沙汰の事情を通すために、田村は先に主管室へ向かった。

 腹は任務に支障のない程度に満ちてはいるが、それで残り半分のハンバーグへの未練がなくなるわけではない。

 でもまあ、またあいつの料理にありつけるならばいいか。

 そんな思考を巡らせながら聴取室へと向かう最中、縄で結わいた先から小刻みな揺れが届く。
 見てみると、捕縛した先ほどの男が肩を揺らして笑っていた。

「何を笑っている」
「はは……いやあ、お噂通りだ。どうやらあの娘、よほどうまいことあなた方に取り入っておられるようですなあ」
「は?」

 ここは聴取室ではない。
 本来罪人の言葉に耳を向ける場所ではないはずが、龍彦はぴたりと歩みを止めた。

 背中を丸くした男は、にたりと龍彦の顔を覗き見る。

「我々街の者の間では毎日様々に噂話が流れまする。その中でも最近特に面白いものがございましてな。みたしや食堂の満乃嬢が、新入りの若い警察官を番犬として可愛がっていると」

 番犬、というのはどうやら自分のことらしい。

「そいつはあいつも、随分と生まれの悪い犬を選んだことだな」
「……お気になさらないので?」
「あいにく俺にそういった矜持は持ち合わせていない」

 もとより番犬のような仕事で食いつないでいたこともあり、犬呼ばわりされること自体は特段気に障るものもなかった。
 そんな龍彦を見て、男はつまらなそうに舌打ちをした。

「けっ、こりゃあまた随分とあの女に入れ込んでいると見える。あの方が留守にしている間の代わり役とも知らずになあ」
「代わり役?」
「神無月副長官どのだよ。あの方とあの娘は蜜月の仲にある。この辺りの民衆の間じゃあ有名な話さ」
「……」

 神無月副長官。
 瞬間、満乃のために食堂を訪れてほしいと告げた、柔らかな微笑みが脳裏に過った。

「あの方は、人知れず夜にあの食堂を訪問しては人払いをして、娘と二人の時を過ごしている。夜な夜な行われる男女の密会なんざ、することはひとつしかあるまいさ」
「……」
「お前はそんな副長官殿が遠出で留守にするときの、ていのいい番犬だ。世間知らずで学のなさそうなお前なら適役と考えたんだろう。あの娘を他の男どもから護らせるのには、まさにうってつけだろうとなあ!」

「──朝川!? 何をしている!? やめろ!」

 気づけば龍彦は、男に拳を振り上げていた。
 感情を乗せた拳を振るうのは、随分と久しぶりだった。

 戻ってきた田村や上官に取り押さえられたが、その時はすでに数発の鉄拳を男にめり込ませた後だった。



 龍彦の行為は過剰暴行と見なされ、三日三晩の謹慎を言い渡された。

「いやー驚いたのなんのって。事務に話を通して上官とともに戻ってみたら、捕縛された男がタコ殴りにされてるんだもんなあ」
「……その話はもういい」

 憮然とした顔で大講話室に復帰した龍彦を、同僚たちが取り囲む。

 日々塀の中で暮らし規律を重んじる警察官らにとって、今回龍彦が起こした不祥事はいい話のタネになるらしかった。不愉快極まりない。

「んで? お前がそこまで激高した理由はなんなんだよ朝川。田村の話じゃあ、捕り物を終えたときはすでにお前も冷静に対処していたらしいと聞いたぞ?」
「ああ。聞いても無駄無駄。だってこいつ、その場で上官に散々問いただされたのに、一向に口を割ろうとしなかったもんな」

 その頑なな態度も相まって、龍彦の謹慎が決まったようなものだった。
 同席した田村が何とか口添えしようとしたものの、当の本人がその態度だから事態は好転するべくもなかった。

「どうせあれだろ。みたしや食堂の美人店主に迷惑をかけた罪人が許せなかったんだろう?」
「確かにあの娘さんは、いい意味でも悪い意味でも目立つお方だからなあ」
「お前みたいな奴がそばにいる方が、彼女にとっても安心……」
「違う!!」

 だん、と鈍い音とともに、龍彦の拳が机にめり込む。

 周囲を囲んでいた同僚たちは、揃って目を見合わせた。

「……悪い。でももう、あいつの話はするな」
「っ……、わかった。悪かったよ」
「俺たちもちょっとからかいすぎたな。申し訳ない」
「ほら、そろそろ上官がいらっしゃるぞ……!」

 早口で詫びを残していく同僚たちが、散り散りに自分たちの席に去って行く。
 一人隣の席に残った田村だけが、じいっと龍彦の横顔を見つめていた。

「……なんだ」
「いや。お前さんと初めて逢ったときは、そんな顔は見せなかったなあと思ってな」
「そんな顔?」
「感情を剥きだしにする顔。お前さんがそんな顔を見せるのは、敵襲や鍛錬の時くらいだっただろ?」

 にぱ、と屈託のない笑顔を見せると、田村は教壇のほうへと向き直った。

 何でそんな嬉しそうなんだ。
 こちらはその感情のせいで三日もろくに寝付けないでいるというのに。

 対戦で勝ち負けを決するのは簡単だ。
 新たな強者を見つけたときの高揚感は心揺すぶられるし、ぞくぞくと生きた心地がする。

 それなのに、あのときの自分の衝動は今まで感じたことのないものだった。