明日も一華の家で手話をやろうと約束し、流星は帰宅した。
 玄関の扉を開けると、家の中から妹の叫び声が出迎えた。
 毎日のことだが今日は一体何だとリビングを覗くと、大好きな男性アイドルグループのライブ映像を観賞していたようで、格好いい、尊い、でも衣装が似合っていないと、悲鳴に近い声を上げながら満喫していた。
 その声の半分でも一華にあげたいと思いながらリビングへは入らず二階へ上がる。
 外を出歩いた服でベッドに寝転びたくはないので、一人用の簡易ソファに身を預けてスマートフォンを取り出す。

「ちょっと、動画撮ってるの?」

 画面越しに聞こえてくる一華の声。
 扉を閉めても妹の叫び声が入ってくるので、音量を上げる。

「この団子美味しい」

 旅行中に撮った一華の動画を一つずつ再生する。
 声を失くす前の一華を何度も見返して、忘れないように記憶する。
 まるでデートをしているようで、無意識に口角が上がる。
 第三者から見れば恋人にしか思えない。自分で見返しても、あれはデートだったなと思える程、仲良く写っている。

 一華が声を失くす直前、どんな声をしていたか。自分だけが知っている。翔真ではなく、自分が知っている。
 手話だって、自分と一華が一緒に覚えたものを翔真に教える。
 翔真より自分の方が、一華の傍にいる。
 一華と秘密を共有し、魔女探しをしたのは自分であって翔真ではない。
 優しい一華は翔真に一生真実を話すことはないだろう。
 それでいい。
 少しくらい、自分も特別になりたい。

「魔女の森って遠くない?もう歩けない」

 こうなることを予想していたわけではないが、動画を撮っていた自分を褒めたい。
 写真を数枚撮っただけで終わっていたら、後悔していたところだ。

 一華の話し声を耳に入れていると、うとうとと瞼が下がってきた。一華の笑い声を聞きながら、睡魔に襲われてそのまま眠りについた。


 翌日、今度は昼前に一華の家にお邪魔した。
 冬休みの間は一華の家で勉強会を開くことになり、流星は嬉しさを表に出さず手話を頭に叩き込んだ。
 覚えが早い流星だが、一華と一緒に学ぶため一華のペースに合わせる。
 一華が覚えなければ意味がないので、ゆっくり丁寧に進めた。

 一華の祖母が作った昼食を食べ、また手話に没頭していると二人のスマートフォンがぴこんと鳴った。
 翔真からのメッセージで、退院が決まったとの連絡だった。足が動くようになったが、すぐ退院するわけではない。治らないと診断されていた足が治ったので、病院で色々な検査を行ってから退院するとのことだった。
 日程は決まっていないが、恐らく冬休み最終日辺りと言われており、学校には通えそうだと、喜びを隠しきれない文章と共に送られてきた。

「翔真が退院するみたいだね」

 退院する日に会いに行こうと、一華はスマートフォンの画面を見せる。まだ手話を使えない。

「分かった。じゃあ、麗奈にも言っておくね」

 結局、見舞いらしい見舞いを一華がすることはなかった。
 翔真は、人でなしと罵るような男ではない。気にするなと笑って許す男だ。
 翔真とは幼い頃からの付き合いであるため、理解している。不安に思うことなんてないはずだが、どこかに数センチ不安がこびり付いている。

「それにしても、手話のテキストから動画をダウンロードできるなんて凄いよね。テキストだけで勉強だと分かりにくいから動画付きを買って良かったな」

 動画で正しい手話を確認するため、一つのスマートフォンを二人で使う。

「そういえばこの辺りで、ボランティアの人たちが教えてくれる教室と、自治体がやってる講習があるみたいだけど、そういうのは一華ちゃん興味ある?」

 手話について学ぶだけでなく、学ぶ場も調べた。この周辺で行われているボランティアの教室は、失声者よりもその人たちを支える家族や友人などが多く参加していると口コミに書いてあった。自治体が開催している講習は、一華のように本人を主に対象としているので、参加するなら自治体の講習がいいかと思ったが、ボランティアの方が開催頻度は多く、時間も幅広い。一緒に参加すればどちらでもいいかと結論付けた。

 一華はそこへ参加する自分を想像し、断るように首を振った。
 まだ本一冊も終えていない。たどたどしい手話すらできないので、参加したところで意思疎通がスムーズにできない。その意志疎通ができるように教室や講習へ通うのだが、脳がマイナスに働く。

「そっか。自治体は事前連絡が必須らしいから、もし参加したくなったら教えてね」

 色々と調べてくれている。
 一華はそんな教室や講習があることすら知らず、調べようとも思わなかった。
 すべてを流星に任せて、頼りきりになっている。しっかりしなければ。せめて手話を覚える速度くらいは流星に追いつきたい。二人で勉強しようと言っていたが、テキストを進めていくうちに、流星はもしかして家で一人勉強しているのではないか、と思わせる事が見え隠れする。
 一華は昨日、流星が帰った後に復習をするのが精一杯だった。
 学校の授業同様に流星は復習と予習が完璧で、一華をサポートする。

 体育の持久走で、「一緒に走ろうね!」と言いながら先を走る。テストの時に「俺、全然勉強してないから」と言いながら実は陰で猛勉強する。それに近いものを感じ、こうしてはいられないと一華は俄然やる気になった。

 翔真の退院日までには、流星と簡単な手話でやり取りできるようになることを目標にした。期間を定めて勉強すると、想像以上に捗った。
 目標のために隙間時間を活用して頭に叩き込む。
 高校受験の時は塾に通い毎日のように勉強していたが、今回も負けないくらいテキストにかじりついていた。
 手話に夢中になっている間はすべてを忘れて暗記と実践を繰り返した。
 そうでないと、またよく分からない涙が零れそうだった。
 毎日のように一華の家に訪れ、たまに祖母にも教える流星に感謝と申し訳なさを持つ。

「俺たち結構できるようになったよね」

 紅茶とお菓子で休憩する。
 流星は口を動かしながら手も動かすので一華は咀嚼を止めて真剣に流星の手を見つめる。
 その眼差しにどきりとする。流星はこの時間が好きだった。手話で一華とコミュニケーションをとるとき、必ず真剣に流星と向き合う。流星だけを視界に入れて、集中している一華。翔真と手話をしてほしくないなと先のことを思い浮かべながら子どもみたいな独占欲が起き上がる。

「さっき翔真から連絡があってさ、明後日に退院するって」

 そのメールは一華にも届いていた。翔真と会う日が近くなった。以前の自分なら翔真と会える日を心待ちにしていたが、今では会いたくないと後ろ向きになる。会いたい気持ちはあるが、できることなら会いたくない。翔真の前に立っても自分は俯いていることだろう。
 自分のせいで怪我をした翔真に会いたくない。
 失声したことを同情されたくないから会いたくない。
 ずっと見舞いに行かなかったことを後ろめたいから会いたくない。
 会いたくない理由はたくさんある。

「退院は昼頃だって。麗奈は先に行って荷物運びを手伝うらしいから、予定通り俺たちは退院する頃に行こうか」

 一華が退院する瞬間を狙って行こうと思ったのは、一回くらい病室に足を運んでおかないと、と謎の使命感が働いたから。一度も病室を訪れず冬休み明けに顔を合わせるのは気まずい。そんな身勝手な理由が含まれている。

「冬休み明けたらまた学校かぁ。週五の学校通いはきついよね。週四でいいと思う」

 学校にも行きたくないな。
 仲良かった友達と、今までのように喋れない。手話は分かる人とだけコミュニケーションがとれる。彼女たちはこれから覚えるしかないが、そこまでして自分と関わりたいと思っているのだろうか。
 もしそうだったとしても、暫くは流星が傍にいてくれるだろう。おんぶにだっこ状態で頼りすぎている自覚はある。しっかりしなければと心を入れ替えたのだが、それでも流星の服を摘まんで後ろを歩こうとしてしまう。心を入れ替えることができていない。
 叫んで頭を抱えたくなる。

「手話の勉強が落ち着いたら、また二人で出掛けたいな」

 不意打ちだった。
 瞳に熱を宿してそう言われると、返答に困ってしまう。
 あの告白以降、そういった事を言われていなかったので、このタイミングで言われたことで動揺する。
 こういうときにどうすればいいのか、慣れていないので対応能力がない。
 流星のことは友達として好きだ。
 恋愛感情は翔真に対して抱いていて、流星には持ち合わせていない。
 顔面が赤くなってしまうのは流星に恋愛感情を抱いているからではなく、羞恥心故だった。

「俺と二人だと嫌だったかな?」

 嫌ではないので控え目に首を振る。

「よかった。じゃあまた二人で出掛けようね」

 嫌ではないと答えたばかりなので、今度は首を縦に振る。
 手話を始めてから徐々に流星が、好きを隠さなくなった気がする。
 一緒に動画を見る時は数ミリで触れ合う距離。勉強中に顔を上げると何度も目が合う。
 初めて男性から示される好意に心臓が跳ねてしまう。
 免疫がいかに大事かを学んだ。

「明後日が翔真の退院で、冬休み最後か。寂しいね」

 また四人での学校生活が始まる。つい数日まで自分と一華だけの空間だったのに、三日後にはそこに翔真もいる。幼馴染故に二人は休日も二人で過ごす日が多いだろう。平日は四人、休日は翔真と二人。翔真が事故に遭った日も二人で映画館へ行く約束をしていたと話していた。そんな中に割り込む隙間があるのか。あってほしい。

 翔真から掻っ攫いたい。
 日に日に増していく欲求はいつか叶うのだろうか。