「聞きましたわよ。貴方、クラムデリアに留まるらしいですわね」
「耳が速いな。まあ、いく当てもないからな」
「酔狂なことですわね。こんな国に留まるなんて」
ミーシャの表情に影が差す。そんなに俺が留まったのが残念なのか、と紫暢は少し傷ついた。もしくは紫暢の身を案じてなのであれば逆に嬉しいな、などと生産性のない思考に浸る。
だが、口調こそ紫暢に対して厳しいものがあっても、最初から一貫して人間への嫌悪感などは一切感じない。セルミナも同様だ。この国に生まれて、何もなしに人間に全く固定観念を持たず生きていくなど不可能だと思っている。そう考えると、セルミナもミーシャも人間と何か深い関わりがある、もしくはあったのではないだろうか。
「そんなに酔狂かな」
「だって人間というだけで不利益を被る国ですわよ。正気の沙汰とは思えませんわ」
紫暢も確かに正常な判断ではないな、と自覚しながら苦笑する。でもセルミナに提案してもらえたこともあり、紫暢はここで出会った縁をそう簡単に断ち切る気にもなれなかった。
「それでもさ、助けて貰った恩は返したいんだ」
「貴方に何ができると言うのです? お姉様とは種族も身分も違いますわ。貴方は魔法を使えないでしょう?」
ミーシャの言う通りだ。この国では身分よりも種族の壁が大きく反り立っている。恩を返すと豪語しながら、それに貢献できる手段を持ち合わせていない。
「使えないけど、それでも何かやれることがあると思うんだ」
「はぁ、無計画ですわね。本気ですの?」
「この目が嘘に見える?」
「見えませんわね。少し気持ち悪いくらい真っ直ぐですわ」
両手を脇腹に添えながら、呆れたように息を吐く。同時に困惑していた。吸血鬼によって死の淵を見たにも関わらず、吸血鬼に恩を返そうとしているのだ。ミーシャにとっては理解の及ばない感情であった。
「でしょう?」
「どうして得意げになるんですの。でもその気概だけは認めて差し上げますわ。貴方、歳はおいくつで?」
「17だけど」
突然歳を聞かれ、紫暢は意図を図りかねる。
「ならばちょうどいいですわね。もしここで生きていく覚悟があるならば、魔法学校に通いなさい。魔法学校はクラムデリアの縮図ですわ」
「魔法学校? 魔法が使えないのに人間が入れるのか?」
「入れますわ」
間髪入れず、ミーシャは答えた。紫暢は意外に寛容な部分があるのだな、などと呑気に思う。親切ごかしに勧めているようには見えない。
「へえ、意外だな」
「入れますが……」
「が?」
ミーシャは語尾を濁し、表情に翳りを帯びる。左足の後ろに右足のつま先を立て、逡巡を浮かび上がらせるかのように純銀のアンクレットを二度揺らした。
「入ること自体、おすすめは致しませんわ」
「おすすめはしないのに勧めるんだな」
「だって、本気なのでしょう?」
青色の透き通るような瞳が紫暢の微かな萎縮を矯正する。
「言わずとも想像はつくと思いますが、人間の魔法学校における立場は良くありませんわ。でもここで生き抜く決意があるならば、この程度は乗り越えなければいけないとわたくしは思いますの」
「俺みたいに酔狂な人間がいるんだな」
「気楽ですわね。違いますわ。魔法学校にいる人間は、ほぼ全員が人間の国へ諜報員として送り込まれる者たちですわ」
「……スパイ、ね」
「人間ですら貴方に好意的な印象は持たないかもしれませんわね」
「魔法学校には貴族の子女が多く在籍していて、豪商の跡継ぎなどもいるらしいですわ。平民は裕福なごく少数ですわね」
「……俺、そんな金ないけど」
いきなり異世界に放り込まれた紫暢は、金を持ち合わせていないどころか、この国に流通している通貨すら見たことがなかった。文字通り無一文である。魔法学校に入学するための資金を捻出しろと言われても無理な話だった。
「期待しておりませんわ。そうですね、出世払いという形で私が出資しても構いません」
「それは俺に出世する芽があると、少しは思ってくれているということか?」
「勘違いしないでくださいまし。貴方を四六時中監視することは不可能ですから、致し方ない処置ですわ」
「ですよね」
どうしてこの子は自分にこれほど良くしてくれるのだろうか、と思った。この国で不利益を受けた迷惑料としてはあまりにも手厚いものだ。その理由に、紫暢は心当たりが一切なかった。
ミーシャが立場上潤沢な資金を与えられているとしても、それを得体の知れない男、しかも人間のために使うのは、むしろリスクの孕む行為ですらある。
「ですが一つ条件があります。決めたからには決して投げ出さないこと」
「……それだけか?」
「難しいことを注文してもこなせないのではなくて?」
「はは、その通りだ」
紫暢は頬を掻く。身構えていただけに、拍子抜けの印象を強く感じた。
「強いて言うならば……。そうですね、痛い目を見たくないのなら、たとえ中傷や暴力を受けても安易に手を上げないことですわ。吸血鬼の扱う魔法は人間にとって致命傷になることもありますの」
人間に対する悪感情が具現化して襲いかかる未来を、紫暢は容易に想像できた。
「肝に銘じておきます」
「信用なりませんわね。貴方、少し頭に血が上りやすそうに見えますし」
「失敬な。俺は案外冷静だぞ」
「ならいいのですけどね」
ミーシャは空にどんよりと浮かぶ脂肪の塊のような雲を見て、小さく息を吐く。
「なあ、どうしてそこまでしてくれるんだ?」
「どうしてでしょうか」
ミーシャは遠い目で窓の外を眺めながらも、意地らしい笑顔を見せる。微かに帯びた作り物特有の違和感を、紫暢はあえて無視することにした。
「そうだ、試験とかはないのか?」
「あるにはありますわ。でもクラムデリアの魔法学校では、特別に人間枠が設けられておりますの。決して志望者は多くありませんが、その門を叩く者は総じて相当な覚悟を持っていますわ」
もし人間枠が設けられていなければ、確かに人間が門を叩く手段はないので、妥当な制度だと言えよう。人間枠での入学において、学費は非常に安く設定されている。安くしないと、人が集まらないからだ。国にとってもスパイの育成は重要視されており、魔法学校には人間枠を運用するための補助金が投じられている。
「辺境伯家の口聞きによる編入となれば、まず落とされることはないでしょうが、最低限の教養は身につけておく必要がありますわね。明日からみっちり教育しますわ。覚悟なさいな?」
「は、はい」
ミーシャは有無を言わせぬ笑顔をたたえ、紫暢は口許をジッと見つめて凌いだ。
◇
紫暢は一ヶ月以上に渡るミーシャのマンツーマン授業でこの国に関する多くのことを知った。
ルメニア王国は、大陸東部に位置する国である。南には海が広がり、西は人間が統治する諸国が連なっている。北と東には魔族の国があり、竜人族や獣人族、夢魔族など多種多様な種族が独自の国家運営を成していた。
魔族の国の大半が実力主義を掲げ、王が実力によって選定されるのに対し、ルメニアは人間と同じく血統を重視し、基本的にその血を汲む者が王になる方式を採っている。政治面でも、吸血鬼は人間に近い国家運営を行っていた。
太古は人間と吸血鬼は良好な仲を築いていたのだ。それがいつからか、人間は魔族を邪悪な敵と見做すようになった。
人間同士が戦争をし、隆盛を為す国、滅ぶ国が続出した。そのいずれもが領土の拡大を期し、土地を争い続ける。人間が戦争で領地を広げ続けた結果、拡大できる領土がないことに気づく。それでも国内での求心力の低下を恐れた人間は、太古から魔族が居を構えていた大陸東部へと目をつけたのだ。
戦争に戦争を重ねるうちに、最初は領土のためだった名分は、やがて人間の魔族に対する憎悪を増進させた。実際の魔族は人間と変わらず、見た目が人間とはかけ離れ、人間から見ると悪者ぽかったりするだけで、人間と然程変わらない集団形成をしていた。にも関わらず、人間という種族ぐるみで魔族に対するマイナスイメージを国民に植え付けたのだ。
魔族は魔法をはじめとするさまざまな能力を秘めるが、一方で個体数は非常に少なかった。それはもう圧倒的な差で、だ。一人一人の力や練度は高くとも、数の暴力に晒されればひとたまりもない。魔族たちは数多くが故郷を追われる結果となり、ルメニアも戦火に晒された。そのせいで、セルミナは王都から脱出せざる得なくなったという。
その間、良好な関係とはいえなかった魔族同士も『魔族同盟』を結成し、協力して事にあたる方針を示した。連携をとった魔族は、人間の侵攻を食い止め反撃に出る。
戦争は10年もの間続いた。流れた血は数知れず、大陸全土は荒廃の一途を辿る。人間と魔族の戦争はやがて均衡状態となり、これ以上の戦争継続が体力的に不可能だと察した人間は、ついに和睦を持ちかける。同様に疲弊していた魔族もこれを飲み、今の状態がもたらされることとなった。
ルメニアは魔族同盟の結成からその助力を受けて巻き返した。多大な犠牲を伴って国土の一部を奪還することに成功したものの、戦火によって王都は壊滅状態、一からの立て直しを迫られることになった。
それから90年の月日が経ち、人間と魔族の溝は埋まらないまま、表面的な平和が保たれている。
しかし近年、人間が魔法を凌ぐほどの脅威を開発していると国外の密偵から伝えられたことで、表面的な平穏が徐々に乱れつつあるのを、国民は察していた。どうやら人間が再び魔族と戦う準備をしている、という噂である。そのせいでここ最近は特に、吸血鬼による人間への悪感情は深まっていた。積み重なった敵意が一斉に紫暢へ向けられるのも無理のない事であった。
ルメニアの西にはオスト・フェルキナという人間の治める国がある。これは人間領の東側諸国が相互で同盟関係を築いている『東方連邦』という集合体の一角であり、一つ一つの力こそ強くはないが、経済面、軍事面で協力することで、独自の広大な勢力圏を築き上げていた。言うなればEU、ヨーロッパ連合のような形で連携している。
東方連邦の中でも北に位置するノルト三国は、特に魔族との争いが絶えず、頻繁に領土を侵略されたという土地柄もあり、反魔族の風潮が非常に強い地域であった。魔法を凌ぐほどの脅威の開発をすすめているのはこの三国だというのが、専らの見方となっている。
クラムデリアは辺境伯という立ち位置ではあるものの、王位継承権を持っていることもあり、実質的に独立した権力を持ち、自治権が付与されている。それは先の世界大戦でクラムデリアがなすすべもなく陥落したからであり、クラムデリアが抜かれればたちまちルメニア王都・リューメルドへと脅威が迫る事になる。文化的にも大きく異なっており、一つの州というよりはもはや一つの国といっても過言ではない。クラムデリアは人間との最前線における防波堤として、国から多大な軍事的投資を受けていた。
その甲斐もあって、クラムデリアは城以外にも郊外に鉄壁の城壁を幾重にも備えている。
そもそもルメニア王国の成り立ちは、聖霊ルメニアが吸血鬼と言う存在を生み出したことに由来する。吸血鬼はあらゆる生物の血液を力の源とし、虫や動物の血を吸うことの方がむしろ多かったのだという。そして血を好む聖霊ルメニアにその血が献上されていた、というのが伝承となっている。人間でいう原人の立ち位置であり、聖霊ルメニアの死を契機に言葉や社会性、理性を持つようになると、吸血鬼は人間の血を求めるようになった。人間の血を吸わなければ生活できない時代は旧人、旧吸血鬼とでも言うべきだろうか。
人間の血を吸えないと生きていけないというのは、吸血鬼の発展にはあまりにも大きな障害だった。かつては吸血鬼が魔法を活かして労せずして動物を狩り、農作物に雨を降らせたり、人間に貢献することでその見返りとして血を得て生活していた。すなわち、互いに支え合う相互依存の体制となっていたのである。しかし、人間が徐々に社会性を備えるようになると、吸血鬼も危機感を抱き始める。
人間は独り立ちできないわけではない。吸血鬼は血が無ければ死に絶える。両者の関係は相互依存に見せかけた、本質は吸血鬼が一方的に人間を頼っている歪な隷属関係であった。人間が集団で血の提供を拒否すれば、吸血鬼は不浄とされる動物の血を吸うしか無くなる。そして不浄とされる動物の血を吸うくらいならば、飢えて死ぬ道を選ぶという者も多かった。人間はやがて吸血鬼の足元を見ることになり、血の提供に法外な値段を付けたり、人間への従属を求めてくるようになる可能性も低くはなかった。
魔族に血を求めるべし、という意見も無論あった。しかし魔族同盟が結成されるまでは吸血鬼自身も魔族との国交は一切なく、魔族と言いながら吸血鬼は人間と長年協調関係を築いてきた。新たに国民を安定的に生活させることのできるまとまった量の血の提供を求めて交渉するのは、あまりに現実的ではなかった。魔族も見た目こそ人間や吸血鬼からかけ離れた見た目をしているものの、人間とさほど変わらない社会形成をしているため、他の魔族が人間同様足元を見てくる可能性も十分ありえた。
人間が次々と国を形成していく中、遠からず種族自体の破滅という未来が訪れうると考えた吸血鬼は、人間との共存を徐々にやめ、単一種族国家を形成する。
そうしてできたのがルメニア王国、というわけである。血を半強制的に絶ったことから、吸血鬼の個体数は大きく減少した。当然である。種族全員が血を摂取していた中、血を吸わなくても死ななかった吸血鬼のみが生き残っていったのだ。その数は最盛期の十分の一以下と言われる。
ルメニアという言葉は、吸血鬼の間で『血と強欲の魔女』の意味で通っているらしい。王国に冠する名前としてはあまり良くない由来だな、と紫暢は思った。
「耳が速いな。まあ、いく当てもないからな」
「酔狂なことですわね。こんな国に留まるなんて」
ミーシャの表情に影が差す。そんなに俺が留まったのが残念なのか、と紫暢は少し傷ついた。もしくは紫暢の身を案じてなのであれば逆に嬉しいな、などと生産性のない思考に浸る。
だが、口調こそ紫暢に対して厳しいものがあっても、最初から一貫して人間への嫌悪感などは一切感じない。セルミナも同様だ。この国に生まれて、何もなしに人間に全く固定観念を持たず生きていくなど不可能だと思っている。そう考えると、セルミナもミーシャも人間と何か深い関わりがある、もしくはあったのではないだろうか。
「そんなに酔狂かな」
「だって人間というだけで不利益を被る国ですわよ。正気の沙汰とは思えませんわ」
紫暢も確かに正常な判断ではないな、と自覚しながら苦笑する。でもセルミナに提案してもらえたこともあり、紫暢はここで出会った縁をそう簡単に断ち切る気にもなれなかった。
「それでもさ、助けて貰った恩は返したいんだ」
「貴方に何ができると言うのです? お姉様とは種族も身分も違いますわ。貴方は魔法を使えないでしょう?」
ミーシャの言う通りだ。この国では身分よりも種族の壁が大きく反り立っている。恩を返すと豪語しながら、それに貢献できる手段を持ち合わせていない。
「使えないけど、それでも何かやれることがあると思うんだ」
「はぁ、無計画ですわね。本気ですの?」
「この目が嘘に見える?」
「見えませんわね。少し気持ち悪いくらい真っ直ぐですわ」
両手を脇腹に添えながら、呆れたように息を吐く。同時に困惑していた。吸血鬼によって死の淵を見たにも関わらず、吸血鬼に恩を返そうとしているのだ。ミーシャにとっては理解の及ばない感情であった。
「でしょう?」
「どうして得意げになるんですの。でもその気概だけは認めて差し上げますわ。貴方、歳はおいくつで?」
「17だけど」
突然歳を聞かれ、紫暢は意図を図りかねる。
「ならばちょうどいいですわね。もしここで生きていく覚悟があるならば、魔法学校に通いなさい。魔法学校はクラムデリアの縮図ですわ」
「魔法学校? 魔法が使えないのに人間が入れるのか?」
「入れますわ」
間髪入れず、ミーシャは答えた。紫暢は意外に寛容な部分があるのだな、などと呑気に思う。親切ごかしに勧めているようには見えない。
「へえ、意外だな」
「入れますが……」
「が?」
ミーシャは語尾を濁し、表情に翳りを帯びる。左足の後ろに右足のつま先を立て、逡巡を浮かび上がらせるかのように純銀のアンクレットを二度揺らした。
「入ること自体、おすすめは致しませんわ」
「おすすめはしないのに勧めるんだな」
「だって、本気なのでしょう?」
青色の透き通るような瞳が紫暢の微かな萎縮を矯正する。
「言わずとも想像はつくと思いますが、人間の魔法学校における立場は良くありませんわ。でもここで生き抜く決意があるならば、この程度は乗り越えなければいけないとわたくしは思いますの」
「俺みたいに酔狂な人間がいるんだな」
「気楽ですわね。違いますわ。魔法学校にいる人間は、ほぼ全員が人間の国へ諜報員として送り込まれる者たちですわ」
「……スパイ、ね」
「人間ですら貴方に好意的な印象は持たないかもしれませんわね」
「魔法学校には貴族の子女が多く在籍していて、豪商の跡継ぎなどもいるらしいですわ。平民は裕福なごく少数ですわね」
「……俺、そんな金ないけど」
いきなり異世界に放り込まれた紫暢は、金を持ち合わせていないどころか、この国に流通している通貨すら見たことがなかった。文字通り無一文である。魔法学校に入学するための資金を捻出しろと言われても無理な話だった。
「期待しておりませんわ。そうですね、出世払いという形で私が出資しても構いません」
「それは俺に出世する芽があると、少しは思ってくれているということか?」
「勘違いしないでくださいまし。貴方を四六時中監視することは不可能ですから、致し方ない処置ですわ」
「ですよね」
どうしてこの子は自分にこれほど良くしてくれるのだろうか、と思った。この国で不利益を受けた迷惑料としてはあまりにも手厚いものだ。その理由に、紫暢は心当たりが一切なかった。
ミーシャが立場上潤沢な資金を与えられているとしても、それを得体の知れない男、しかも人間のために使うのは、むしろリスクの孕む行為ですらある。
「ですが一つ条件があります。決めたからには決して投げ出さないこと」
「……それだけか?」
「難しいことを注文してもこなせないのではなくて?」
「はは、その通りだ」
紫暢は頬を掻く。身構えていただけに、拍子抜けの印象を強く感じた。
「強いて言うならば……。そうですね、痛い目を見たくないのなら、たとえ中傷や暴力を受けても安易に手を上げないことですわ。吸血鬼の扱う魔法は人間にとって致命傷になることもありますの」
人間に対する悪感情が具現化して襲いかかる未来を、紫暢は容易に想像できた。
「肝に銘じておきます」
「信用なりませんわね。貴方、少し頭に血が上りやすそうに見えますし」
「失敬な。俺は案外冷静だぞ」
「ならいいのですけどね」
ミーシャは空にどんよりと浮かぶ脂肪の塊のような雲を見て、小さく息を吐く。
「なあ、どうしてそこまでしてくれるんだ?」
「どうしてでしょうか」
ミーシャは遠い目で窓の外を眺めながらも、意地らしい笑顔を見せる。微かに帯びた作り物特有の違和感を、紫暢はあえて無視することにした。
「そうだ、試験とかはないのか?」
「あるにはありますわ。でもクラムデリアの魔法学校では、特別に人間枠が設けられておりますの。決して志望者は多くありませんが、その門を叩く者は総じて相当な覚悟を持っていますわ」
もし人間枠が設けられていなければ、確かに人間が門を叩く手段はないので、妥当な制度だと言えよう。人間枠での入学において、学費は非常に安く設定されている。安くしないと、人が集まらないからだ。国にとってもスパイの育成は重要視されており、魔法学校には人間枠を運用するための補助金が投じられている。
「辺境伯家の口聞きによる編入となれば、まず落とされることはないでしょうが、最低限の教養は身につけておく必要がありますわね。明日からみっちり教育しますわ。覚悟なさいな?」
「は、はい」
ミーシャは有無を言わせぬ笑顔をたたえ、紫暢は口許をジッと見つめて凌いだ。
◇
紫暢は一ヶ月以上に渡るミーシャのマンツーマン授業でこの国に関する多くのことを知った。
ルメニア王国は、大陸東部に位置する国である。南には海が広がり、西は人間が統治する諸国が連なっている。北と東には魔族の国があり、竜人族や獣人族、夢魔族など多種多様な種族が独自の国家運営を成していた。
魔族の国の大半が実力主義を掲げ、王が実力によって選定されるのに対し、ルメニアは人間と同じく血統を重視し、基本的にその血を汲む者が王になる方式を採っている。政治面でも、吸血鬼は人間に近い国家運営を行っていた。
太古は人間と吸血鬼は良好な仲を築いていたのだ。それがいつからか、人間は魔族を邪悪な敵と見做すようになった。
人間同士が戦争をし、隆盛を為す国、滅ぶ国が続出した。そのいずれもが領土の拡大を期し、土地を争い続ける。人間が戦争で領地を広げ続けた結果、拡大できる領土がないことに気づく。それでも国内での求心力の低下を恐れた人間は、太古から魔族が居を構えていた大陸東部へと目をつけたのだ。
戦争に戦争を重ねるうちに、最初は領土のためだった名分は、やがて人間の魔族に対する憎悪を増進させた。実際の魔族は人間と変わらず、見た目が人間とはかけ離れ、人間から見ると悪者ぽかったりするだけで、人間と然程変わらない集団形成をしていた。にも関わらず、人間という種族ぐるみで魔族に対するマイナスイメージを国民に植え付けたのだ。
魔族は魔法をはじめとするさまざまな能力を秘めるが、一方で個体数は非常に少なかった。それはもう圧倒的な差で、だ。一人一人の力や練度は高くとも、数の暴力に晒されればひとたまりもない。魔族たちは数多くが故郷を追われる結果となり、ルメニアも戦火に晒された。そのせいで、セルミナは王都から脱出せざる得なくなったという。
その間、良好な関係とはいえなかった魔族同士も『魔族同盟』を結成し、協力して事にあたる方針を示した。連携をとった魔族は、人間の侵攻を食い止め反撃に出る。
戦争は10年もの間続いた。流れた血は数知れず、大陸全土は荒廃の一途を辿る。人間と魔族の戦争はやがて均衡状態となり、これ以上の戦争継続が体力的に不可能だと察した人間は、ついに和睦を持ちかける。同様に疲弊していた魔族もこれを飲み、今の状態がもたらされることとなった。
ルメニアは魔族同盟の結成からその助力を受けて巻き返した。多大な犠牲を伴って国土の一部を奪還することに成功したものの、戦火によって王都は壊滅状態、一からの立て直しを迫られることになった。
それから90年の月日が経ち、人間と魔族の溝は埋まらないまま、表面的な平和が保たれている。
しかし近年、人間が魔法を凌ぐほどの脅威を開発していると国外の密偵から伝えられたことで、表面的な平穏が徐々に乱れつつあるのを、国民は察していた。どうやら人間が再び魔族と戦う準備をしている、という噂である。そのせいでここ最近は特に、吸血鬼による人間への悪感情は深まっていた。積み重なった敵意が一斉に紫暢へ向けられるのも無理のない事であった。
ルメニアの西にはオスト・フェルキナという人間の治める国がある。これは人間領の東側諸国が相互で同盟関係を築いている『東方連邦』という集合体の一角であり、一つ一つの力こそ強くはないが、経済面、軍事面で協力することで、独自の広大な勢力圏を築き上げていた。言うなればEU、ヨーロッパ連合のような形で連携している。
東方連邦の中でも北に位置するノルト三国は、特に魔族との争いが絶えず、頻繁に領土を侵略されたという土地柄もあり、反魔族の風潮が非常に強い地域であった。魔法を凌ぐほどの脅威の開発をすすめているのはこの三国だというのが、専らの見方となっている。
クラムデリアは辺境伯という立ち位置ではあるものの、王位継承権を持っていることもあり、実質的に独立した権力を持ち、自治権が付与されている。それは先の世界大戦でクラムデリアがなすすべもなく陥落したからであり、クラムデリアが抜かれればたちまちルメニア王都・リューメルドへと脅威が迫る事になる。文化的にも大きく異なっており、一つの州というよりはもはや一つの国といっても過言ではない。クラムデリアは人間との最前線における防波堤として、国から多大な軍事的投資を受けていた。
その甲斐もあって、クラムデリアは城以外にも郊外に鉄壁の城壁を幾重にも備えている。
そもそもルメニア王国の成り立ちは、聖霊ルメニアが吸血鬼と言う存在を生み出したことに由来する。吸血鬼はあらゆる生物の血液を力の源とし、虫や動物の血を吸うことの方がむしろ多かったのだという。そして血を好む聖霊ルメニアにその血が献上されていた、というのが伝承となっている。人間でいう原人の立ち位置であり、聖霊ルメニアの死を契機に言葉や社会性、理性を持つようになると、吸血鬼は人間の血を求めるようになった。人間の血を吸わなければ生活できない時代は旧人、旧吸血鬼とでも言うべきだろうか。
人間の血を吸えないと生きていけないというのは、吸血鬼の発展にはあまりにも大きな障害だった。かつては吸血鬼が魔法を活かして労せずして動物を狩り、農作物に雨を降らせたり、人間に貢献することでその見返りとして血を得て生活していた。すなわち、互いに支え合う相互依存の体制となっていたのである。しかし、人間が徐々に社会性を備えるようになると、吸血鬼も危機感を抱き始める。
人間は独り立ちできないわけではない。吸血鬼は血が無ければ死に絶える。両者の関係は相互依存に見せかけた、本質は吸血鬼が一方的に人間を頼っている歪な隷属関係であった。人間が集団で血の提供を拒否すれば、吸血鬼は不浄とされる動物の血を吸うしか無くなる。そして不浄とされる動物の血を吸うくらいならば、飢えて死ぬ道を選ぶという者も多かった。人間はやがて吸血鬼の足元を見ることになり、血の提供に法外な値段を付けたり、人間への従属を求めてくるようになる可能性も低くはなかった。
魔族に血を求めるべし、という意見も無論あった。しかし魔族同盟が結成されるまでは吸血鬼自身も魔族との国交は一切なく、魔族と言いながら吸血鬼は人間と長年協調関係を築いてきた。新たに国民を安定的に生活させることのできるまとまった量の血の提供を求めて交渉するのは、あまりに現実的ではなかった。魔族も見た目こそ人間や吸血鬼からかけ離れた見た目をしているものの、人間とさほど変わらない社会形成をしているため、他の魔族が人間同様足元を見てくる可能性も十分ありえた。
人間が次々と国を形成していく中、遠からず種族自体の破滅という未来が訪れうると考えた吸血鬼は、人間との共存を徐々にやめ、単一種族国家を形成する。
そうしてできたのがルメニア王国、というわけである。血を半強制的に絶ったことから、吸血鬼の個体数は大きく減少した。当然である。種族全員が血を摂取していた中、血を吸わなくても死ななかった吸血鬼のみが生き残っていったのだ。その数は最盛期の十分の一以下と言われる。
ルメニアという言葉は、吸血鬼の間で『血と強欲の魔女』の意味で通っているらしい。王国に冠する名前としてはあまり良くない由来だな、と紫暢は思った。