「どうして貴方はそこまでやるんですの」
 ミーシャは呆然として呟く。両手を強く握っていたせいか生気を失ったように白くなっていた。
 同時にやるせない気持ちが腹の底から湧き上がってくる。短い期間とはいえ、ミーシャは自分の事情を知らないシノブとの生活を楽しんでいた。魔法学校への編入が決まり、屋敷を離れることになった時、寂しく思ってしまったのも事実である。揶揄われて即座に否定こそしたが、紛れもない図星であった。
 どうにかして助けてあげたいと、かつてない程に脳をフル回転させた。
 しかし、外部からの介入は完全に遮断された武闘大会では、ミーシャに手出しをする術はない。もし介入すれば、ミーシャの立場はますます厳しくなる可能性だってある。そんな保身の思考がミーシャの頭を巡っていることはなかったが、結局は祈ることしかできなかった。
 人間国家対魔族国家の戦争においては、数の差を活かした陣形や防御力の高い強固な盾、遠距離武器を駆使した人間が優位に立ってきた。
 しかし、魔法を持つ吸血鬼だからこそ、不利な戦いであっても善戦を繰り広げることができたのだ。そうした戦の歴史から、吸血鬼は魔法に関して過剰なまでの誇りを抱いてきた。
 吸血鬼はそのほとんどが魔法を使えるが、ごく稀に先天的に魔法を持たない者もいた。そうした者は種族の恥と見做され、魔法を持たない吸血鬼は罪人とと同様とまで考えられるようになる。
 その煽りを受け、吸血鬼と人間のハーフへの迫害は過激であった。ハーフで魔法を使える者は過去一人も生まれなかったことから、忌み子として見做されるほどにまでなったのだ。
 元々ミーシャが住処としていたクラムデリア城の離れの屋敷に紫暢の受け入れを認めたのは、その珍妙な服装や王都に単身で乗り込んだという普通の人間とはかけ離れた要素を抱えていたからである。離れの屋敷は、確かに元は外国の大使や国内の貴族、王族のために設けられた施設である。しかしクラムデリア城は広大な面積を誇っており、ただ屋敷が宮殿から距離が離れているだけでなく、宮殿と離れの屋敷の間にある庭園には、豪華絢爛な一方で設計士の趣向が凝らされた迷路じみた複雑さを抱えており、宮殿まで出向くのに骨が折れるという悲鳴がしばしば聞こえてきた。
結果、滞在中に緊急時の避難や国難があった際に迅速な対応ができないと問題視され、それから貴賓には基本的に、宮殿の中にある部屋に滞在してもらうことになっている。
 セルミナにとって、ミーシャは大切な妹同然の存在ではあったが、国内の情勢を鑑みると非常に難しい関係性であった。王都にいたときも、ミーシャだけは王女という立場にありながら郊外の屋敷に住んでいたほどである。名前にも他の王子や王女が名乗るリューメルドを組み込むことが許されず、不遇な扱いを甘受していた。
 ミーシャの孤独を案じたセルミナは、離れならば問題ないだろうということで、使うことが無くなった離れの屋敷に住むことを提案したのだ。
 紫暢を受け入れたのは、勿論退屈な日常を賑わしてくれるのではないかという期待もあった。事実、紫暢はその期待に応え、ミーシャに退屈しない日常を与えてくれた。
(わたくしが混血だと知ったら、シノブは幻滅しますかしら)
 しなかったらいいな、とミーシャは思った。紫暢を信用していない訳ではない。混血ということを知ってなお、同じように接してくれるのではないか、という期待感を捨てられずにいた。それでももし、告げたことで嫌われてしまったらどうしよう、という不安が胸の中を支配していたのは、ミーシャが歩んできた16年を考えれば当然のものだろう。
 この二つが常に葛藤し合っていたからこそ、その事実を告げることができなかった。
 眼下でデグニス・ドラーゲルに蹂躙される姿を見て、ミーシャは心底後悔する。縛り付けてでも止めておけばよかった、と思った。魔法学校への編入はミーシャが提案したことだ。その結果が目の前の光景だと思うと、自分がその火種を生んだことを嫌でも痛感する。
 ミーシャが紫暢に魔法学校への編入を勧めたのは、クラムデリアで生きていく決意を固めた紫暢の背中を押した訳ではない。
(背中を押したように見せかけて、その実わたくしが背中に無理やり飛び乗って反動で前へ押したようなものですわ)
 努めて明るく振る舞いながらも、この国の現実に嫌気が差していた。それを表に出さなかったのは、ミーシャが持つ強かさなのだろう。本当ならばとうの昔にこの国を出奔して、他の魔族国家に逃げていたかもしれない。それをしなかったのは、セルミナの存在だった。自分に優しくしてくれたお姉様を、迫り来る脅威の前に晒したくはないという思いがあったのだ。無論、ミーシャとて魔法を持たない身で、側に居れば何かができるというわけではない。
 紫暢の人間性を見定める中で、ミーシャは早々に自分と似た性質を幾つも観測した。それが『セルミナのために何か役立ちたい』というもの。そして『差別されることが分かっていても、この国で生きていこうとする固い意志』も持ち合わせていた。それゆえに、ミーシャは仲間意識を抱いたのだろう。
(だって私は、安全なところから人の足掻く様を見て、自尊心に浸ろうとしていただけなのですから)
 身近に理不尽に震える傍輩を作って、相互に傷を舐め合い、心を守りたかった。しかしそんな期待は早くも打ち砕かれる。理不尽を受け入れず、勝ち目がないことが分かっていて単身で抗っていく。そんな姿が眩しくも思い、眠っていた焦りを掻き立てた。ただ屋敷に引きこもっているだけの自分と紫暢を比べてしまった。
 紫暢を何度も止めた真意は、心配という要素を多く含みながらも、これ以上置いていかないでほしい、という利己的な感情も帯びていた。
(わたくし、最低ですわね)
 紫暢が傷つくのをこれ以上見たくないという思いがあるのは事実だ。それでも安心という感情が微かに胸を覆っているのもまた事実であった。ミーシャはそんな自分を糾弾し、自己嫌悪に浸って歯を食い縛る。
 ミーシャは気付けばスタジアム最前列で食い入るように見つめていた。周囲の生徒がその姿にざわめき立つのを気にせず、視界にはシノブの姿しか映ってはいなかった。
「あの、ミーシャ・ルメニア殿下、でしょうか?」
 震えた声が耳を鳴らす。自分に対する畏れを含んだような声にハッとなった。ミーシャに対して敬畏の言葉を向けるのは、自分に仕えている人間のメイドや護衛くらいだった。
 それゆえに、困惑の感情がジワリと胸を侵食する。ミーシャが振り向くと、憂わしげに眉根を寄せる人間の少女の姿があった。
「貴方は?」
「わたし、シェリルと申します! 王女殿下の御尊顔を拝見でき恐悦至極に存じましゅ!」
 最後の最後で噛んだシェリルを見て、ミーシャの緊張が僅かに解けた。試合を尻目にミーシャは向き合う。
「なにかしら?」
「あの、わたし、王女殿下に伝えなければならないことがあって」
「伝えなければならないこと?」
 今話しかけなければいけないこと?とミーシャは微かに苛立ちを覚えた。しかしながらシェリルの挙動を目の前にすると、その苛立ちは彼方に消え去っていく。
「シノブ先輩のことです」
「シノブ?」
 局面が局面なだけに予想の範疇ではあったが、面識のない少女から紫暢の名前が出たことに面食らう。しかしすぐに『人間の女子生徒が貴族の吸血鬼に難癖をつけられていた』と紫暢が言っていたことを思い出す。目の前の可憐な少女を救うために身を挺したのだろう。褒められて然るべき行為なのに、ミーシャはなぜか仏頂面を貫いていた。
「ドラーゲル侯爵様が王女殿下のことを謗った上で、粛清しないのが間違いとまで告げられたと……。その言葉が許せないから、戦っているのだと仰っていました」
「シノブがそんなことを……」
 シェリルの言葉はミーシャに大きな衝撃を与えた。まず、デグニス・ドラーゲルが紫暢に対してミーシャが混血という事実を直接伝えたということを意味する。同時にミーシャが吸血鬼と人間の混血であることを知ってなお、幻滅することは無かったことも明らかになった。
 安堵感を覚えながら、この戦いの根源が自分のためだという事実に、ミーシャは慙愧に堪えない思いに駆られる。打ち砕かれる紫暢を前にして、少しでも安心という感情を胸に宿した事実に、そして紫暢が自分のために命を賭して戦っているのに、自分はスタンドから指を咥えて眺めていることしかできないのかと。
「本当は胸に留めておかなければならないことだと思うんです。でも目の前にいる王女殿下に伝えないのはあまりに先輩が報われないと思いまして……」
「いえ、助かりましたわ。それを今知らなければ、一生自分を許せなくなっていましたもの」
 ミーシャは再び紫暢の方へ目を向け、深呼吸する。ミーシャの気持ちはすでに固まっていた。
(これ以上私のために命を削る必要はないですわ)
「貴方はよくやりましたわ! もうおやめなさい!」
 ミーシャは心の限り叫んだ。周囲の生徒は絹を裂くような声が鳴響し、一斉にこちらを向く。それを意に介さず、ミーシャの視線は紫暢に釘付けとなっていた。
 その声が届いているか定かではなかったが、ミーシャの目には紫暢が微かに笑みを浮かべたように映る。無理を貫くときにする表情なのだと、瞬時に理解した。
(ああ、シノブはもう止まるつもりはないですのね)
 双眸から涙がこぼれた。このままでは命の危険すらある。ミーシャは自分ではどうにもならない現実を前にして打ちひしがれた。
(でも、最後まで見届けないといけませんわ)
 膝から崩れそうになるのをグッと堪え、魂の念を送り込んでいると、突然紫暢の様子に変化が訪れた。