大正警視庁正門前みたしや食堂

 久しぶりの塀の外だった。

 先日詐欺行為で捕らえた男が、根城にしていた場所を吐いたために強襲することになったのだ。

「これで全員だな! 引き上げるぞ!」
「朝川、急に補充をかけて済まなかったな! いい働きをしてくれた!」
「ありがとうございます」

 いつもは龍彦の好戦的な面に苦言を呈している上官も、今回ばかりはご満悦のようだ。

 何せ今回の根城には、最近街に出回っている薬物の情報や売人の手がかりが残されていたのだ。
 きっと上からの評価も期待できるのだろう。

 評価などに興味はなかったが、この招集に呼ばれたことは龍彦にとっても有り難かった。

 最近の自分は、もやのような有象無象に囚われすぎだ。
 敵と向き合うその瞬間だけは、何にも囚われることなく頭を空にできる。

「今日は私の馳走だ! 正門前の食堂に立ち寄るから、何でも好きなものを頼むがいい!」

 通りの中央を闊歩しながら、上官がにこやかに告げる。
 その言葉に部下たちはこぞって歓声を上げ、龍彦だけがはっと息を呑んだ。

 正門前の食堂と言われれば、ひとつしか思い当たらない。

「上官。申しわけありませんが、俺は辞退します。残党を聴取する手筈をしますので」
「なあに言っている。今回の捕り物の功労者は君じゃあないか! いつも厳しいことを言っているが、今夜は無礼講だ! もう食堂にも連絡は入れてある!」
「連絡って……」

「あっ! 皆さん! お疲れさまです!」

 星が瞬く夜道の先に、大きく手を振る人影が見える。

 目を凝らすまでもなくわかる、満面の笑みを浮かべた満乃の姿だった。

「満乃ちゃん、久方ぶりだね。今夜は若い者たちに振る舞わせてもらうよ」
「いつもご贔屓にありがとうございます! 腕によりをかけて、最高のお料理を作らせていただきますよ!」

 嬉しそうに目尻を下げる上官を筆頭に、部下たちも一様に笑みを浮かべて食堂へと入っていく。
 最後に往来に残った龍彦の姿に、満乃はぱっと顔を綻ばせた。

「龍彦さん! お久しぶりですね。お元気にされていましたか?」
「……ああ」
「そうでしたか! 今日は以前食べかけになってしまったコロッケ定食になさいますか? それとも、それは別日にして今日は違うものを……」
「いらない」
「……え?」
「いらないと言っている」

 びり、と明確に拒絶する言葉に、店に入ろうとする最後尾の同僚たちの足が止まる。

 意味を図りかねた表情をする満乃に、龍彦はぎりと奥歯を噛みしめた。

「あんたの作る料理は……金輪際食べない」
「……龍彦さん? え、いったい、どうし……」
「俺に触るな!!」

 戸惑い顔で差し伸べられた手を、払い落とす。

 夜道に乾いた音が響き、龍彦ははっと我に返った。
 大きく見開かれた満乃の瞳に、徐々にゆらゆらと潤みが集まるのがわかる。

 心の臓が、抉られるような心地がした。

「こらあ! 朝川! お前という奴は、少し褒めてやった矢先に何をしでかした!?」
「っ、いいえ、何でもございません! 私が無理強いをしてしまっただけで……ご心配には及びません!」

 こちらの異変に気づいたのか、先に店内に入っていた上官が慌てた様子で姿を見せる。
 その叱責を封じたのは、快活な満乃の言葉だった。

「さあさ! どうぞ中へお入りください! 花ちゃん、皆さんのご注文を聞いて回ってね……!」

 元気に飛んだ満乃からの指示に、食堂内から花の「はい!」という返事が届く。

 どくん、どくんと嫌な心音を聞きながら、龍彦は一人その場に立ち尽くしていた。

「龍彦さん」
「……」
「どうやら私、あなたに嫌われてしまったようですね」
「……ひとつ確認したい」
「確認?」
「あんたと神無月副長が、特別な間柄というのは本当か」

 その問いに、満乃ははっと息を呑んで龍彦を振り返った。
 その反応だけで、龍彦にとっては十分だった。

「そうか。わかった」
「……」
「今まで世話になったな」
「っ……龍彦さん……」

 耳に触れた、弱々しく自分を呼ぶ声。
 反射的に後ろを振り返り、すぐに後悔した。

 頬を涙で濡らして、こちらを真っ直ぐに見つめる満乃がそこに立っていた。

 どうしてだ。
 苦しいから離れようというのに、離れることが、どうしてこんなにも苦しい。

 相反する感情がせめぎ合って、胸が張り裂けそうになる。

 それでも片方の心の叫びを振り切って、龍彦はその場をあとにした。
 これ以上留まっては、自分でも抑えられない衝動に駆られそうだった。

「っ……」

 門の中に逃げるように進み入ったあと、龍彦は頭をかき回しながらその場にしゃがみ込む。

 いつも自分に向けられていた、勝ち気な叱り顔と子どものような笑顔。
 それだけでも手一杯なのに、これ以上自分の中を占めようとするな。

「……、ちくしょう……」

 静かに涙をこぼす、満乃の泣き顔。
 初めて見たその表情は、龍彦の瞼に鮮明に焼き付いて離れなかった。