自由恋愛が認められた、二十一世紀の日本の恋人達が、外因的な力で引き離される理由は限られている。遠距離、死別、経済的問題…… そして、時世だ。
「やっぱ、今月も、会えない……?」
「……仕方ないですよ。どんな病気か、まだはっきりしてないですし」
「でも、もう半年だよ……」
「バイトで会えてるじゃないすか」
「営業時間短くなってシフト減らされたし、私は掛け持ち始めたしで、顔合わせるのでやっとじゃない……」
苛立ちを含んだ涙声で、栗色のストレートヘアの二十代半ばの女性が、微かに鼻をすすり、呟く。
春と呼ばれる季節が、桜と共に瞬く間に去り、汗ばむ陽気と湿度を帯びた五月雨が繰り返され、雨模様の続く梅雨が終わったばかりの、ある蒸し暑い盛夏の夜。一組の男女が、パソコンのモニター越しに深刻な面持ちで話していた。
大学三回生の龍彦とフリーターの詩織。詩織が働いていたチェーン系列の本屋に、龍彦がバイトで入ってきたことで知り合った。
詩織の方が先輩で、二歳年上ということもあり、彼の新人教育を任された。が、龍彦は頭が良く書籍の知識も豊富で、あっという間に研修マニュアルも覚えてしまった。
間もなく、他の先輩のミスまで律儀に指摘するようになり、周りから少々敬遠される中、『立場ないなぁ』と苦笑し、詩織がフォローした程だ。
推理系やミステリー小説を、今では珍しくなった紙媒体で持ち歩き、休憩時間に必ず読みふける彼に、同じく紙媒体の小説や詩集が好きな彼女は、好感と共に興味を抱いた。
寡黙で感情表現が乏しい龍彦に、気遣いながら一生懸命話しかけ、少しずつ、少しずつ、言葉を交わす。
愛読するジャンルは違うが、何故か一緒にいて心地よく、やがて私生活でも会うようになった。そんな二人が交際するまで至るのに、さほど時間はかからなかった。
『付き合って……くれませんか、俺と』
たどたどしくも、キッパリと告白したのは、意外にも龍彦からだった。
そんなふうに見てもらえていて、彼から告げてもらえるとは思わなかった詩織は、すぐには信じられず、驚きと歓喜で涙してしまった。年上の自分が言うべきだろうか。そもそも自分の事をどう思っているのだろう……と悩んでいたのに。
そんな自分とは違う魅力を持つ彼女に、彼も惹かれていたのだ。何気ない話題も、二人でなら楽しめた。一緒にいるだけで、芯から安らげた。
お互いに交際経験は一、二回あったが、こんな付き合いは初めてだ。それなのに……
「なんで、こうなったんだろうね……」
幾度も繰り返し、口にしてきた言葉を、改めて、詩織はぼやくように吐き出す。
それは、本当に、ある日突然だった。気の早い春の嵐、竜巻のようにやってきた……いや、始まったと言うべきだろうか。新型の感染症が世界中で猛威をふるい出した。
使い捨てマスクやハンドソープが、街中からあっという間に消え、生活の為に外出しざるを得ない二人は、なんとか手に入れた布と古着を詩織がリメイクした、数枚の手作りマスクを洗っては繰り返し使っていた。
ちょっと不格好なお揃いのマスクを着け、『こういうのも悪くないね』と、なるべく暗くならないよう振るまっていた彼女が、龍彦には眩しかった。
しかし、間もなく国から出された『生活に不要な外出は全て禁止』という要請で、外でも家でも会う事を諦めざるを得なくなり、三ヶ月が過ぎた頃には、さすがに二人共元気を無くしてしまっていた。
付き合い出してから、一年が過ぎた。七月六日。それが、二人の記念日……龍彦が告白した日だ。
『本当は、明日、言いたかったんですけど…… 都合つかなくて……すいません』
そう、頬を薄紅に染めながら彼が詫びた時の様子、景色、温度の全てを、詩織は今でも鮮明に覚えている。出会って間もない頃の事。
『龍彦くんって、いうの? すごい偶然。私、詩織。彦星と織姫……七夕だね』
……なんて、話しかけるネタを作りたいのと、意識しているのを誤魔化したいのもあり、わざと冗談めかした事があったのだ。そんな自分の発言を覚えて気にしてくれたという、大切な思い出の一つでもある名前が、今となっては恨めしく、悲しくなる。
交際一年を祝うデートも出来ないでいるうち、日に日に蒸し暑い日が増え、気温はうなぎ登りになった。気づいた時にはもう、蝉がけたたましく鳴く、八月になっていた。
「……彦星と織姫って、付き合い出して怠けてばかりいたから、神様の罰で引き離されたんだよね?」
「何すか、突然……」
ロマンチストで、少々、空想癖のある詩織の、こういう詩的表現は珍しくなく、彼女の魅力だとも思っていたが、唐突な発言に、龍彦は戸惑う。
「私達……特に龍くんなんて、すごく真面目に生きてるのに、なんで会ったらいけないのかな……?」
消え入りそうな声の中に、どこか怒りが含まれている。龍彦は苦学生だった。実家はさほど裕福ではなく、必死に勉強して奨学生として大学に入った。それでも仕送りだけでは足りない為、生活費の一部はバイトで賄っている。
そんな多忙な彼を案じ、又、尊敬の念を抱いていた為、多少、寂しくとも詩織は我慢していた。『好きな人が頑張ってるんだから』『自分の方が年上なんだから』『メールやビデオ通話で顔を見て話せるだけで、十分』と、言い聞かせていた。
しかし、寡黙で表情も乏しい彼とコミュニケーションをとるには物足りなく、時たま不安に駆られた。どちらかともなく手を繋ぎ、初めてキスをし、去年の暮れに身体を重ねた。二人とも初めての行為だ。
生まれて初めて感じた、あの時のどうしようもない位に苦しくなるほどの幸福感は、今でも、彼女の中で大切に生きている。
直接会わないとわからない、ぼやけたモニター越しでは伝わって来ない事があった。彼の雰囲気や細やかな表情、触れ合って温かさを感じないと安心できない時だってある。それは、おかしい事なのだろうか……
「龍くんは、寂しくないの? こんなに会わなくても……」
「そんなことないですよ」
「じゃ、なんで、そんな平気そうなの……!?」
いつも冷静でペースを乱さず、未だに敬語で話す、画面の向こうの恋しい人。彼は、直に会えないことを何とも思わないのだろうかと、重い不安ばかりが膨らんでいく。
子供っぽい我が儘であることは承知の上だ。だが、只でさえ、友達や疎遠気味な地元の家族にも、何ヵ月も会えない日々を強いられている。バイトと家事で多忙な日々と、ネットやSNSでなんとか紛らわしていた孤独感が増幅し、先が全く見えない不安からくる悲観的な思考に負けそうだった。
「もう、かかってもいいから…… 会いたい……」
「な、に言ってるんすか…… 悪化したら死ぬかもって、言われてんすよ?」
「もう、無理。限界。寂しくて、心の方が先に、死んじゃいそう……」
涙声で俯いた詩織の言葉に、龍彦は思わず息をのんだ。心が死ぬ訳ない。寂しさで命は無くならない。そんな理屈めいた考えが、彼の脳裏を巡る。体を悪くして死んだら、何もかも終わりなのだ。彼女をそんな目に遭わせたくない。
「……」
「ねぇ、何か……言って……」
龍彦の沈黙の中に、困惑と呆れの交じる気配があるのは、詩織もわかっていた。こんな馬鹿な事を言って嫌われたくない。それでも、長い間、ずっと必死に抑えてきた想いが溢れ出し、自分でも止められなかった。
今までなら読み取れていた、銀縁眼鏡の奥に秘めた、言葉の裏にある感情や考えも、デジタルで作られた壁が邪魔をする。今の彼女に必要なのは、それを打ち破る位の確かな愛の言葉か、安堵をもたらす彼の存在感だ。
「俺も、今年の盆は、帰省もしません。ただ……」
ずっと黙っていた龍彦は、少し声色を改め、視線をモニターの向こうに、真っ直ぐ向ける。
「今でも就活は、一応してて、今度はこんな風に、ビデオ通話で面接らしいんです」
「前と変わったんだ…… 大事な時に、体、悪くしたら……良くない、ね」
画面に向き直り、詩織は、少し我に返って反省する。毎日が辛く大変なのは、彼も同じだ。無自覚に自分が感染させるかもしれない。それだけは、絶対に……嫌だった。
「どれくらいかかるか、分かりませんが…… もう暫く、待ってくれませんか。正式に内定、その、決まるまで……」
「……?」
無口ではあるが、話した時は饒舌な龍彦が、珍しく困ったように口ごもる。先程の発言を後悔していた詩織は、恐る恐る、問いかけた。
「ごめん…… 嫌に、なった?」
「そんな簡単に、嫌いに、ならない……ですよ……」
人付き合いを億劫に感じる龍彦が、初めて長く付き合っている女性が、詩織だった。今のような喧嘩で冷めるなら、とっくに別れている。
「ありがと……」
少し安心した詩織は、ようやく微笑みを見せた。
「シオ」
いつもの呼び方。いつもの口調。いつもの低く、穏やかな声。それだけは、何も変わっていない。どうか、変わらないでいて欲しい。
「……龍くん」
様々な想いを込めて、恋しい人を呼ぶ。これからも、こんな風にずっと、この名前を口に出来たら、どんなに良いだろう……
少し気まずさが残る中、日付が変わる時刻に差し掛かり、今夜の通話は終わった。
喉の渇きを感じた詩織は、結露ですっかり水浸しになったグラスをテーブルから取り、ぬるくなったアイスティーを口にした。ふと、スマホを見ると、通信アプリの新着通知を知らせるランプが瞬いているのに気づく。
龍彦と話している間に、メッセージが届いていたらしい。差出人は、彼女の母親からだった。昨日の返信の返事かと思い、憂鬱な気分で、詩織は通知を開く。
……やっぱり帰省しないのか、付き合っているという男と会ったりしていないか、という以前と同じような内容だった。
――こんな時だからしないし、会ってないって返したばかりなのに……
いつもの事だが、こんな風に落ち込んでいる時は、本当に嫌になる。何か不都合な事が起こると、彼女の母はいつにも増して、自分中心になる。信用していないのか、話を理解していなかったのか……
両親が共働きということもあり、年の離れた妹は保育園に預けられていたので、小学生までは一人で過ごすか、妹の面倒を見ることが多かった。
当時は、今よりも人見知りで大人しい性格で、友達との付き合いもあまり盛んではなかった。絵本を読むか、アニメを観てばかりいる子供だったらしい。小学生になってからは、放任主義という名の、放置主義だった。
『あなたは聞き分けのいいこだから、信用してるの』
『困った時は、ママかパパに何でも言ってね』
しかし、具合が悪い時や友人関係や勉強の悩みがある時、両親が助けてくれたことはなかった。クラスメイトに意地悪を言われ仲間外れにされた時、思い切って母に口にした事がある。
返ってきた『気にし過ぎじゃないの?』という言葉と煩わしそうな表情…… あの時の裏切られたようなショックは、今でもはっきりと覚えている。
それ以来、一切、親に心を開くことはなかった。少し成長した後は、親も仕事が大変でかまっていられなかったのだろう、と理解しようとした。が、進学や就職など、将来の重大な決断を迫られる時期になった途端、口うるさく干渉してくるようになった瞬間、全てを覚り、崩れ落ちた。
『あなたは弱いから』
『何も出来ないから』
『心配だから』
『これ位にしておきなさい』……
自分の何を理解しているのだろう。信じていたのは結局、口先だけの思い、その場しのぎの慰め、事なかれ主義……保身故の戯れ言だったのだと、最後の何かが、砕け散った。
そんな詩織にとって、口数は少なくとも、困っている人間を率先してフォローしようとする龍彦に会った時は、本当に驚いた。
尚且つ、偉ぶる訳でも見下すこともなく、たまに口にする言葉や行動には、誠意と思慮がこもっている。それに気づいた時、自分が彼に惹かれ、恋に落ちていることに気づいた。年は下でも、彼の側は居心地が良く、安心できたのだ。
追加のメッセージが来た。警笛のように、着信音が鳴る。
『心配してるのよ』
――もう、何も聞きたくない。見たくない。中身の無い、耳障りの良い言葉だけの思いは…… もう、いらない。
三角座りをして、汗ばんだ膝元に顔を埋めた。目頭の熱さがぶり返し、再び、水の膜で滲む。
――今は、ただ…………会いたい。
同じ頃。龍彦もスマホの通知を黙々とチェックしていた。数件のメッセージが届いている。筆無精な方だったが、今年は家に居ることが多かったのもあり、友人や家族とやり取りする回数が増えたのだ。
暫くの間、音沙汰のなかった地元の友人からも連絡が来るようになり、就活やバイトの合間に、ちょくちょく返信している。詩織とビデオ通話している間、その友達からの返信があったようだった。
他愛ないやり取りばかりだが、懐かしさや彼らの近況が気になっていたのもあり、今の状況下の気晴らしになっている。最近は、盆休みの帰省の話やら就活の話が多い。前回もそんな傾向だったが、今夜のメッセージに、龍彦は少し動揺した。
『付き合ってる彼女とは、どう? まだ続いてる?』
『俺の周り、会えないうちに自然消滅したり、別れる奴増えてるんだわ。大丈夫か?』
絶妙のタイミングに、思わず息をのむ。さっき、その件で彼女が泣いたばかりだ。少し躊躇った後、返信する。
『なんとか続いてる。バイト先は同じだし』
暫くして、メッセージが返って来た。
『なら、いいけど。お前、真面目だけど言葉足らずじゃん。不安にさせないようにな』
内心、気にしていた事を突かれ、ぐさり、ときた。この男は、人付き合いの苦手な龍彦が、心許せる貴重な地元の友人だ。本当に心配して言ってくれているのは解っていた。
今までに、大学の同級生や先輩、家族にまで、色々な言葉を言われてきたのだ。
『大事な時なんだし、別れるまではいかなくても、ちょっと距離おくとかしたら?』
『色々気になって面倒じゃねぇの?』
『別にその人じゃなくても、良くね?』
『彼女欲しいなら落ち着いてから、また作ればいいじゃん』
……何度、同じようなフレーズを聞いただろうか。そんな事は十分にわかっている。今の状況下に、自分の口下手さが伴って、彼女を不安にさせている事も。
だけど、どう考えても踏み切れない。エゴだとわかっているのに、詩織を離したくない自身を、もて余していた。
ふとした時に思い出すのは……親しみやすい穏やかな笑顔。最初は『バイト先の優しい先輩』としてしか見ていなかった。慣れない年頃の女性……増してや年上。自分みたいな無口で理屈っぽい男は、友人としてでもつまらないだろうと思っていた。
だが、少しずつ話しているうちに、彼女といるのが心地良くなっている自分に気づいたのだ。
――ああ、この人だと……
いつも一生懸命で、直向き。だけど、どこか不器用で、年上なのに心配で放って置けなかった。問題点はなるべく解決しないと落ち着かない性分で、何か気になると横槍を入れ、お節介を焼いてしまう。結果『あいつに任せておけばいい』というレッテルを貼られてしまいがちなのだ。
それが、時たま苦しく、重荷になる事もあった。しかし、彼女……詩織は力足らずとも、いつも自分に協力してくれようとする。そっと、優しく寄り添ってくれた。
――本当は、自分の方が側にいたかったのかもしれない……
ガシガシ、と雑念を振り切るように、髪ごと頭を掻く。
何で、こんな時に恋なんてしてるのかって? そんなの決まってる。
自分にとって大切だから? 彼女が必要だから?
月並みだが……好きだから、だ。
この世には理屈で説明出来ない事もあるのだと、生まれて初めて、痛い程に思い知った。
数日後。洋食屋のバイトの日。シフト前に、詩織は同じショッピングモールの文房具屋に来ていた。先日、本屋の店長から、『今年から更に経営が厳しくなったから、閉店になるかもしれない』と言われ、新しい勤め先を探す為、履歴書を買いに来たのだ。
本屋は好きだが、文房具コーナーはあまり立ち寄らない。学生時代は、可愛いステーショナリーやブックカバーを求めて来店していたが、社会人になってからは慌ただしくてあまり余裕がなかった。
店内もフロア内も、休日にも拘らず人通りはあまり無く、深夜前のように閑散としている。いつの間にか閉店していた店もあった。以前、龍彦とデートで訪れた時とは別世界のように変わってしまった……
親しんだ場所が消えてしまった時の哀しさ、突然置いてきぼりにされたような心許なさが漂っている。
――変わる時って、ほんとあっという間で、呆気ないな……
そのまま耽ってしまいそうな心を切り替え、履歴書コーナーで目当ての品を手に取り、レジへ向かおうとした時、グリーティングカードやレターセットが集まった売り場が目に入った。夏らしい季節の柄や可愛らしい華やかな彩りで埋まったそこは、今の世相からはかなり浮いている。だが、逆に少しほっとする空間でもあった。
何気なく一番手前の、シンプルだが洒落たデザインの星柄のセットを取る。手紙を書くなんて、子供の頃に友達同士でやった交換や、母の日や父の日に両親に渡した時以来だ。
――そう言えば、手紙もらった時って、なんか嬉しかった……
そんな風に思った瞬間、龍彦の顔が浮かんだ。気がついたら、手にしていたそのレターセットをそのまま、履歴書と共にレジに出しに行っていた。
バッグに入ったそれが、大袈裟で無く一縷の希望が、ほのかに灯っているようで……いつぶりか、心が軽くなった。
数日後の盆休み。蒸し暑い熱帯夜だけは変わらず続く。そんな中、二人はそれぞれの家からビデオ通話をした。
「……あの後、考えたんだけど」
詩織の改まった声色とトーンに、別れを切り出されるのではないかと、龍彦は内心、ドキリ、とする。しかし、続いた彼女の言葉は、予想外の単語だらけだった。
「手紙、書いていい?」
「……て、がみ?」
一瞬、何を言われたか認識出来ず、ぽかん、となった。漢字変換された単語が、次々と、彼の脳裏に浮かぶ。
「一ヶ月に……一、二回でいい。で、返事、くれないかな……?」
パソコンの傍に置いた、あのレターセットに目をやりながら、恐る恐る切り出した。
「……俺、そういうの下手ですよ。論文ならともかく……」
『そうか、手紙……』と、彼女が言いたい事を把握し、今度は狼狽える。女性が喜び、求めているような気の利いた文章……要は、ラブレターなど書ける自信は、とても無かった。
「いい。数行でも、何でも、いいの。龍くんが、直に書いたものが……ほしい。そしたら……頑張れるかもしれない」
モニター越しやデジタル化された言葉では得られないものがある事に気づいた。いや、思い出したと言うべきだろうか。直に会って、話して、初めて分かる事や伝わる事がある……
相手の気配、面影、残像……目には見えない何かだ。直接会う事が無理なら、せめて少しでも、それらを感じられるものが欲しいと思った。
いつになく切実な詩織の様子に、龍彦は神妙に頷く。今後の関係のための、大切な約束――
「……わかりました」
盆休みが明けた、数日後。一日中、雨が降り続いた夜。詩織の住むアパートの部屋宛に、一通の白い封筒が届いた。差出人は――龍彦だった。
ぐっ、と早まる鼓動を抑え、ハサミを使って丁寧に封を開ける。彼らしい真っ白でシンプルな便箋に、黒のボールペンで書かれた文字が、数行並んでいる。
――こんな字だった……?
彼が書いたものは、バイト先で少し見ただけだ。心なしか、その時よりも整えて書かれている気がする。
――初めての手紙だから、丁寧に書こうとしてくれたのかな
暑さで火照る身体の奥が、更に温まった。何とも言えない高鳴りを抱えながら、ゆっくりと文面を読んでいく。
『久しぶりです。っていうのもおかしいか。毎日、暑すぎますね。
実は、この前の通話で言いそびれたけど、少し前に用事で降りた駅で、初めて二人で会ったカフェの前を通りました。
今の状況が落ち着いたら、また一緒に行きたいですね』
――覚えてて、くれてた……
この前言ってくれたら良かったのに……と少し思ったが、照れ臭くて顔を見ては言い出せなかったのだろうか…… 彼らしいな、と何だか嬉しくなる。
手紙交換……文通という古風なスタイルだけど、このやり方は良かったかもしれないと、ふさがっていた道が、少し開けた気がした。
早速、返事を書き、送った。勿論、あの星柄のレターセットを使って、だ。書き始めると、あっという間に便箋一枚分が埋まった。本当は二枚目も書きたかったが、さすがに引かれるかと思い、止めた。読むのも大変だろうと思ったからだ。
内容は、他愛ない事ばかりだった。些細な出来事、最近のバイト先での悩み、龍彦の様子や体調を聞いたり、最近、見つけた面白そうな本の事……
ビデオ通話やメールだけでは足りなかった事を、彼に直接語りかけるように綴った。そこには居なくとも、顔や姿を思い浮かべ、好きな人の事を考える時間は、とても貴重で……いとおしく思えた。
九月に入り、暫く経った頃。以前、店長が言った通り、長引く外出禁止令で客足が乏しくなった、バイト先の本屋の閉店が決まった。元々、通販などの影響で、経営が苦しかったという。実店舗の本屋の空間が好きだった詩織は悲しんだが、感傷に浸る余裕はなかった。
働き口を失った彼女と龍彦は、暫くの間、新しいバイト探しに奔走する。台風が迫っていた中、詩織は掛け持ちしていた洋食屋のシフトを増やし、龍彦はコンビニで働き始めた。
「仕事が見つかっただけ、良かったよね」
そんな風にビデオ通話で言い合ったが、唯一、顔を合わせられる機会も失い……直接、リアルに会えることは、完全に無くなった。
初秋。夜の温度が急激に下がると共に、二人は多忙になり、ビデオ通話やメールの頻度も減ってしまった。が、月に二回程の手紙のやり取りは、なんとか続けている。これが予想以上に、確かな拠り所になっている事に、互いに戸惑い、驚いていた。
『やっと涼しい日が増えましたね。この前、就活の関係で、シオがバイトしてる洋食屋の近くに来たので、中を覗きました。
だけど、見当たらなかったので残念です。急いでたから無理だったかもしれないけど、シフト聞いておけば良かったと思いました』
そんな内容が書かれた、十月に入って最初の手紙に、思わず「えぇ!?」という声を一人であげた。暫く後、ふふ……と気の抜けた声が、力なく零れる。可笑しいのか嬉しいのかも分からない。
だが、龍彦とまともに会えなくなってから、久しぶりに明るい気持ちになった事に気づく。そしたらまた笑えて、ちょっとだけ無性に……泣けた。
そんなある日。妹から通信アプリで『少し話したいんだけど、いい?』というメッセージが届いた。
母とは少し距離を取っていた詩織だが、年の離れた妹……香織とは、たまに近況報告する関係だった。彼女が幼児期の頃から、母に代わって面倒を見ていたからか、わりと詩織になついている傾向があったのだ。
香織も詩織同様、架空の物語が好きな少女だったが、活動的だった。映画や舞台が好きで、第二志望だが外国語が学べる有名大学に合格し、演劇サークルに入る事を考えていた。
だが、いざ入学して間もなく、感染症が流行り出し、授業は全てオンライン。サークルも舞台上で密接するという理由で、活動は完全に休止中。発表どころか練習すら出来ず、友達作りもままならない状態というのは、春先に聞いていた。
彼女が夢見ていた学生生活は、一人暮らしのマンションとバイト先のみで、今でも行われている。高校の卒業式すら無くなり、失ったのだ。
「ねぇ、お姉ちゃん……」
通話を繋ぎ、そんな近況を改めて聞いた後、ぽつり、と香織が漏らした。
「……何で私達、この時代に当たったんだろね」
普段、あまり泣き言を言わない妹の一言が、詩織の心に刺さった。奥深くに隠していた、彼女の本音が現れ、浮き彫りになってゆく。
「前の……世代っていうの? その時は、こんな事なかったんでしょ? ……不公平だよね。今更だけど…… ハズレくじ引かされた気分。なのに親も先生も先輩達も、『仕方ない』で片付ける。わかるけどさ……」
怒りを通り越した、虚しい諦めと悟り、そして痛切な叫びが、一人の少女のとりとめない声で、一つの形になっていた。
インドアの詩織でさえ、窮屈に感じる昨今だ。どちらかと言えばアウトドアな彼女には、なおさら辛いだろうと思った。普段は趣味や性格の違いから、意気投合する事はそんなになかったが、今回は妹の気持ちがよくわかる気がした。
看護師をしているらしい母の友人は、病院で感染症の治療に明け暮れていると、初夏に母からのメールで聞いた。本人までが体を壊してしまうのではないか、と不安がっていた。
自分達だけではない。それぞれが、それぞれの苦しみ、悔しさの痛みを味わっている。ある日突然放り込まれた、真っ暗で先の見えない、明日どうなるかわからない世界と戦っている。恋人と会えない位で……と遠回しに言われる事もあった。けれど……
「お姉ちゃんだって、バイト先増えて、せっかく続いてる彼氏と会えなくて大変でしょ?」
続けて耳に入り込んだ一言が、詩織の中で、何かを大きく波打たせた。
「……うん。つらいし、寂しい、よ……会いたい……」
「え、ちょっとお姉ちゃん? 大丈夫⁉」
香織の動揺したような声がする。彼女の思いにつられるように弱った心が引き出され、詩織は呂律が回らず、涙声になっていた。
普段は人前で、増して妹相手に泣く事なんてなかった。誰かに頼る事、頼り方すら忘れてしまっていたのに、龍彦と一緒にいるうちに涙腺がゆるんでしまったようだ。自分がこんなに泣き虫で弱かったなんて知らなかった。
「ご、め……」
「その人の事、そんなに好きなんだ……」
茫然とした妹の声が、彼方遠くに響く。同じ時代に、同じ災難に遭った事が、皮肉にも二人の壁を低くしていた。
それまでの世界は、どんな事件や世相があっても、夢や希望を与えるコンテンツに溢れていた。音楽、映像も、スポーツ、舞台、外食、旅行……どれも、普段多大なストレスを抱えながら生きる自分達には必要で、非日常や夢を見られる娯楽を利用する事で頑張ってこれたのだろう。
それまでのやり方や価値観、当たり前とされてきた生活様式が、たった一日で一変し、覆される。夢は呆気なく奪われ、壊される。肝心の命すら、必死で助けようとする人達がいる一方、守られているのかいないのかすらわからない、不透明な流れがある。混乱と絶望、何か大きなものに動かされ、振り回されているような不気味な従属感。
今までの世界は、何故、あんなにキラキラした夢を見せたのだろうか? 何故、病みつきになる楽しみを与え、虜になる甘い味を教えたのだろうか?
全てがまやかしで一時の幻想だとわかってはいても、それすら失った時、絶望するのは当たり前だろうに……
大切なものを、ずっと守り続けていくには、私達の手は無力で、非力な赤子同然なのだと、痛感した。
十月末。急に冷え込み出し、季節がすっかり移り変わった頃。詩織が使うレターセットは、星柄から紅葉柄に変わっていた。去年、二人で紅葉の絶景スポットを訪れた事を思い出す。淡い色調で描かれた便箋と向き合う度、今では貴重になった思い出を噛みしめるように、想いを綴っていた。
少しずつ、少しずつ、今年の終わりを感じる中……十一月に入った。今月は詩織の誕生月でもある。去年は、いつもより少し背伸びしたレストランで、龍彦が祝ってくれた。二人の初めての夜でもある……
――せめて、今月は会いたかったな……
最近になってようやく、外出や旅行が限定的に少し解禁されたが、多忙さと条件が揃わず、会えそうに無い……
そんな今の状況を改めて嘆き、恨めしく思う。来年の今頃、自分達はどうなっているのだろう……
日本も、世界も、様変わりしてしまった今、何を支えに生きていけば良いのか……
モヤモヤした不安な思いを抱えながら迎えた、誕生日の前日。一つの小包が詩織のアパートの部屋に届いた。差出人は龍彦だった。明るく甘い予感と共に、高揚する心を抑え、手紙と同じく丁寧に封を開ける。中には緩衝材に包まれた、可愛らしい柄の小箱が入っていた。
去年……まだこんな事態になっていなかった頃。デートであのショッピングモールを訪れた時、化粧品や雑貨を売る店を覗いた。そこで何気なく試供品を嗅いで、『この香り好きかも』と詩織が話した、オーデコロンだった。普段、あまり香水をつけない詩織本人も忘れていた出来事――
花束柄のグリーティングカードらしき物も同封されている。絞られるように痛んでいた心臓が、震えた。
――……覚えていて、くれた……
……龍彦はそういう人だ。そういう人だったのだと思いながら、真っ先にカードの方を開く。今では慣れ親しんだ彼の字が並んでいたが、いつもと少し趣が違っていた。もうすぐ面接の結果がわかるという簡潔な言葉。そして、その後に綴られた文面は、一層、特別だった。
『誕生日おめでとう。今年は、直接会って祝えなくてすみません。残念です。
……これからどうなっていくか分からない、相変わらずの毎日ですね。それでも、こんな俺と繋がっていたいと思ってくれてて、本当に嬉しいです。
お陰でしんどい時も頑張れてます。ありがとう。詩織が、好きです』
何度も書き直したような、下書きの跡だらけの便箋に綴られた、数行のメッセージ。
彼の想い全てが、目から頭、そして心の奥まで一気に伝わる。身体が芯から震え、詩織はその場に座り込んだ。目頭が痛くなり、気がついた時には、一筋の滴が頬を伝っていた。
次第に視界が霞み、書かれていた文字がぼやける。そんな自分に気づいた瞬間、幼い頃に戻った。久しぶりに我を忘れ、全身全霊で――泣いた。
師走に入り、季節は冬になった。クリスマスムードが、例年より控えめに日本中に漂う中、龍彦から一通のメールが届いた。
通信アプリのメッセージでも手紙でも無い、久しぶりのメール。開いた瞬間、詩織は目を疑った。痛いほど、心が強く揺さぶられる。
『内定、決まりました。会ってくれますか?』
迷いなんて、ない。すぐにでも飛んで行きたい。けど、いいのだろうか。大丈夫だろうか。様々な思いが、脳内をぐるぐる駆け巡る。
──就職内定なんて、一大事。こんな時なら、一度だけなら、祝いに会いに行っても、世間も……神様も赦してくれる……?
そんな願いを、繰り返し何度も、目に見えない何かに、乞い続けた。
去年、いつも待ち合わせしていた場所で、約一年ぶりに、二人は外で顔を合わせた。夜更けの公園に人気はあまり無い。
「久しぶり……ですね」
「……うん。就職、おめでとう。良かった……」
二人きりに近い状況にも拘らず、先程から共にぎこちなく、なかなか言葉が出て来ない。落ち着いてくれないざわめく心を抑え、とりあえず向かい合ったものの、妙な懐かしさに緊張しているのか、なかなか次の一声を発せないでいる。
ビデオ通話で顔だけは見ていたのに、全然知らない人のように見える反面、いきなり一年前にタイムスリップしたようにも感じられる事が、不思議だった。
キン、と冷え込む、真冬の澄んだ空気の中、そんな歯がゆい、妙な感情を抱きながらも、ようやく覚悟を決め、龍彦は……切り出した。
「詩織」
はっ、と彼を凝視した。名前だけで呼ばれるのは、手紙以来。それも、声で、だ。
「一緒に、暮らしませんか。……籍も入れて」
「……⁉」
詩織が生まれて初めて聞く、耳慣れないけれども、確固たる、愛の意思表示。
「七月六日、に届け……出しましょう」
「いい、の? 私で、いいの……!?」
信じられない、と言わんばかりに、掠れた声を震わせる彼女に、変わらず冷静に、龍彦は続ける。
「あんま金無いんで……狭い部屋しか借りられないすけど……」
ぶんぶん、と勢いよく、詩織は首を左右に振る。誕生日にもらったオーデコロンの、甘く爽やかな香りが鼻腔をくすぐり、勇気を吹き込む。
「指輪とかも、今すぐ用意できないし……」
「……いい。龍くんが側にいるなら……喧嘩もするかも、しれないけど…… こうして会って話せるなら、それで、いい……‼」
喉から絞り出すように叫び、訴える彼女を、人気は無いとはいえ、外の公共の場で、思わず龍彦は抱き寄せる。考えるより、先に身体が動いた。
「私も働くし、一緒なら、どうなっても……頑張っていける……」
「シオ」
「だって、式の時は、神様に誓うんでしょ?」
少し眉をひそめ、不思議そうに見返す彼に、涙混じりの顔で、しっかりと詩織は説いた。
「『病める時も、健やかなる時も』」
驚いたように、龍彦の瞳孔が開いた。そんな彼に、呪いをかけるように続ける。
「『此れを愛し、此れを敬い』」
「「『この命、尽きるまで』」」
高低音の二種の声が重なり、どこか神聖な静寂の空間に、柔く、響く。
「……この先、どうなるか分からないけど、生きよう。万が一、の時は……」
少し俯き、口ごもった彼女の後に、龍彦は続ける。
「その時も……一緒」
覚悟を新たにするように、詩織は彼の背中を抱きしめ、泣き顔のまま、笑った。
「うん。一緒」
相手の命を救えるならと、諦めて別れる事もいつも互いに考えていた。自分の気持ちがそこまで値するのかと、躊躇していた。
だが、他の理由で無くすのなら……大切な人の心が死ぬのなら、何が何でも側にいて、助け合って、息をして……ギリギリまで生き抜いてやる。
もしも、これが終わらない夜なのならば、二人でささやかな光を灯していく。そんな風に、今は……想う。
これは彼らの誓いであり、万物を為すがままにする世界への、精一杯の抵抗で……『反旗』だ。
【完】