それからしばらく、先輩は駅に現れなかった。教室でのわたしの立ち位置もとくに改善することはなく、もう諦めるよりほかなかった。少しずつ上がっていた気持ちが、また一気に降下していく。気持ちの起伏に酔ってしまいそうだ。
 最悪なことに、いくら寝ても寝た気がしない。眠りが浅いからか夢すら見られなくなった。夢はレム睡眠の時にみるものだというけれど、どうやらわたしがここ最近みる夢は違うらしい。ぐっすり眠れた時にしか見られないらしいのだ。それは自分の体感覚的に、なんとなく気づくことができた。だからなおさら、夢という括りにしていいのか悩む。けれど初めから不可解な夢ではあったため、そんなものかと妙に納得してしまった。

 布団の中で目をつむっても、一向に眠気がやってこない。仕方なく、適当にかけてあったカーディガンを羽織って、部屋を出る。息を潜めて覗くと、リビングでは両親がなにやら言い争いをしていた。

(またか)

 内心でため息を吐きつつ、玄関へと足を進める。ドアを開けると、一気に夜がわたしを包み込んだ。ドアの開閉の音すら、母たちには聞こえないらしい。そのことにどこか安心して、夜の世界に飛びだした。

 夜は、街がガラッと顔を変える。
 どこまでも静かで、ヒヤリとしていて、ふとした瞬間に消えてしまいそうになる。まるで自分という存在が夜の一部になってしまったみたいだ。

 息遣いを消すほどの喧騒がない。ひそめるように息をしながら、どこへという目的地すらなく歩いた。ふと、公園の前で足が止まる。昔、よく母と来ていた公園だった。

「なつかしい……」

 キイ、キイと、ブランコを漕ぐたび音が鳴り、それが面白くて毎日のようにここで遊んでいた。ゆっくりと歩み寄って、ブランコに座る。音が鳴るのを期待して少し揺らしてみたけれど、何の音もしなかった。

 ああ、と小さく落胆する。
 わたしが知らない間に、このブランコは新しいものに替えられてしまったのだ。


 そんなの、当たり前だよね。


 いつまでも過去にこだわっていたところで、時間は止まらず進んでいく。過去に戻りたいと願っている瞬間ですら、わたしたちは前へと進んでいるのだ。

 スマホを取り出して、メッセージアプリを開く。そこにピン留めされているのは、中学時代の親友だった。

彩歌(あやか)

 何があっても彼女だけはわたしの味方だと何の根拠もなしに信じられるほど、絶対的な親友だった。クラスも、部活もずっと一緒。学校生活をともにする時間が増え、自然と休みの日も一緒にいるようになった。どうしても予定が合わない日は電話、それも無理ならメール。

 恋人と言っても通用するのではないかと思うくらい、とても仲がよく離れ難かった。きっとわたしがここまで恋愛皆無で成長してきたのは、彼女よりも優先順位が上になる人が存在しなかったからだろう。彼女に対して恋愛感情を抱いているわけではないけれど、他の人たちが恋人に向けるであろう情熱のようなものを彼女に注いでいたのは確かだった。そして彼女もまた、同じように思ってくれていたはずだ。

 女の子同士の友情というのはそんなものだろうと思う。普通の友達と親友は、まったく別物だ。親友の前というのは、家族の前よりも素の自分でいられる唯一の場所なのだ。
 親友の前では必死に背伸びをして、自分を取り繕う必要などない。


 けれど高校に入学してから毎日会うことはできなくなり、電話をすることもなくなった。




「……電話はわたしのせいなんだけど」

 短いぼやきが夜闇に消えていく。
 心優しき親友は入学してから毎日連絡をくれていた。どんなに短い時間だったとしても、必ず電話をかけてくれた。けれど、中学時代とは比にならないほどの予習復習の量に追われていたわたしは、ついに電話をする余裕がなくなり、自分から断ってしまった。
 今思い返せばそんなに焦る必要はなかったのに、過度な緊張と重圧に毎日押しつぶされていたのだ。はじめより余裕が出てきた今、断ってしまったせいでなんだか連絡するのが気まずいという、わけの分からない状態に陥っている。
 なによりも至福で一日の疲れを癒す時間を、わたしは自分でなくしてしまったのだ。そんな判断をくだしてしまうほどに、わたしには余裕がなかった。

 電話をしなくなって、メールもしなくなって、気づけば連絡をとらなくなっていた。日にすればそんなに昔のことではないのに、いつなんどきも一緒にいた身としてはずいぶんと長く感じてしまう。
 SNSのストーリーには、彼女が高校の友達と楽しそうに笑い合っている写真があがっている。それを見た瞬間、彼女の中の"いちばん"が変わってしまったような気がして、すうっと身体の力が抜けていくような気がした。そして、そんなことに嫉妬まがいの感情を抱いている自分がなによりも気持ち悪くて、大嫌いだった。

 いつまでも彼女に執着しているのはわたしなのだと気づいたから連絡を絶った。それなのに話さなくなればなるほど、声が聞きたくてたまらない。また笑い合えたらどんなにいいだろう。何にも縛られない、偽りのない素の自分で。

 液晶画面に視線を落とす。

「……話したいな」

 会いたいし、声が聞きたい。何も考えずに、くだらないことで笑い合ったあの日々に戻れたらどんなにいいだろう。一緒にいることが何よりの救いだった。疲労がたまる日々だからこそ、それらを吹き飛ばすために毎日のように会っていた。
 けれど互いに生きる道は違う。いつまでも同じ道を辿れるわけではないのは当たり前のことだ。
 彼女は絵がとても上手かった。自他ともに認めるほど、才能のある絵を描く子だった。だから、将来が絵に関する仕事につながる高校を受験し、見事合格したのだ。そしてわたしは、流れるように普通高校へ。

 正直、彼女がとなりにいない生活は慣れない。学校で過ごすどの瞬間も、「今ここにいてくれたら」と感じてしまう。どう頑張っても叶うはずのない願いを抱えながら、愛想笑いを貼り付けて生活をしているのだ。こんなの、楽しいわけがない。

『離れ離れになっても会えなくなるわけじゃないんだから。定期的に連絡してね、あたしもするから』

 卒業式の日、彼女はそう言って笑っていた。いつもわたしが見てきた笑顔で、桜に溶けるようにそう告げたのだ。

 目の前にある当たり前は、失くしてから気づいても遅い。いくら戻りたいと願ったところで、どうにもならないのだ。

 電話をかけようとしていた手が止まる。


 もし、冷たくされたら? 向こうでのようすを楽しく語られたら?

 そしたらきっとわたしは耐えられないだろう。そう思うと、怖くて指が震える。そのままスマホの電源を切って、重い息を吐き出した。
 空を見上げると、白い月がぼんやりと浮かんでいた。光は薄くて、雲に霞んだ丸い月が、静かに道を照らしている。

(きれい、なんだよね。きっと)

 もっと心に余裕があれば、いくらでも美しさを感じることができただろう。だけど今は、月が出ているという事実としてしか認識することができない。
 光るものを包みぼかしてしまうような霞みさえ美しいと思える日はくるのだろうか。そんなふうに風情を感じ、月を見て笑える日が来るのだろうか。

 ぼんやりとそんなことを考えながら過ごす夜は、いくつもの孤独を溶かすように、ただ静かに広がっていた。





「塾の回数、増やしたから」

 お母さんからそんな言葉をかけられたのは、朧月を見た三日後のことだった。あまりに突然のことで、頭が真っ白になる。

「増やしたって、どういうこと?」
「言葉通り、そのままよ。週三回から五回にしただけ。部活もやってないし、それくらいできるでしょ」
「……そんな」

 どうして勝手に決めてしまうの。"それくらい"って、そんなに軽々しく言わないで。
 わたしにはわたしのペースがあって、それをかき乱されることがいちばん嫌いなのに。

「わたし、そんなにいけないよ」

 言葉が口をつく。驚いたように目を丸くするお母さんは、「瑠胡が言い返すなんて珍しいわね」と少しの怒りを言葉に混ぜた。

 自分でもびっくりした。今までのわたしは、すべてに従って生きてきた。親の言うことは絶対。そんな暗黙のルールがあったから。

「どうしていけないの? 何か部活でもする気になった?」
「そういうわけじゃない、けど」

 首を振った途端、お母さんの顔が険しくなる。まるで獲物を見るような、心の奥を見透かすような、鋭く冷たいものに変わった。

「だったらどうしてできないの。怠けってこと? あのねぇ瑠胡。学生は勉強が仕事なんだから、逃げ出すわけにはいかないでしょう」
「……」
「せっかく良い高校に入れたのに、そんなんじゃすぐに置いていかれるわよ」

 淡々と述べるお母さんをじっと見つめると、「なにその目」と声のトーンがまた低くなる。だけどもううんざりだった。勉強、勉強、勉強って。確かに勉強ができるに越したことはない。だけど、勉強がすべてではない。

「わたしはちゃんと勉強してる。だけど、勉強ばかりは嫌なの」
「だからどうして?」

 こうして一つの物事に対して、理由や理屈を求めてくるのが嫌いだ。感情を理解することができないのかと、心底嫌になる。
 いつもなら、ここで口をつぐんで終わりだった。けれど、クラスメイトとのすれ違いや、先輩と会えていないストレスで、とどめるはずだった言葉が口をつく。

「理由なんてないよ。ただ、やりたくない。それだけ」
「そんなの許されるわけないじゃない。大人になったらもっと大変なのよ? 頭を下げたり、常に笑顔で対応したり。子どものうちは勉強するだけだって言ってるじゃない。なんでそんなに簡単なこともできないの」

 ああ。まずい。
 そう思った時には、もう溢れていた。どろっとした、鉛のように重くて、黒い感情が。

「もうわたしはこれが限界なの! いちいち口出ししないで! ほっといて! わたしはお母さんが思っているほど有能じゃないし、いい子でもなんでもないから!!」
「瑠胡! 待ちなさい!」

 バタンと荒々しくドアを閉めて、家を飛び出す。背中からわたしを呼ぶ声が聞こえたけれど、振り返らなかった。
 振り返ってしまったら、きっとお母さんの顔を見てしまう。そしたら、偽物の罪悪感が渦巻き、わたしを取り込んでしまう気がした。


 お母さんがわたしのためを思って、そう言ってくれているのは分かっている。何かやりたいことが見つかった時、その夢が少しでも早く叶うように。
 だけど、人生を構成するものが勉強だけじゃないことを、わたしは最近考えるようになった。

 たとえば、部活に打ち込んで何かの賞をとったり、綺麗なものを探しに出かけたり、大切な人と心を通わせたり。趣味がいつの日か夢になって、それが叶って職業となるかもしれない。

 今しかできないことも山ほどあって、だからこそ自分の気持ちに素直でいたい。

 また以前と同じ公園で時間を潰し、空が暗を混ぜた青色になったころ、家に戻る。自室に入ろうとしたところでわたしに気づいたお母さんが、抑揚のない声でぼそりと告げた。

「とりあえず、週三回に戻しておいたから。また気が向いたら、声かけて」
「……うん」

 わかってもらえた、というよりは、どこか諦めたような口調だった。ピンと張っていた期待という名の糸が切れ、わたしと両親を繋いでいたものは、これでなにひとつなくなってしまった。

(だけど……後悔は、してない)

 だってこれ以上自分を追い込んだら、もうわたしは確実にダメになっていた。


『頑張るのをやめるんじゃなくて、頑張りすぎるのをやめるだけ。頑張りすぎて自分をぶっ壊してたら元も子もないだろ』


 先輩の言葉が、今のわたしを救ってくれた。未来のわたしを生かしてくれた。
 先輩の存在が、またわたしを助けてくれた。

 明日こそは、会えるんじゃないか。
 なぜだか分からないけれど、そんな幸せな予感がしていた。