ミーシャちゃんが転入してきてから1週間、キツい授業は多かったものの、ミーシャちゃんは嬉々とした様子で難なくこなしていた。人間よりも基礎体力の豊富な吸血鬼の血を引くのが要因の一つかもしれないが、昂然とハードな授業をこなすのは凄いと思う。
ずっと箱庭に籠っていた少女が、ようやく外の世界に踏み出し、学校という新鮮な空気に触れて、子供のように目を光らせているのだ。傍目から見て嬉しく思わないはずがない。
しかしここ数日の晴れやかな心情とは裏腹に、朝の空には研磨しても到底白には至らない程鼠色に染まった、重々しく分厚い雲が鎮座していた。
不穏な空模様に悪い予感を覚え、思わず跼蹐してしまう。ため息を吐きながら制服に袖を通していると、廊下を慌ただしく駆ける足音が寝起きの脳をつんざいた。
「シノブ! 大変ですわ!」
「え、ミーシャちゃん? どうしたの」
「呑気に目を擦ってる場合ではないですわ、ってどうして下を穿いてないんですの!?」
「そりゃ突然来たから」
手で顔を覆い隠すが、ミーシャちゃんの到来は予測していなかったので、着替え中なのは容赦してもらいたい。ただ、ミーシャちゃんの焦りようを見て目は覚めた。
「私が来ることを予想してほしいものですわ」
「それは無茶振りってもんだ」
「そんなことはどうでもいいですわ。今朝方未明、クラムデリアの北西郊外から東方連邦軍が侵入しましたわ」
「なんだって!?」
東方連邦軍、ということは人間の連合軍が攻め入ってきたことになる。ミーシャちゃんが焦るのも当然であった。
「それで、戦況は?」
「まだ両者は睨み合ったままですわ。ただクラムデリアは二百、東方連邦軍は3万ですわ」
「さんまッ!?」
あまりに規模の違う対峙に、思わず咳き込んだ。人間は人口や戦い方の工夫で吸血鬼に優位を突きつけてきた歴史があるが、これほどの差があれば確かに有利なのは人間だろう。
クラムデリアは早朝で兵の招集も満足には行えなかったとはいえ、人間の侵攻に備えて常備兵が常に待機しているため、城に一定以上の兵を残すとなるとこれでほぼ全力なのだという。
改めて戦力差を痛感する。開戦したらいったいどうなるのだろうと思った。
「ですがいつ始まってもおかしくはないでしょう。あるいはもう始まってしまっているかもしれないですわ。東方連邦軍も後詰めがやってくる前にクラムデリア軍を打倒したいはず」
王宮は今頃大慌てだろう。それでもすぐに王都からクラムデリア近郊まで兵を向かわせるには、少なくとも丸3日はかかる。
「こんな時どうすれば……」
「私たちにできることはありませんわ。ただ信じて待つだけ、クラムデリアの将兵も命を懸けて祖国の土地を守ろうと意気込んでいるはずですわ」
声ではそう言いつつも不安が拭えないのか、ソワソワしているのは隠し切れていなかった。
結局この日の学校は休校となり、俺はミーシャちゃんと共にクラムデリア城へと戻ることにした。
しかし道中は多くの吸血鬼が激しく往来し、その多くが余裕を欠いた表情であることからも、原因が人間の侵攻なのは明らかだった。
長期戦に備えた水や食料の買い溜めや、最悪の場合に備えた逃げる準備などをおこなっているのだろうか。
クラムデリア城は渓谷を抜けた広大な平地に位置しているが、そこに至る経路は渓谷を抜ける以外存在しない。
他にも手段がないことはないが、険しい山越えは大軍ではまず不可能だし、山道を進むにも危険な生物が生息する森の通過が必要であり、遭難の危険もあるために選択し難かった。
そのため、王都へと兵を進めるためには渓谷に三つ設けられた堅固な城壁を突破しなければいけない。抜けるための鈍重な扉も不燃性で内側からしか開かず、万全な防御体制になっていた。
これは世界大戦での反省を活かし、吸血鬼がクラムデリアの陥落を防ぐための方策を練ってきたからだ。
そんな代物が聳え立っていながらも慢心というのが感じられないのは、住民の多くが過去の大戦を経験しているからだろう。人間とは違い、クラムデリアがなす術もなく陥落した事実を鮮明に記憶しているのだ。
もしクラムデリアが陥落したら俺はどうすればいいのだろうか。声に出したら滅多なことを言うもんじゃないと怒鳴られそうだ。王都へと退避する、というのはまず無理だろう。俺がルメニアにやってきた日のような目に遭うのがオチだ。戦時下の国民感情も相まって磔にされるかもしれない。
そうならないためには、クラムデリア軍には何としても勝ってもらわないといけない。
そんな風に考えていたその日の夕刻、俺は急遽マーガレット先生に呼び出された。俺だけではなく、人間の学生が緊急で集められている。嫌な予感を払拭するために大きく深呼吸をするものの、嫌な汗が背中を伝った。
今日一日一緒にいたミーシャちゃんと共に教室に入ると、既に生徒は全員が着席していた。ブラウやルージュもこちらに目を向ける余裕すらないのか、緊張の面持ちで教卓に目を向けていた。
「全員集まったな」
しかし沈黙ののちにもマーガレット先生の口から二の句が紡がれることはなく、ただ逡巡して視線を彷徨わせるばかりだった。
どこからどう見ても、普通ではなかった。ホームルームを適当に流す姿は一切見えず、逆に狂戦士モードからもかけ離れた姿。肝っ玉の太い性格であることを知っているからこそ、その取り乱しぶりは光っていた。
「何かあったんですか、先生?」
恐る恐る、ブラウが尋ねる。
「クラムデリア軍が先程大敗を喫した」
普段の間延びした声色は欠片も窺えず、教室には尋常でない緊張が帯びた。クラスの面々は動揺を飛び越え、顔を見合わせることすらもしない。
「それは、本当ですか?」
「嘘であれば良かったのだがな」
クラムデリア軍は戦を指揮したゼーラス将軍が討死し、壊滅の憂き目を見たという。将兵が善戦を繰り広げたことで、東方連邦軍はクラムデリア近郊で留まったままらしいが、こちらに辿り着くのも時間の問題であるという。
「ここからはお前らの運命を左右する話だ。心して聞いてもらいたい」
クラス全員が一様に固唾を飲み、その音は耳に届くほどだった。
「我々は人間だ。どれほど国に尽くす決意を持とうと、所詮は人間である以上、王都に向かえば死が待っているだろう。ゆえに、お前たちに王都へと落ち延びることは薦めない。もし捕らえられても、吸血鬼による捕虜だと告げれば、悪くは扱われないだろう」
「先生、僕たちはルメニア王国民です。自分が捕虜だと嘘をつくことはできません」
バーレッドは神妙な表情で告げる。
いくら不遇の扱いを受けてきたと言っても、彼らは彼らなりの信念に基づき、この国で生きていく道を選んだ。その気持ちに一切の曇りはなく、その瞳を見たマーガレット先生は額に掌を当てながらため息をつく。
「ま、お前らはそう言うと思っていた。だから選択肢を用意してやる」
「選択肢、ですか?」
「こう見えて人間の国で相当な人脈を作ってきた身だ。スパイだと露見することなく現役を退いたからな。だからお前らを人間の国で幾つかの職を紹介することはできる。無論、無理にとは言わない。自分で選んだ道を行くのを止めることはできないからな」
マーガレット先生はまだ30代後半くらいだが、バリバリ現役と言っても遜色のない程の実力の持ち主だ。退役してしばらく経つ今ですらそうなのだから、現役時代はどれほど凄腕のスパイだったのかはもはや想像の範疇を飛び越えるものだ。それゆえに、人間の国で情報収集を行う過程で、地道に稼いだ人脈というものを構築してきたのだろう。
「クラムデリアは騎士団が大敗を喫したとはいえ、堅固な城壁を三つ築いている。今すぐに落ちるということはないだろう。今すぐに決断しろとは言わなが、猶予は多くない。人間の国で真っ当に暮らすことを希望するものは早めに来い。以上だ」
マーガレット先生は、それだけ言って教室を去っていった。教室はにわかにざわめき立つ。今定時された選択肢は、彼らにとってかなり魅力的なものだろう。
俺はセルミナとミーシャちゃんがいる限り、最後まで留まり続ける。自分だけ尻尾を巻いて逃げるという選択肢は俺にはなかった。
「ブラウ、お前はどうするつもりなんだ?」
「こうなってしまった以上、この国で商売を続けるのはなかなか厳しいだろうさ。親父も今朝、東方連邦軍が侵攻してきた時点で国に帰ろうかとも言っていた。残念だけど、どこかの国でまた商売を始めるさ」
「そうか……。ルージュはどうなんだ?」
「うちも似たような感じね。シノブはどうするの?」
「今はなんとも、って感じだな。マーガレット先生の提案も魅力的だとは思うけど、個人的には気が進まないな」
「前話してたこと覚えてる? うちの商会で働かない?っていう話。こんな状況になっちゃったし、もしシノブさえよかったらどう?」
「ルージュ、ありがとう。でも俺は国が滅ぶまで、離れるつもりはないんだ。ミーシャちゃんだって同じ気持ちだと思う」
「だよね。シノブが殿下と一緒にいるのを選ぶとは思ってた。でも気が変わったらいつでも言ってね。場合によっては殿下もウチで受け入れるわ。窮屈な思いはさせちゃうと思うけど」
それは吸血鬼と人間、どちらの国であろうと変わらないだろう。ミーシャちゃんが落ち延びる先として一番現実的なのは、他の魔族国家への亡命だろう。他の国でもハーフに対する風当たりはそれなりにあるが、吸血鬼と異なり見た目で判断するのは難しいのだという。
その場合俺は着いていくことはできないが、致し方ない話だろう。
「助かるよ。でも俺は最後まで抵抗してみることにする。たとえ蛮勇だと言われても、ミーシャちゃんとセルミナには笑顔でいて欲しいんだ」
偽りなき本心である。吸血鬼に勝ったことで、膨れ上がった慢心を育て上げたわけではない。過剰な自信を獲得したわけでもない。自分の中に存在した可能性の発露という結果と、脅威を前にして思考を放棄しないことの大切さを得たのだ。
一人で東方連邦軍を打倒できる策を編み出せるなどとは一切感じていなかった。
「ふふ、流石ね。でも武闘大会でのシノブを見た後だと、なんだか信用してみたい気持ちすらあるわね。お互い生き延びたら、また会いましょう」
ルージュの父が経営する「ルージェス商会」を探せということだろう。その約束は生きている限り果たしたいものだ。
「ああ、約束だ」
この約束は死亡フラグに含まれないだろうか、などと苦笑しながらも、俺は余裕の笑みで応える。
「俺も同じくだ。短かったけど、お前とは親友になれたと思ってる。死ぬなよ」
ブラウとも拳を突き合わせた。
ミーシャちゃんが学校に通い始め、他の生徒とも良好な人間関係を構築しつつあった矢先のこの出来事に、俺はどうしようもなく怒りを覚えていた。
当然、この戦況を傍観しているだけでは、クラムデリアが陥落するのを防ぐのは無理だ。
俺がここに存在するのは、こういう気球の事態に陥った時のためではないだろうか。
今、セルミナは全てを背負って国防に全力を注いでいる。折れかけた心の支柱を絶え間なく修繕し、東方連邦軍に撤退を突きつけるためにあらゆる手段を模索しているはずだ。
俺はその一助になれるはずだ。それでなければ、セルミナの助けを得て生き延びたこの人生に価値はない。
◇
「なに!? 王国騎士団が壊滅しただと!?」
ルメニア王国王都・リューメルド。その王宮には激震が走っていた。豊かな髭を携えた荘厳な容姿で、国民から篤い尊敬を受けるルメニア王国国王、ボネア・リューメルド・ヴァン・ルメニアは、滝のような汗で袖を湿らせながらも冷静な表情を保っている。
国防の要を担うクラムデリア近郊の城壁が、東方連邦軍によって全て破壊されたという報せが、壁の内側から攻撃していた後詰めの王国騎士団五百も壊滅という最悪な報せと共にもたらされたのだ。
『西の渓谷を不法に抜けるもの無し』とまで謳われたほどの城壁が粉々に破壊されたということは、クラムデリアの陥落が間近であることを示している。ボネアの前に居並ぶ家臣たちが一様にありあまる動揺を露わにしているのも当然というものだった。
ただでさえ数日前にクラムデリア北西部から東方連邦軍が侵入したとの報せを受けたばかりで、その三日後には後詰めとして送った王国騎士団の壊滅という報せが届けば、情報と動揺の渋滞が起こるのは不可避である。
派遣した王国騎士団は国の中でも屈指の実力を備えた強者揃いだっただけに、ショックは二重にも三重にも覆い重なっていた。精鋭中の精鋭こそ王国には控えているものの、城壁を軽々と破壊したほどの戦力を持った人間の力は常軌を逸している。
城壁からクラムデリア城までは距離にして10キロほどしか離れていない。敵の襲来まで、僅かな時間しか残されていなかった。
入念な対策がいとも容易く打ち破られ、ボネアの脳裏に90年前の光景が蘇る。そしてすぐにかぶりを振った。
「至急、同盟国へ救援の要請をせよ!」
「既に使者を送っております!」
その言葉を聞いて、ボネアは重心を背もたれに預け、僅かばかりの安堵に浸る。先の大戦と一番異なるのは、他の魔族国家との強固な協力関係である。魔族国家はそれぞれが相互の軍事同盟を締結し、人間の侵攻に備えた協力を行っている。戦力に乏しいルメニアも、他国の軍事援助を後ろ盾にすることができていた。
「戦況は逐一伝えるように。それとセルミナには機を見て撤退するよう告げよ」
「はっ、承知いたしました!」
ボネアは心中でセルミナの身を案じる。酷な役目を押し付けてしまったことに、後悔すら感じていた。
セルミナは誰に対しても心を砕くことのできる淑女だ。その性格は誰から見ても好ましいものである一方で、国防の最前線を担うには不向きだと、ボネアも当初から感じていた。しかし当のセルミナがクラムデリア辺境伯を継ぐ決意を乱さなかった。それはセルミナ自身が先の大戦でクラムデリアを追われ、その惨劇を繰り返したくないという思いがあったからだ。ボネアはその意志を尊重し、一部の上級貴族の反対を押し切って辺境伯家の家督を継がせた。
今回の東方連邦軍の侵攻速度を見る限り、クラムデリアを誰が治めていても食い止めることはできなかっただろう。人間の力を舐めていたわけではない。むしろルメニアは先の大戦で主な戦場となり、最も大きな被害を受けた国だ。人間の恐ろしさは誰よりも理解している。
だからこそ、未知数かつ不透明な戦況にボネアは寒気を感じていた。
ずっと箱庭に籠っていた少女が、ようやく外の世界に踏み出し、学校という新鮮な空気に触れて、子供のように目を光らせているのだ。傍目から見て嬉しく思わないはずがない。
しかしここ数日の晴れやかな心情とは裏腹に、朝の空には研磨しても到底白には至らない程鼠色に染まった、重々しく分厚い雲が鎮座していた。
不穏な空模様に悪い予感を覚え、思わず跼蹐してしまう。ため息を吐きながら制服に袖を通していると、廊下を慌ただしく駆ける足音が寝起きの脳をつんざいた。
「シノブ! 大変ですわ!」
「え、ミーシャちゃん? どうしたの」
「呑気に目を擦ってる場合ではないですわ、ってどうして下を穿いてないんですの!?」
「そりゃ突然来たから」
手で顔を覆い隠すが、ミーシャちゃんの到来は予測していなかったので、着替え中なのは容赦してもらいたい。ただ、ミーシャちゃんの焦りようを見て目は覚めた。
「私が来ることを予想してほしいものですわ」
「それは無茶振りってもんだ」
「そんなことはどうでもいいですわ。今朝方未明、クラムデリアの北西郊外から東方連邦軍が侵入しましたわ」
「なんだって!?」
東方連邦軍、ということは人間の連合軍が攻め入ってきたことになる。ミーシャちゃんが焦るのも当然であった。
「それで、戦況は?」
「まだ両者は睨み合ったままですわ。ただクラムデリアは二百、東方連邦軍は3万ですわ」
「さんまッ!?」
あまりに規模の違う対峙に、思わず咳き込んだ。人間は人口や戦い方の工夫で吸血鬼に優位を突きつけてきた歴史があるが、これほどの差があれば確かに有利なのは人間だろう。
クラムデリアは早朝で兵の招集も満足には行えなかったとはいえ、人間の侵攻に備えて常備兵が常に待機しているため、城に一定以上の兵を残すとなるとこれでほぼ全力なのだという。
改めて戦力差を痛感する。開戦したらいったいどうなるのだろうと思った。
「ですがいつ始まってもおかしくはないでしょう。あるいはもう始まってしまっているかもしれないですわ。東方連邦軍も後詰めがやってくる前にクラムデリア軍を打倒したいはず」
王宮は今頃大慌てだろう。それでもすぐに王都からクラムデリア近郊まで兵を向かわせるには、少なくとも丸3日はかかる。
「こんな時どうすれば……」
「私たちにできることはありませんわ。ただ信じて待つだけ、クラムデリアの将兵も命を懸けて祖国の土地を守ろうと意気込んでいるはずですわ」
声ではそう言いつつも不安が拭えないのか、ソワソワしているのは隠し切れていなかった。
結局この日の学校は休校となり、俺はミーシャちゃんと共にクラムデリア城へと戻ることにした。
しかし道中は多くの吸血鬼が激しく往来し、その多くが余裕を欠いた表情であることからも、原因が人間の侵攻なのは明らかだった。
長期戦に備えた水や食料の買い溜めや、最悪の場合に備えた逃げる準備などをおこなっているのだろうか。
クラムデリア城は渓谷を抜けた広大な平地に位置しているが、そこに至る経路は渓谷を抜ける以外存在しない。
他にも手段がないことはないが、険しい山越えは大軍ではまず不可能だし、山道を進むにも危険な生物が生息する森の通過が必要であり、遭難の危険もあるために選択し難かった。
そのため、王都へと兵を進めるためには渓谷に三つ設けられた堅固な城壁を突破しなければいけない。抜けるための鈍重な扉も不燃性で内側からしか開かず、万全な防御体制になっていた。
これは世界大戦での反省を活かし、吸血鬼がクラムデリアの陥落を防ぐための方策を練ってきたからだ。
そんな代物が聳え立っていながらも慢心というのが感じられないのは、住民の多くが過去の大戦を経験しているからだろう。人間とは違い、クラムデリアがなす術もなく陥落した事実を鮮明に記憶しているのだ。
もしクラムデリアが陥落したら俺はどうすればいいのだろうか。声に出したら滅多なことを言うもんじゃないと怒鳴られそうだ。王都へと退避する、というのはまず無理だろう。俺がルメニアにやってきた日のような目に遭うのがオチだ。戦時下の国民感情も相まって磔にされるかもしれない。
そうならないためには、クラムデリア軍には何としても勝ってもらわないといけない。
そんな風に考えていたその日の夕刻、俺は急遽マーガレット先生に呼び出された。俺だけではなく、人間の学生が緊急で集められている。嫌な予感を払拭するために大きく深呼吸をするものの、嫌な汗が背中を伝った。
今日一日一緒にいたミーシャちゃんと共に教室に入ると、既に生徒は全員が着席していた。ブラウやルージュもこちらに目を向ける余裕すらないのか、緊張の面持ちで教卓に目を向けていた。
「全員集まったな」
しかし沈黙ののちにもマーガレット先生の口から二の句が紡がれることはなく、ただ逡巡して視線を彷徨わせるばかりだった。
どこからどう見ても、普通ではなかった。ホームルームを適当に流す姿は一切見えず、逆に狂戦士モードからもかけ離れた姿。肝っ玉の太い性格であることを知っているからこそ、その取り乱しぶりは光っていた。
「何かあったんですか、先生?」
恐る恐る、ブラウが尋ねる。
「クラムデリア軍が先程大敗を喫した」
普段の間延びした声色は欠片も窺えず、教室には尋常でない緊張が帯びた。クラスの面々は動揺を飛び越え、顔を見合わせることすらもしない。
「それは、本当ですか?」
「嘘であれば良かったのだがな」
クラムデリア軍は戦を指揮したゼーラス将軍が討死し、壊滅の憂き目を見たという。将兵が善戦を繰り広げたことで、東方連邦軍はクラムデリア近郊で留まったままらしいが、こちらに辿り着くのも時間の問題であるという。
「ここからはお前らの運命を左右する話だ。心して聞いてもらいたい」
クラス全員が一様に固唾を飲み、その音は耳に届くほどだった。
「我々は人間だ。どれほど国に尽くす決意を持とうと、所詮は人間である以上、王都に向かえば死が待っているだろう。ゆえに、お前たちに王都へと落ち延びることは薦めない。もし捕らえられても、吸血鬼による捕虜だと告げれば、悪くは扱われないだろう」
「先生、僕たちはルメニア王国民です。自分が捕虜だと嘘をつくことはできません」
バーレッドは神妙な表情で告げる。
いくら不遇の扱いを受けてきたと言っても、彼らは彼らなりの信念に基づき、この国で生きていく道を選んだ。その気持ちに一切の曇りはなく、その瞳を見たマーガレット先生は額に掌を当てながらため息をつく。
「ま、お前らはそう言うと思っていた。だから選択肢を用意してやる」
「選択肢、ですか?」
「こう見えて人間の国で相当な人脈を作ってきた身だ。スパイだと露見することなく現役を退いたからな。だからお前らを人間の国で幾つかの職を紹介することはできる。無論、無理にとは言わない。自分で選んだ道を行くのを止めることはできないからな」
マーガレット先生はまだ30代後半くらいだが、バリバリ現役と言っても遜色のない程の実力の持ち主だ。退役してしばらく経つ今ですらそうなのだから、現役時代はどれほど凄腕のスパイだったのかはもはや想像の範疇を飛び越えるものだ。それゆえに、人間の国で情報収集を行う過程で、地道に稼いだ人脈というものを構築してきたのだろう。
「クラムデリアは騎士団が大敗を喫したとはいえ、堅固な城壁を三つ築いている。今すぐに落ちるということはないだろう。今すぐに決断しろとは言わなが、猶予は多くない。人間の国で真っ当に暮らすことを希望するものは早めに来い。以上だ」
マーガレット先生は、それだけ言って教室を去っていった。教室はにわかにざわめき立つ。今定時された選択肢は、彼らにとってかなり魅力的なものだろう。
俺はセルミナとミーシャちゃんがいる限り、最後まで留まり続ける。自分だけ尻尾を巻いて逃げるという選択肢は俺にはなかった。
「ブラウ、お前はどうするつもりなんだ?」
「こうなってしまった以上、この国で商売を続けるのはなかなか厳しいだろうさ。親父も今朝、東方連邦軍が侵攻してきた時点で国に帰ろうかとも言っていた。残念だけど、どこかの国でまた商売を始めるさ」
「そうか……。ルージュはどうなんだ?」
「うちも似たような感じね。シノブはどうするの?」
「今はなんとも、って感じだな。マーガレット先生の提案も魅力的だとは思うけど、個人的には気が進まないな」
「前話してたこと覚えてる? うちの商会で働かない?っていう話。こんな状況になっちゃったし、もしシノブさえよかったらどう?」
「ルージュ、ありがとう。でも俺は国が滅ぶまで、離れるつもりはないんだ。ミーシャちゃんだって同じ気持ちだと思う」
「だよね。シノブが殿下と一緒にいるのを選ぶとは思ってた。でも気が変わったらいつでも言ってね。場合によっては殿下もウチで受け入れるわ。窮屈な思いはさせちゃうと思うけど」
それは吸血鬼と人間、どちらの国であろうと変わらないだろう。ミーシャちゃんが落ち延びる先として一番現実的なのは、他の魔族国家への亡命だろう。他の国でもハーフに対する風当たりはそれなりにあるが、吸血鬼と異なり見た目で判断するのは難しいのだという。
その場合俺は着いていくことはできないが、致し方ない話だろう。
「助かるよ。でも俺は最後まで抵抗してみることにする。たとえ蛮勇だと言われても、ミーシャちゃんとセルミナには笑顔でいて欲しいんだ」
偽りなき本心である。吸血鬼に勝ったことで、膨れ上がった慢心を育て上げたわけではない。過剰な自信を獲得したわけでもない。自分の中に存在した可能性の発露という結果と、脅威を前にして思考を放棄しないことの大切さを得たのだ。
一人で東方連邦軍を打倒できる策を編み出せるなどとは一切感じていなかった。
「ふふ、流石ね。でも武闘大会でのシノブを見た後だと、なんだか信用してみたい気持ちすらあるわね。お互い生き延びたら、また会いましょう」
ルージュの父が経営する「ルージェス商会」を探せということだろう。その約束は生きている限り果たしたいものだ。
「ああ、約束だ」
この約束は死亡フラグに含まれないだろうか、などと苦笑しながらも、俺は余裕の笑みで応える。
「俺も同じくだ。短かったけど、お前とは親友になれたと思ってる。死ぬなよ」
ブラウとも拳を突き合わせた。
ミーシャちゃんが学校に通い始め、他の生徒とも良好な人間関係を構築しつつあった矢先のこの出来事に、俺はどうしようもなく怒りを覚えていた。
当然、この戦況を傍観しているだけでは、クラムデリアが陥落するのを防ぐのは無理だ。
俺がここに存在するのは、こういう気球の事態に陥った時のためではないだろうか。
今、セルミナは全てを背負って国防に全力を注いでいる。折れかけた心の支柱を絶え間なく修繕し、東方連邦軍に撤退を突きつけるためにあらゆる手段を模索しているはずだ。
俺はその一助になれるはずだ。それでなければ、セルミナの助けを得て生き延びたこの人生に価値はない。
◇
「なに!? 王国騎士団が壊滅しただと!?」
ルメニア王国王都・リューメルド。その王宮には激震が走っていた。豊かな髭を携えた荘厳な容姿で、国民から篤い尊敬を受けるルメニア王国国王、ボネア・リューメルド・ヴァン・ルメニアは、滝のような汗で袖を湿らせながらも冷静な表情を保っている。
国防の要を担うクラムデリア近郊の城壁が、東方連邦軍によって全て破壊されたという報せが、壁の内側から攻撃していた後詰めの王国騎士団五百も壊滅という最悪な報せと共にもたらされたのだ。
『西の渓谷を不法に抜けるもの無し』とまで謳われたほどの城壁が粉々に破壊されたということは、クラムデリアの陥落が間近であることを示している。ボネアの前に居並ぶ家臣たちが一様にありあまる動揺を露わにしているのも当然というものだった。
ただでさえ数日前にクラムデリア北西部から東方連邦軍が侵入したとの報せを受けたばかりで、その三日後には後詰めとして送った王国騎士団の壊滅という報せが届けば、情報と動揺の渋滞が起こるのは不可避である。
派遣した王国騎士団は国の中でも屈指の実力を備えた強者揃いだっただけに、ショックは二重にも三重にも覆い重なっていた。精鋭中の精鋭こそ王国には控えているものの、城壁を軽々と破壊したほどの戦力を持った人間の力は常軌を逸している。
城壁からクラムデリア城までは距離にして10キロほどしか離れていない。敵の襲来まで、僅かな時間しか残されていなかった。
入念な対策がいとも容易く打ち破られ、ボネアの脳裏に90年前の光景が蘇る。そしてすぐにかぶりを振った。
「至急、同盟国へ救援の要請をせよ!」
「既に使者を送っております!」
その言葉を聞いて、ボネアは重心を背もたれに預け、僅かばかりの安堵に浸る。先の大戦と一番異なるのは、他の魔族国家との強固な協力関係である。魔族国家はそれぞれが相互の軍事同盟を締結し、人間の侵攻に備えた協力を行っている。戦力に乏しいルメニアも、他国の軍事援助を後ろ盾にすることができていた。
「戦況は逐一伝えるように。それとセルミナには機を見て撤退するよう告げよ」
「はっ、承知いたしました!」
ボネアは心中でセルミナの身を案じる。酷な役目を押し付けてしまったことに、後悔すら感じていた。
セルミナは誰に対しても心を砕くことのできる淑女だ。その性格は誰から見ても好ましいものである一方で、国防の最前線を担うには不向きだと、ボネアも当初から感じていた。しかし当のセルミナがクラムデリア辺境伯を継ぐ決意を乱さなかった。それはセルミナ自身が先の大戦でクラムデリアを追われ、その惨劇を繰り返したくないという思いがあったからだ。ボネアはその意志を尊重し、一部の上級貴族の反対を押し切って辺境伯家の家督を継がせた。
今回の東方連邦軍の侵攻速度を見る限り、クラムデリアを誰が治めていても食い止めることはできなかっただろう。人間の力を舐めていたわけではない。むしろルメニアは先の大戦で主な戦場となり、最も大きな被害を受けた国だ。人間の恐ろしさは誰よりも理解している。
だからこそ、未知数かつ不透明な戦況にボネアは寒気を感じていた。