■1.はじめまして
四月にしては寒い日の夕方、東島日奈は綺麗に巻いた髪をいじりながらスマホを見ていた。届いたメッセージはデートのキャンセルを告げている。
「ん、知ってた」
相手はマッチングアプリで知り合った男性。こんなドタキャンも三人目だったので、落ち込む前にスマホを仕舞った。
「いいよいいよ。会社戻ろ」
日奈はIT企業の営業部で働く二十八歳だ。仕事がとにかく楽しい時期だけど、両親の要望で婚活を始めた。そして今日も失敗していた。
運命の風が通り抜けたのは、その時だ。足元に涼しさを感じた直後、日奈はどこからかカタンという物音を聞いた。
「お、大変」
脇路の向こうで小さな看板が倒れている。見てすぐ直しに行くのは日奈の性格だ。率先してしゃがんでメニューの看板を立てると、低い位置から小料理屋を見上げた。
「月見庵……お料理はお待たせします、だって。正直でいいなぁ」
木造の建物はなんだか懐かしい雰囲気を漂わせている。メニューにはお造り、天ぷら、焼き魚、煮魚と、日奈の胃袋をそそる料理ばかりだ。
思わず夢中で読んでいると、店の引き戸が静かに開いていった。
「申し訳ありません、お客様。直してくださってありがとうございます」
「いえ、ええと」
和装の淑やかな女性がそこにいた。けれども眼差しは若々しくて、年齢は日奈より少し上程度なのかもしれない。
「一人でやっているもので、助かりました」
「どういたしまして。お店、入ってもいいですか?」
女将の快い会釈に、日奈はなぜかホッとした気持ちになった。
明るい店内に入ると足元からぬくもりを覚える。木の香りを感じる空間だ。見ると席はカウンターのみで十席ほど。年配の女性が一名座っていて、親しみやすそうな表情で日奈を眺めている。
「こちらへお掛けください」
女将はカウンターの反対側へ案内してくれた。座って落ち着いたところで、日奈は壁掛けの一輪挿しに意識が向く。
(薄紫の丸い花。アザミだったっけ?)
清々しい花を起点に、店の中には晴天の気配が広がっているようだった。
「生ビール、お願いします」
「かしこまりました」
ああ早く呑みたい、食べてみたい。会社に帰るのはやっぱりなしだ。
和装の女将に、洗練された仕草でビールを注いでもらう。
「お疲れ様でした。こちらはお通しの小鉢です」
登場したのは鱧と瓜の梅肉添え。見ただけで口の中が潤って食欲をそそられる。日奈は早々に「頂きます」と手を合わせて、自分を労うビールに唇をつけた。キレのある喉越しで五感が一気に目が覚める。間を置かずに鱧へと箸を伸ばし、梅肉を添えて一口頂く。
「美味しい! これ、今一番食べたかった味です」
大袈裟でなく悩み事が飛んでいったかのようだ。女将の手料理に日奈の全神経が集中して、頭の中がクリアになる。
(よし、注文注文。今日は割り勘のつもりだったし、ご予算たっぷりあるもんね)
メニュー越しに先客をちらりと伺ってみる。視線に気づいた年配の女性は、にっこりと湯呑みをかかげてくれた。
「ウチはおつかいで来てんのよぅ。隣のスナック。お客さんが美月ちゃんの刺し盛り食べたいって――あ、できた?」
「お待たせしました千草さん。社長様方にもよろしくお伝えください」
千草と呼ばれたママは太陽みたいに笑って頷き、四人前ほどの舟を受け取って帰ってゆく。日常のことらしく慣れたやりとりだった。
(女将さんの名前、美月さんっていうんだ。今のお刺身の盛りも職人的だったな)
一目惚れで注文は決まった。
「すみません、季節のお刺身、お任せできますか?」
「かしこまりました。では石鯛と縞鯵と、鰆の炙りはいかがでしょう」
「ぜひ。あとカウンターの」
「里芋と蓮根のサラダですね。先にご用意します」
丁寧に盛り付けて、日奈の目の前に優しく差し出される。里芋のサラダなんて絶対に美味しい。ビールで喉を潤してから口に含むと、たまらない多幸感が込み上げて脳まで震える。
「お客様。当店、お料理に少しお時間を頂いておりまして……」
「外で見てました。ユニークですよね」
「申し訳ありません。どうぞ、おくつろぎになっていてください」
淀みのない包丁さばきを見つめながら呑んでいれば、時間なんてあっという間だ。
小鉢とサラダとビールをトライアングルで味わっている間に刺身のご登場だった。
「こちら、鰆の炙りのみポン酢で召し上がってみてください」
新鮮な季節の三種。遠州好みの白い陶器に盛られた刺身はキラキラと輝いている。
(まずは石鯛から。頂きまーす……ぅ、っま!?)
そっと噛むと旨味が口いっぱいに広がった。続く鰆の炙りはポン酢の酸味と調和して絶品、そして縞鯵はムチムチとした食感がたまらない。日奈は舌の余韻までしっかりと堪能して、ビールを挟んで一息つく。
美月の真心の籠もった仕事を舌で味わうたび、業務やプライベートでの疲れがしゅわしゅわと溶けていくのがわかった。
「今日は外が冷えましたでしょう。よろしければ、生姜の効いた煮物もお勧めですが」
日奈の心を見透かす心配り。煮物の盛り合わせは色とりどりの野菜と柔らかそうな鶏肉が目を引いた。具のひとつひとつが煮汁に包まれて照り、宝石のよう。ほんのりと漂う生姜と出汁の香りが食欲をそそる。一口舌に乗せると旨みが滲み、噛むと滋養が溢れ出した。丁寧な下ごしらえにより舌触りも滑らかで、これも味わい深い一品だ。
「んー、美味しい。元気出てきちゃうなー」
「そんな風に言って頂けるなんて。嬉しいです」
丹精が込められた料理を日奈は次々に注文し、舌鼓を打つ。
(ほんと染みる。お料理も、女将の気遣いも)
月見庵に入ってからというもの、気分はゆっくりながら晴れてきた。だからだろうか、日奈はふと弱音を零してしまった。
「もう少し飲もうかな。本当は、今夜は飲む予定だったんですよね……友達と」
嘘、本当はマッチングアプリで知り合った男性とレストランで食事する予定だったが、ついぼかす。
「まあ、お友達と……残念でしたね」
「でも月見庵さんを発見できた方が絶対ラッキーでした。こんなに幸せな食事って久しぶり」
本心から言うと女将は長いまつ毛を瞬かせ、ゆっくりと優しく微笑んでくれた。
「女将さん、日本酒のお勧めってありますか?」
店内にはかなりの種類の日本酒があった。
華やかな香りか、上品な味わいを選ぶか、すっきりとした飲み口で食事との相性が良いものを選ぶか。いや、酒蔵の限定種も扱いがあって興味が湧く。どれも個性豊かで魅力的だ。
日奈は女将と迷った末、新潟の純米大吟醸を選んだ。
『雪の爽』、初夏の高原をイメージした透明感のある味わいが特徴だ。透明な徳利から薄い玻璃のお猪口へ注ぐと水面が幻想的に煌めく。香りは爽やかで、鼻に抜ける感じが心地いい。
(お味は……おお)
口に含むとスッと広がる旨味に驚かされる。舌触りは滑らかで、後から現れる仄かな甘さが絶妙なバランスだ。
心も体もリラックスできる一献だと思う。日奈は心から満足し、ついほろ酔いで頬を緩めた。
「女将さんのお勧めって全部最高。お酒もお料理も、無限に堪能しちゃいたいです」
「嬉しい……作り甲斐があります」
それからは、月見庵の馴染み客が何組か立ち寄って、手短に帰ってゆくのを何度か見た。
日奈は満席近くになったら帰ろうと決めてはいたものの、混み合うこともないまま時間が過ぎる。
他の客が帰ってしまうと、再び静かな雰囲気が戻ってきた。
「すみません、長居しちゃって」
申し訳なさそうに呟く日奈に、女将は細い首を振る。
「木曜日は普段からこの通りですので。それよりも……気のせいでしたらごめんなさい。お客様、今日は何かありましたか?」
女将が心配そうに尋ねてくれる。日奈は曖昧に笑ったが、いっそ正直にと告白した。
「実はデートに失敗して。相手のドタキャン。アプリ経由の人だし気まずいとかはないですけど」
何合目かの日本酒を飲み干す。最後の一口は、日奈を励ますかのように甘い香りを残してくれた。
「はぁ、美味しい。ここに来て本当に良かった。初めてなのに長々と甘えちゃって、本当にごめんなさい」
「違います、本当は私こそ……実は……今日は、お給仕に熱が籠もっていたんです。お客様が本当に美味しそうに召し上がってくださるから、大切な初心を思い出すことができて」
「ふぇ? 本当?」
泣き上戸寸前の顔で見つめる日奈に、女将は迷わずはっきりと頷いた。
「私などで良ければ、うんとうんと甘えてくださいね。こちらは心ばかりですが」
最後にデザートが差し出された。まばゆい白磁の器に、柚色のシャーベットが盛り付けられている。
「季節の水果です。よろしければ」
「可愛い……注文してないのに、いいの?」
「元気になってもらえるなら」
日奈はこの時初めて美月の美貌を直視した。真っ直ぐな彼女の瞳は、月夜の海のように深く輝いている。
女将はシャーベットを小さじですくい、着物の袖を押さえながら日奈へと差し出す。
彼女の悪戯っぽい微笑みに、日奈の泣きそうな心は柔らかくほどけた。
「……頂きます。あー……ん」
日奈は酩酊に任せて立ち上がり、前のめりで匙に唇を寄せる。
女将から直接シャーベットを口に含む。
酸味と甘さを含む果汁の味は、日奈の心に広く深く染みてゆく。
「美味しい」
と日奈が呟くと、女将はただ嬉しそうに頷いた。それからまたひと匙。
甘い味と彼女の優しさが日奈を少しずつリラックスさせてゆく。そして気がつく。
(って、恥ずかしいことしてる? 私!)
一見の店で酔って泣きそうになった挙げ句、年もさほど変わらないであろう女将に「あーん」してもらって甘えてしまった。
二口目を食べた瞬間に酔いから覚め、日奈は咥えたまま冷や汗を浮かべた。
「あの、ふみまへん……」
「い、いえ、私も。誰かに頼って頂けるなんて初めてで、つい」
夜も更けて、店仕舞いの時間も近づく。日奈は帰り際、改めて感謝を述べた。
「今日は本当にありがとう。こんなに楽しい時間を過ごせたのは、女将さんのおかげ」
「私の方こそ。ありがとうございました」
「また来週も来ていいかな。次はもう立ち直ってますし」
「お待ちしています。おもてなしをさせてくださいね」
女将の即答が日奈には嬉しかった。この店で過ごす時間は、まさに――仕事でもなく結婚でもなく、日奈がずっと欲していたもののような。
「あの。もし来週もまだ、元気が必要であれば……あなたをたくさん甘やかしても、いいですか?」
「えっ、やっ」
酩酊の残った頭で、日奈は従順に頷いてしまう。
もしもあの風が吹かなければ、月見庵での出会いはなかった。
■2.おかえりなさい
心地よい五月の風を感じながら、日奈は軽い足取りで先を急いだ。街頭の灯りは今夜も行く道を照らしてくれている。
とある街の片隅で、ひっそりと佇む小料理屋がある。古びた木製の引き戸の向こうは、客人を誘う小さな世界。店の名は月見庵。女将の手際と季節の品が織り成す柔和な空気が、人の心を解してくれる場所。
女将が日奈にくれた癒しは1週間経った今も心に残っている。客入りが少ないという木曜日を狙って、日奈は約束を守りにきた。
(別れ際があんなだったから恥ずかしいけどね)
軒先に立ち、深呼吸をしてから引き戸を開ける。心地良い照明の中、花の彩りと煮物の香りがふわりと日奈を歓迎した。
「いらっしゃいませ。お帰りなさい」
女将はすぐ日奈に気付き、笑顔で出迎えてくれる。和装の美しい姿に日奈はまた魅入ってしまう。美月の瞳は今夜も満月のような輝きだ。
「こんばんは。来ちゃって良かったかな」
「ええ。お待ちしていました」
と、美月は日奈のために用意した席へと案内する。手荷物を預かって椅子を引く仕草に、日奈の気持ちは早くも和むのだった。
「今日もお腹すかせて来ちゃいました。一週間ずっと楽しみにしてたから」
「嬉しいです。実は私も、木曜日のために色々とおばんざいを考えていたんです」
美味しい手料理と会話を楽しむ。彼女の献立は今週も絶品だ。季節の旬の味を肴にご褒美の一杯を味わいながら、日奈は女将の顔立ちをそっと眺める。
仕事に打ち込む真剣な横顔が、彼女美しさを際立たせている気がする。かと思えば美月は、ふと少女のようにはにかむ。どうやら女将は、日奈の視線に気付いたらしかった。
「いかがなさいましたか?」
「ううん、ただ……美月さんって凄いなと思って……、あ」
今のは失言か。日奈が女将の名前を把握していることをうっかり漏らしてしまう。美月もすぐに察したようだが、怪訝がることもなく微笑んでくれた。
「お客様こそ凄い方だわ。店の者の名前を、一度で覚えてくださるなんて」
「すみません。営業職なもので」
本当は職種なんて関係ない。ただ日奈が美月を忘れられなかっただけなのだけど。
「はぁ、やってしまった」
「お疲れ様です。営業のお仕事って大変ですよね」
「全然。慣れたら大丈夫です。でも私、溜め息ついてましたっけ」
仕事が順調でも悩みはゼロでもない。目下プライベートでの人間関係と言うか、人間関係を結べないこと自体に悩み中だ。日奈はお猪口の中の波紋に自分を重ね、立ち位置を俯瞰する。
「うん。最近は自信なくしてたかも。足元がグラグラで。その影響かなぁ」
日奈は言葉を選びながら打ち明けた。女将なら美味しい料理で応えてくれるような気がする。今夜の自分にぴったりの、自信を取り戻す献立を。
「でしたら――お客様。お野菜の天ぷらなどいかがですか? お時間は頂いてしまうのですが」
「食べたいです。ぜひ」
ああ、やっぱり。美月は日奈に必要なものをすぐに言い当ててくれた。
月見庵の食材は新鮮なものばかり。
まずはナスにピーマンに、かぼちゃ。鮮やかな紫と緑の光沢に、濃厚な黄色が目を惹く。薄く下ごしらえした野菜を衣にくぐらせ、黄金色の油へとそっと滑らせる。
静かに油で揚げる様子は、時を忘れて見つめていられるほど繊細だった。
見た目も美しい野菜の天ぷら。心身を穏やかに温めるにはもってこいではないだろうか。
「お待たせしました。藻塩とおつゆでどうぞ」
「お塩好きです。頂きまーす」
日奈はまずナスを口に運んだ。衣がサクッと音を立てた後、中のとろけるような食感が舌へと広がる。そこに、塩気と甘みが調和して、一瞬で幸せな気持ちに包まれる。
ピーマンの緑色は夏の訪れを告げるような爽やかさだ。噛むと微かな苦みが先に来て、日奈に不足しがちな栄養をたっぷり運んでくれる。
かぼちゃといえば日奈の昔からの好物。甘みが強く、食べるだけで幸せな気分になれる。衣がパリッと音を立てて割れたあと、中のかぼちゃから甘みが広がってゆく。色と言い甘さといい、なんだか夕暮れ空のような温かさを感じて心が染みた。
「美月さん……かぼちゃ大好きなんです。昔っから」
「まあ、私もです。なんだかおやつを頂いているような甘さがあるでしょう?」
「そうそうおやつ。藻塩もおつゆも、どっちにも良く合うなぁ」
美月の愛情と技術の詰まった天ぷらに魅了され、日奈は味わいに身を任せる。女将のお勧めに感謝し、また来週もここで同じ幸せを噛みしめたいと思った。
「野菜のおかげで完全回復しました。今週もあと一日、仕事頑張れます」
「良かった。週末はゆっくりと過ごせそうでしょうか」
「……ですね。何も予定がないと思うんで、ほら」
一縷の望みをかけてスマートフォンを確認してみる。思ったとおり通知欄は綺麗なままで、溜め息が漏れる。
そう、日奈には週末の予定がない。件のマッチングアプリでは、デートの約束どころか新規のコンタクトすら減っていた。
「日奈さん……と書かれてらっしゃるのが、お客様のお名前かしら」
「申し遅れました。東島日奈っていいます」
「東のお日様、素敵なお名前だわ。日奈さんにぴったり」
「ふふふ……で、この下の色気がないのが私のプロフィールですねー」
“IT企業の営業部でアカウントマネージャーをしています。”という素っ気ない一文は、堅物の日奈が精一杯考え抜いた自己紹介だ。ただこうして誰かと読んでみると、つくづく愛され要素を欠いていると思う。これではデートも減ってしまうわけだ。
(だめだ落ち込んじゃ。せっかく美月さんに励ましてもらったんだから)
日奈は残った日本酒を不安ごと飲み干す。が、美月は一部始終を見ていたらしく、心配そうに日奈を伺っていた。
(こういう気持ち、また美月さんに聞いてもらいたいな。でも良いのかな)
日奈がしばらく迷っていると、美月は再び静かに手元を動かし始めた。
「――お客様。〆にお吸い物はいかがでしょう。こちらは私から」
「そ、そんな。悪いですよ、ぅ……?」
コト、と置かれる。椀ものは、ふわふわのかき卵のお吸い物だった。丁寧に取ったであろう出汁の香りが、日奈の意識を縫い付ける。
「ええっと、またお言葉に甘えても?」
「はい、甘えて頂きたくってお出ししたの」
「じゃ……じゃあ、頂きます……ん、やさしい味。安らぐわぁ」
透明なつゆは一口飲むだけですぐに日奈の肉体に染み渡った。乾いた場所の隅々にまでぬくもりが行き届いて、日奈の陰りを追い出してくれる。
(そうだ。自信を取り戻すには、まず自分を整えないと)
日奈は三つ葉を噛んだ。
美月の献立はまさに今必要なものばかり。優しい味が心を和ませていった。
「美月さん、実はね。あれからもマッチングアプリで失敗続きで。ぼっちはイヤじゃないし楽しめる方だったのに……『必要とされてない』って突きつけられると凹んじゃうの」
美月の相貌に驚きが浮かぶが、すぐに柔らかい微笑みに変わる。
「お悩みだったんですね。けれど、日奈さんのように素直で素敵な方には、いつでも絶対に味方がいらっしゃいますから」
「味方か……女将もしてくれます?」
「もちろん。私もう、すっかりお客様のファンですから」
「それが不思議。食べっぷりがいいから?」
「美味しそうに、それも可愛らしく召し上がってくれるから。こんな一時を迎えることが、長年の夢だったもので」
思わぬ答えを囁く美月だったが、表情にはなぜか真剣味があった。
(美月さんがそう言うなら、本当に夢だったんだろうな)
日奈もまた素直に受け止め、お吸い物を丁寧に味わい尽くす。こうして蘇ってゆく日奈を、美月は静かに見守っていた。
「ごちそうさまでした」
「いえ、ありがとうございます」
日奈の気がふと緩んで、なぜか涙が浮かんできた。別に、本当に悲しくなんてない。ただ安心しただけなのだと思う。
けれど美月はハッと気付いて、しばらく唇を噛んで……やがて、意を決したように提案するのだった。
「あの、本当に差し出がましいご提案なのですけど」
「ん? なんだろ気になる」
「先ほどのマッチングアプリ……少しだけお休みして、削除してしまうのはいかがでしょう……か」
「削除……、えっ?」
別に問題はない。アプリだけを削除しても登録内容は普通に残る。ただ驚いたのは、この大人しい美月が提案したということだ。
「確かに。スマホから見えなくするのはある種のセオリーか」
「すみません……」
「全然! でも意外と大胆なこと言うんだね、美月さん」
「申し訳ありません……もしかしたら無理をなさっているのかと思えてしまって……違ったでしょうか」
「違わない。本当は両親の希望で始めたことだったし、それに」
美月の言葉は、美月が今夜作ってくれた料理と同じ。
今の日奈には必要で、間違いなく嬉しい励ましだった。
「美月さんが心配になるほど私の顔が曇ったんだよね。カウンターの向こうから見ても違いがわかるくらい」
苦笑するしかなかった。女将の手料理を頬張っていた自分と、スマホを見たがらなかった自分、その落差はきっと歴然だ。
女将は日奈の葛藤へ優しく付け加えた。
「無理に決断なさる必要はありません。ただ私は、日奈さんには幸せな道があるはずだと思えますし……探すお手伝いができたらとも、思っています」
どうして美月はここまで優しいことを言ってくれるのだろう。日奈の目に涙が滲んでくる。
「美月さん……もうちょっと甘えていい? アプリ消すとこ、一緒に見ててくれる?」
「はい。大丈夫ですよ」
日奈が美月との間にスマートフォンを置く。マッチングアプリのアイコンに釘付けになる。
このアプリを通じて色々なやりとりしてきたけれど、常に不安はあったのかもしれない。
(このままで、本当に大切にしたい人と出会えるのかな、って)
日奈は勇気を振り絞り、指をアイコンに乗せた。
美月は穏やかな瞳で見守っている。女将の落ち着いた微笑みに勇気づけられ、日奈はやっとアプリを削除した。
消えた瞬間、心も軽くなる。
「……ありがと。今ね、すっごい気が楽」
「ええ。日奈さんには相応しい出会いがありますからね」
美月の予言のような囁きを、日奈は信じることにした。
「じゃあ週末は、思い切って引きこもろうかな。しばらく休んでなかったし」
「そうですね。日奈さんご自身に優しくする日になさって」
「食事も自炊しよっと。美月さんのご飯食べてたら、大事だなぁって痛感したんですよ」
「まあ……そういうことでしたら」
美月の瞳がなぜかパッと輝く。この後、日奈はとあるノートを美月から借り受けた。
* * *
「なるほど、山菜のお浸し。薬味多めの冷や奴もたまらん」
帰宅した日奈は、スウェットでくつろぎながら美月のノートを読んでいた。少し古びた紙面には、美しい筆跡で多数のレシピが書かれてある。
(美月さんの字でもなさそう。ご両親とか、お爺さんお婆さんとか?)
おばんざいや懐石料理が多かったけれど、中にはシフォンケーキなど洋菓子のメニューも登場する。
日奈は読み耽りながら、この週末は美月の作ってくれた料理を思いながら頑張ってみようと決心した。想い描いているだけで美月との会話が蘇り、ワクワクと高揚感が込み上げてくる。
ページをめくると美月の美しい仕種や表情を思い出す。彼女がどれほど料理に愛情を込めていたのか、そして日奈に対しても、どれほど思いやりを注いでくれたのか。そんなことを考えながら週末の献立を夢想した。
『こんな一時を迎えることが、長年の夢だったもので』
料理を噛みしめて美味しいと笑う。そんな日奈の笑顔を、美月は心から嬉しそうに見つめていた。
「長年の夢……美月さんほどの人でも、叶わない夢だったのかな」
励ましの手料理に温かい眼差し。その水面下には、美月だって寂しさを秘めているのかもしれない。
「あれ。待って待って、料理より美月さんのことばっかり考えてる。いいのかこれ」
いいと思いますよ、と、瞼の裏の女将は微笑んでいる。なら「私もそう思います」と日奈も心中で答える。
会いたい人と美味しい料理が出迎えてくれる。そんな場所は実は奇跡で、それも得てして続かない。頭のどこかでわかっているからこそ日奈は思う。
「次は美月さんの話を聞かせてよ。来週の私は、もう元気だからさ」
四月にしては寒い日の夕方、東島日奈は綺麗に巻いた髪をいじりながらスマホを見ていた。届いたメッセージはデートのキャンセルを告げている。
「ん、知ってた」
相手はマッチングアプリで知り合った男性。こんなドタキャンも三人目だったので、落ち込む前にスマホを仕舞った。
「いいよいいよ。会社戻ろ」
日奈はIT企業の営業部で働く二十八歳だ。仕事がとにかく楽しい時期だけど、両親の要望で婚活を始めた。そして今日も失敗していた。
運命の風が通り抜けたのは、その時だ。足元に涼しさを感じた直後、日奈はどこからかカタンという物音を聞いた。
「お、大変」
脇路の向こうで小さな看板が倒れている。見てすぐ直しに行くのは日奈の性格だ。率先してしゃがんでメニューの看板を立てると、低い位置から小料理屋を見上げた。
「月見庵……お料理はお待たせします、だって。正直でいいなぁ」
木造の建物はなんだか懐かしい雰囲気を漂わせている。メニューにはお造り、天ぷら、焼き魚、煮魚と、日奈の胃袋をそそる料理ばかりだ。
思わず夢中で読んでいると、店の引き戸が静かに開いていった。
「申し訳ありません、お客様。直してくださってありがとうございます」
「いえ、ええと」
和装の淑やかな女性がそこにいた。けれども眼差しは若々しくて、年齢は日奈より少し上程度なのかもしれない。
「一人でやっているもので、助かりました」
「どういたしまして。お店、入ってもいいですか?」
女将の快い会釈に、日奈はなぜかホッとした気持ちになった。
明るい店内に入ると足元からぬくもりを覚える。木の香りを感じる空間だ。見ると席はカウンターのみで十席ほど。年配の女性が一名座っていて、親しみやすそうな表情で日奈を眺めている。
「こちらへお掛けください」
女将はカウンターの反対側へ案内してくれた。座って落ち着いたところで、日奈は壁掛けの一輪挿しに意識が向く。
(薄紫の丸い花。アザミだったっけ?)
清々しい花を起点に、店の中には晴天の気配が広がっているようだった。
「生ビール、お願いします」
「かしこまりました」
ああ早く呑みたい、食べてみたい。会社に帰るのはやっぱりなしだ。
和装の女将に、洗練された仕草でビールを注いでもらう。
「お疲れ様でした。こちらはお通しの小鉢です」
登場したのは鱧と瓜の梅肉添え。見ただけで口の中が潤って食欲をそそられる。日奈は早々に「頂きます」と手を合わせて、自分を労うビールに唇をつけた。キレのある喉越しで五感が一気に目が覚める。間を置かずに鱧へと箸を伸ばし、梅肉を添えて一口頂く。
「美味しい! これ、今一番食べたかった味です」
大袈裟でなく悩み事が飛んでいったかのようだ。女将の手料理に日奈の全神経が集中して、頭の中がクリアになる。
(よし、注文注文。今日は割り勘のつもりだったし、ご予算たっぷりあるもんね)
メニュー越しに先客をちらりと伺ってみる。視線に気づいた年配の女性は、にっこりと湯呑みをかかげてくれた。
「ウチはおつかいで来てんのよぅ。隣のスナック。お客さんが美月ちゃんの刺し盛り食べたいって――あ、できた?」
「お待たせしました千草さん。社長様方にもよろしくお伝えください」
千草と呼ばれたママは太陽みたいに笑って頷き、四人前ほどの舟を受け取って帰ってゆく。日常のことらしく慣れたやりとりだった。
(女将さんの名前、美月さんっていうんだ。今のお刺身の盛りも職人的だったな)
一目惚れで注文は決まった。
「すみません、季節のお刺身、お任せできますか?」
「かしこまりました。では石鯛と縞鯵と、鰆の炙りはいかがでしょう」
「ぜひ。あとカウンターの」
「里芋と蓮根のサラダですね。先にご用意します」
丁寧に盛り付けて、日奈の目の前に優しく差し出される。里芋のサラダなんて絶対に美味しい。ビールで喉を潤してから口に含むと、たまらない多幸感が込み上げて脳まで震える。
「お客様。当店、お料理に少しお時間を頂いておりまして……」
「外で見てました。ユニークですよね」
「申し訳ありません。どうぞ、おくつろぎになっていてください」
淀みのない包丁さばきを見つめながら呑んでいれば、時間なんてあっという間だ。
小鉢とサラダとビールをトライアングルで味わっている間に刺身のご登場だった。
「こちら、鰆の炙りのみポン酢で召し上がってみてください」
新鮮な季節の三種。遠州好みの白い陶器に盛られた刺身はキラキラと輝いている。
(まずは石鯛から。頂きまーす……ぅ、っま!?)
そっと噛むと旨味が口いっぱいに広がった。続く鰆の炙りはポン酢の酸味と調和して絶品、そして縞鯵はムチムチとした食感がたまらない。日奈は舌の余韻までしっかりと堪能して、ビールを挟んで一息つく。
美月の真心の籠もった仕事を舌で味わうたび、業務やプライベートでの疲れがしゅわしゅわと溶けていくのがわかった。
「今日は外が冷えましたでしょう。よろしければ、生姜の効いた煮物もお勧めですが」
日奈の心を見透かす心配り。煮物の盛り合わせは色とりどりの野菜と柔らかそうな鶏肉が目を引いた。具のひとつひとつが煮汁に包まれて照り、宝石のよう。ほんのりと漂う生姜と出汁の香りが食欲をそそる。一口舌に乗せると旨みが滲み、噛むと滋養が溢れ出した。丁寧な下ごしらえにより舌触りも滑らかで、これも味わい深い一品だ。
「んー、美味しい。元気出てきちゃうなー」
「そんな風に言って頂けるなんて。嬉しいです」
丹精が込められた料理を日奈は次々に注文し、舌鼓を打つ。
(ほんと染みる。お料理も、女将の気遣いも)
月見庵に入ってからというもの、気分はゆっくりながら晴れてきた。だからだろうか、日奈はふと弱音を零してしまった。
「もう少し飲もうかな。本当は、今夜は飲む予定だったんですよね……友達と」
嘘、本当はマッチングアプリで知り合った男性とレストランで食事する予定だったが、ついぼかす。
「まあ、お友達と……残念でしたね」
「でも月見庵さんを発見できた方が絶対ラッキーでした。こんなに幸せな食事って久しぶり」
本心から言うと女将は長いまつ毛を瞬かせ、ゆっくりと優しく微笑んでくれた。
「女将さん、日本酒のお勧めってありますか?」
店内にはかなりの種類の日本酒があった。
華やかな香りか、上品な味わいを選ぶか、すっきりとした飲み口で食事との相性が良いものを選ぶか。いや、酒蔵の限定種も扱いがあって興味が湧く。どれも個性豊かで魅力的だ。
日奈は女将と迷った末、新潟の純米大吟醸を選んだ。
『雪の爽』、初夏の高原をイメージした透明感のある味わいが特徴だ。透明な徳利から薄い玻璃のお猪口へ注ぐと水面が幻想的に煌めく。香りは爽やかで、鼻に抜ける感じが心地いい。
(お味は……おお)
口に含むとスッと広がる旨味に驚かされる。舌触りは滑らかで、後から現れる仄かな甘さが絶妙なバランスだ。
心も体もリラックスできる一献だと思う。日奈は心から満足し、ついほろ酔いで頬を緩めた。
「女将さんのお勧めって全部最高。お酒もお料理も、無限に堪能しちゃいたいです」
「嬉しい……作り甲斐があります」
それからは、月見庵の馴染み客が何組か立ち寄って、手短に帰ってゆくのを何度か見た。
日奈は満席近くになったら帰ろうと決めてはいたものの、混み合うこともないまま時間が過ぎる。
他の客が帰ってしまうと、再び静かな雰囲気が戻ってきた。
「すみません、長居しちゃって」
申し訳なさそうに呟く日奈に、女将は細い首を振る。
「木曜日は普段からこの通りですので。それよりも……気のせいでしたらごめんなさい。お客様、今日は何かありましたか?」
女将が心配そうに尋ねてくれる。日奈は曖昧に笑ったが、いっそ正直にと告白した。
「実はデートに失敗して。相手のドタキャン。アプリ経由の人だし気まずいとかはないですけど」
何合目かの日本酒を飲み干す。最後の一口は、日奈を励ますかのように甘い香りを残してくれた。
「はぁ、美味しい。ここに来て本当に良かった。初めてなのに長々と甘えちゃって、本当にごめんなさい」
「違います、本当は私こそ……実は……今日は、お給仕に熱が籠もっていたんです。お客様が本当に美味しそうに召し上がってくださるから、大切な初心を思い出すことができて」
「ふぇ? 本当?」
泣き上戸寸前の顔で見つめる日奈に、女将は迷わずはっきりと頷いた。
「私などで良ければ、うんとうんと甘えてくださいね。こちらは心ばかりですが」
最後にデザートが差し出された。まばゆい白磁の器に、柚色のシャーベットが盛り付けられている。
「季節の水果です。よろしければ」
「可愛い……注文してないのに、いいの?」
「元気になってもらえるなら」
日奈はこの時初めて美月の美貌を直視した。真っ直ぐな彼女の瞳は、月夜の海のように深く輝いている。
女将はシャーベットを小さじですくい、着物の袖を押さえながら日奈へと差し出す。
彼女の悪戯っぽい微笑みに、日奈の泣きそうな心は柔らかくほどけた。
「……頂きます。あー……ん」
日奈は酩酊に任せて立ち上がり、前のめりで匙に唇を寄せる。
女将から直接シャーベットを口に含む。
酸味と甘さを含む果汁の味は、日奈の心に広く深く染みてゆく。
「美味しい」
と日奈が呟くと、女将はただ嬉しそうに頷いた。それからまたひと匙。
甘い味と彼女の優しさが日奈を少しずつリラックスさせてゆく。そして気がつく。
(って、恥ずかしいことしてる? 私!)
一見の店で酔って泣きそうになった挙げ句、年もさほど変わらないであろう女将に「あーん」してもらって甘えてしまった。
二口目を食べた瞬間に酔いから覚め、日奈は咥えたまま冷や汗を浮かべた。
「あの、ふみまへん……」
「い、いえ、私も。誰かに頼って頂けるなんて初めてで、つい」
夜も更けて、店仕舞いの時間も近づく。日奈は帰り際、改めて感謝を述べた。
「今日は本当にありがとう。こんなに楽しい時間を過ごせたのは、女将さんのおかげ」
「私の方こそ。ありがとうございました」
「また来週も来ていいかな。次はもう立ち直ってますし」
「お待ちしています。おもてなしをさせてくださいね」
女将の即答が日奈には嬉しかった。この店で過ごす時間は、まさに――仕事でもなく結婚でもなく、日奈がずっと欲していたもののような。
「あの。もし来週もまだ、元気が必要であれば……あなたをたくさん甘やかしても、いいですか?」
「えっ、やっ」
酩酊の残った頭で、日奈は従順に頷いてしまう。
もしもあの風が吹かなければ、月見庵での出会いはなかった。
■2.おかえりなさい
心地よい五月の風を感じながら、日奈は軽い足取りで先を急いだ。街頭の灯りは今夜も行く道を照らしてくれている。
とある街の片隅で、ひっそりと佇む小料理屋がある。古びた木製の引き戸の向こうは、客人を誘う小さな世界。店の名は月見庵。女将の手際と季節の品が織り成す柔和な空気が、人の心を解してくれる場所。
女将が日奈にくれた癒しは1週間経った今も心に残っている。客入りが少ないという木曜日を狙って、日奈は約束を守りにきた。
(別れ際があんなだったから恥ずかしいけどね)
軒先に立ち、深呼吸をしてから引き戸を開ける。心地良い照明の中、花の彩りと煮物の香りがふわりと日奈を歓迎した。
「いらっしゃいませ。お帰りなさい」
女将はすぐ日奈に気付き、笑顔で出迎えてくれる。和装の美しい姿に日奈はまた魅入ってしまう。美月の瞳は今夜も満月のような輝きだ。
「こんばんは。来ちゃって良かったかな」
「ええ。お待ちしていました」
と、美月は日奈のために用意した席へと案内する。手荷物を預かって椅子を引く仕草に、日奈の気持ちは早くも和むのだった。
「今日もお腹すかせて来ちゃいました。一週間ずっと楽しみにしてたから」
「嬉しいです。実は私も、木曜日のために色々とおばんざいを考えていたんです」
美味しい手料理と会話を楽しむ。彼女の献立は今週も絶品だ。季節の旬の味を肴にご褒美の一杯を味わいながら、日奈は女将の顔立ちをそっと眺める。
仕事に打ち込む真剣な横顔が、彼女美しさを際立たせている気がする。かと思えば美月は、ふと少女のようにはにかむ。どうやら女将は、日奈の視線に気付いたらしかった。
「いかがなさいましたか?」
「ううん、ただ……美月さんって凄いなと思って……、あ」
今のは失言か。日奈が女将の名前を把握していることをうっかり漏らしてしまう。美月もすぐに察したようだが、怪訝がることもなく微笑んでくれた。
「お客様こそ凄い方だわ。店の者の名前を、一度で覚えてくださるなんて」
「すみません。営業職なもので」
本当は職種なんて関係ない。ただ日奈が美月を忘れられなかっただけなのだけど。
「はぁ、やってしまった」
「お疲れ様です。営業のお仕事って大変ですよね」
「全然。慣れたら大丈夫です。でも私、溜め息ついてましたっけ」
仕事が順調でも悩みはゼロでもない。目下プライベートでの人間関係と言うか、人間関係を結べないこと自体に悩み中だ。日奈はお猪口の中の波紋に自分を重ね、立ち位置を俯瞰する。
「うん。最近は自信なくしてたかも。足元がグラグラで。その影響かなぁ」
日奈は言葉を選びながら打ち明けた。女将なら美味しい料理で応えてくれるような気がする。今夜の自分にぴったりの、自信を取り戻す献立を。
「でしたら――お客様。お野菜の天ぷらなどいかがですか? お時間は頂いてしまうのですが」
「食べたいです。ぜひ」
ああ、やっぱり。美月は日奈に必要なものをすぐに言い当ててくれた。
月見庵の食材は新鮮なものばかり。
まずはナスにピーマンに、かぼちゃ。鮮やかな紫と緑の光沢に、濃厚な黄色が目を惹く。薄く下ごしらえした野菜を衣にくぐらせ、黄金色の油へとそっと滑らせる。
静かに油で揚げる様子は、時を忘れて見つめていられるほど繊細だった。
見た目も美しい野菜の天ぷら。心身を穏やかに温めるにはもってこいではないだろうか。
「お待たせしました。藻塩とおつゆでどうぞ」
「お塩好きです。頂きまーす」
日奈はまずナスを口に運んだ。衣がサクッと音を立てた後、中のとろけるような食感が舌へと広がる。そこに、塩気と甘みが調和して、一瞬で幸せな気持ちに包まれる。
ピーマンの緑色は夏の訪れを告げるような爽やかさだ。噛むと微かな苦みが先に来て、日奈に不足しがちな栄養をたっぷり運んでくれる。
かぼちゃといえば日奈の昔からの好物。甘みが強く、食べるだけで幸せな気分になれる。衣がパリッと音を立てて割れたあと、中のかぼちゃから甘みが広がってゆく。色と言い甘さといい、なんだか夕暮れ空のような温かさを感じて心が染みた。
「美月さん……かぼちゃ大好きなんです。昔っから」
「まあ、私もです。なんだかおやつを頂いているような甘さがあるでしょう?」
「そうそうおやつ。藻塩もおつゆも、どっちにも良く合うなぁ」
美月の愛情と技術の詰まった天ぷらに魅了され、日奈は味わいに身を任せる。女将のお勧めに感謝し、また来週もここで同じ幸せを噛みしめたいと思った。
「野菜のおかげで完全回復しました。今週もあと一日、仕事頑張れます」
「良かった。週末はゆっくりと過ごせそうでしょうか」
「……ですね。何も予定がないと思うんで、ほら」
一縷の望みをかけてスマートフォンを確認してみる。思ったとおり通知欄は綺麗なままで、溜め息が漏れる。
そう、日奈には週末の予定がない。件のマッチングアプリでは、デートの約束どころか新規のコンタクトすら減っていた。
「日奈さん……と書かれてらっしゃるのが、お客様のお名前かしら」
「申し遅れました。東島日奈っていいます」
「東のお日様、素敵なお名前だわ。日奈さんにぴったり」
「ふふふ……で、この下の色気がないのが私のプロフィールですねー」
“IT企業の営業部でアカウントマネージャーをしています。”という素っ気ない一文は、堅物の日奈が精一杯考え抜いた自己紹介だ。ただこうして誰かと読んでみると、つくづく愛され要素を欠いていると思う。これではデートも減ってしまうわけだ。
(だめだ落ち込んじゃ。せっかく美月さんに励ましてもらったんだから)
日奈は残った日本酒を不安ごと飲み干す。が、美月は一部始終を見ていたらしく、心配そうに日奈を伺っていた。
(こういう気持ち、また美月さんに聞いてもらいたいな。でも良いのかな)
日奈がしばらく迷っていると、美月は再び静かに手元を動かし始めた。
「――お客様。〆にお吸い物はいかがでしょう。こちらは私から」
「そ、そんな。悪いですよ、ぅ……?」
コト、と置かれる。椀ものは、ふわふわのかき卵のお吸い物だった。丁寧に取ったであろう出汁の香りが、日奈の意識を縫い付ける。
「ええっと、またお言葉に甘えても?」
「はい、甘えて頂きたくってお出ししたの」
「じゃ……じゃあ、頂きます……ん、やさしい味。安らぐわぁ」
透明なつゆは一口飲むだけですぐに日奈の肉体に染み渡った。乾いた場所の隅々にまでぬくもりが行き届いて、日奈の陰りを追い出してくれる。
(そうだ。自信を取り戻すには、まず自分を整えないと)
日奈は三つ葉を噛んだ。
美月の献立はまさに今必要なものばかり。優しい味が心を和ませていった。
「美月さん、実はね。あれからもマッチングアプリで失敗続きで。ぼっちはイヤじゃないし楽しめる方だったのに……『必要とされてない』って突きつけられると凹んじゃうの」
美月の相貌に驚きが浮かぶが、すぐに柔らかい微笑みに変わる。
「お悩みだったんですね。けれど、日奈さんのように素直で素敵な方には、いつでも絶対に味方がいらっしゃいますから」
「味方か……女将もしてくれます?」
「もちろん。私もう、すっかりお客様のファンですから」
「それが不思議。食べっぷりがいいから?」
「美味しそうに、それも可愛らしく召し上がってくれるから。こんな一時を迎えることが、長年の夢だったもので」
思わぬ答えを囁く美月だったが、表情にはなぜか真剣味があった。
(美月さんがそう言うなら、本当に夢だったんだろうな)
日奈もまた素直に受け止め、お吸い物を丁寧に味わい尽くす。こうして蘇ってゆく日奈を、美月は静かに見守っていた。
「ごちそうさまでした」
「いえ、ありがとうございます」
日奈の気がふと緩んで、なぜか涙が浮かんできた。別に、本当に悲しくなんてない。ただ安心しただけなのだと思う。
けれど美月はハッと気付いて、しばらく唇を噛んで……やがて、意を決したように提案するのだった。
「あの、本当に差し出がましいご提案なのですけど」
「ん? なんだろ気になる」
「先ほどのマッチングアプリ……少しだけお休みして、削除してしまうのはいかがでしょう……か」
「削除……、えっ?」
別に問題はない。アプリだけを削除しても登録内容は普通に残る。ただ驚いたのは、この大人しい美月が提案したということだ。
「確かに。スマホから見えなくするのはある種のセオリーか」
「すみません……」
「全然! でも意外と大胆なこと言うんだね、美月さん」
「申し訳ありません……もしかしたら無理をなさっているのかと思えてしまって……違ったでしょうか」
「違わない。本当は両親の希望で始めたことだったし、それに」
美月の言葉は、美月が今夜作ってくれた料理と同じ。
今の日奈には必要で、間違いなく嬉しい励ましだった。
「美月さんが心配になるほど私の顔が曇ったんだよね。カウンターの向こうから見ても違いがわかるくらい」
苦笑するしかなかった。女将の手料理を頬張っていた自分と、スマホを見たがらなかった自分、その落差はきっと歴然だ。
女将は日奈の葛藤へ優しく付け加えた。
「無理に決断なさる必要はありません。ただ私は、日奈さんには幸せな道があるはずだと思えますし……探すお手伝いができたらとも、思っています」
どうして美月はここまで優しいことを言ってくれるのだろう。日奈の目に涙が滲んでくる。
「美月さん……もうちょっと甘えていい? アプリ消すとこ、一緒に見ててくれる?」
「はい。大丈夫ですよ」
日奈が美月との間にスマートフォンを置く。マッチングアプリのアイコンに釘付けになる。
このアプリを通じて色々なやりとりしてきたけれど、常に不安はあったのかもしれない。
(このままで、本当に大切にしたい人と出会えるのかな、って)
日奈は勇気を振り絞り、指をアイコンに乗せた。
美月は穏やかな瞳で見守っている。女将の落ち着いた微笑みに勇気づけられ、日奈はやっとアプリを削除した。
消えた瞬間、心も軽くなる。
「……ありがと。今ね、すっごい気が楽」
「ええ。日奈さんには相応しい出会いがありますからね」
美月の予言のような囁きを、日奈は信じることにした。
「じゃあ週末は、思い切って引きこもろうかな。しばらく休んでなかったし」
「そうですね。日奈さんご自身に優しくする日になさって」
「食事も自炊しよっと。美月さんのご飯食べてたら、大事だなぁって痛感したんですよ」
「まあ……そういうことでしたら」
美月の瞳がなぜかパッと輝く。この後、日奈はとあるノートを美月から借り受けた。
* * *
「なるほど、山菜のお浸し。薬味多めの冷や奴もたまらん」
帰宅した日奈は、スウェットでくつろぎながら美月のノートを読んでいた。少し古びた紙面には、美しい筆跡で多数のレシピが書かれてある。
(美月さんの字でもなさそう。ご両親とか、お爺さんお婆さんとか?)
おばんざいや懐石料理が多かったけれど、中にはシフォンケーキなど洋菓子のメニューも登場する。
日奈は読み耽りながら、この週末は美月の作ってくれた料理を思いながら頑張ってみようと決心した。想い描いているだけで美月との会話が蘇り、ワクワクと高揚感が込み上げてくる。
ページをめくると美月の美しい仕種や表情を思い出す。彼女がどれほど料理に愛情を込めていたのか、そして日奈に対しても、どれほど思いやりを注いでくれたのか。そんなことを考えながら週末の献立を夢想した。
『こんな一時を迎えることが、長年の夢だったもので』
料理を噛みしめて美味しいと笑う。そんな日奈の笑顔を、美月は心から嬉しそうに見つめていた。
「長年の夢……美月さんほどの人でも、叶わない夢だったのかな」
励ましの手料理に温かい眼差し。その水面下には、美月だって寂しさを秘めているのかもしれない。
「あれ。待って待って、料理より美月さんのことばっかり考えてる。いいのかこれ」
いいと思いますよ、と、瞼の裏の女将は微笑んでいる。なら「私もそう思います」と日奈も心中で答える。
会いたい人と美味しい料理が出迎えてくれる。そんな場所は実は奇跡で、それも得てして続かない。頭のどこかでわかっているからこそ日奈は思う。
「次は美月さんの話を聞かせてよ。来週の私は、もう元気だからさ」