大正警視庁正門前みたしや食堂

 ようやく自由な時間を得たときには、翌日の日暮れ時になっていた。

 日が沈んだ山の際にはうっすらと橙色が残るのみで、頭上には白い星がちかちかと瞬いている。

 今私服姿の龍彦が歩いているのは、正門とは反対側にある大きな商店通りだった。
 通りの端にはまだ設置されたばかりと聞く電灯が点々と灯り、夜とは思えない街の風景が浮かび上がっている。

「おおっ、こりゃあ珍しい、龍彦の兄ちゃんじゃねえか!」
「最近忙しそうでなかなか顔を見なかったもんねえ。なになに、今日は何をお探しかね?」
「あー……いや。別に何を探してるわけじゃあねえんだが」

 食堂通いですっかり顔馴染みになった者たちから、あちこちで気持ちの良い声がかかる。
 その中でもひときわ龍彦を気に入っているらしい商店の婦人が、どれどれとばかりに通りまで出てきた。

「見たところ、慣れない買い物で右往左往していたんじゃない? よければおばちゃんが案内するわよー。龍彦くん、今日は何をお探しで?」
「これと決まっているわけじゃあない。ただ、若い女に詫びを入れたくて……その気持ちになる品があればと」
「……っ!!」
「は?」

 買い物に不慣れな龍彦が素直に告げた瞬間、商店の婦人は口を覆い、声にならない叫び声を上げた。
 それはどうやら周囲の者も同様だったようで、妙な光景に龍彦の目が剥く。

「どうした。霊かあやかしでも見たような顔をしているぞ」
「いいやいいや! 別に何にも問題はないんだよ! そうかねそうかね! しばらく顔を見ないと思っていたが、立派に痴話喧嘩をする仲にまで……ああ、何でもない何でもない!」
「はあ」
「若い女子が喜ぶものだったね! それなら一押しはやっぱりあれかね。最近うちでも仕入れた代物で、若い子にも人気がある……」

 早口でまくし立てる婦人に首を傾げるも、案内自体は非常に助かった。

 何せ龍彦は、誰かに贈り物をしたことなど生まれてこのかた経験がなかった。
 ましてや、若い女子にものを贈ることなど。

「世話になったな。俺にはこういったことはからっきしだったから、感謝する」
「いいのよお。贈るものもそうだけれど、やっぱり大切なのは気持ちのほうなんだから! ものなんてしょせんはついでよ、ついで!」
「そういうものなのか?」
「そうよお。ささ、無駄話が過ぎたわね。早くそれを持って、満乃ちゃんのところに行ってらっしゃい!」
「ああ。ありがとう」

 ふたり揃って両手を大きく振る商店夫婦に、龍彦はぺこりと頭を下げて露店通りをあとにした。

 それはそうと、何故渡す相手が満乃とばれていたのだろうか。
 一瞬疑問に思ったが、まあ深く考える必要はないだろう。

 夜でも賑やかな喧噪を離れ、笹の葉が風に揺れる横通りに入る。
 その奥には人々が住まう家屋が並んでいるが、電灯のない通りに人影は多くなかった。

 突き当たりを曲がれば、満乃の営むみたしや食堂が現れる。

 自分の派手な勘違いで、満乃を傷つけた。
 酷い言葉を浴びせて、伸ばされた手を叩いて、涙を流させた。

 そんな自分がのこのこ現れて、彼女はいったい何を言うだろう。

 途端、手にしていた紙袋が妙に重たく感じ、進んでいた龍彦の歩みがぴたりと止まった。

「っ、くそ……」

 臆病風に吹かれる自分が情けない。

 全ては己の弱さが招いたことだ。
 どんな言葉でもどんな態度でも、甘んじて受けなければ。

 そもそも、あの男の言うことを鵜呑みにしたのが間違いだった。
 あの男、まるで龍彦と満乃の交流をはなから調べ尽くしていたかのような言い振りだったのだ。

「……ん?」

 その時だった。
 家屋が軒を連ねる通りから外れた細道。
 その先から、風が揺らす草木の音とは違う、何者かの物音が聞こえた気がした。

 感覚を一気に研ぎ澄ます。

 子どもの頃から野宿が当たり前だった龍彦は、夜目が利くのだ。
 かっと見開いた瞳で通りの先を凝視すると、この辺りでは見かけない男二人が物影に潜んでいるのが見える。

 不審な男たちに気取られないように、龍彦はそっと距離を詰めていった。

「あの御方の企みの決行日は、確か今日だったかあ?」

 次第に、夜風に紛れた男たちのやりとりが聞こえてきた。

「あの御方も、随分とまあ執着しているようだなあ。話には、警察官の若造がなかなか離れなかったらしいが」
「手下を使ってうまい具合に距離を取らせたらしい。あとは取引で手に入れた例のあれを使うだけだ」
「ひひっ、清廉潔白な女主人も、あれの前にどんな艶顔を見せるのか……俺らもひと目ご尊顔を拝みたいものだなあ?」
「なんていったっけ? その娘の名は」
「ああ、確か──……」

 その直後、口にされた者の名に、大きく目を剥く。

 男たちが何かの気配にこちらを振り返ったときには、そこにすでに龍彦の姿は消えていた。