不気味な静寂に包まれた町を足早に抜け、クラムデリア城へと入る。
 紫暢の想定通り、城の警備は手薄になっていた。城門は閉ざされていたものの警備はおらず、抜け道を知っていた紫暢は城門の脇にある小さな入り口から中に入る。
 城の中はセルミナの居室から一条の光が窺えるだけで、大部分が暗闇に支配されていた。
 もしセルミナが既に王都へ逃げ果せていれば、どれほどよかったことか。紫暢は杞憂にならなかった現実に直面してため息を吐いた。
「ミナ、こんなところでなにをやってるんだ。早く王都へ逃げないと」
 紫暢はセルミナの居室へと立ち入る。流石に部屋の前に側近は立っていたものの、顔は知られていたことと、今の自分では掛けられる言葉がないという側近の思いで、中に入れてはもらえた。
 セルミナと僅かな側近を除き、城に在留していた者たちは王都へと逃げ去ったらしい。ただ主君を守る義務を放棄したのではなく、セルミナが直々に頭を下げて頼んだという。自分に付き従って命を散らす必要はないと。今の戦力では、どう足掻いても合計700の吸血鬼を一瞬で打ち破った大軍に対抗することはできないと現実を突きつけたのだ。
「おそらく明日の朝にはこの城まで辿り着くわ。私のことなんて放っておいて、貴方も逃げて」
 平坦で感情の帯びていない声。運命を受け入れ、己の不甲斐なさを恥じ、自分の死によって周囲を守ろうとしている。側から見れば、きっと儚くも美しく見えるのだろう。
 でも紫暢にはそれが痛々しくしか映らなかった。
「逃げられるわけない。ミーシャちゃんもミナが王都へ逃げない限りはここに留まるって言ってた」
「留まってどうするつもり?」
 セルミナは鋭く目を細めて紫暢を睨みつける。自らを犠牲にしても他人を救おうとする、その精神の境地。豹変とも表現できるような立ち居振る舞いは紫暢にとって目に毒だった。
「それはこっちの台詞だ。ミナがここで死を選択したところで、何にもならないだろ」
「私はこのクラムデリア領の領主、セルミナ・クラムデリアよ。最後までここにいる義務があるわ」
「そんなものないだろ」
 梃子でも動かない、という断固たる意思に紫暢は苦し紛れに言葉を紡ぎ出す。しかしこの程度、紫暢にとっては想定内も想定内、むしろその目には綻びが随所に映ったほどだった。
「実は俺、3万の兵を倒せる算段があるんだ」
「……今、なんて?」
「俺なら3万の敵を倒せる、そう言ったんだ」
 紫暢の言葉に唖然とするセルミナ。一瞬信じかけたのか、一片の希望を宿した直後、かぶりを振った。
「そんなの、出鱈目に決まってるわ。人間一人で何かができるほど、甘くはないの! どうせ私を逃すために嘘をついているだけ!」
 実際、紫暢の発言はあまりに常軌を逸していて、セルミナの受け取り方はむしろ正常である。魔法を持つ吸血鬼が束になっても敵わないのに、一人の人間がそれを打ち破れるほど甘くはなかった。
「どうしてそう言い切れる」
「決まってるじゃない! 貴方が人間だからよ」
「セルミナも俺が人間だからってできないと決めつけるのか?」
 紫暢にセルミナを責める意図はなく、あくまで説得のため、あえて厳しい言葉を選んでいた。
「人間はすぐに死んでしまうの!」
 切実で震えた声。目尻に涙を浮かべたセルミナは、弱々しく拳を握った。



「人間はすぐに死んでしまうの!」

 そこまで言って、私は我に返る。

 きっとシノブは私の身代わりになるつもりだ。

 一人で3万の兵を倒すなんてそれを私に受け入れさせるための方便で。

 少しでも期待に胸を膨らませてしまったのは、それでもやっぱり死ぬのが怖かったからで。

 だからといって、周囲の反対を押し切ってまで辺境伯として生きてきた以上、これは何もできなかった自分への罰なのだ。

 誰にも止められる謂れはない。

 ここでシノブに全てを押しつけてしまうのは、あまりにも無責任だと思う。

 すごく強い男の子だ。

 怖くないはずがないのに、私を前にして気丈に振る舞って見せる。

 たった一度、王都で助けただけで? 

 しかもそれは種族を理由に排斥しようとする、同族の非道な行いから救っただけなのに。

 本来なら吸血鬼である私を憎んでもおかしくはないはずなのに。

 シノブはそれを知りながら、私のために役立ちたいと言ったのだと、ミーシャから聞いた。

 正直、馬鹿だと思う。

 でも彼のように優しい人間を、私は他に沢山知っている。そして、その命の儚さすらも、私は知っている。





「はあっ、はあっ。もうすぐだ! がんばれ!」
 先の大戦で、クラムデリアはなす術なく陥落した。セルミナは父と兄と共に王都へ避難することとなり、炎上するクラムデリア城を背後に撤退を進めていた。
 しかし、戦火で多くの味方は討死、もしくは散り散りとなり、5人ほどの供しか連れてはいなかった。潤沢な魔力量を誇る吸血鬼も、籠城戦での魔力消費に加えて断続的な風魔法の使用で魔力は枯渇してしまったのだ。馬に乗った人間の速さには敵わないのが現実。
 そんな中、著しく体力を消耗していたセルミナは、従者に手を引かれて先導されながらも、足を縺れさせてしまう。
 既に限界を感じ取っていた一行は、それを合図としたように足が止まってしまった。
 唯一余裕を残していたセルミナの父、ヘンデル・クラムデリアは、清々しくも思える笑みを浮かべていた。
「ヘルディ、お前は王都に逃げ、国王に状況を伝えよ。そしてクラムデリアの誇りを以て、最後まで戦い抜くのだ。ミナ、お前は南東のパルセナという町まで落ち延びよ。この戦いが終わるまで、身を潜めるのだ」
 ヘンデルは嫡男のヘルディとミナに一方的に告げ、単身で人間の軍に立ち向かっていった。
 戦う父の姿も、戦死した父の姿も、セルミナは知らない。
 ただ一つ、自分を案じるような優しい目をしていたのは、90年経った今でも鮮明に覚えている。
 そしてセルミナは、ルメニア南東の森・パルセナという辺境の町へと送られた。
 町、という表現が正しいのかすら分からない、森の中にある小さな村だ。その存在自体、ほとんど知られていない。
 それは広大な森林が広がっているために、未開発の地域であるということも当然あるが、人間を国が裏で保護する名目で、住む場所として与えたという経緯から、その存在を隠しているからだ。村を占める種族の割合が100%人間という、極めて稀有で特異な環境である。
 捕虜の身分から解放されたり、孤児の身から独り立ちした者の多くは人間の国家へ逃げるが、中には不自由な思いをしてもこの国から出たくないという者も少なからず存在したのである。
 そうした人間に住む場所を与えるよう国王に進言したのが、セルミナの父だった。
 今では貴族のほとんどがパルセナの存在を認知しており、焼き払うべきなどと物騒な主張すらも飛び交う現状だが、当時は未開で国の上層部、それも反人間思想のない者にしか知られておらず、追手が差し向けられることもないだろうと踏んだのだ。
 南東部は資源にも乏しく、土壌も豊かではないため、もし人間がルメニア全土を統治する事態になったとしても、クラムデリア辺境伯、ならびに王家の血筋は脈々と繋がれるとの期待を持ったのだ。
 その目論み通りと言うべきだろうか。いや、本来は辿りたくなかった道だろうが、王都は東方連邦軍の猛攻に屈し、国王や一部の上級貴族こそ他の魔族国家に逃げ果せたものの、父によって王都に逃されたヘルディは王都防衛戦の最中に討死する。
 セルミナはその性格もあって、パルセナでもすぐに受け入れられた。人間と吸血鬼という種族の溝などなく、本物の家族のように接してもらえた。
 特に家に住まわせてくれた老婦・ステラは、セルミナのことを我が子のように可愛がった。早くに夫を亡くし未亡人となったステラに対し、一方のセルミナも本物の祖母のように懐いた。
 しかし、人間には寿命があった。吸血鬼にも寿命は存在するが、やりたいことをやり尽くしてもまだ時間が残るほど、あまりある寿命である。
 ステラはセルミナと10年間暮らした後、寿命でポックリと逝ってしまった。
 セルミナは悲しみに震え、時の経過の残酷さを嘆いた。
 ある程度歳を取っていた他の人間もすぐに死んでしまった。弟のように接していた子供たちもいつのまにか大人になり、新たな命を育み、家族を形成していく。セルミナはそれに馴染みながらも、時流に取り残されている感覚に陥った。
 それに限らず、森の中に位置するパルセナはたびたび獰猛な害獣の襲撃を受けた。それに備えた対策も講じていたが、初期段階のパルセナがすべてを跳ね返せるような防御施設を整えられるはずもなく、多くの人間が為すすべなく命を散らしていった。幸いセルミナの奮闘によりそれらの脅威はことごとく打ち払われたが、失われた命は帰ってこない。魔法や高い身体能力を持たない人間は、少数では吸血鬼にとっては大したことのない脅威ですらも命懸けになる。
 寿命とか弱さをその肌で感じ、人間という種族の命の儚さを、セルミナは他の吸血鬼の誰よりも知っていたのだ。



「なら、尚更気にする必要はないだろ? ミナの言う通り、人間はすぐに死ぬんだ。俺なんか君と出会ってまだ1年すら経ってない。そんなちっぽけな命が危険に晒されるだけで、どうしてそんなに思い悩む必要があるんだ?」
 紫暢はセルミナの独白を聞いてその心情を慮りつつも、あえてそれを逆撫でするような発言をする。セルミナはそれを利他的な自虐と捉え、酷薄に口元を歪めた。
 ここで紫暢を行かせてしまうことは、90年間に父を見捨てた時と何ら変わらない。それに今は、何もできない小娘ではなく、責任ある立場が伴ったクラムデリア辺境伯家の当主なのだ。セルミナはそうした思いから、大きな抵抗を抱えていた。
「ま、そうは言っても、そもそも俺は死ねないんだけどな」
「……どういうこと?」
「ミーシャちゃんと約束したからな」
 紫暢は遠い目で天井を見上げる。セルミナは意外な名前に微かに目尻を下げた。でもすぐに『約束』が信用に値する行為ではないことに気づく。
「約束なんて、あてにならないわ」
「ならなくても、守る方は守るために全力を尽くさないといけないだろ?」
「それだと死ぬ可能性があるように聞こえるけど」
「もちろん死ぬ確率はある。死ぬ確率の方がよほど高いだろうさ。でも結果は死ぬか死なないかの二択しかないだろ?」
「……論理が破綻してるわ」
 死ねないなどと言いながら、死ぬ確率が高いかもしれないとか、でも結果は死ぬか死なないかの二択だとか、思わず首を傾げるような玉虫色の論調にセルミナは呆れかえった。
「ま、何が言いたいかというとさ。俺は死にたくないし、死ぬつもりもないってことだ。言っただろ? 3万の兵を倒せる算段があるって」
「それは私を説得するための方便でしょう?」
「その一面があることは否定しないさ。でもなんの根拠もないわけじゃない。俺は人間だけど、魔法が使えるんだ」
「本当なの?」
 信じられないという表情だ。紫暢はミーシャから聞いている可能性も考えてはいたが、それがなかった以上、武闘大会は来賓の入場もなかったので、セルミナは魔法の存在に感知し得ず初耳だった。
 ミーシャはセルミナをお姉様と慕ってはいるものの、辺境伯家ですら自らが腫れ物扱いを受けていることを知っていた。そのため自分と接する機会が多くなることで求心力の低下を招く恐れがあると懸念していたのだ。
 セルミナがそれを聞いたら余計な心配だと断じていただろうが、その心を明かすことはなかった。それゆえに顔を合わせる機会は数を数えるほどしかないのが実情だった。
「本当だ。俺は魔法が使える」
「……どんな魔法なの?」
「説明は難しいんだ。ま、端的に言うと、『敵を足止めする魔法』かな」
「敵を足止めする魔法?」
 そんな魔法存在したかしら、と眉間に皺を寄せて思考に耽る。もちろん分かりやすいように砕いた表現ではあるが、紫暢が調べた限りでもそんな魔法は存在しなかった。吸血鬼の扱う魔法という代物は、土、水、火、光といった基礎魔法とその発展系が主であり、特殊なものとして身体強化や回復こそあるものの、他人の行動に干渉する魔法はないのだ。
「人間が魔法を使えないっていう常識は、きっと事実だ。でも世界の理を逸した存在がほんの一握りいて、魔法かそれに似た何かを使えるっていうのも、十分考えられると思わないか?」
「否定はできないけれど、それがシノブだと言いたいの?」
 紫暢は違う世界からやってきた人間だ。世界間の移動が人間という存在に何らかの影響を及ぼし、本来は持ち得ない能力が付随した、というのも無い話ではないだろう。そもそも魔法という存在自体が超自然的で、不可解なものなのだ。魔族が魔法を使える理由も解明はされていない。
「自分でもよく分かって無いんだけど、俺はそういう存在だと思うんだ。疑問に思わなかったか? 俺がセルミナに助けられたあの日、なぜ王都なんかにいたのかって」
「確かに疑問には思ったわ。服装も珍妙だったわ」
 一般的に流行しているスタイルのはずだったんだけどな、と笑う。
「俺はこの世界の人間じゃない。だから魔法を使えてもおかしくはないっていうこと」
「……わかったわ。貴方を信じる」
 紫暢はホッと胸を撫で下ろす。見せてくれないと信じない、と言われたら紫暢にとっても手詰まりだった。あれには使用に小さくない代償が伴うからだ。
「もしここで君が死んだら、国はどうなる? もし東方連邦軍を退け、国を立て直したとしても、跡を継ぐ者がいないんだ。となればクラムデリアを巡って王国内で対立が起こる可能性が高い」
「……」
「それによって要らぬ犠牲が出るかもしれない。君の存在はそれほど国にとって大きいんだ」
 セルミナはそれを聞いてハッして酷薄に口許を歪める。今の今まで何もできなかった自分への罰だと命を捨てようとしていた。しかしそれが本来失われるはずのなかった命の犠牲に繋がるとすれば、ここに留まるのは愚かでしかない。
 そしてそうなればセルミナがあの世でも自分を責め続け、もしかしたら現世から成仏できない程の苦しみに悶えることになると紫暢は思っていた。
「信じてくれとは言わない。俺に賭けてくれ」
「……分が悪すぎるわ」
「賭け事って、そういうもんだろ?」
「でも、でも……」
 セルミナは端麗な顔を苦痛に喘ぐかのように歪めて、それでも反論を紡ぎ出そうとする。
「俺はミナ、君に恩を返したい。頼む、俺に賭けてくれ」
 紫暢は念押しする。いつになく据わった表情に、先程までの自分の姿を重ねて、セルミナは虚空に目をやった。
「私とも約束して」
 そう言って、セルミナは紫暢と至近距離まで顔を近づける。
「絶対に死なないこと。いいわね?」
「ああ、生き延びて見せる」
 元々そのつもりだと言わんばかりに胸を張る。セルミナは紫暢に賭けることを選んだ。紫暢は責任感を重く受け止めながら、小さく頷いて見せた。