「おい朝川! お前昨日、門前食堂の満乃さんとお近づきになったんだって?」

 単身寮に続く廊下の一角で、龍彦はいつの間にか同僚たち数名に囲まれていた。

 赴任してまだ一月と経っていない。
 加えて皆着用するのは同じ紺色の警察制服のため、龍彦はいまだに同僚の名前を覚え切れていなかった。

 とはいえ、返す答えは同じだ。問題ない。

「男客を投げ飛ばしていたところに出くわしただけだが」
「でもお前、さっそく名前を覚えてもらったんだろう? 羨ましい!」
「あそこが出している食べ物は、どれも本当に美味しいんだよなあ!」

 満乃が営む件の食堂は、この警察官寮に住まう者にも人気が高いらしい。
 月ごとに払われる給金を携えては、足繁く食堂に通う者も珍しくないのだという。

「この寮にいれば食事に困ることはないだろう。俺には理解できない」
「ははっ、まあ確かにここにいれば最低限三食の弁当は配給されるけどさ。それとはまた別だろ?」
「そうそう。あんな可愛らしい人に会うことができるなら、口実はどうでも」
「男だらけのむさ苦しい生活の中で、あの人はまさに女神だからなあ!」
「女神ねえ」

 確かに、無礼者に容赦なく食ってかかる姿は、女神のように凜として見えなくもなかった。
 それでも、わざわざ給金を削ってあの食堂に通うかといえば、答えは否だ。

「俺は、腹を満たすものがありさえすればそれでいい」
「勿体ないなあ。せっかく満乃さんと繋がりができたっていうのに」
「なんだなんだ。朝川はああいう人は趣向が違うってことか?」
「別に、そうは言っていない」

 正直に言えば、なよなよと非力な者よりも満乃はよほど魅力的に思える。

 龍彦と同世代であの食堂を切り盛りしていることからも、その辺りの娘とは内に抱く胆力が違うのだろう。
 もしかしたら、過去に色々と苦労を重ねてきたのかもしれない。

「朝川も血の気が荒いが、結構整った綺麗な顔をしてるからなあ。満乃さんとも、もしかしたら、もしかするかもしれないぞ?」
「へえ……そりゃあ聞き捨てならねえな。誰が綺麗な顔だって?」
「うわっ! ごめんごめん! 謝るからその拳は収めてくれ頼む!!」
「でもなあ、ここだけの話、ここの上官たちも満乃さんにはご執心という話もあるからなあ」

「おお。なんだなんだ。色恋の噂話か?」

 廊下に響いた柔らかな声に、集っていた者の身体が軒並みびくりと揺れる。
 ただ一人、龍彦だけは囲まれた同僚の隙間からその人物を見定め、はっと目を煌めかせた。

 龍彦らとは色味が異なる漆黒と金の装飾が施された制服を纏った、すらりと長身の美丈夫だ。

 さらりと艶が見える黒髪に、優しく柔和な表情。
 優男とも思える外見から頭脳明晰な参謀との印象を持たれがちだが、実のところサーベルの腕のみならず体術も極めている完璧超人。

 神無月(かんなづき)副長官。
 その肩書きの通り、この広大な警視庁施設の上層部第二位につく人物である。

「神無月副長官! 地方から戻られたので?」
「ああ、今し方な」
「では! 今からぜひ鍛錬を付けてください!」
「いいだろう。では四半刻後、東館の道場に来い」
「ありがとうございます!!」

 通常、警視庁を統率する上層部の人間は、滅多なことで末端の警察官と触れあうことはない。
 ましてや、このように気安く会話を持つことなど、下手すれば厳重注意以上の懲戒対象だ。

 その中でも神無月は、今でも時に教壇に立ち、時に稽古を付ける。
 自ら気安い態度で若人と語らうその人物は、近代類を見ない変わり者と評されていた。

 大講話室を去って行った神無月に最敬礼で見送る龍彦を、同じく最敬礼で見送った同僚たちは温い視線で見つめる。

「なんだお前ら、その視線は」
「いや。なんていうか」
「お前はあれだな。色恋よりも鍛錬なのな」
「当然だろ」

 龍彦が警察官に志願したのは、純粋に強さを追い求めてのことだ。

 自分の粗暴さも気の短さも重々承知している。
 ごく稀に人に感謝されてきたのは、この力を役立てたときだった。

 それならば、強さを磨きさらに高みを目指す。
 ただそれだけを叶えるために、自分は今ここにいるのだ。