右の道へ行くのだが、一華がその場から動かない。
 二人の後ろ姿を見たまま立っている。
 一華の気が済むまで待とうと思っていたが、よろよろと二人の後を追い、左の道へ進もうとする。

「一華ちゃん」

 呼び止めようとするが、一華の足は止まらない。もう少しで二人の背中を掴める距離にある。
 腕を掴むと、その場に留まった。

「一華ちゃん、帰ろう」

 嫌だ。
 口がそう動いたのを見たわけではないが、何故かそう言いたいのだと分かった。
 掴む手に少しだけ力を入れる。

「一華ちゃん」

 くいっと腕を引くが、その場から動こうとしない。
 途端に一華の肩が大きく跳ねた。泣いている。

 押し殺していた醜い感情が涙となって外に出る。
 どうして自分では駄目なのか。ずっと一緒にいた。麗奈よりも長く傍にいた。それなのに、何故麗奈と手を繋いで歩いているのだ。そこにいるのは自分だったはずだ。愛の重さも、一緒に過ごした時間も、麗奈に劣っていない。むしろ比にならないくらい勝っている。

 甲斐丁村へ行ったのは翔真のためだ。身代わりにさせてしまった負い目があったが、それだけではない。翔真が好きだから、翔真のために行った。
 なんの手がかりもない魔女を探したのだって、翔真にまたサッカーをしてほしいと思ったから。
 声を失くしたのも、翔真のためなら惜しくなかったから。翔真のあの笑顔をまた見たかったから。もう二度と声は出ない。一生このままだ。

 麗奈は見舞いに行っただけ。ただ病院へ行って、翔真と喋っていただけ。その間に自分は魔女探しに行き、声を失ってまで翔真の足を治した。なのに選ばれたのは何もしていない麗奈だ。呑気に翔真と仲良くしていただけ。声だってある。足が治ったのは誰のお陰だと思っているんだ。完治しないと言われた足が簡単に完治すると、本気で思っているのか。

 震えるのは、泣いているからか怒りのせいなのか。
 流星は地面に落ちる涙を見て、遠慮しながらも一華の頭を撫でる。

 どうして笑っているの。どうして幸せそうなの。その幸せは、誰の不幸の上に成り立っているか知っているの。

「一華ちゃん!」

 体は二人の元へ駆け寄ろうと動くが、流星によって阻まれる。
 掴んだ腕は離さない。
 一華が流星に伝えた「翔真のことを好きだって絶対にバレたくない。何かあれば誤魔化してほしい。二人の邪魔をしたくない」を忘れていないからだ。
 それを抜きにしても、一華を二人の元へ行かせたくなかった。

「一華ちゃん、落ち着いて」

 男の力に勝てるわけもなく、一華はそこから先に進めない。二人の後ろ姿はどんどん小さくなっていく。

 やめて、行かないで。傍にいて。ずっと傍にいたじゃん。離れて行かないで。

 縋りつくように手を伸ばすが、小さくなる翔真の背は捕まえることができない。
 一華が脱力すると、流星も力を緩めた。

「一華ちゃん」

 名前を呼ぶと、子どものようにわんわんと泣きだした。
 声があったらな「うわあああああああああああん」と、とてつもない声量だったことだろう。

 泣き叫ぶ悲痛な声が流星の心に届く。
 嫌われないため、これまで一華に触れないよう努めていたが、我慢できず正面から抱きしめた。

 こんなことなら、好きだと伝えていればよかった。意地を張らないで、プライドなんて捨てて、声があるうちに言えばよかった。自分の声で伝えたかった。もう一生、伝えることはできない。幼馴染の立場に甘んじていた罰か、素直にならなかった罰か。どうせ伝えないのなら不要な声を奪ってしまおうと、神様に意地悪をされたのか。

 もしも伝えていたら、翔真の隣にいるのは麗奈ではなく、自分だったかもしれない。
 結ばれなくとも、伝えるだけで満足すべきだった。
 大切なものは失くしてから気づくというが、その通りだ。

 声を出しているつもりだ。泣き叫んでいるつもりだ。それなのに出るのは涙だけ。
 口だけが大きく開いている、惨めな姿。

 声があったなら、今頃二人は振り返っていることだろう。なんだこの泣き声は、と。
 こんなみっともない姿を見て、呆然としたことだろう。
 皮肉にも、声が出ないことで二人にこんな姿を晒すことはなかった。

「頑張ったね」

 そう、頑張った。頑張ったんだよ。
 人魚だから魔女にたどり着けたし、翔真の足だって治した。
 人魚の子孫でなかったら、翔真は一生立てないままだった。

 あぁ、そういえば、人魚姫も王子様と結ばれることはなかったんだっけ。
 王子様と結ばれず、王子様を殺すこともできず、泡になって消えた。
 その子孫だというのなら、何故今ここに立っているのだ。何故泡になって消えない。先祖がそうであったように、泡になって消えないのはおかしい。
 辛い、消えたい。消えてなくなりたい。泡になって消えたい。
 止まらない涙と共に、泡になって海に還りたい。

 泣き叫ぶ一華をぎゅっと抱き寄せる。
 二人の姿はとうに見えなくなった。
 人通りのない道だが、たまに犬の散歩をしている人が通り過ぎる。
 端から見れば抱き合う恋人同士にしか映らない。
 一華の悲痛な泣き声は、流星にだけ聞こえる。
 冷たい風が一華の頬を撫で、冬の街に溶け込んでいった。