大人しく仕事をしていると「清水!」と上司の蓬莱(ほうらい)が怒鳴ってきた。
「ちょっとこい」
なんだと思っていると、呼び出しをくらった。
私は「はいー」と気を引き締める。
あの言い方は叱られるなと思った私は、怖い顔をわざとしていけば蓬莱も怖がるかも、と怖い顔を作って呼び出された部屋に行く。

すると、私の怖い顔に蓬莱は怖がることなく不満そうな顔をして待っていた。
不満そうな顔をますます不満そうにして言ってくる。
「なんだ?これは」私が昨日徹夜で書いた商品説明の資料を投げるように渡してきた。

この商品の製造社(せいぞうしゃ)に送らないといけないのだ。
それを私が引き受けた。いや引き受けさせられた。

「どれどれ」私は目を凝らして読む。
すると、この商品はどういう性能を持っていますという所がこの商品は、いぇtghklk、っひkっぉksじおflgぃkl」¥;:とやばいことになってしまっていた。
ずっとこれが続いている。

「もしかしてもう送っちゃってたりします?」私は恐る恐る顔をあげて聞く。
蓬莱は「はあ?送ってるわけねえだろ。そんなことよりはやく直してこい!今日中にな!」と厳しいことを命じてくる。

「はぁ」私はついため息がでてしまった。
蓬莱はぎろりと見て「ため息ついてないでとっとと直せ」と言ってくる。
しつこいなあ。わかってるって。直しますよ、と思いながらも私は「すみません」と謝る。

なのに蓬莱は私を部屋からつまみ出した。
「いったた」私は尻もちをつく。

ひどい上司だな。顔は整ってるくせに、と言いたくなる感情を何とかとめて私はまだじんじんするお尻を抑えて仕事に戻る。
今日は早めに帰ろう。



私は荷物を持って駅までの道のりをぼんやりと歩く。
修正をしていたら気づいたら八時になっていた。
私は今日は外でご飯を食べて帰ろうと思い、飲食店を探す。

すると、見慣れない食堂があるのに気がついた。
ねこみ食堂?不思議な名前。
私は好奇心で中に入ってみる。

「いらっにゃいませー」店員さんが声を掛けてき……た?
ん?見間違いかな。
いや見間違いじゃない。
「きっ、きゃあああああああああああ」私は叫ぶ。
そこで意識が途切れた。



「大丈夫ですか!お客様!」
急に声が上から降ってきた。
「ん?」私は重たい瞼を開く。
すると、若い男性の顔があった。
男性は曇らせていた顔をぱっと輝かせて「お客様!」と潤んだ瞳で見てきた。

「あの、誰ですか?」私は聞いてみる。
男性は「あ、すみません。僕は………この店の店長です。」と笑って答えてくれる。
だが、どこか悲しそうな笑いだった気がする。

「大丈夫ですか?」私は顔色を窺いながら聞いてみる。
もし気分を悪くさせちゃったら……と不安になったけれど思い切って聞いた。
「え?」男性は不思議そうに目を丸くする。
私はあわあわしながら「い、いやあの、えっと、少し悲しそうに見えたので大丈夫かなって。いやすみません。見間違いですかね。あはは」乾いた笑いをする。

耳が痛いほどにしいんとこの場が静まり返る。
わ、私、やっちゃった?

「見間違いじゃないです。僕、名前が無いんです。それで自分のことをいう時に名前を言うじゃないですか。他の人には名前があるのに僕だけ無い。それが悲しくて。」と男性は俯きがちに教えてくれた。
私言わないほうがいいこと言っちゃた、よね?
「ごめんなさい!」私はとにかく謝る。

謝って許されることでは無いと思うけれど、私には謝ることしかできない。
きっと落ち込ませてしまった。

どうお詫びしたらいいものか…………
「おきにゃしたか!?」突然声が聞こえてきた。
「わっっ」びっくりして声がでてしまう。

「あ、す、すみにゃせん」猫が謝ってきた。
しゃ、しゃべ、べってる?
「しゃべ、んってる?」私は変な言い方をしてしまう。
んってるってなんだ。んってるって。

「ああ、うちで働いてるにゃごだよ。喋れるんだ。僕も最初は驚いたよー」と男性はいつの間にかタメ語で笑っていう。
笑い事じゃないんじゃ…喋ってるんだよ?猫が。

本当に不思議だなあ。このお店。猫が働いてるし。喋ってるし。
「笑い事ではないと思います。普通は猫は喋らないと思いますけど。」と私は呆れて言う。
男性は「ははっ」と笑う。

何?私なんか笑われる言い方した?
「なんですか?」私は聞いてみる。

男性はまだ笑いながら「あまりにも呆れた顔してるから。面白くてつい…」と笑いを堪えながら言ってくる。
ちょっと失礼なんじゃないか、と思う。
いくら呆れた顔をしているからってそんなに笑わなくてもいいと思うのだけれど。
変な人だな。ちょっと失礼か、不思議な人のほうがいいや。

「なんて呼べばいいですか?あなたのこと。」私はふと疑問に思い聞いてみる。
「うーん。じゃあ、名前つけてよ!僕の名前。」と男性はいいこと思いついたと言うふうにありえないことを提案してくる。
そんなに簡単に言えることではないと思うんだけど。
だが頼まれたことを断るのはちょっと、と思いながらも私は「いいですけど…」と答えていた。
どうして悩みながら答えたんだ?反射的に、という言葉では言い表せない。
ぐるぐると考えている私の気なんて知らずに男性は「本当に?!ありがとう。」と無邪気な笑顔で礼を言ってくる。

ひ、引き受けてしまった。人の名前をつけるという重大な任務を、引き受けてしまった。
ぴーん、頭の中で音がしたと同時にいい名前が思いついた。
晴人(はると)、は?」私はぴーんと思いついた名前を口にする。

すると男性は顔をキラキラと輝かせて「晴人!いい名前!由来は?」と聞いてきた。
私はよかったと胸を撫で下ろす。
「晴れてるみたいに曇りのない人だから……?」私はドキドキしながら由来を言ってみる。
晴人は「なんで疑問形?」と一瞬笑ってから聞いてきた。

俯きがちに私は「由来に自信がないから。」と言う。
「自分で考えたんでしょ?自信はもってればいいんだよ」晴人はかっこいいことを言ってくる。

その通りだね、なんて言えたらいいけれど、私はそんなに素直にはなれない。
意地っ張りだから。自分で言うのもなんだけど。
静かになる。

その時だった。『プルルルプルルルプルルル』電話が鳴った。
私の電話だ。「はい、もしもし」電話に出ると相手は子供の頃から親友の美憂(みゆ)からだった。
『あ、美南(みなみ)?今大丈夫?』「大丈夫だよ」『ほんと?ありがとー。あのね、うちに今あたしの友達が来てるんだけど、よかったら美南もこない?美南の話してたら、美南が働いてる会社に興味があるんだって。それで美南に会ってみたいって言ってて。』「うん。いいよ。」『ありがとー!じゃ、うちで待ってるね』と最後に美憂は言い、電話を切った。

私は晴人に「ごめん。友達のところに行かないとだから今日はこれで。」と言ってねこみ食堂をでる。
ご飯は美憂のところで食べるだろうからまた来よう。
「あのさ、時間ある時でいいからまた来てくれない?いつでもやってるからこの店」晴人は急にそんなことを言ってくる。
私は戸惑いながらも「いいよ。じゃあまたくるね」と言い残して美憂の家に向かう道へ行く。

どんな人なんだろう。うちの会社に興味がある人って。上司は怖いしいいことなんてないと思うんだけどなあ。
あ、もしかしたら蓬莱狙いだったりして、なんて思う。
蓬莱は意外にモテるのだ。私にはよく分からないのだけれど。
あの顔で優しかったらわかるけれど。顔は整ってるくせに横暴なんだよ?惹かれる人の気持ちがわからん、なんて考えているうちに美憂の家に着いた。

ピンポーン。チャイムを押すとすぐに人が歩く音がして扉が開いた。
「はーい。美南、待ってたよー!ごめんね、突然呼び出して。ささ、上がってー」と美憂はにこっと笑ってリビングへと私を誘導する。

リビングに入ると、甘ったるい香水の匂いがしてきて、鼻をつまみたくなったが必死に耐えた。
私が戸惑ってるのを察したのか美憂が紹介をしてくれる。「こちら私の友達の加奈(かな)ちゃん。それでこちらが私の親友の美南です」

「はじめましてぇ。」加奈さんは声をかけてきた。
「は、はじめまして。」私も挨拶をする。
と同時に加奈さんは被せて聞いてきた。
「あのぉ、私〇〇会社に行きたくてぇ、詳しいこと教えてもらえませんかぁ?」上目遣いで見てくる。

私は「そうなんですか。なんで行きたいんですか。」と平然を装って聞いてみる。
加奈さんは「えっとぉ、社長の蓬莱さんいるじゃないですかぁ、私あの人に憧れててぇ、行きたいなあと思ってぇ。」と甘ったるい声で言ってくる。
蓬莱に気があるのだろう。私の予想が当たったようだ。
もう勘弁してよと思う。

「はあ?憧れてる?気があるんでしょ。ならわざわざそんなことしないで蓬莱に声かければいいじゃん。なんなの。」私は苛ついてついこんなことを言ってしまった。
さあっと血の気が引く。
加奈さんは「え、」と驚いて目を見開いている。

次の瞬間「な、何よ!蓬莱さんと一緒にいたいから会社に行きたいのに!ひどい!何よ!この私があんたの会社に行けば蓬莱さんは可愛い子が来た!って惚れてくれる予定なのに!なんなのよ!」と先ほどとは別人のように豹変する。
涙でつけまつ毛が取れているのも気にしていない。

つまり、さっきまでの加奈さんは表だったわけだ。
表裏がある人だということか。まあ、想像はしていたけれどもこれほどだったとは。

美憂は「まあまあ落ち着いてよ二人とも。」と不安そうに私たちを(なだ)めてくれる。
美憂の声で我に帰ったのか加奈さんは「帰る」と一言言ってから靴を履いて出て行ってしまった。
私は申し訳なさで心が潰れそうになった。
「ごめん。」私は一言謝る。

美憂は笑って「いいよいいよ。謝ることじゃないって。あたしも実はあの子苦手だったし。」と言ってくれる。
でも慰めてくれているのだと長年の付き合いでわかる私は「もう帰るね」と言って玄関に向かう。
美憂は見送りに来てくれた。

「今日はありがとう。また来て」美憂はそう言っていつものように屈託なく笑って見送ってくれた。
優しいな。美憂は。私は先ほどの疲労感に襲われる。「はぁぁ〜」私はため息をつく。

『時間ある時でいいからまた来てくれない?』ふと晴人の言葉が脳裏をよぎった。
気づいたらねこみ食堂に向かっていた。



カラカラと音を鳴らして扉を開ける。
「いらっにゃいませー」そういったにゃごは驚いたような顔をした。
私は「晴人、いる?」そう聞く。

すると晴人が調理場から出てきた。
「あれ?みなみ、ちゃん?」晴人は戸惑った様子で私の名前を呼ぶ。
なんで私の名前知ってるの?言ったけ?と疑問に思い聞いてみる。
「なんで私の名前、知ってるの?」
「あ、ごめん。電話聞こえちゃって。」と謝ってくる。
「あ、聞こえちゃってた?私その友達のところに、行ったの。でも私の働いてる会社に、興味があるっていう人が、社長に気が合ったならそう言えばって言ったら、何よ!って怒っちゃって。疲れちゃったから、はやく家に帰ろうと思ったのに、気がついたら、ここに、向かってた。」私の下手な説明を晴人は親身に聞いてくれている。

晴人は顔を曇らせて、「そうなんだ。それは辛いね。うちのとびきりのおすすめだすから元気だして。」と言って、調理場からねこまんまを持ってきた。
「どうぞ」机の上に置いてくれる。

私はこくりと頷いて「いただきます」と言って食べる。
食べた時に私の目から水滴が落ちた。ぽたぽたと涙が止まらなくなってしまう。
「うああああああああ」私は耐えきれなくなって声を上げて子供のように泣きじゃくる。
「なんで、こんなことになっちゃうの?うう…私、もうやだ」本音が口をついて出る。

すると晴人が「じゃあ、嫌になった時はここにおいでよ。」と微笑んで言ってくれる。
「来て、いいの?」
「うん。」
「いつでも?」
「うん。」
「本当?」
「本当。」
「ありがとう。」
私は嬉しさで涙が引っ込んだ。

「ありがとう。もう12時だけど、もう少しここでご飯食べて行ってもいい?」私は聞いてみる。
晴人は「いいよ。24時間営業だから。」と言って無邪気な笑顔で言ってくれる。

胸が飛び跳ねる。ああ、私、晴人に惹かれてるんだ、と気づく。
照れ隠しで私はねこまんまを一口食べる。
「うまっ」美味しくて声が出てしまう。

すると、にゃごと10匹ほどの猫が「よかったです。にゃあたちのいちばんのにゃいこうぶつにゃんです」と可愛い声で言ってくれる。
「ふふっ、そうなんだ。すごく美味しいよ!」私は微笑んで礼を言う。
にゃごたちは「ありにゃとうございにゃす」と頭をぺこりと下げる。
その仕草がまた可愛い。

「あ」晴人が声をあげた。
私は「どうしたの?」と聞く。
「もう1時だけど、大丈夫?」と心配そうに聞いてくれた。
私は腕時計を確認して「もうそんな時間か。もう今日はここら辺でお(いとま)しようかな。」と言う。

「うん。また来て。」と晴人は送り出してくれる。
私は「うん。また来るね。今日はありがとう。」そう言って帰路についた。



ピピピピ、ピピピピ、ピピカチッ
目覚ましが鳴る。でもなかなか起きれない。
昨日は寝たのが2時だったからだ。つまりまだ6時間しか睡眠をとっていないということだ。

眠くて眠くて起きようと思っても瞼が重くて開かない。
もういいや。寝ちゃおう。仕事も休みだし、と思い寝ようと目を閉じかけた時だった。
『プルルルルプルルルルプルルルルプルルルルプルル、ピー、美憂です。伝えたいことがあるので時間がある時に連絡ください。』
電話が鳴ったけれど、出る前に留守電に変わってしまった。

美憂か。昨日のことかな。また申し訳なさが込み上げかけてきたけれど、すぐに飲み込む。
私はなんとかベッドから這い出てスマホのあるところまで行って美憂に電話をかける。

『もっ、もしもし。美南?』「そうだよ。どうしたの?」『今日どこかで時間あったら会わない?』「いいよ。晩御飯とか?」『うん。昨日のこともあって気まずいと思うけど、美南に会いたくて。』「ありがとう。本当にいい親友をもったよ」『あはは。またまたぁ。じゃあ、6時ごろ美南の家に行くね。』「じゃあ、後で。」ブツッ、ツーツー

電話を切れたのを確認してから、私はもう一度ベッドに入る。
また眠気が襲ってきた。
「ふ、ふあああ」呑気なあくびをする。
理想的な休日だ。



ピーンポーン。
6時ぴったりにチャイムが鳴った。「はーい」私はドアを開ける。
予想通りの相手が立っていた。「やっほー。美南」美憂はいつもの笑みを浮かべて声をかけてくる。
「さあさあ、狭いところですけど、入って入ってー」私は家に美憂を招き入れる。
美憂は「そういえば、あたし初めて美南の家きたかも。」ときょろきょろとしている。

「それで、うちで食べる?それかどっか行く?」私は気になっていたことを聞く。
美憂は一瞬悩む仕草をしてから、「美南のおすすめのお店とかは?」と小首を傾げる。

「うーん。あ、じゃあねこみ食堂は?」私はねこみ食堂を提案する。
「ねこみ食堂?何それー」美憂は聞いてくる。
私は「ねこみ食堂は、猫が働いてて、喋るの。それで、店長は人間なんだけど、いい人なの!」と他人からすれば、猫が喋る?
この人変な夢でも見たんじゃと思われかねないことを言う。

「え、猫が喋るの?」美憂は予想外の答えに拍子抜けした様子だ。
私は「うん」と頷く。

美憂は目を輝かせて「行ってみたーい!」と言ってくれる。
私は自信満々に「でしょ!早速レッツゴー」と言い、私たちは拳を突き上げた。



「こんばんは!」私は扉を開けると同時に声を出す。
するといつものようににゃごが「いらっにゃいませー」と迎えてくれた。
「はあー!猫が、猫が喋ってるー!」美憂は目をキラッキラに輝かせて、店内をきょろきょろと見回している。

「あ、美南ちゃん!…と、お友達?」晴人が奥から出てきて声をかけてくれた。
私は「うん。友達とご飯食べることになったからここにきたの。」と言うと晴人は嬉しそうに笑って「ゆっくりしていってねー」と言ってくれた。
私は美憂に「ねっ!いい人でしょ。」私が言うと美憂はニヤニヤとした顔で見てきた。

「ほおお。そういうこと。へえ、頑張るんだよ!」美憂は意味深なことを言ってくる。
その時だった。ガタン。「は、はるとさんが!たいへんにゃ!」と奥の方から声がした。

私は走って奥に行く。
すると晴人が倒れていた。
「晴人!」私は叫ぶ。
晴人は、私を見て言う。「ごめん。僕、実は、余命があと一ヶ月なんだ。それでたまに倒れちゃうんだ。」
無理をして安心させようと微笑んでくれている晴人の顔を見ると、胸が苦しくなった。

「なんで……あと一ヶ月で死んじゃうの?」私は聞く。
死なない。晴人は死なない。そう、これは悪い冗談なんだ。そうだ。そうであってほしい、私は藁にも縋る思いで願う。

晴人は「うん。僕はね、猫と同じ寿命なんだよ。だから、あと一ヶ月で死んじゃう。あ、そうだ。このお店、美南ちゃんが継いでよ。にゃごたちは一生死なないから。」と私の願いを打ち砕く。
やだ、死なないで。私まだ出会ったばっかりだよ。晴人と。

でももう死んでしまうのなら、このお店で晴人の代わりに大繁盛させてみせる。「わかった。ここは私が継ぐ。でもその代わりに二つ条件がある。一つは、天国に行ってもずっと私を見守っていること。二つ目、生まれ変わって私の前に現れること。わかった?」私は条件を突きつける。
晴人は「ははっ」と笑って、「わかった、生まれ変わって美南ちゃんの前に現れるね。」と頷いてくれた。

「じゃあ、あと一ヶ月は死なないで。」私は言った。
晴人は真剣な眼差しで「うん。死なないよ」と言った。

よかった、私は胸を撫で下ろした。



明日も仕事は休みだ。
だが、今日は8時に寝る。

明日はねこみ食堂で修行なのだ。
いつか私が継いだ時のための修行。
ねこみ食堂でしかない料理などもあるらしいから、勉強をしなくてはいけない。

仕事は、再来週で辞めるつもりだ。
もう蓬莱には言っている。
蓬莱はそうかとだけ言っていた。
こんな社員一人が辞めることはどうってことないんだろうなと思う。

「ふああ」あくびが出る。
まだ7時半なのにあくびが出るということは、すごく眠いんだろう。
もう寝ようかな。

予定より30分早いけど。
ま、いっか。早ければ早いだけいいし。

あ、歯磨きするの忘れてた。
危ない危ない。歯医者に行かなければいけなくなるところだった。
私は洗面所に行き、歯を磨く。

完璧に磨けたら、ベッドに入って、寝る。
ところなのだが、そわそわして眠れない。
ふう。本でも読んで落ち着かないと、と思い私はベッドで本を読む。
10分ほど読み進めたところで眠気がやってきた。
ここで意識が途切れた。



ピピピピピカチッ
今日はもうすこし寝たい気持ちを我慢して6時に起きた。
着替えて、朝ごはんを食べる。

そして歯を磨いて、寝癖をちょいちょいと簡単に直して、靴を履いて家を出る。
ねこみ食堂へ向かう。
家から電車に乗って、乗り換え時間も含むと約30分ほどでついた。
なのでねこみ食堂に着いたのは、7時半だった。

カラカラ。「おはよー。晴人?」私は扉を開けて呼びかける。
すると、「あ、美南ちゃん?」と応答があった。

「にゃごたちは?」私は聞いてみる。
晴人は「ああ、にゃごたちはまだこの時間は寝てるんだ。8時ごろに起きてくるよ」と言った。
「そうなんだ。よし、まずは何をすればいいですか?」私はタメ語と敬語が混ざって変な言い方になってしまう。

「まずは、掃除だね。(ほうき)で外を()いてから、箒で中も掃く、そして花壇の手入れかな。」とすごくたくさんの単語が晴人の口から発せられる。
すごいな。いつも一人でこれをやっているのか。私もできるだろうか、と今更ながらも不安になる。
私は「箒、どこにある?」と聞く。

晴人は一度奥に行って、箒を持ってきてくれた。
「はい。僕は調理場にいるから何かあったらきて」晴人はにっこり微笑んで調理場に行く。

私は外を箒で念入りに掃いてから、中も念入りに掃く。
そしてもう一度外に出て、花壇の手入れをする。
すると、70歳くらいのおばあちゃんが話しかけてきた。「綺麗なパンジーだねぇ」
私は一瞬戸惑うが「はい」と返すとおばあちゃんは目を細めて、「いつも、晴くんにはお世話になってるのよ」と言ってくれる。

「そうなんですね。私もとてもお世話になってます」と私が答えるとおばあちゃんは頷いて「今日は用事があるのだけれど、また今度来ようかねぇ」と言い去っていった。
私もちょうど花壇の手入れが終わったから、中に戻り調理場に行って「終わったよ」と晴人にいうと「ありがとう」と返ってきた。
私はさっきのおばあちゃんのことを晴人に言うと「ああ、鈴木さんか。たまに来てくれるんだよ」と教えてくれた。

「おはようーございにゃす!」と後ろから声が聞こえた。
晴人は私の後ろに目を向けて「にゃご、にゃみ、こにゃ、ぶにゃ、なにゃ、おはよう」と声をかけた。
すごいな全員の顔覚えてるの。「あれ?5人だけ?」と私が言うと晴人は「ああ、他のにゃにたちは、買い出しに行ってくれてる」と言ってくれた。

カラカラ「晴人さん!」と扉を開ける音に続いて声が聞こえてきた。
晴人は私に「美南ちゃんも来て」と呟いて「いらっしゃい。嘉代(かよ)ちゃん」と一人目のお客さんの所に行く。

私も晴人についていく。
すると嘉代ちゃんと呼ばれた小学生くらいの子が私を見て「おねえさんだあれ?」と首を傾げる。
可愛らしい女の子だ。
「私は、ここで働いてるの。」と私が嘉代ちゃんに言う。
嘉代ちゃんは「そうなんだあ。今日もみかんジュースくーださい」と百円玉を差し出してくる。
私は「ありがとう」と言い、晴人に百円玉を渡して調理場に行ってにゃごにみかんジュースのことを伝える。

するとにゃごは「にゃい!」と言いみかんジュースを作り始める。
1分もしないうちに「どうぞ」とにゃごがみかんジュースを渡してくれた。
「はやっ」私は声に出してしまう。
にゃごは「えへへ」と自慢げにふふんと鼻を鳴らす。

私は嘉代ちゃんに「はい」とみかんジュースを渡すと嘉代ちゃんは嬉しそうに「ありがとう!」と言ってみかんジュースを飲む。
晴人は「奥にいるから何かあったら、にゃごかおねえさんに言ってね。」と言って奥に行ってしまう。

私も奥に行く。
「晴人、どうしたの?」と私は聞きに行くと、晴人は椅子に横になっていた。
晴人は私に気づいて「美南ちゃん」と声をかける。

私は「どうしたの?」ともう一度聞く。
何かあったのだろうか。
晴人は苦しそうに顔を歪めて「ごめん。美南ちゃん、僕もうだめだ。」と言って微笑んだ。
それが晴人の最後だった。
「ねえ、晴人!」と晴人をゆすってみてもどんどん冷たくなってしまう。
「…す、きだ」と晴人は最後に言って冷たくなって動かなくなってしまった。
私は耐え切れなくて「うあああああああああああああああ」と声をあげて今まで以上にないくらい大きい声で泣いた。



10分くらい泣いていただろうかにゃごと嘉代ちゃんが私のところに来た。
「おねえさん、どうしたの?」と嘉代ちゃんも心配そうにしている。
でも私の手元に横たわっている晴人に気づいて「ど、どうしたの。」と頭を振りながら聞いてくる。
私は「は、晴人、が冷たく、なって」と歯切れ悪く言うと嘉代ちゃんとにゃごは顔を歪める。

二人は「ああああああああああ」と泣き出してしまう。
「はるくん!はるくん!あああああああ」と嘉代ちゃんは泣きじゃくる。
にゃごは「にゃ、そんにゃ、にゃあああああああ」と泣く。
私の涙はもう枯れ果てていた。
はずなのにまた出てくる。「…う…ああああああああああああああああああああ」

なんで。なんで。一ヶ月って言ったのに!なんで、なんで、なんで。
もういいよ。神様。十分だよ。こんなことする必要ないでしょ。
もう、やだ。もうやだもうやだ。

『このお店、美南ちゃんが継いでよ。』晴人の言葉が聞こえた。
そうだ。私はこのお店を継がないと。大繁盛させるって決めたんだよ。
私ってばなんでなんでばっかり。
いなくなってしまった人は戻らない。でも晴人の代わりにこのお店を大繁盛させることはできる。

「にゃご、嘉代ちゃん、泣かないで。私晴人の代わりにこのお店を大繁盛させるから」と私は言うけれど私のちっぽけな言葉では届かない。
「このお店は私が継ぐよ」私は声を張り上げて叫ぶ。
にゃごと嘉代ちゃんははっとして私をみる。
「私、晴人にこのお店を継いでって頼まれたの!だから、泣かないで。晴人がいなくなっちゃったのは悲しいよ。でも泣いてばっかりじゃ何も変われない。今できることを考えなきゃ。」と私は言う。

するとにゃごと嘉代ちゃんは一瞬驚いたような顔をしたけれど、こくりと頷いた。



ねこみ食堂を再開できたのはあの日から一ヶ月後だった。
嘉代ちゃんは来れる時に来てくれて、にゃごも立ち直ってきた。
私ももう泣かないし、大丈夫。でもだからって悲しくないわけではない。
でも悲しんでばかりでは晴人もきっと悲しいはずだ。

カラカラ「こんにちは」声が聞こえた。
私は「はい。いらっしゃいませ」と調理場から出る。
「え」私は声が出てしまった。
だってだって、この声とこの瞳は晴人だ。
晴人以外に誰がいるの。
「晴人!」私は呼ぶ。

彼は「え?僕?」と戸惑っている。
私ははっとする。
「す、すみません」私は謝る。
一人称は僕だし、声も同じだし、あの瞳も同じ。
晴人の生まれ変わり?

生まれ変わって来てねって言ったから?
そんなことどうでもいい。
晴人にもう一度出会えたのだから。
「ふふ。おかえりなさい」私はつぶやいた。