まるで地獄。
 今のわたしの状況を一言で表すならば、それだった。
 八時十五分をさす腕時計に視線を落としながら、耳だけに神経を集中させる。昨日遅くまでHSPについて調べていたせいで寝坊し、今も寝不足で頭が痛い。周りの人たちの声が余計に大きく頭に響いて、うずくまりたくなるのを必死に堪えている。

「さーちゃんおはよー」
「シータいる? 数学の教科書貸してちょーだい」
「うわ、英語の課題プリントやってない! 誰か写させて」

 ガヤガヤと喧騒に包まれる教室の前で立ち止まり、深い息をゆっくりと吐き出す。この感覚は何年ぶりだろう。何度経験しても、絶対に慣れることはない。
 誰も味方がいない場所に独りで立ち向かっていく勇気、というと、どこかのヒーローのように聞こえるけれど、現実はそんなに勇ましいものではない。むしろビクビクと怯えているこの姿は、誰にも見せられないほど惨めだ。わたし自身、こんな自分がみっともなくて大嫌い。

 となりを過ぎていくクラスメイトが、立ちすくむわたしに訝しげな視線を向けて、それから何事もなかったかのように教室を出ていく。その扱いは、たとえるなら空気。果たしてわたしの姿が見えているのか、そんな憶測すらきっと不要だろう。
 どちらにせよ、わたしはそれらしい価値を見出してもらえなかったのだ。
 カチ、カチと時計の秒針が時を刻んでいる。

(大丈夫。わたしは、だいじょうぶ)

 心のなかで唱えながら、トントンと胸を叩く。「お願い、強い自分出てきて」と内に秘めたもう一人の自分にノックをしているようだった。

 教室に入った瞬間、水の中に飛び込んだように途端に息ができなくなる。苦しくて喘ごうにも、喉が潰れてしまったように、声を出すことができない。空気で肺を満たすことすら、今のわたしには容易なことではなかった。

 チラチラと周囲の視線を感じる。まるで主人公にでもなったみたいだ。ただ、注目される理由は正反対だろうけれど。
 すべての視界を遮断するように、うつむきながら席につく。その間もずっと嘲笑われているような気がして、「消えたい」を頭の中で永遠と繰り返していた。

「おっはよー!!」
「わー、緋夏! おっはよ」
「おは〜」

 一際目立って登場したのは緋夏だ。取り巻きたちが飛びつくように挨拶を返す。緋夏は、今日も今日とて巻き髪にネイルにと、とびきりオシャレな姿で立っている。
 ちらとわたしを一瞥した緋夏は、それから何も見なかったかのようにスッと視線を流した。

 ああ、あっけない。


 友情という名の繋がりは、こんなにも脆いのだと。今まで必死に築いてきたはずのものは、まったくもって無意味だったのだと。ここまではっきりと拒絶されてしまっては、悲しみや怒りなどの片鱗すら浮かんでこなかった。

ーーそもそも友情と呼べたのかすら、定かではないのに。


 この状況に納得してしまっている自分は、きっと彼女に対して初めから期待をしていなかった。彼女がわたしをあっさり捨てることができるように、わたしもまた彼女を信頼していなかったのだとここにきてようやく気がつく。
 お互いが偽りだけでできた、くだらない関係だったのだ。


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─────


 移動教室、昼休み、放課後の清掃活動、すべてにおいてわたしは独りだった。
 独りでいることが寂しくて嫌なのではなく、"独りでいる人"という見方を周りの人からされるのが嫌なのだ。"可哀想な人"という肩書きを理不尽につけられることが耐えられない。

 ねえ見て、ハブかれてる。
 うわあ、まじ乙じゃん。

 どうせ陰で言われている。事実でしかないから、さらに惨めで消えたくなる。被害妄想が自分でもとどめられないほどに膨らんでいく。
 ホームルームが終わり、ぞろぞろと人が退散し出した頃。

「木月」

 ふいに出入り口付近で引き止められる。振り返ると、ちょいちょいと手招きをする担任がいた。
 早く帰りたいのにと不満を募らせながら近寄ると、「木月」ともう一度わたしを呼んだ彼は、積み上がった資料集の上にポンと手を乗せた。

「悪いがこれ、資料室に持っていってくれないか。木月は確か帰宅部だっただろう」
「え、はい…… 一応、そうです……けど」
「じゃあ頼めるか。学級委員の山根も岡崎も、部活があって無理らしくてな。本当、木月がいてくれて助かったよ」

 問答無用。わたしの意思などまるで関係ない。
 わたしの返事を聞く前に、半ば強引に仕事を押し付けた担任は、「じゃあよろしくな」と大して気持ちのこもっていない挨拶をして足早に教室を出ていった。残ったのは、勢いに呑まれたわたしだけ。

 電車の時間に間に合うだろうかと、そんな不安が頭をかすめる。けれど、こうして無駄に悩んでいる時間さえもったいなくて、苛立ちを堪えながら抱えるように資料集を持ち上げた。鞄を肩にかけたままなので、その重さといったら半端じゃない。か弱い女子認定されていないことは分かっているけれど、せめて少しくらいは気遣ってほしかった。身体の構造上、男の子とは圧倒的に持っている力が違うのだから。

「重た……」

 二回に分けて運ぶのは面倒だからと一気に持ってきてしまったけれど、横着せずに分けていればよかったかもしれない。重すぎて腕がちぎれそうだ。


 どこからかトランペットの音色が聴こえてくる。きっと吹奏楽部だろう。音楽室は三階にあるはずなのにこんなところまで聴こえるなんて、と思っていると、階段をのぼった先にあるガラス張りになった場所で、数人の女子が演奏をしていた。俗に言う、パート練習というものだろうか。
 普段、ホームルームが終わるなり駅に直行するわたしにとってその光景は珍しいものであり、それと同時にわたしにはない青春(・・・・・・・・・)を仄めかすような、そんな不思議なものだった。胸の奥がキュッと締め付けられるような感覚がする。

 もしも部活をしていれば、もっとクラスに馴染めていたのだろうか。もっとたくさんの友達に囲まれて楽しく生活していたのだろうか。そこまで考えて、ふるふると首を横に振る。
 わたしが孤立しているのは、何と言おうとわたし自身の内気な性格に問題があるからだ。部活に入っていなくても、すでにクラスに溶け込んでいる人なんて山ほどいる。もちろん、部活に入ることで繋がる縁もあるだろうけれど、最終的にはその人の性格次第だろう。

 考えれば考えるほど、どんよりと気分が落ち込む。自分ではどうしようもできない事実なのに、どうにかできるのではないかと心のどこかで期待している。自分を変えることができるのは自分だけだと知っていながら、他人に変えてもらうことを望み、甘えた感情に縋ってしまいたくなっているのだ。

「……情けない」

 自分には、とっくに呆れてしまった。期待したところで無駄だ。いつだってわたしは自分を裏切るから。
 ため息をついて、廊下の角を曲がろうとした時だった。

「────っ!!」

 ちょうど向こうから曲がってきた人と衝突し、わたしは声を上げられないままその場に倒れ込んだ。その拍子に、抱えていた資料集が床に散らばる。ジンジンとぶつかった箇所が響いて痛い。立てずにうつむいていると、「悪い、大丈夫か?」と低い声がした。
 先ほどの衝撃の大きさでもだいたい予想はしていたけれど、やはりぶつかったのは男性だったらしい。そろりと視線を上げると、いかにも運動部というたくましい体格をした男性が、こちらに手を差し伸べていた。屋外競技なのだろうか、よく日に焼けている。その横にはスポーツバッグを肩から下げた、長めの髪の男性がもう一人いて、困ったように眉を寄せていた。

 ちらりと足元を見ると、靴のラインの色が赤色だったため、彼らは三年生なのだとすぐに理解できた。それと同時に、「こわい」という感情が波のように一気に押し寄せてくる。
 なかなか手をとらないわたしに首を傾げた色黒の彼は、「どこか怪我したのか」と訊ねてくる。返事しなければならないことは分かっているのに、唇が震えて何も言えなかった。


 結局わたしは何も変われていない。


 少しずつでも、自分の気持ちを吐露することができるようになっていると思っていた。先輩と出会って、ほんのわずかでも自分は変わり始めていると思っていた。けれど、それはすべて勘違いだった。残ったのは、変われていないという事実だけ。

「だいじょう、ぶ……です」

 なんとか絞って出した声は、ひどく掠れていて言葉になっていたのかどうかも分からない。果たして彼に届いたのか、そんなことを考える余裕すらわたしにはなかった。
 いつまでもわたしのために彼らの時間を使わせるわけにはいかない。その一心で使ってしまった「大丈夫」に、胸が締め付けられたように苦しくなる。


『瑠胡はいま大丈夫じゃない。だから嘘つくな、ありのままでいい』


 やはりわたしは先輩の前でないと自分の気持ちを口に出せない。救いを求めることができない。はやく先輩に会いたい。彼に会って話がしたい。


「じゃあ僕たちはこれで。申し訳ないけど、部活に行かないといけないんだ」

 鈴のような声が落ちてくる。男性にしては高く、はっきりと響く声だった。
 そろりと見上げると、さらさらと髪を揺らしながら床に散らばった資料集を集める長髪の男性が、一瞬こちらを見遣った。透明な瞳と視線が絡まる。

「っ」

 咄嗟に視線を逸らしてしまう。その間に素早く集められ、目の前に置かれた資料集。

「行こう」

 そしてそのまま、長髪の男性は色黒の彼に声をかける。
 一向に動かないわたしにずっと手を差し伸べていた彼は、小さくため息を吐いてその手を引っ込めた。そしてそのまま、「ほんと、悪かったな」と呟いて去っていく。

「……ふ、っ」

 居心地が悪くて息苦しかった場所から一気に解放されたような気分になる。無意識のうちに止めてしまっていた呼吸を何度も繰り返して、悲鳴をあげていた肺を酸素で満たした。


 なんとなく分かっていたことだけれど、資料室のドアは古びていて建て付けが悪かった。仕方なく、苛立ちに任せて半ば勢いで開ける。鼻が曲がりそうなほどのほこり臭さに吐き気をおぼえつつ、はやく部屋を出たい一心で、資料を台にどさっと置いた。


 頼まれたことはやった。先生も、これで文句はないはず。
 息を吐くのすら惜しくて、逃げるように資料室を出る。


 肩を上下させながら昇降口につく。
 やっとこの地獄の空間から解放されると思うと、全身の力が抜けていくような気がした。なんとか堪えながら外に出る。


 そのときだった。
 地面が割れるような激しい音とともに、大粒の雨が空から降ってきた。辺りが光り、直後雷鳴が轟く。木の葉の音と吹きつける風が不協和音を奏でて、灰色に覆われた空気を震わせていた。


「……あ、傘」

 小雨とは言えない雨量なのに、傘を持ってくるのを忘れていた。春だからと完全に油断していたのだ。ここまで激しく降られるとは思っておらず、落ち込んでいた気分がさらに降下していく。
 このまま雨が止むまで校舎で待とうかと思ったけれど、帰宅時間が遅くなるのが面倒で、その考えはすぐに消えてしまった。それに、待っていたからと言って雨が止むとは限らない。最悪の場合、今よりもひどくなるかもしれない。走ればギリギリ間に合う時間なのだから、ここは覚悟を決めて駅に向かうのが妥当だろう。

 体力が壊滅的なわたしにとって、駅まで走るということは思っていた以上に困難だった。ずいぶん走ってなかったせいで体力は底をついているのに、自分の力を過信していた。足を進めるたび、地面に溜まった水が跳ねる。容赦なく打ちつける雨は、制服も鞄も何もかも黒く濡らしてしまう。わたしの心でさえ、雨に黒塗られてしまいそうだった。
 肩で息をしながら必死に走る。遠くなのか近くなのか分からない距離で雷が響いている。目の前に落ちたらどうしようと、幼いときから変わらない思考を巡らせたまま、ただひたすら駅を目指した。

 今日は最悪な日。
 今日の楽しかったところをあげようとしても、何ひとつ思い浮かばない。この瞬間わたしは心から笑えていた、と。そんなふうに思える時間が一秒もなかった。
 それならせめて、一日の終わりに。彼と話す時間があってもいいのではないか。
 わたしにとってそれは、つまらない毎日の中で唯一の楽しみなのだから────。


「先輩!!」

 雨に濡れてぐしゃぐしゃの状態のままホームに飛び込む。全身が濡れ、見ていられないほど悲惨で恥じるべき格好だったとしても構わなかった。ただ一秒でもはやく彼の姿をこの目で見たかった。できるだけはやく今日のことを話したくて、乱れる呼吸のまま前を見据える。

 少しでもいい。一瞬だったとしても構わない。
 彼の顔を見て会話することができたら、それだけで十分だった。


「……いない」

 けれど先輩の姿はそこにはなかった。叩きつけるような雨の音と、地を割るような雷だけが鳴り響いている。それはまるで、わたしにすべての終わりを告げているようだった。
 今日という日をどん底に突き落とすような出来事に、目頭が熱くなる。そのまま視界が歪んで、ホームに鎮座するベンチも、雨風で散る桜の花びらも、何もかもが見えなくなった。
 どんよりと覆われた薄灰の空と滝のような雨、地に張りついた桜。目に映る景色は最悪以外のなにものでもなかった。けれど、景色などわたしにとってはどうでもよかった。
 たとえ雨で濡れようと、湿気で髪がうねろうと、桜が見られなくなろうと、それらはきっと我慢できる。けれど、いちばんは。

 先輩がいない。
 ただそれだけの事実が、何よりも心を苦しめる。

「なんで……いないの、せんぱい……っ」

 耐えられなくなった膝からガクッと崩れ落ちる。溢れる涙が、降りかかる雨に紛れて地面へと落ちてゆく。
 暗くて、真っ黒で、息苦しい。色付いたはずの世界は、またモノクロに戻ってしまった。

 嗚咽は雷鳴が消してくれる。涙は春雨が流してくれる。
 わたしは幼い子供のように感情に身を任せて泣いた。必死に抑えようとしても溢れ出るそれは、もう止まらなかった。


 そこからは、どうやって家に帰ったのかよく覚えていない。ただ、夜通し雨が降っていて、その音をぼんやりと自室で聞いていたような気がする。意識がはっきりとしてきた頃には、薄く澄んだ空気とともに、夜が明けていた。