春の柔らかな陽だまりの中、僕は一人歩いていた。
 行先は、この町で一番桜が綺麗に咲く場所。
 君が、眠る場所。
 たん、と軽やかな音がした。
「行くよ! あそこまで競走だよ!」
「待ってよー!」
 ひとり坂道を登る僕を、黄色い帽子を被った子供ふたりが大き過ぎるランドセルを背負って追い越していく。
 彼らの元気な声や足音が、空に抜けるように響いた。
「わっ!」
 僕を追い越した直後、目の前で女の子が転んでしまった。
「……大丈夫?」
 思わず声をかける。
「自分で立てる?」
 女の子の小さな身体は、地面にぺたんとくっついている。
 女の子は転んだことに驚いたのか、鼻を啜りながらも、
「うん……」と、頑張って立ち上がった。
 けれど、くりりとした可愛らしい瞳に、涙がみるみる盛り上がっていく。
 まずい、泣く。泣かれるのは困る。
「よ、よし。自分で立って偉かったから、これあげる」
 泣きべそをかく子供のあやし方なんて知らない僕は、とりあえず手に持っていたカスミソウの花を抜き取った。
「いいの?」
 女の子は受け取った花にそっくりの笑顔になって、元気よく「ありがとう」と言った。笑った女の子は、前歯がなかった。乳歯が抜けて、永久歯が出てくる前なのだろう。
 そうか。そんな歳頃か。
 あらためて見た女の子はなんとも気の抜ける顔をしていて、気分がほころんだ。
「おーい、大丈夫?」
 先に駆けていった男の子が、女の子の元へ戻ってくる。
「見て、たっちゃん! もらった!」
「わ、きれい」
「カスミソウって言うんだ、それ」
 小さな二人に教えてやると、その瞳がきらきらと輝いた。
「カスミソウ! お兄ちゃん、ありがとう!」
「気を付けてね」
「バイバイ」
 二人は元気よく手を振りながら、片手同士をぎゅっと繋いで坂を下っていった。
 僕は目を細め、しばらくその後ろ姿を見つめていた。
 賑やかさは一瞬で、直後の静寂が僕に寂しさを突きつける。

 再び、ひっそりと坂を登り始める。
 風が足首を撫でていく。なまぬるい春の風は、正直冬の風よりもしみる。皮膚を突き破り、骨にまで染み込むようだった。
 
 丘の中腹、散りかけの桜の中にある霊園。僕はそのうちのひとつの墓石の前に立つ。
 手の中に抱いていたさくら色のカスミソウを、ひんやりとした石の上にそっと置きながら、愛する彼女に声をかける。
「久しぶり」
 返事はない。
 かすかな木々のざわめきだけが、僕の鼓膜を震わせる。
 僕の前に、彼女はいない。あるのは、ただの無機質な石だけだ。
「覚えてるかな。僕だよ」
 桜が咲く季節に姿を消した彼女を待ち続けて、七年。
 彼女が帰ってくることを強く信じていた僕の前に、七年越しの満開の桜とともに戻ってきた彼女は、遠い場所に魂を忘れてきてしまったぬけがらになっていた。
 彼女が生きていれば、僕と同じ二十二歳。
 童顔だった彼女の、うっすらと控えめな化粧をした姿を想像する。想像した彼女の姿はとびきり可愛らしくて、思わず笑みが漏れた。
 髪色はどうだろうか。
 淡い栗色なんかが似合いそうだ。でもやっぱり彼女には黒が一番似合う気がする。
 視界が、桜色に滲む。
 なにもできなかった。
 彼女のそばにいることさえできなかった。
 溢れ出すのは、とめどない後悔。何度も過去を思い出しては、果てのない絶望に心を抉られる。
 彼女の最期はどんなだっただろうかと思いを馳せ、堪らなくなる。
 想像すればそれはとても残酷で、虚しくて。
 せめて、安らかに。そう願わずにはいられない。
 七年前のあの日とはまるで別世界のような穏やかな町の一角。風が桜の花びらを舞いあげ、僕の頬を掠めていく。

 ――朧気な記憶。それは、あの日の朝のこと。
 満開の桜の中で、制服姿の彼女が笑う。
『――おはよう!』
 大好きだった彼女のにっこりと笑う顔も、おはじきがはじき合うようなきゃらきゃらとした声も。今ではもう、すっかりぼやけてうまく思い出せない。
『――ねぇ、駅前の新しいクレープ屋さん、行かない?』
 僕の手をぎゅっと握る、小さな手。あたたかくて柔らかくて、握り返すのが怖くなるくらいに華奢な手。
 大人になりかけていた僕らは、その日久しぶりに手を繋いだ。
 彼女の手はさらさらとしていて、小さくて。一方僕の手は緊張で少しだけ湿っていて。それがなんだか、すごく恥ずかしくて、心の中でどうしようどうしようと思っていた。
 でも結局、僕は彼女の手を離したくなくて、そのままぎゅっと握り返したのだ。そうしたら彼女は嬉しそうに笑って僕を見た。
『――わぁ! 見てみて、桜だよ! きれい――』
 桜を見上げる彼女の隣で、僕は桜よりもその横顔に見惚れていた。彼女はたぶん、気付いていなかったけれど。
『――ねぇ』
 彼女はふと、真剣な眼差しで僕を見た。
『――来年もまた来ようね。ふたりで』
 僕は頷いた。
 絶対に来る。来年も再来年も、ずっとずっとその先も。僕たちがおじいちゃんとおばあちゃんになるまで、毎年。それは、淡い約束。一度も守れなかった約束。
『――また明日ね!』
 彼女は笑顔で手を振り、離れていく。
 ……離れていく。
 あのとき、もう少しだけでも一緒にいれば。家までちゃんと送っていれば。引き返していたら。
 目の前の山が真っ赤に吼え、空が、町が、ふるさとが灰色に満ちたあの瞬間。
 僕は彼女の手を……。

 墓石の上に、しんしんと桜の花びらが降り積もっていく。まるで雪のように。
 彼女を奪った春に咲く、淡い色の花。僕はそれが嫌いだった。だって、それはまるで、あの日の灰のようだから。
 散って降り積もっていくその花びらは、容赦なく僕の肺や心臓や、臓器全部に溜まっていって窒息させるのだ。
 目の前に落ちた花びらを、鬱陶しいと払い除ける。
 彼女を汚すな。彼女を穢すな。彼女を、奪うな。
 頭がずきずきと痛み出し、本来ならあったはずの未来が僕に牙を剥いた。
 桜が好きだった彼女と、ここよりもっと桜が綺麗な公園でお花見をして。知らない町に二人で旅行に行って、遊園地でデートして。夜の海辺を散歩して、キスをしたりして。……そして、結婚して夫婦になる。
 いつか、全部叶うと思っていたのに。
 彼女はもう、どこにもいない。
 今だってほら、このあたたかな風に乗って、彼女のはつらつとした声が聞こえるような気がするのに。
 振り向けば、なに泣いてるのと呆れたように笑う彼女がいるような気がするのに。
 期待を抱いて振り向くけれど、そこには盛りを終えた桜の木がただ静かに立っているだけ。
 指先が冷たくなっていく。
 本当はずっと分かっていた。頭では分かっていたけれど、分かりたくなかった。
 彼女はもうどこにもいない。この石の下にだっていない。
 そう理解しようとする自分を受け入れたくなくて、僕はずっと彼女を探すふりを続けていた。心のどこかで、いつかまたひょっこり笑顔で僕の前に現れるんじゃないかと信じていた。
 ほのかに花の香りがする風が吹く。彼女が大好きだった、花の香り。
「……帰ってきてよ」
 もう一度、僕の前に。
 泣き方さえ忘れた僕は、唇の隙間からただ情けない嗚咽を漏らした。
 そのときだった。
「――お兄ちゃん」
 ハッとした。
 振り向くと、そこには先ほどの女の子が立っていた。心配そうに僕を見ると、てくてくと僕の前までやってくる。
「きみ、は……」
 女の子はまるで陽だまりのような笑みを浮かべ、僕を見下ろす。その笑みはとても小学生のものとは思えない大人びたもので。
 ランドセルに着いたお守りの鈴が鳴る。その音で、我に返った。
「どうしたの、学校は? さっきの男の子は……」
 女の子はなにも言わず、ただにこにことしている。
「…………」
 言葉が途切れ、静寂が落ちた。 
 そこで、僕は初めて女の子の服装に違和感を覚えた。
 女の子は、淡いオレンジ色のワンピースを着ていた。肩のところが花びらのようにひらひらとしていて、スカートの裾も同じように軽やかなデザインをした、まるで春をまとうようなワンピース。
 目の奥がつんとした。
 それは、子供の頃彼女がよく着ていたワンピースによく似ていた。
「さく……」
 僕は、無意識のうちに彼女の名前を呼ぼうとしていた。
 すると、女の子は僕の頭にぽん、と手を置くと、そのまま子供をあやすように撫で始めた。
 不思議な静寂の中、女の子が言った。
「よくがんばったね」と。
 その瞬間、この七年ずっと体を燻り続けていた感情が爆発した。同時に両の瞳から、堪えていた涙がぼろぼろと溢れていく。
「桜……桜、桜」
 彼女の名を呼ぶ。何度も、何度も。
 女の子はなにも言わず、ただ僕の頭を撫で続けている。
「桜っ……」 
 もう一度だけでもいいから、会いたかった。声が聞きたかった。
「ごめん……助けてやれなくて、ごめん……見つけられなくて、ごめん……」
 ずっと言えなかった心の叫び。
 うまく思い出せないのに、脳に染み付いたままの思い出や耳の奥に残る彼女の声の残響。
 感情が溢れ出る。
 十五歳のときの初恋は、今も色褪せぬまま。
 僕は、見知らぬ女の子に頭を撫でられながら、桜の墓石の前で熱にうなされるように泣き続けた。
 
 澄み渡る空の下。見晴らしのいい桜並木の丘。僕をからかうように降り積もっていくその花びらは、桜が愛した淡い色。
「…………お兄ちゃん」
 顔を上げると、そこには可愛らしい女の子。
「君の名前は?」
「はる」
 可愛らしい名前だ。
「はるちゃん、君、どうしてここに?」
「だってさっき、お兄ちゃん泣いてたから」
「泣いてた……?」
 おかしい。泣いてはいなかったはずだ。泣いていたのはむしろ……。
「大人は、はるが泣きそうになると、泣くなって言うの」
「うん?」
「でも、お兄ちゃん、言わなかったから。お兄ちゃんも、転んでるんでしょ」
 転んでる。
 息が止まる。重いなにかで頭を殴られたような衝撃を受けた。
 そうだ。僕は、七年前に転んだまま。まだ一人で立ち上がれていないのだ。
 自分でも気付かなかったことに、こんな小さな子は気付いていた。そして、僕を心配して戻ってきたのか。
「そっか……」
 子供というのは、すごいな。
 まっすぐに墓石を見つめて、僕は吐息混じりに呟いた。
「お兄ちゃんね……ここで眠る彼女のことが大好きだったんだ」
「うん」
 はるちゃんはそっと僕の隣にしゃがみ込んだ。
「直接、彼女に言うことは叶わなかったけど、本当に大好きだった。今もずっと、変わらない」
「うん」
「でも……もうそろそろ……お別れしないとね」
 立ち上がらないと。ちゃんと、自分で。ずっと下を向いていたら、きっと僕はこの季節を、この花を好きになれないままだから。
 顔を上げると、生命に満ち満ちた大きな木がある。
「はるが見ててあげる」
「うん、頼んだよ」
 この七年間、僕は彼女にありがとうと言えないままでいた。
 だってこの言葉を言ってしまったら、桜と永遠にさよならをすることになるから。臆病だった僕は、それがどうしてもできなかった。
「桜」 
 君が好きだった花が舞い散るこの場所で。
 僕は、桜と決別をする。
「待たせてごめん」
 叶うなら、君にはもっと違う言葉を伝えたかった。
 君の未来ごと抱き締めたかった。
 君といつまでも、手を繋いで歩いていきたかった。
 それでも、僕はまだ生きているから。
 この先も、彼女がいない未来を生きていかなくちゃいけないから。
 この旅が終わったその先でまた、会えますようにと願いながら、言葉を紡ぐ。
「今まで、ありがとう……」
 そっと、愛を囁くように告げる。
 すると、目の前にふわりと桜色が落ちた。
「これ、あげる」
「え……」
 はるちゃんが、僕にカスミソウを差し出していた。
「自分で立って偉かったから」
 はるちゃんはにっこりとしながらカスミソウを差し出すと、元気よく駆けていった。
「……ありがとう……」
 手の中で揺れるカスミソウを、そっと抱き締める。
 背中に当たる太陽のぬくもりが、まるで桜に優しく抱き締められているかのようで、僕は胸がぎゅっと切なくなった。