「はっ!」
 俺は息苦しさを感じて飛び起きた。目の前には知らない光景が広がっている。かなりの広さに加え、豪華な宝飾が所々に施された内観に落ち着きのなさを覚えた。淡黄蘗の控えめな壁も相まってか、主張の強い色で彩られたインテリアは目立って見える。一丁羅の上下はいつのまにか脱がされ、白を基調とした小綺麗な服装に変わっていた。
そんな中で違和感を覚える。射抜くような視線を感じ左を向くと、そこには怪訝そうに眉を歪めて横顔を睨みつける少女がいた。
柳鼠の髪を後ろで二つにまとめ、カールのかかった毛先は肩下まで伸びている。端麗な顔立ちに、吸い込まれるような青色の瞳。細く小柄な体型で抱き締めたら折れてしまうのではと不安に駆られた。ほんの少し頬が赤みを帯びて膨らんでいる。不機嫌そうに目に映り、俺は首を傾げた。
「どなた?」
「それはこちらの台詞ですわ」
 少女は嘆息する。口調からは気の強そうな色が垣間見えた。一切視線を逸らすことなく、まじまじと見つめてくる。それはまるで自分の人となりを窺っているような印象で、俺は奇妙に感じて首を傾げた。
「えっと、なにか?」
「なんでもありませんわ」
 見慣れない部屋の風景や、聞きなれない少女の口調が居心地の悪さを増大させる。
「というかここはどこ?」
「ルメニア王国クラムデリア城の城内、宮殿の離れにある屋敷ですわ。まったく、お姉様も甘いですわ。どこの馬の骨かも分からない人間にこの部屋を使わせるなんて。掃除にどれだけ時間がかかると思ってるのかしら」
 窓から城下が臨める一等地に位置する屋敷は、塀に囲まれたクラムデリア城の中にある。客間が豪華絢爛に彩られているのは、他国の大使に見栄を張るため、もしくは国力を誇示するためなのか、と想像を膨らませた。
「えっと、ごめんなさい?」
「この屋敷は本来ルメニアの王族や他国の大使が使うものですのよ。光栄に思ってもらいたいものですわ」
 怒りながらブツブツ呟いているが、体格のせいかまったく怖くない。だがルメニア王国なんて国、世界史で聞いたことはない。ましてやクラムデリア城なんて城も聞いたことはない。もしかすると本当にある欧州の小国だったりするのかもしれないが、あいにく勉強不足で分からなかった。
「貴方、名前はなんて言いますの?」
「……桶皮紫暢だけど」
「オケガ・ワシノブ? オケガが名前? お怪我? 随分と珍妙で縁起の悪そうな名前ね」
「違う。シノブが名前でオケガワが名字だ」
「オケガワなんて苗字も十分変ですけど」
 名前の読み方が上下逆ということは少なくとも確信できた。つまり日本ではなく、外国のどこかか、異世界という線だってある。もし異世界なのならば、漢字という概念すら存在しないだろう。一応見せてみるか、と少女からペンと紙を借りて、自分の名前を書いてみた。
「この文字、何て読むか知らない?」
 俺の名前なんだけど、と付け加えて尋ねる。
「こんな文字、初めて見ましたわ。複雑で、とても実用的には思えませんわね」
 確かに海外の人から見たら、漢字などとても実用的ではないだろう。ただ見た感じ、かなり高度な教育を受けられる環境に見える。漢字を習得する難易度はともかく、漢字という概念を知らないということは考えにくいだろう。
「貴方、どこの国から来たのかしら?」
「日本って国だよ」
「聞いたことないですわね」 
「ならジャパンは? それともヤポーニャ? ジャポーネ? ヤポンスカ?」
「変な名前の国ね。どれも知らないですわね。人間の国はそういうのが多いのかしら」
 日本じゃない国でニホンと言って通じるはずがないので、俺は公に海外で呼称される国名を知っている限り並べてみたが、全くの徒労に終わる。
 ただ日本語がなぜか通じていることから(実際は勝手に翻訳されているのかもしれないが)異世界という線も濃厚になってくる。
「人間をさも他人のように言ってるが、お前は人間じゃないのか?」
「お前じゃなくてわたくしにはミーシャという立派な名前がありますの」
「じゃあミーシャ」
「呼び捨てとはいい度胸ですわね」
 歯をガリッと鳴らして耳をつねってきたが、あまり痛くはない。
「じゃあミーシャちゃん?」
「消されたいのかしら?」
 心なしか、ちゃん付けの方が声から怒気を感じる。可愛いのが嫌なのかな。まあ小柄だし、子供扱いされるのが嫌なのかもしれない。
「ミーシャ様」
「なんだか貴方に呼ばれると違和感ですわね」
「なんだよ。変なやつ」
「貴方にだけは言われたくありませんわ」
「ミーシャちゃんでいいか?」
「勝手になさい。で、なんでしたかしら。ああ、そうでしたわね。わたくしが人間じゃないのは当たり前です。わたくしは吸血鬼ですから」
 そう言って、ミーシャちゃんは鋭く尖った八重歯を見せ、耳にかかっていた髪を耳の後ろへ持っていく。うおっ、と声が漏れた。作り物かと一瞬疑うが、どこからどう見てもそれっぽさはどこにもない。手を伸ばして一瞬触れかけたが、なんだかいけないことをしているように思えて、俺は手を引っ込めた。
「吸血鬼?」
「そうですわ。わたくしだけではなくこの国は吸血鬼の国ですわ。国民のほとんどが吸血鬼で構成されていますの。貴方のような人間は滅多にいません」
 吸血鬼なんて物語の世界にしか存在しないと思っていた。人間の生き血を啜る、日差しに弱く夜行性である、血を吸われると吸われた人間が吸血鬼に変貌してしまう、など邪悪なイメージが先行する種族だ。どれほど信憑性のある俗説なのかは定かではないが、鋭利な歯を持つのを見る限り、少なくとも血を吸うというのは間違っていないのかもしれない。
「ってことは俺血吸われるの!?」
 ベッドの上で後退り、自らの左手を押さえる。無意識のうちに左手を押さえたのは、献血を受けた際に指から採血されたからだろう。自分の人生が全くの無価値であると思いたくないがために、俺は積極的に献血に協力して虚構の偽善で心を満たしていたことがあった。それが影響したのだろう。
「失礼ですわね。確かに昔は取引をして人間の血を吸っていましたわ。ですが生き残るために血を吸わずとも生きていけるよう変貌しましたの。ですから吸血鬼とはいっても血は吸いませんわ。まあ、時々血が欲しくなることがないこともないですが」
「ほー。大変なんだな」
「一部の血の味を知った吸血鬼が人間の血を高値で買っていますから、ここで貴方の血を可能な限り吸い上げて売ればクラムデリアは多少潤いますわね」
「怖いこと言わないで」
 それは国際問題になりかねないぞ、と思いつつも、目が笑っていなかった。冗談だと思いたい。現状すら殆ど理解の内にないのに、野に放たれたら確実にのたれ死んでしまう。立場の違いを突きつけるような一言だった。今の自分は圧倒的弱者。下手に逆撫でするような言動は控えようと心に誓った。
 今の吸血鬼は基本的に血を吸わずとも生きていけるが、一部の富裕層の間では人間の血が嗜好品として流通されているらしい。しかし一度人間の血の味を知って、それを常習化することで人間を襲うケースもあるため、問題視されているという。人間の血は今では中毒性の高い禁止薬物のような扱いなのだろう。
「貴方、本当に何も知らないのですね。でもこれが演技という可能性もありますし、わたくしが貴方がお姉様を害する存在でないか直々に見定めましょう」
「どういうこと?」
「ですから、わたくしが貴方の側に付いて、行動を逐一記録しようかと思っておりますわ」
「監視?」
罪人のように扱われているように感じて、俺はムッとした。でもその心情をすぐに察したのか、ミーシャちゃんは冷淡な笑みでそっけなく振舞う。
「嫌なら出て行って頂いて結構ですの。お姉様も本人の希望だと言えば受け入れるでしょう。行く当てがあるのなら、ですが」
「いえっ、ありがたく厄介になります!」
「よろしい」
 文句は言えないので、余計な事を口にするのは避ける。地球ではないという説が濃厚である現状、不興を買って追い出されるのは俺にとって一番避けたいことだった。
「というか、さっきから言っているお姉様って誰のことなんだ?」
「もちろん、クラムデリア辺境伯家当主のセルミナ・クラムデリアお姉様のことよ」
「聞いたことないな」
 そもそもルメニアという国すらも初めて聞いたのだから、その一地方を治める貴族の名など知る由もない。
「命の恩人にとんだ失礼ですわね。貴方、覚えてないのかしら?」
「命の恩人……、ってあ!」
 そう言って、脳裏に浮かぶ。俺は気絶する前、誰かに助けられた記憶があった。徐々に鮮明になっていく声色。自分を庇うような女声に安堵して、意識を手放したのだ。体の節々が絶えず悲鳴をあげるが、こうして命を保持していられるのはミーシャちゃんが言うセルミナ様のおかげなのだろう。まだ自分の置かれた状況を正しく理解していないので、ミーシャちゃんから見ると俺はいわゆる浮世離れした人間であった。
「ようやく思い出したのですね。まったく、恩知らずにも程がありますわ」
「しょうがないだろ。あの時はボコされて余裕がなかったし」
「お姉様が私財を投じて治癒師を招聘し、瀕死の貴方を回復にお導きになりましたわ。貴方、治癒師を呼ぶのにどれほどの費用が掛かるか知らないでしょう?」
「……知りません」
「まあ言わない方が身の為かもしれないですわね」
 なにそれ怖い。日本みたいに社会保障制度が整っていないだろうし、この国では医療はあまりにも貴重なものなのかもしれない。法外な金額をこのあと請求される可能性だってある、そして払えないと分かると無理な要求を突き付けるのだ。でもそうじゃないことを願いたい。日本で泊まったら一泊100万はしそうな豪奢な部屋でもてなされているのだから、無体な扱いはされないはず。まあこの待遇も後から莫大な料金を回収する布石でないと否定はできないが。
「感謝してるよ。助けがなかったら多分野垂れ死んでた。そのお姉様に礼が言いたいな」
「ふん、お姉様にそう簡単に拝謁できると思わないことですわ」
 辺境伯家の当主ともあれば、謁見するために相応の格というものが求められるだろうし、時間を作るのも難しいのだろう。
「妹とこうして話せているのに?」
「わたくしは妹ではありませんわ」
「え?」
 言っていることと矛盾しているじゃないか、と思った。姉と慕っているのを見て仲の良い姉妹なのだろうと夢想したが、どうやらそうではないらしい。
「わたくしはルメニア王国の第3王女、ミーシャ・ルメニアですわ」
ミーシャちゃんは薄い胸を鼻高そうに張って、手のひらを添える。
「えっ、王女様!?」
 何か武道の心得があって、姉弟子として慕っているとかが想像し得る次点だったが、予想の斜め上だった。体格こそ幼さを多く残しているものの、一切の乱雑さを纏わない所作や華やかな模様が施された服装、肌の透き通るような綺麗さから気品を感じる。その言葉に偽りはないのだろう。
「ふふん、崇めても構いませんのよ」
「でも仮にも王女様が辺境伯家の屋敷に? それにセルミナ様? を姉と呼ぶのも違和感が」
「わたくしは妾の子ですの。王位継承権も持ちませんし、自由な身というわけですわ。お姉様は今の国王である父上の姪ですから、わたくしと違って王位継承権を持ってますの」
 俺は納得して頷く。日本の皇室だと男子だけが皇位継承順位を持っているが、この国にそういった制約はないそうだ。性別に関係なく、早く生まれた者に高い皇位継承順位が与えられる。
「それにお姉様は114歳ですの。姉と慕ってもなんらおかしくないのではなくて?」
「114歳!? それはもうおば」
「言わせませんわ」
 そこまで言ったところで、勢いよく口を塞がれた。人間ならばもう殆どの人間が死に召されている年齢じゃないか、と代わりに心の中で突っ込んだ。
「あなた方人間は100年生きるほうが稀ですから、そう思うのも無理はないですわ。ですが、吸血鬼は300年が寿命で、200歳までは容姿も殆ど変わりませんの」
「じゃあミーシャちゃんもかなりお年を召しておられるので?」
「言い方がムカつきますが、まあ良いでしょう。でもわたくしはまだ16ですわ」
「だからそんなに小さいのか」
 逆鱗に触れたのか、ミーシャちゃんの拳が腹を直撃する。避ける術はなく、正面から最大ダメージを喰らった。
「殴られたいのかしら?」
「殴ってから言わないでくれ!」
「吸血鬼は15歳で今後200年の容姿が決まると言われていますわ……」
「ごめん、ごめんって。自分で言って気を落とさないでくれ」
 あからさまに傷ついた様子で、居た堪れなくなる。『そんなことない、これからだよ』とか否定するのもわざとらしく、少々気まずくなった紫暢は、話題を転換することにした。
「というか、王女様がこんな得体もしれない男に共もなしに面会していいのか?」
「ご心配なく。外におりますわ」
 その声と同時に部屋のドアが控えめに開閉した。今までの会話、全部聞かれてたのか。というか妹のように接してたけど、タメ口で馴れ馴れしい言動が不敬罪と捉えられて裁かれたりしないかな。
「だとしても、王女様が俺のことを監視だなんて畏れ多いのでおやめになった方がいいのでは?」
「全く思ってないですわね?」
「イエソンナコトナイデス」
 俺が視線を彷徨わせていると、ミーシャちゃんは深くため息をついた。
「色々わたしにも事情がありますの。詮索はしないでくださいまし。それよりも身の振り方を考えた方が良いのではなくって?」
 王女でありながら辺境伯の領地に身を寄せていることから、相当の事情があることは想像に難くない。自分もかなりの訳ありなので、口は噤んだ。
「身の振り方?」
「人間がこの国に長くいることは好ましくないからですわ。貴方も身を以て体感したでしょう。この国では人間への迫害と差別が根強い。貴方がお姉様に保護された王都は、特にその傾向が強くありますわ」
 何を当然のことを、と呆れたように笑う。人間への悪感情は相当なものだろう。それは身体に残っている傷が物語っている。納得して閉口するしかなかった。
「ですから、貴方もいずれこの国を出て人間の国に向かう方が良いと忠告しておりますの」
「とはいっても、自分の国がどこにあるかわからないからなぁ」
 故郷である日本という国がない世界で、どこに向かえば良いと言うのだろうか。この国を追い出されたら、俺は難民になってしまう。この身一つで稼ぐ手段を探し、身を立てていかなければならない。
「そんなことわたくしに聞かないでくださいまし。でもまあ、わたくしとしては、貴方がここに長居するのを好ましくは思いませんから、早いところ出て行っていただきたいものですが」
 セルミナ様のことを余程大事に思っているらしい。警戒心がひしひしと伝わってくる。それでも人間への差別が根強いと言いながら、俺のことを助けてくれたセルミナ様、そして口調は鋭いながらも、俺を見下さず接してくれるミーシャちゃんの二人との出会いは、寂寥感に苛まれていた俺にとっては心のオアシスだった。