履き慣れないハイヒールのせいで、爪先が痛み、かかとには靴擦れ。この世の終わりのような気持ちで、華夜(かよ)は足を引き摺るように歩く。
 午前二時を過ぎて、終電はとっくに行ってしまった。ビジネス街の広い車道は昼間の喧騒が嘘のように、車の一台も通らない。

 人目がないのは幸いだ。大量に流した涙のせいで化粧はボロボロ。飲みすぎたシャンパンのせいで、すでにむくんで顔はパンパンだ。

 美容院で整えた礼装用の髪型も、とっくにグチャグチャ。さらにはポツポツと雨が降ってきた。今日の結婚式に参列するためだけに買ったワンピースが水玉模様に濡れていく。
 もう、涙も出なかった。

 華夜は足を止めてあたりを見回した。雨宿りできそうな場所などない。このあたりは昼間もランチ難民が遠くまで歩いていかなくてはならない、飲食店激減地区だ。カフェもバーもありはしない。
 せめて手に持つブーケが濡れないように、前かがみになって花をかばい、自分の背中で雨を受け止めた。

 ふと、どこからか嗅ぎ慣れたにおいがした。とんこつラーメンだ。とんこつスープの少し甘いような濃厚な香りと、小麦麺を茹でているとき特有の香ばしさのある湿気の香り。

 披露宴でも二次会でも、ほぼアルコールしか入れていなかった胃が、ぐううううっと不満げに鳴る。
 においの元を探して鼻をくんくんと動かす。雨の湿気にも負けず、とんこつラーメンのにおいは華夜を導いた。

 ガソリンスタンド横にある地方銀行の前の歩道。いやに広いその歩道に、ぽつりと一軒、屋台が立っていた。
 暖簾から漏れ出る黄色の灯りが暖かそうだ。華夜はためらいながらも屋台に近づいていった。

「いらっしゃい!」

 まだ暖簾を上げないうちから、中年男性の声が聞こえた。華夜はびくっとすくんで、暖簾にかけようとした手を止めた。

 ここ、博多の街は屋台で有名だが、福岡産まれ福岡育ちであるのに、華夜は一度も屋台に入ったことがない。
 屋台にいるのは酒癖の悪い酔っ払いだという思い込みがあるのだ。

「飲まんでも、雨宿りだけでもしていかんね。春って言うたって今夜は冷えるけん」

 久しぶりに聞く博多弁だ。華夜が務める外資系の銀行では方言で話す人はいない。華世が産まれるまで他県で暮らしていた両親は方言を忘れてしまっている。
 大好きだった祖父が話すコッテリした博多弁を思い出した懐かしさに背中を押されて、華夜は暖簾をくぐった。

 コの字型の木製のカウンター、その上に寿司屋で見るような冷蔵のガラスケースがある。ケースの横にはおでんの四角い鍋。よく煮込まれたダシとネタの旨味が絡まりあった香りが立ち上る。

 カウンターを囲む座席は木製のベンチタイプで、客が多ければ肩が触れあうだろう。

「遠慮せんで、座りんしゃい。そん席が暖こうして、良かばい」

 まだ三十代ほどだろうか。若く見えるのに胡麻塩頭をした店主が顎で指し示したのは、おでん鍋の前の席だ。
 華夜は勧められるままにおでんと対峙した。良い香りに、お腹が豪快に鳴る。店主に聞こえただろうか、恥ずかしくてうつむく。

 うつむくと、もう流れるものもなくなったと思っていた目から涙が流れそうになった。ぎゅっと目をつぶって涙をこらえる。

 コトンと小さな音がした。目を開けると、おでんの大根がのった小皿が置かれている。

「おっちゃんのおごりやけん、食べて温まりんしゃい」

 おごりと言われても申し訳なくて、ぼんやりと店主を見上げていると、割り箸を差し出された。小さく頭を下げて割り箸を受け取る。

 ほかほかと湯気が立つ大根に割り箸を当てると、力を入れるほどもなくホロリと解けた。一口大に切って、口に運ぶ。大根はアツアツで、思わず口を小さく開けた。
 はふはふと空気を口の中に送って熱を冷ます。そうしていてもいつまでも冷えなくて、熱さのせいで涙が出てくる。

 眼の前に、透明な液体が入ったグラスが置かれた。

「日本酒、イケる口やろうか?」

 コクコクうなずくと、店主は嬉しそうに笑って「口を冷やすには、ひやが一番たい」と、グラスをずいっと華夜に差し出した。

 急いでグラスを取って日本酒を口に含む。常温の日本酒はとろりと舌の上を転がって、華夜を熱から救ってくれた。

「……おいしい」

 思わずこぼれた声に、店主は満足そうに胸を張る。

「庭のうぐいす、いう酒たい。福岡の良か日本酒やけんね、季節にも合うけん良かろうや」

 華夜はうなずいて、もう一切れ大根を切り取る。今度は、ふうふうと息を吹きかけて冷ましてから口に入れる。
 やわらかくとろけてしまう前に日本酒を一口。日本酒のまろやかさが、おでんの味をより深めてくれる。大根はあっという間になくなった。

「娘さん、タオルば貸そうか? せっかくのきれいなドレスが雨でシトシトやないね」

 店主の好意に華夜は首を横に振ってみせた。

「もうこの服は着ないからいいんです」

 雨に濡れたワンピースのせいで冷えた体は、大根と日本酒のおかげでかなり温まった。こわばっていた顔の筋肉も、やっとほぐれたようだ。
 店主に改めて頭を下げる。

「こんなに遅い時間にお邪魔して、すみません」

「なんのなんの。うちは二時から四時までの営業やけん。俺にとってはまだ宵の口たい」

 そう言いながら、店主は自分もグラスを取って日本酒を注いだ。
 屋台は夕方から0時ごろまでの営業だろうと思っていたが、深夜のみ営業している店もあるのかと華夜は感心して店内を見渡した。

 屋根から細めの縄で吊り下げられた黒板に「きょうのオススメ」という文字が見える。
 ごまさば、ふきのとうみそ田楽、若竹煮、桜餅、ウドの酢味噌和え。
 春らしいメニューだ。1つを除いて。

「あの、ごまさばって、夏が旬の魚じゃなかったですか?」

 店主がニヤリと笑う。まるでいたずらをしようとしている子どものようだ。

「博多のごまさばって言うたら、さばの胡麻醤油漬けのこったい。さばの種類はマサバを使うと」

「そうなんですか」

「そうなんですよ。さばの種類を知っとうやら、娘さんは魚に詳しかとね?」

 華夜は視線をさまよわせてうつむいた。

「友達が漁師で……」

「ほお、そうね。そりゃ体力のいる仕事ば、しなさっとう」

 こくりとうなずいて、華夜は深い溜め息をついた。

「今日、その友達の結婚式だったんです」

「そうね」

 華夜は左手に握ったままだったブーケをそっと店主に差し出した。

「いりませんか? ブーケ」

 しばらく無言の時があり、華夜はいたたまれなくなってそっと視線を上げた。店主は華夜の言葉が気に入ったのか、楽しそうに微笑んでいる。

「それは花嫁さんのブーケやろうもん」

「はい、そうです」

「娘さんは結婚しとうと?」

 華夜は黙って首を横にふる。店主は笑顔を崩さない。

「花嫁のブーケを受け取った娘さんが、次の花嫁になるって話ば、聞いたことあるばってん」

「私は結婚しませんから……」

 華夜の目から涙がぼろぼろとこぼれだす。店主は優しいまなざしを華世に向け、ブーケを受け取った。

「お友だちば、好いとうとね」

「大好きでした」

 鼻声になってしまった華夜に店主はティシューの箱を差し出す。

「今はもう、好いとらんとね」

 華夜は、ティシューを一枚取って鼻をかむ。それでも鼻水は止まらず、二枚、三枚とティシューは減っていく。店主はその間、ずっと手を伸ばして箱を持っていてくれた。

 鼻が真っ赤になった頃、華夜はやっと口を開いた。

「大好きです。あの人以外を好きになんてなれません。あの人は私に幸せになってって言ったけど」

 店主はブーケの中の葉を一枚取って口に入れた。

「うん。新鮮やね」

 華夜は驚き目を丸くした。

「それ、食べられるんですか?」

「そうたい。ぜんぶハーブたい。これはカモミール。こっちはセージ、タイム、ローズマリー。ハーブティーやら料理に使えるばい。飾るだけじゃもったいなか」

 ほうっと小さな溜め息のような、感嘆したような声が華夜の口から漏れ出た。

「なんだか緑色ばかりだとは思ってたけど……」

「あんたさん、食いしん坊やろ」

 店主は優しい表情でブーケを受け取り、リボンを解いてハーブを種類別にわけていく。

「漁師やっとる友達の手料理をごちそうになったりしたんやなかね」

 大きな黄色の花芯を持つ小さな白い花を摘んで、日本酒を燗付けするための『ちろり』という器具に入れた。その上から保温ポットに入っている熱湯を注ぐ。

「カモミールの花言葉ば、知っとうね?」

 胡麻塩頭の男性の口から花言葉という単語が出てきたことに驚いたが、失礼な感想かもしれない。
 それを悟られないように二度、瞬きしてから華夜は首を横にふる。

「苦難の中の力って言うとよ。漁師ったら厳しか仕事やろうけん、あんたが力になっとったっちゃろう」

「私なんか、なんの役にも……」

「娘さんは、どんな仕事ばしとると?」

 突然の話題の方向転換に驚いて、華夜は、また目をしばたたいた。

「営業をしています」

「ほう、なにを商っとうと?」

「金融商品です」

 くわしい説明は守秘義務に抵触するかもしれないと、言葉少なに答える。

「銀行にお努めなと。不景気で営業も大変やろう」

 いたわるような眼差しで気を配ってもらえて、少しホッとした。

「そうですね。疲れます」

「娘さんの苦難の中の力は、なんね?」

 華夜は答えることが出来ない。長年、蓋をして誰にも告げたことがない本当の気持ちを、すべて紐解いて打ち明ける勇気が出なかった。

 ちろりから柔らかな湯気が立ちのぼっている。店主は耐熱らしいガラスのコップに、ちろりから液体を注ぐ。うっすら黄みがかった液体は、灯りを受けてキラキラ輝いている。

「きれい……」

 店主からコップを受け取り香りを嗅ぐ。花というより草原を思わせる爽やかさがある。どこか気持ちを揺さぶられて、ほぐれていくようだ。
 口に含むとじわりとしたやわらかさが舌に残った。

「美味かね?」

 美味いかと問われると、素直にうなずける味でもない。だが、確実に不味くはない。

「……優しい味です」

 店主は顔いっぱいに笑みを浮かべてうなずくと、屋台の裏に回って大きなジュラルミンケースを持って戻ってきた。
 昔の任侠映画で悪い取引をするときに使っていたようなやつだ。

「みんなには絶対秘密やけんね」

 小声で囁き、店主はゆっくりと、ジュラルミンケースのハンドルの両端に付いている鍵を開ける。跳ね上げ式の引掛け錠だ。パチンと硬質な音を立てて、ケースは開封された。華夜は思わずゴクリと唾を飲む。
 店主はそっとケースを開けた。もういちど、重ねて言う。

「秘密やけんね」

 コクコクとうなずく華夜を見つめたまま、店主はケースを華夜の方に向ける。いったい、どんな秘密が入っているのか。あるいはすごいお宝か。

 緊張しつつジュラルミンケースを覗き込むと、たった一通の封筒が入っているだけだ。

 しかし、ジュラルミンケースに入れて鍵を掛けるほどだ。よほど大事なことが書いてあるに違いない。

「読みんしゃい」

「…………」

 緊張して、返事ができず店主を見上げた。店主はしっかりと華夜の目を見つめ、おごそかにうなずく。

 手が、小刻みに震えている。なぜこんなに緊張するのだろう。とてつもない秘密を目にしてしまいそうだと思う。怖いものを見てしまいそうな。だが、それを知りたくてたまらない。

 店主がもう一度うなずくと、呪縛から解放されたかのように体が動いた。さっと封筒を取り上げ、封を切る。一枚の便箋を取り出し、開いて、動きが止まった。

紗友(さゆ)ちゃん……」

 便箋には懐かしい親友の文字が連なっていた。もう二度と会うまいとまで考えていた想い人の文字が。

「……なんで?」

 すがるように店主を見上げると、店主は黙ってカモミールのお茶のお代わりを華夜のコップに注いだ。
 口を開く気はないようだ。華世も聞きたいという気持ちはすぐになくした。

 なにもわからない不思議な気持ちのまま、魔法のように現れた紗友の気持ちを知りたかった。

 手紙を読み終えて顔を上げる。世界が輝いているように感じた。

 静かに雨が降っている。おでんの鍋からふわりと香る湯気が立つ。ワンピースは生乾きだが、なぜか誇らしい気持ちになった。

「この手紙、もしかしてブーケの中にあったんですか?」

「そうたい」

 店主の素敵な手品を見せてもらった。ジュラルミンケースに手紙を隠す早業だ。
 自然に笑顔が湧いてきて、華夜はコップのカモミールティーを飲み干した。

「ほかのハーブもお茶にしょうか?」

 問われたとき、華夜のお腹がまた鳴った。照れ笑いが浮かぶ。

「お腹空いちゃいました」

「そげんなら、ハーブば使った料理にしょうかね」

「お願いします」

「あいよ」

 店主は元気よくキビキビと動き出した。

 屋台の隅に置かれた、大きくてゴツくて有能そうなアイスボックスから、砕氷に埋もれている大きなサバの半身を取りだす。

 4切れに分けて、皮目に切り込みを入れる。そこにローズマリーとタイムを詰め、
オリーブオイルを皮表面に塗る。

 焼き鳥を焼くのであろう、炭火にかけられた鉄柵に皮目を下にしてのせる。
 じゅうっと小気味良い音とともに、すぐに魚の脂が焼ける芳しいにおいが漂いだした。

 上側になった身にもオリーブオイルを塗り、みじん切りにしたタイムを散らす。

 ハーブを使った魚料理は紗友の得意とするものだった。
 いや、過去形ではない。今も、これからも、紗友は自分で獲ってきた魚を自分で捌き、振る舞うだろう。
 漁師仲間に、ご近所の仲良しに、誰よりも旦那さんに。

 とても優しそうな旦那さんだった。紗友がいつものろけていた。どんなに良い人なのかと。そのとろけるような紗友を見つめ続けていたのだ。
 本当は華世も、新郎の人柄を、見た目以上に知っていた。

「ほい、サバのハーブ焼き」

 ぼうっとしているうちに、あっという間に料理がやってきた。屋台に沿うような頑丈な皿に、溢れんばかりにサバが盛り付けられている。

 サバの香ばしさ、ハーブの優しい香り。つばが湧いてきた。

「いただきます」

 両手を合わせて箸を取り、サバの皮を押し下げると、パリッとした手応えと優しくて爽やかなハーブの香りが立ち上る。
 ふっくらした身とともに皮も切り取って口に入れる。

 パリ、サク、ふわり、と噛みすすめて、あっというまにサバはなくなった。
 ハーブの香りがひっそりと残り、口の中に草原が広がったかのようだ。サバの脂気を溶かして、澄みきった旨味にしている。

 ふう、と満足の溜め息が出た。カモミールティーを飲み干して、空のグラスを目の高さに挙げて電球の光を透かし見た。

 昼の光で満ちていたチャペルが眩し過ぎて辛かったのが嘘のようだ。今やっと、光の中に新郎新婦の姿がきらめいて見える。
 なんて幸せで、なんて美しい。

「ハーブの香り、私、本当に好きです」

 店主は笑顔でうなずくと、残ったハーブを小さなブーケにしてリボンで結び、華夜に渡した。

「幸せになりんしゃい」

 紗友の手から弧を描いて放たれたブーケを、華夜は満たされた気持ちで抱きしめる。
 ふわりと、優しい心のこもったハーブの香りが華夜を包み込んでくれた。