー」
「黒田にこんなこと言うわけないだろ」
呆れたように言うと、「あーはいはいすみませんね」と友人が肩をすくめた。
誰の誕生日がいつなのか、おれはほんんど覚えていない。家族の誕生日ですらうっかり忘れることが多く、妹の美久に毎年文句を言われているくらいだ。
バレンタインとかホワイトデーとかよりも特別な日だという認識はあるけれど。その程度だ。
もちろん、黒田は別だけれど。
さすがに黒田の誕生日はどうしようかとおれにしては珍しく数日前から考えていた。なにがしたいとかほしいとか、黒田に聞いてもきっとなかなか答えをもらえないだろうから、おれが考えた黒田が喜びそうな好きそうなことをすることにして、プレゼントもその日黒田が気にしていたものを贈ることにした。内緒で選ぶことも考えたのだが、黒田の場合はそれが好みでも好みでなくても、喜ぶだろうと思ったからやめた。
結果、それなりに祝うことができたと思う。
黒田も喜んでくれた、と思う。
「でも、おれの誕生日は黒田と過ごさねえけどな」
無意識に声に出してしまったようで、友人たちは一瞬静かになってから「ざまあ」と笑った。なんてやつらだ。
「なになに? もしかしてセト、拗ねてんの?」
「彼女に当日祝ってもらえないから落ちこんでる?」
「セトが? マジでウケる」
なにも面白くねえよ。
ゲラゲラとおれを指さして笑う友人たちを睨む。けれど、否定ができないのは、図星だから、かもしれない。
――『十月三日、用事があって……』
申し訳なく思っていたのか、目を泳がせながら黒田が言ったときのことを思い出す。
それは、おれの誕生日だ。
そのとき、おれは思いのほかショックを受けていた、と思う。あのときの自分が黒田になにを言ったのかはよく覚えていないけれど、それなりに落ち着いて返事ができた、はずだ。黒田がほっとしたように息を吐き出し、「ごめんね、ありがとう」と笑ったから。
自分の誕生日なんてどうでもよかった。当日に必ず祝わなくてはいけないわけでもない。だから、黒田にもたぶん「ま、落ち着いたら祝ってよ」と言ったと思う。
用事があるなら仕方がない。なんせ受験生だし。もうすぐテストもあるし。
わかっている。わかっているのだけれど、なんかこう、拗ねたくなる。
黒田なら、なんでもおれの誕生日は一緒に過ごそうとするだろう、とおれは思いこんでいたようだ。自分勝手で傲慢な思考をしていたことにも驚くし、黒田が別の用事を優先したことになかなかの打撃を受けた。その戸惑いでなんの用事か聞きそびれたことも加わり、あの日以来ずっとすっきりしない。
正直、黒田といると、悶々とする。
一旦言葉を呑みこんでしまうという、らしくないことをしてしまったせいなのか、素直に会いたいと言おうと思うと、嫌みなことまで口にしてしまいそうな気がする。なんの用事なのか訊きたいのに、怒っているように伝わりそうな気がする。
いつか、でいいじゃないか。そう何度も言い聞かして、勢い任せで喋りそうになる自分をなんとか必死に押さえこんでいる。
そのせいで、黒田の顔を見ると、息苦しさを感じるようになってしまった。
そんなおれの態度に、鈍感なくせに空気を読むに長けている黒田はなにかしらを察しているようにも見える。
それが、ますます苦しくなる。というか居心地が悪い。
そんなときこそ交換日記だな、と思うのに、それもどうなんだろうか。
わざわざ文字にするのもおかしいよな。
っていうか、おれはこの気持ちを伝えてどうしたいんだっけ。
用事があるのは仕方ないことだし、黒田に用事よりもおれを優先しろ、と言いたいわけでもないのだ。そんなことをさせたいとは微塵も思っていない。
なにも言いたくない。素直な気持ちを伝えるのは正直かっこ悪くて黒田に知られたくない。それを隠して伝えようとすればも失言をしてしまいそうだし、最悪の場合黒田を傷つける可能性もある。
その結果が〝しばらく会えない〟だ。
「会えないっつーか、会いたくないっつーか」
つまり、ウソってことだ。
ぽつんとつぶやいた言葉は、幸い誰にも届かなかった。
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テスト終わったら
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いろいろ話そう
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うん わかった
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わたしも 話したい
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……黒田の話したいことってなんだよ。
なんかすげえ意味深に受け取れるんだけど、おれが深読みしすぎているだけだろうか。っていうか話したいって言ったのはおれで、黒田はそれに合わせただけなんだろうけど。黒田のことだからそうなんだろうけど。
付き合ってからは交換日記のやりとりはのんびりペースだったのに、ここ数日はやたらとはやいのもなんだかそわそわする。
おとといの帰りに受け取ったノートは、昨日の朝に黒田に返した。
そして、その返事を受け取ったのは、昨日の放課後だ。
それからずっと気になって仕方がない。昨日の予備校でもまったく勉強に集中できなかった。なんて返事をすればいいのかもわかんねえし。
――こういうときは。
弁当を食べ終えて、すぐに席をたった。よし、黒田に会いに行こう。
「あ、瀬戸山くん」
そのとき、理系コースの校舎で聞こえるはずのない黒田の声が聞こえてきた。振り返ると、教室のドアから黒田が顔を出して俺を見ている。
「黒田? どうした?」
「あ、ちょっと、話したいことがあって。でも、なにか用事あるならあとでも」
「いや大丈夫。ちょうど黒田のところに行こうとしてたところだから」
駆け寄って声をかけると、黒田がそわそわしながら答える。理系コースの校舎に来ると黒田は視線が気になるらしく、いつも落ち着きがなくなる。が、今の様子もそのせいなのだろうかと勘繰ってしまう。
なにか言いにくいことを言いたい、とか? それってなんだ?
「わたしに? どうしたの?」
「いや……べつに、なんでもないけど」
「なんでもないの?」
ふ、と黒田が笑う。その笑顔に、ちょっとほっとする。
「黒田は? 話って?」
「あー、えっと、明日、一緒に帰れないかなって……思って」
「いいけど、予備校あるから一時間くらいしかねえよ? っていうか黒田も予備校じゃねえの?」
珍しい誘いに、また不安が体内で芽吹く。
一緒に帰ろうと言われるのははじめてのことではない。でも、お互いに予備校に通い出してからは、週に一度、予備校が休みの日だけ一緒に過ごすことになっているので、こうして別の日に約束をすることはなくなった。
っていうか、明後日は一緒に帰る日じゃなかったっけ。
「うん、でも、瀬戸山くんしばらく会えないって言ってたから、明後日も無理なんだろうなって思って。でも今日は急すぎるから、明日はどうかなって」
「あ、ああ、そっか、そうだな」
おれが〝しばらく会えない〟って言ったんだから、明後日も会えないんだと黒田が思うのは当然のことだ。おれも、そう思っていた、はずなのだけれど。
あっさり受けいれている黒田に、不満が膨らむ。
いやいや、落ち着けおれ。おれが言ったことだろうが。
「あ、でも、明後日のほうがよかったら明後日でも」
「いや、いいよ、大丈夫」
黒田がわざわざ一緒に帰りたいと誘ってくれているのに断る理由はない。なんで急に、と思わないでもないけれど。
「黒田から誘ってくれてんの嬉しいのに、断るわけねえじゃん」
おれを誘うだけで不安そうな顔をする黒田に笑いかける。
付き合ってるんだから気にせず堂々と誘えばいい。黒田の場合は、多少わがままになってもらったほうがいい。黒田にとってはわがままでも、多分わがままと呼べるようなレベルには絶対に達しないだろうから。
「セトってあれ、素で言ってんだもんな。すげえよな」
「素直すぎて逆にややこしいタイプだよね」
まわりにいるクラスメイトが冷めた視線と共におれに呆れたように言う。どういう意味かはわからないが、目の前の黒田は恥ずかしそうに耳まで真っ赤にして「な、なら、いいけど」ともごもごと返事をした。
「前から思ってたけど、黒田ってすぐ照れるよな。ポイントがわかんねえな」
お団子に手を乗せて黒田の顔を覗きこむ。
黒田は頬を紅潮させて、「こういうところだよ……」と困ったように眉を下げた。
ポイントはまったくわからないけれど、黒田が恥ずかしがる顔がかわいいので、まあいいか、と思う。
……素直すぎる、か。
クラスメイトの言っていた言葉を反芻し、決意を固める。
しょうもないことで悶々としていろんなことを気にしているのはやっぱりらしくない。だから、黒田に会いに行って、交換日記ではなく直接話そう、と思った。
そのタイミングで黒田がおれを誘ってくれた。
ちゃんと話をしろ、ということだ。そうにちがいない。
「じゃ、明日はどうする? 駅まで行って、近くの店で時間潰す? あ、でも一時間待たせるからそのまま学校の図書室とかでもいいけど」
「え? えーっと、どっちでも、いいかなあ」
「そう言うと思った」
ふは、と噴き出すと、
「瀬戸山くん、わたしに〝なんでもいい〟を言わせようとしてるよね」
黒田が拗ねたように言った。
たしかに。案外頑固な黒田の〝なんでもいい〟がおれは結構好きだ。そしてときどき、その返事をしないのもいい。
だからこそ。
――『こっちがいいかな』
前に、黒田がクラスメイトの有山と話していたときにそう言っていたのを思い出し、面白くない気分が蘇る。
黒田が明確になにかを選ぶのが意外で、なんで、と思ったのだ。
おれと一緒になにかを選ぶときでさえ、はっきりとどちらかを提案することは稀だというのに。
なんか選んでたのか、と聞いたときに、黒田が一瞬視線を泳がせたのも覚えている。見られてまずいと思ったのか、いつからいたの、と返事をせずにそうおれに聞いたことも。なんかやましいことでもあんのか、と訊こうと思ったとき、松本が雑誌の診断テストをしていたのだと説明をしてくれた。なんで言い淀んだのかわからないが、そういうことらしい。
選択肢からなにかを選ばなければいけないなら、そりゃ黒田でも選ぶだろう。
けれどあまりに迷いなくはっきり答えていたから、妙に記憶に残っている。
黒田が男子と話しているのが珍しい光景だったのもある、かもしれない。
「でも、こんなに彼女を大事にしてんのに、セト、誕生日はフラれたんだよねえ」
「かわいそうになあ」
「おい、黙ってろ」
余計なことを言うんじゃねえよ、とすぐさま振り返りクラスメイトを睨む。完全におれを揶揄(からか)って楽しんでいる友人たちのにやけ顔に、いらっとする。
「あ……」
案の定、黒田は小さく震えて申し訳なさそうに俯いた。その反応に、焦る。
「いや、おれは気にしてねえから。こいつらが好き勝手言ってるだけだし」
「でも、その」
「いいからいいから、こいつらのことは無視しろ。誕生日なんてどうでもいいし。別にただ歳を重ねるだけだろ。もともとおれ自分の誕生日もよく忘れるし」
このままでは黒田が用事を断っておれを優先するのではないかと思えてくる。
そんなことはしてほしくないんだよ。
「んじゃクラスのみんなで祝ってあげようか?」
「ああ、いいじゃん。テスト前の気晴らしにもちょうどいいし」
おれの誕生日を理由にして遊びたいだけだろ、と内心で突っこみながら「おれの誕生日なんかそんなもんだよ」と黒田に笑う。
「だから、気にすんなよ」
「……みんなと、遊びに行くの?」
「え?」
思ってもいなかったことを訊かれて、間抜けな声を発する。
俯いていた黒田が不安げな顔でおれを見上げた。なんでそんな顔をするのだろう。おれに用事ができたほうが安心するから訊いている、のかも? いや、それにしては驚いたような、困ったような、焦ったような、よくわからない表情だ。
頭にクエスチョンマークをいくつも浮かべながら、
「あー、どうかな、それもいいかも? わかんねえけど」
と曖昧な返事をした。そこで、もうひとつの可能性に気づき、ハッとする。
「女子がいないほうがいいとか?」
「いや、ううん、そう、じゃないの。なんでもない」
黒田はぶんぶんと顔を左右に振ってから、へらりと笑った。
「なんでもないって顔じゃねえだろ」
「気にしないで、本当に、ちがうから。そうじゃないの」
「じゃあなに」
黒田がなにを考えているのかさっぱりわかんなくてもどかしくなってくる。怒っているわけじゃないのに、つい語尾がキツくなってしまう。そんなおれを止めるかのように、昼休みが終わる予鈴が響いた。
「希美ー、戻ろー」
「あ、じゃあ、えっと、明日」
一緒に来ていたらしいヨネの彼女が黒田を呼ぶ。黒田はまるで逃げるようにおれの前から駆け出した。いちおう、またね、とおれに手を振っていたけれど、あきらかに様子が変だ。
あのままでは黒田を問い詰めるような言い方をしていただろうから、よかったのかもしれない。でも、こんな中途半端な状態で話を切り上げるのはスッキリしない。
なんなんだよ、いったい。
言いたいことがあるならはっきり言えばいいのに。
嫉妬か? でも、これまで女子もまじえて遊びに行ったことがないわけでもないのに今さら? もちろんそのときは事前に伝えているし、これまでの黒田の態度は今日のように不安そうでもなかったよな。
じゃあやっぱり、誕生日に用事があることが関係してんのか?
「どーした、セト」
小さくなっていく黒田の背中を見つめながら眉を寄せて考えていると、ヨネが不思議そうな顔で覗きこんできた。
「いや、べつに。ただ……」
いつもとかわらない、これまでとかわらない、黒田の笑顔が脳裏に蘇る。ほとんどが、いつもどおりだ。でも、いつもとはあきらかになにかがちがう黒田の態度。
「黒田がなにを考えてんのか、わかんねーなって」
この言葉を黒田に言えば、きっと黒田は傷つくだろう。
気持ちを口にするのが苦手な黒田に、この言葉は禁句だ。
「セトのことだろ、そりゃ」
ヨネがきょとんとした顔で言う。
「……ヨネはいいよなあ、単純で」
「うわあ、セトに言われたくねえ! セトは自分で思ってる以上にやべえくらいに単純だからな! オレなんかセトに比べたら繊細だっつーの!」
「そ、そんなことねーし!」
思わず必死に否定する。図星だからだ。なんせおれは、気持ちが先走って相手をよく知らないまま〝好きだ〟とか手紙を書いてしまうくらいの単純さだ。
でも、ヨネよりかはマシだと思うし、黒田がなに考えてるのかは、やっぱりわからない。おれのこと、だとしても。おれのなにを考えているのだろう。
交換日記に書けば、教えてくれるんだろうか。
そんなことを考えて、でも、自分の今の気持ちを明確に黒田に伝えるための言葉が浮かばず、無理だな、とすぐに諦めた。
「めんどくさ」
なにもかもが。
なにを書いたらいいのかわかんなくなる交換日記って、必要なんだろうか。
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最近思うんだけど
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そろそろ交換日記も終わっていいんじゃね?
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つい、書いてしまった。
勢い余って書いてしまったものの、さすがに渡すのに躊躇している。
いや、書いたときはこれが本音だったんだけど。多少むしゃくしゃしていたのもあるけれど。妹の美久が『希美ちゃんと喧嘩でもしたの?』とおれに冷たい視線を向けて言ってきたのもある。喧嘩したわけではないので否定したが、『ムキになるところが怪しい』『どうせお兄ちゃんが悪いんだからちゃんと謝りなよ』と言われたのもムカつく。
言いたいことだけ言って『あーあ、楽しみにしてたのになあ』と美久はおれに背を向けた。なにを楽しみにしてるんだ。黒田が家に来るのは美久に会うためではなくおれのためだというのに。毎回邪魔しに来て黒田と話をしようとするのだから邪魔で仕方がない。そしてまるでもう二度と家に来ないみたいに言うのはやめろ。
思い出したらまたムカついてきた……。
喧嘩なんかしてねえし。
っていうか黒田と喧嘩なんか一度もしたことがない。
黒田はいつでもおれの意見を受けいれる。どっちでもいいよ、と言って、本当におれがどっちを選んでも楽しそうにする。
言いたいことがあるのに、我慢をしているわけではない、はずだ。
やりたくないことにいやいや付き合う、という感じもない。
そう思っていた。今も、思っている。
でも頭の片隅に、本当にそうなのか、と首を傾げる自分がいる。
それは、ここ最近の黒田が、どことなく言葉を呑みこんで誤魔化しているように感じるからだろう。なにかしらきっかけがあったのか、もしくは、おれが気づかなかっただけでこれまでもそうだったのか。
気になり出すと、そのことばっかり考えてしまう。
なんだか、誕生日に会えないことになってから、自分が自分じゃないみたいにうだうだしている気がする。なんだか、気持ちが悪いな。自分が鬱陶しくて仕方がない。
「なあなあ、セトー」
「なんだよ」
ヨネがおれの機嫌を窺うように声をかけてきて、怪訝な顔をしながら振り返った。ヨネはヘラヘラと笑っておれの前の席に腰を下ろす。
「なあ、セト、誕生日結局どーすんの?」
「なにが?」
「クラスのみんなと遊ぶのか?」
なんでヨネがそんなことを気にするのだろう。今までそんなふうにおれの予定を訊いてきたことなんかないのにどうした。
と思ったところで、黒田かな、と思い至る。
ヨネの彼女と黒田は仲がいいので、なにか相談を受けたのかもしれない。そこで、ヨネが一役買おうとでもしているのだろう。
「行かない」
おれが答えると、ヨネはわかりやすくほっとしたように笑った。
ヨネが心配するほど黒田はおれが女子と出かけることを気にしているんだろうか。
正直、悪い気はしない。
でも、ヨネを通さずに、自分で言えばいいのに、とも思う。
なんで自分の口で直接おれに言わないのだろう。せめて交換日記に書けばいいのにそれもしないのはなんでなんだ。
「じゃあ、オレと遊ばねえ?」
「は? なんで?」
にこにこしながら遊びに誘われて、眉間に皺を寄せる。
「なんでって、たまにはいいじゃねえか」
「いいけど……ふたりでか? おれの誕生日に? なんで?」
「オレもセトの誕生日を祝ってやろうと思ったんだよ。ひとりでさびしいだろ。ほら、せっかくだしセトの家に行ってケーキでも食おうぜ」
「ヨネの家、おれの家とは反対方向じゃねえか。いいよそんなの」
なにを言っているんだこいつは。
今までヨネがおれの家に来たことは一度だけだ。それも遊びに来たわけではなく、テスト前におれのノートを借りに来ただけだ。
「おれの家に来るのはいいけど、平日じゃなくて休日にしろよ」
「そう言うなよ」
「学校帰りとか時間がなくて忙しなくなるだろ。おれが黒田と過ごせないからってヨネに気を遣われるのも気持ちわるいっつの。たかが誕生日なんだから」
そう、たかが誕生日なのだ。
ポケットに手を突っこんで、背もたれにもたれかかる。
「受験間近のこの時期に、そんなことで一日潰す必要ねえよ。おれも勉強したいし」
「えー、でも、誕生日だぞ?」
「予備校でも行って自習するつもりだから、誕生日は学校で祝ってくれ」
口にしながら、これはウソだな、と自分に突っこんだ。
勉強しないとまずいのは、本当だ。前回の模試でC判定だったし。ただ、気にしているのかと言われると、そうでもなかったりする。どこでミスをしたのかは、自己採点のときにただのケアレスミスだと判明している。同じようなミスをしなければ、特に問題ないだろう。
それに、ヨネやクラスメイトがおれの誕生日を祝おうとしてくれているのはありがたいが、そういう気分になれない。
黒田と会えないから別の友だちと会う、なんて、マジで黒田に断られてさびしがってるみたいだ。そんなふうに黒田に思わせたくないし、自分でも本当にそうなんじゃないかと思えてきて情けなくなる。
なら、いつも通り勉強しているほうがマシだ。
きっぱり断ったのに、ヨネは、「ほんとに?」「そう言わずに」「たまにはいいじゃん」とやたらと食い下がってくる。
あやしい。あやしすぎる。ヨネはそんなにおれのことが好きだったのか?
っていうか今まで一度もヨネに誕生日を祝ってもらったことはないよな。おれもヨネの誕生日を祝ったことないし。
「まさか、クラスの誰かとサプライズでもしようと思ってたんじゃねえだろうな」
「へ? え?」
目を見開いて声を裏返すヨネに、図星かよ、と呟いた。
なんだってそんなことを考えついたのか。ヨネだけではなく、クラスメイトもきっと一緒に計画をしているのだろう。そう考えればヨネの一連の行動も納得だ。
おれの家に来たいと言ったのはよくわかんねえけど。そういう体でどこか別の場所に連れて行くつもり、とかか。
「そういうのはいらねえから」
サプライズは本当に苦手だからやめてほしい。リアクションを求められるみたいで、プレッシャーになる。うれしい気持ち以上に、相手のために求められている反応をしなくてはいけない、という気持ちのほうがでかくなる。これまで何度か家族にも友だちにも『反応が鈍い』と不満そうに言われたことがあるので、余計だ。
「マジで、やめろよ」
「……はい」
念を押すように言うと、ヨネがしゅんと肩を落として頷いた。
ヨネにここまで言えば、もう誰も当日おれになにかをしようとは思わないだろう。
「セトと付き合ってる希美ちゃんは大変だなあ、ほんと」
ヨネははあーと諦めたようにため息を吐く。
「なんでだよ。ここで黒田が出てくんの」
「いや、深い意味はないけど……。なんか希美ちゃんはセトのこといろいろ考えてんのに、噛み合ってないというか。希美ちゃん、悩みが尽きないだろうなって」
「……お前、黒田とそんなに仲良かったっけ?」
いろいろってなんだ。噛み合ってないってなんだ。
「そりゃあ、相談されたりアドバイスしたりする仲だし」
「は? おれとのことをヨネに相談してんの? なんで? なにを?」
そんなこと初耳だけど。
そんなにおれに関係する悩みがあんの?
おれには言えないくらい、黒田はおれに気を遣ってるってことか?
今までそんなそぶり見せなかったのも、おれのせいなのか? それが〝噛み合っていない〟ってことなのか?
なんか、すげえ気分が悪いんだけど。おれのせいだとしても、それでもおかしくないか。おれに対して黒田はずっと、なにかしらの不満を抱えていて、おれの機嫌を損ねないように振る舞っていたのか。なんだそれ。
「お待たせ」
授業が終わって図書室に向かい、机に座っている黒田の後ろ姿に声をかける。お団子頭をぶるんと震わせて黒田が振り返る。
「あ、お疲れさま」
黒田は相変わらず数学が苦手なようで、机には数学の教科書が開かれていた。付き合う前、図書室で待ち合わせしたときと同じだ。
おれが来たからと荷物をまとめようとしはじめる黒田の前の席に腰を下ろす。お互いの予備校に移動しやすい駅まで向かってから、近くの店で時間を潰すことになっているけれど、今はなんとなく、この場所で黒田を見ていたくなる。
黒田の顔を見るまで、内心イライラしていた。
でもこうして向かい合っていると、少し落ち着く。
やっぱり、顔を合わせて話すほうがいい。ひとりであれこれ考えてイライラするなんてばかばかしいし、交換日記で話をしようとしたって、無理がある。結局、文字にするよりも直接言葉を交(か)わすほうがずっといいってことだ。
じゃあ、おれらのしている交換日記の存在理由ってなんだろうな。
付き合った当初は、面と向かって話すのに黒田が慣れてなかったからだ。でもいつまでもそうしているのもおかしいよな。
勢いで書いたものだったけれど、冷静に考えると、別にどうってことのない内容なんじゃないかと思えてくる。
「どうしたの?」
「いや、べつに」
頬杖をついて眺めるおれに、黒田が首を捻る。おれが動かないからか、黒田は手を止めてまわりをそっと見回した。つられるようにおれも見回す。テスト期間にはまだはやいからか、図書室にはほとんどひとがおらず、静かだ。
「あの、瀬戸山くん」
黒田がおずおずとおれに話しかけてくる。ひとがいないぶん、黒田の小さな声は図書室によく響く。
「十月の、三日のことなんだけど」
言いにくそうに言葉を紡ぐ黒田に耳を傾けた。
黒田はゆっくりと時間をかけて言葉を選ぶから、急かさず続きを待つ。
「その日、放課後、なにしてる?」
「なに、って? 別になんの予定も入れてないけど」
「誕生日だから、出かけたりするのかな、って」
「誕生日だからって遊びに行かないといけないわけでもないだろ。黒田と会うならまだしも」
なんだかんだ、おれの誕生日に用事があることを黒田は気にしているのだろう。あ、それだけじゃないんだっけ。米田に相談するくらいだもんな。
「黒田と会えないからって女子に祝ってもらうつもりもないし。ヨネがなんか言ってたけど、なんか面倒くさいこと企んでたから断ったしな。だから――」
「あー……そっかあ」
安心するだろうと思って口にしたのに、黒田は沈んだ表情になった。けれど、口をつぐんで、それ以上なにも言わない。気持ちが沈んだ理由を、おれには話さない。
「なあ」
机の上で腕を組み、黒田に呼びかける。
「ヨネに、なにを相談してんの?」
黒田の体がびくりと跳ねた。
「いや、米田くんには相談っていうほどのことは、なにも」
「ヨネにはってことは、別のやつになんか相談でもしてんの?」
「それ、は」
黒田が視線を彷徨わせる。ウソをつくことが下手くそな黒田は、誤魔化すことも下手くそだ。そういうわかりやすいところが、黒田のいいところでもある。でも、今はそんなバレバレのウソをつくなら素直に口にしろよと言いたくなる。
どんなウソを隠していても、これまでならその奥の本音を感じた。
でも、なにもわからない今は、不満しかない。
いやいや、落ち着け、おれ。この感情のまま口にするとさすがにまずい。目を瞑って眉間に皺を寄せる。冷静になろう、と思っているのに、頭の中にはやっぱり不満が渦巻く。
ヨネになにかを話しているのはまちがいない。加えて、ヨネ以外にもなにかしらの相談しているらしい。松本とかヨネの彼女とか、だろうか。
そこに、ふと有山の顔が浮かんだ。
黒田が珍しく話していた男子だ。
体の中に、もやっとしたものが生まれて、体中に広がる。
「どんなことを、誰に、相談してんの?」
「たいしたことじゃ、ないよ」
「じゃあなに」
「それは……」
突っこんで質問を続けると、黒田はどんどん気まずそうに目を泳がしはじめた。おれに言うつもりはないんだろう。そして、それを後ろめたく感じているのがわかる。
「おれのことだから、おれには言えないのか」
「そういうわけじゃ……ないけど」
でも、言わないんだろ。
それに〝おれのこと〟という発言を否定しなかった。つまりやっぱり、おれのことなんじゃねえか。
困ったように眉を寄せる黒田に、唇を噛む。おれの態度に黒田が小さく体を震わせた。ビビらせたいわけでも、萎縮させたいわけでもないのに、なんでこんなことになるんだと、どうすりゃ正解なんだと考えると、ため息しか出てこない。
「なあ、おれに言えないことでもあんの? 別に怒んねえから、なにかあるなら言ってほしいんだけど」
できるだけ怖がらせてしまわないように、ゆっくりとやさしい口調を心がけて伝えた。黒田は迷っているのか口を動かし、けれどなにも言わずに閉じる。それを数回繰り返してから、意を決したように口を開く。
「その、瀬戸山くんの誕生日のことで」
「それだけじゃねえだろ?」
誕生日に女子と出かける話は昨日のことだ。
その相談をずっと前からしていた、なんてことはないはずだ。
「もうウソつかないでいいから。そういうのもういらねえ」
そんなふうに誤魔化してまで言いたくないことなのかよ。
あーもう、むしゃくしゃしてきた。
「言葉にするのがいやなら、交換日記にでも書くか?」
カバンからノートを取り出して、黒田に差し出す。
「書き終わるまで待っててほしいなら待つし、明日のほうがいいなら明日でもいいし」
黒田は一瞬考えてからノートを受け取った。そして「今、書く」と答える。その表情は今にも泣きそうなほど歪んでいたけれど、勇気を振り絞っているのがわかった。
少なくとも、黒田はこれ以上誤魔化そうとしないだろうと安堵する。
面と向かって話し合いたいところだけれど、おれもこのままじゃなにを言うかわかんないし、黒田も口下手だからなかなか話が進まない。目の前でのやりとりならまあいいか。
と思ったところで気づく。
昨晩、勢いで書いた内容が、脳裏に蘇る。
「あ、ちょっと待っ――」
弾かれたように顔を上げてノートに手を伸ばす。けれど、それはすでに遅かった。
黒田はノートを広げてかたまっている。
「これ……」
「それは、その、気にすんな」
「瀬戸山くんは、もうやめたい、の?」
呆然とした顔で訊かれて、返事に詰まる。
やめたいかどうかで言うと、どっちなんだろう。
もういいんじゃねえの、とは思っている。けれど、いやなわけではない。
大事な話をしているわけではないから、なくてもいい。でもどうでもいい会話は、それなりに楽しい時間でもある。
一瞬有耶無耶にするのがいいかと考えたけれど、でも、やっぱりそういうのは、おれには向いていない。
「言いたいこと言わないで、薄っぺらい会話を続ける交換日記って、ウソついて当たり障りのない会話をしてるって感じじゃん」
見られてしまったなら、仕方ない。もうおれも結構我慢の限界だし。いい機会だ。
「本音を書けるノートなら、意味があるんだろうけど」
でも、ここ数日のおれと黒田は、そうじゃない、気がするから。前までは、このノートの中には黒田がいると感じられたのに、そう思えない。
しばらく会えないって言っても物分かりのいい返事をする。
理由を尋ねることもせず、さびしさや不満も顕にしない。
――おれは、それを求めていたんだろう。
誕生日に会えないことを拗ねる自分のように、黒田にもなにかしら感じてほしかった。
自分がウソを吐いたのに、こんなふうに思うおれは心底かっこ悪い。
情けないウソを吐いて黒田の気持ちを試すようなことする交換日記なんかないほうがマシなんじゃないかと思えてくる。
「……そっか」
黒田が静かに呟く。
感情が消えたような声に、黒田を傷つけたんだと実感する。
心臓にナイフが刺さったみたいに苦しくなる。
「黒田はおれがどうする?って訊いたら、どっちでもいいって、言いそうだな」
声に出して、黒田が言葉を続けるのを先回りして回避する。黒田を傷つけておいて、自分が傷つくのを避けるなんて、最低だな、と思ったけれど気がついた時には口にしていた。
黒田の〝どっちでも〟はどうでもいいわけではない。そんなことは知っている。悩んだ末の返事だとわかっている。
でも、今はその返事に〝どうでもいい〟という意味が込められているような気がしてしまう。そんなふうにひねくれて受け止めてしまう。
そして。
「そんなこと、言わないよ」
黒田にそう言われると、気を遣わせて無理をさせているようにも思えてくる。どっちの返事も受けいれられない自分の心の狭さを実感する。
「おれ、ウソついたんだよ」
「え?」
「しばらく会えないっての、ウソ」
おれの告白に、黒田は目を瞬かせた。突然なんの話かと思っているのだろう。
「なんでそんなウソついたのか、聞きたい?」
ふ、と自嘲気味な笑みが溢れる。
正直なところ、そんなの黒田に言いたくない。カッコ悪い自分なんか見せたくない。訊かれたところで、素直に教えられるかもよくわからない。じゃあなんでこんなことを言い出したのかもわかんねえや。
黒田は戸惑いながらもまっすぐにおれを見つめて、しばらく考える。
どっちでも、って答えるかもしれない。
今度こそ、どっちでも――どうでも――いいと言われるかもしれない。
奥歯をグッと噛んで黒田の返事を待っていると、
「瀬戸山くんが、話したくないなら、訊かない」
黒田はそう言った。
なんでこの状況でも、おれのことを考えるんだよ。おれが言いたくないと思っていたのを、黒田はなんで察してしまうんだよ。
おれは、おれのことばかりなのに。
「おれのことはいいよ。黒田は?」
「……どっちでも、いいよ」
その返事を聞いて「そう言うと思った」と笑ってしまった。
「黒田って、他人に興味ねえの?」
「へ?」
「他人に興味がないから、自分の気持ちよりも他人を優先するのかなって」
昔、付き合う前も同じようなことを言った。
おれが高校で入部したサッカー部をすぐにやめた、と話したときだ。みんな、おれに「なんで?」と訊いてきたのに、黒田はなにも言わなかった。
そのときは、ただ興味がないからだと思ったけれど、黒田はそれ以上に相手の気持ちに合わせようとするだけだった。
でも、実際のところ〝知りたい〟という気持ちがその程度だからなんじゃないか。
それって結局、興味がないのと同じなんじゃないか。
そんな意地の悪い捻くれたことを考えてしまう。
いつか、という言葉で黒田はおれの心を軽くしてくれたのに。そんな黒田を好きになったのに。今は、なにもかもが自分に都合のいい解釈をしていただけなんじゃないかと自信がなくなる。
「わたし、瀬戸山くんのことを他人とは思ってないよ?」
「マジか。他人かと思った、おれ」
「なんでそんなこと、言うの?」
さすがの黒田も、表情を歪ませる。
おれは今、黒田をめちゃくちゃ傷つけているんだろう。
そんなことしたいわけじゃないのに、なのに、口が止まらない。
「悪い、おれが、悪い。黒田は悪くない。でも、今日は帰るわ」
「瀬戸山くん」
黒田から目を逸らして、すっくと立ち上がる。
「今のおれ、黒田がなにを考えてるのか、わかんねえんだ」
それはきっと、おれの感情がぐちゃぐちゃだからだ。
黒田はいつもどおりだ。隠していることがあって、それに不満を感じているけれど、おれは、黒田のように言いたくないなら言わなくていい、とは思えない。そのせいで、ひとり苛立って、黒田に八つ当たりみたいなことをしてしまっているんだ。
「瀬戸山くん」
呼び止める黒田の声を無視して、図書室を出て行った。
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もう一度 話がしたい
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ウソをついてごめんなさい
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謝るのはわたしのほう
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どれも、ちがう。
何度も交換日記に文字を書いて、そのたびにちがう、これじゃない、と首を振って書き直す。
ウソじゃない。
でも、本当でもない。
ああでもないこうでもない、と悩みすぎてどうしたらいいのかわからない。
昨日も、パニックになって瀬戸山くんを追いかけることができなかった。しばらくしてメッセージを送らなければ、と思ったのに、なにを送ればいいのかわからず、交換日記に返事を書いて、それを持って会いに行こう、と決意をしたのが昨晩のことだ。
なのに、まだ返事が書けていない。
悩んでいるあいだに夜が明け、そしてもう昼休みも終わってしまった。授業は残すところ六時間目だけで、すぐそこまで放課後が迫ってきている。
このままじゃ、今日が終わってしまう。焦る。このまま明日を迎えたら、より一層わたしは身動きが取れなくなる。それだけはわかる。
だから絶対、今日、瀬戸山くんと話をしなくちゃいけないのに。
「大丈夫なの、希美。悲壮な顔してるけど」
「だ、だいじょうぶ……」
六時間目がはじまるまでの十分休憩に、シャーペンを握りしめてノートを睨みつけているわたしを見て江里乃が心配そうに声をかけてきた。このやりとりは昼休みもした。いや、朝から休み時間のたびにしているかもしれない。
「もう会いに行けば? ばーっとぶちまけたらいいじゃん」
「……そう、なんだけど」
江里乃に言われて、そうだよね、と頷く。
サプライズパーティーをしようとウソを吐いたのがきっかけにちがいない。その後ろめたさを隠そうとしたのも原因だろう。そのことを素直に伝えて謝るしかない。
でも、本当にそれだけなんだろうか。どこかでわたしと瀬戸山くんに大きなズレが生じているような気がする。瀬戸山くんが吐いたというウソが、わたしのウソとどう繋がっていうのかがわからないのだ。
そこを理解しないまま謝ってもいいのかな。
素直に、瀬戸山くんにウソついて誕生日を祝うつもりでした、と言えば、わたしたちのすれ違いは解決するのかな。
「よくわかんないけど、とりあえず謝れば? 瀬戸山もよくわかんないけど謝ってきたんだし」
「でもそれって……ズルい気がしちゃう。なにに謝ってるのか自分でもわかんないし」
もちろん、ウソをついたことは謝らなければならない。それは絶対だ。
でも、昨日のあの瀬戸山くんの様子を思い出すと、わたしはそれ以外にもなにか、瀬戸山くんにとって失礼なことをしたんじゃないかと、そんな思いが拭えない。
あんなに、苦しそうな瀬戸山くんを見るのははじめてだった。まるで、自分の発言に瀬戸山くん自身が傷ついているみたいだった。
なんでだろう。わたしは、それをちゃんと受け止めて考えなくちゃいけないと思う。
考えて、答えを出さなくちゃ、いけない。
「まあ、原因がわかんないのに謝られるとムカつくかー」
「なんか、いろいろ相談まできいてもらったのに、うまくいかなくてごめんね」
おまけに心配までかけてしまっている。
なにもかもうまくできない自分が情けない……。
しょんぼりするわたしに、江里乃は「そういうこともあるよ」とわたしの肩をやさしく叩(たた)いた。そして、「いつも仲良しなふたりの喧嘩も珍しいしね」と冗談を言って笑う。そんなふうにわたしの気を紛らわそうとしてくれる江里乃に、「もう」とわたしも少し笑うことができた。
「江里乃ー! 助けて!」
そこに、優子の元気な声が響いてふたりで振り返る。
「これ、どういうことか教えてくれない?」
「騒がしいなあ、優子は。どうしたの」
優子は一枚の紙を手にしていて、それをわたしの机に広げて見せてきた。五時間目に返却された数学の小テストの答案用紙だ。ここ、と優子が三角のマークをつけられた回答を指さす。江里乃はどれどれ、とそれを見つめる。
「これなんで三角なの」
「そりゃあそうでしょ。計算式まちがってるんだから。答えは合ってるけど」
「答えが合ってるなら正解でしょ」
「たしかにマークシートの答案ならそれで正解だけど、全然ちがう方式でたまたま答えが一致しただけでしょ。このまま正解もらっても理解できてないんだから、後悔するよ。小テストで気づけたと思って正しく答えを導きなよ」
江里乃が言うと、優子は「えー、厳しい! 納得できないー!」と頬を膨らませた。
「厳しいとかじゃないでしょ。あ、こっちの途中式は合ってるじゃん。答えはまちがってるけど。これがわかってるなら、この問題もすぐ理解できるよ」
江里乃はそう言って、優子に問題の正しい計算式を教えはじめる。優子はふんふんと素直に耳を傾けて、答案用紙に正しい式を書いていく。
――『数学では途中式を書かなくちゃ、答えが合ってても丸にはならねえ』
ふと、付き合う前に瀬戸山くんに言われた言葉を思い出した。
江里乃と優子が喧嘩したときだ。どうしていいかわからずなにも言えず、悩んでいたわたしに瀬戸山くんが言ってくれた。
――『全部、口にしろ』
あの言葉は、わたしにとって目から鱗だった。
あのおかげで、わたしは優柔不断な自分を少しだけ、好きになれた。
どっちでもいいよ、とか、なんでもいいよ、がわたしにとって〝答え〟なんだと思うことができた。
なのに、今のわたしは。
何度も書いては消している交換日記を見る。
今のわたしは答えばかりを求めている。答えばかりを書こうとしている。
考えがまとまらないからって、答えが出ないからって、なにも言わずに瀬戸山くんと向き合うこともできないでいる。
「全部、言わなくちゃ」
ウソをついたことはもちろん、瀬戸山くんを不安にさせたなにかがわからないことも正直に、伝えるべきだ。
勢いよく立ち上がり、交換日記を手にする。
ああ、でも、これだけは書かなくちゃ、とシャーペンを握りしめて文字を書いた。
悩みも不安も疑問も取り払って、最後に残る、ずっとかわらない、わたしの本音だ。ウソのない、今わたしが瀬戸山くんに伝えたい、たったひとつの気持ち。
それを抱きしめてドアに向かおうと足を踏み出す。
「希美、どこいくの?」
「瀬戸山くんのところ、行ってくる」
「え、もう、六時間目はじまるよ?」
「うん、でも、今行かなくちゃ」
江里乃が引き止めるのを無視して、教室を飛び出した。
休み時間は十分しかないけれど、まだ半分以上はあるはずだ。猛ダッシュで理系コースに向かえば、少しだけでも話す時間はあるはず。
全部伝えるのは無理かもしれない。けど、今はただ、一分一秒でもはやく瀬戸山くんに会いたい。会って、話がしたい。
廊下を力強く蹴ってすぐそばの階段を駆け下りる。渡り廊下を横切って理系校舎に入ると、そのまま階段に足をかける。普段こんなに走ることがないからか、すでに息は切れ切れで、足も痛い。
でも、足は止めない。
止められない。
「瀬戸山くん……!」
理系コースの瀬戸山くんのクラスのドアを、勢いよく開ける。
思ったよりもわたしの声が大きかったようで、中にいた生徒たちの視線がぎゅん、とわたしに集中した。
「あれ? どうしたの、希美ちゃん」
窓際にいた米田くんが驚いた顔をわたしに向ける。米田くんのそばには、いつも一緒にいる瀬戸山くんの姿はない。
「あ、あの、瀬戸山くんは?」
「え? あれ? そういやいないな。トイレじゃね?」
タイミングが悪い……!
時間を確認すると、六時間目がはじまるまで残り五分ほどだった。このままだと顔を合わせた瞬間にチャイムが鳴るかもしれない。六時間目のあとだと、すぐにSHRがあって会いに来れないし、瀬戸山くんも七時間目の授業がはじまってしまう。
もしかしたら落ち着いてからのほうがよかったのかもしれない。一言二言では瀬戸山くんを逆に不安にさせてしまう結果になるかもしれない。今日はお互い予備校がないので、瀬戸山くんの授業が終わるまで待って、それからゆっくり話したほうがいいかな。なら、先にメッセージを送っておかないと。
ああでも、今ここで教室に戻っても、米田くんは瀬戸山くんにわたしが会いにきたことを伝えるだろう。なら、挨拶くらいはしたほうがいいかもしれない。
とりあえず瀬戸山くんが戻ってくるのを待つことにして、そわそわと廊下で足踏みをしながら廊下を見回す。
そこで、廊下の先に、こちらに向かってくる瀬戸山くんの姿を見つけた。
「瀬戸山くん!」
呼びかけると、視線を上げた瀬戸山くんと目が合う。
驚いたように目を大きく見開いてから、彼はわたしに駆け寄ってきてくれた。
「なにしてんの、黒田」
瀬戸山くんが目の前に立つと、喉がぐっと締め付けられる。
言わなくちゃいけないのに。全部。瀬戸山くんが教えてくれたから。
すうっと息を吸いこんで、スカートを握りしめる。そして、勇気を振り絞る。
「誕生日に用事があるって言ったのはウソで、本当は瀬戸山くんの誕生日をサプライズで祝いたくって、でも瀬戸山くんがサプライズきらいだって言ってて、でも祝いたくて悩んでて、おまけにウソついたことも言えなくて、っていうかどうしてもサプライズを諦められなかったのもあるんだけど、それでずっとどうしたらいいのか考えてて、瀬戸山くんにもしばらく会えないって言われてウソついたのがバレてるんじゃないかとかサプライズに怒ってるんじゃないかとか不安になって、そしたら瀬戸山くんが友だちと遊びに行くかもしれないってなって焦って米田くんに相談して、ぐちゃぐちゃになってなにも言えなくなって――」
息継ぎをせずに吐き出してしまったので、途中で息がきれてしまった。
えっと、どこまで言ったっけ。あと言ってないことはなんだろう。
「あ、ごめんなさい!」
「なにが」
謝ってなかった、とハッとして言葉をつけ足すと、目を丸くした瀬戸山くんに突っこまれた。
「ウソをついてた、こと」
「え? あ、ああ……え? っていうかなに? どういうこと? まずなんで黒田が謝ってるのかわかんねえし、なんでおれに怒ってないの?」
「え、わたし怒るのが正解だったの? え、あ、ご、ごめん」
「なんでそこで謝るんだよ」
なんでだろう。
瀬戸山くんが、すごく……困ったような顔をしているから、つい。
いつも堂々としている瀬戸山くんが、眉を下げて、ちょっとだけ目を潤ませて、わたしを見ているから。
見つめ合っていると、なんでか、わたしも泣きたくなってくる。
「あの、ごめんね、サプライズしようと、して、ウソついて」
「……ああ、うん、なんとなく、わかった、かも」
瀬戸山くんはそう言って顔を歪ませたまま、わたしに手を伸ばしてきた。
大きな手が、わたしのお団子に添えられる。そしてその手をゆっくりと髪に沿って下に移動して、耳元からこぼれ落ちているひと房の髪の毛をすくった。
「……黒田はさあ。いやおれが悪いんだろうけどさ」
「うん?」
「黒田は、おれにとって、黒田だけは特別だってのが、わかってないよな」
片頬を引き上げて、瀬戸山くんは笑う。
「黒田じゃないやつに誕生日祝ってもらわなくても別に気にしないし、黒田じゃないやつにサプライズとかされると反応に困る。だって黒田じゃないんだから」
ゆっくりと紡がれる言葉に、胸がきゅうっと締め付けられる。
「黒田だから、誕生日に用事があるとか言われたらヘコむし、黒田からだったらサプライズもうれしいしかねえだろ」
瀬戸山くんの言葉をゆっくりと咀嚼する。
今、ヘコむって、言った? 瀬戸山くんは、ヘコんでいたの? わたしが瀬戸山くんの誕生日に用事があるって、言ったことで?
そんなの、全然気づかなかった。誕生日なんかどうでもいいって感じだったから、気にしないと思っていた。
でも、わたしだから。
じわじわと顔が赤くなって、熱くなる。
「……なんか、気が抜けたな」
はーっと瀬戸山くんは息を吐き出して、両手をわたしの肩に乗せて項垂れた。瀬戸山くんの体重が肩にのしかかる。重い。けれど、それがうれしい。
きっと、瀬戸山くんだから、だ。
「とりあえずさ」
思わず瀬戸山くんを抱きしめたくなる。ノートを持っていなかったら、瀬戸山くんの背中に手を回すことができるのに。
そう思った瞬間、瀬戸山くんが不意に顔を上げてわたしたちの視線がぶつかった。
「そんな顔すんな、ここで抱きしめるぞ」
「な、そ、そんな……って、え、……っあ、え!」
顔に火が点いたように熱くなる。その直後、まわりの視線を感じてハッとした。
「まわりの目もあるし、授業もはじまるし、放課後話すか」
ここ理系コース校舎の廊下のど真ん中だった! おそるおそる周りを見ると、いろんなひとが廊下に顔を出してわたしと瀬戸山くんを見つめていた。
ひいいいいいいい。
顔を赤くすればいいのか青くすればいいのかわからないわたしを見て、瀬戸山くんが噴き出す。
「じゃあな」
ぐいっと背を伸ばして体を起こした瀬戸山くんが、わたしの肩をぽんっと叩く。
瀬戸山くんの表情は、照れている、というよりも喜んでいる感じだった。
昨日の瀬戸山くんとはまったくちがう、いつもの瀬戸山くんだ。
それは、うれしい。よかった。
とりあえず、わたしちゃんと、伝えられたんだ。
ただ……。
「公開告白もそろそろ自重してほしいよな」
「もうお腹いっぱいなんだけど。もしくは砂吐きそう」
「おれ大学では絶対恋人作るんだ」
周りからそんな声が聞こえてくる。
わたしは今、穴があったら入りたくて仕方がない。