「ずっと思ってたんだけどさ」

 それは、四月も下旬に入ったころの、緋夏の一言がはじまりだった。
 放課後、いつものように駅に向かおうとしていたわたしに、緋夏たちが向かい合うよう並ぶ。
 それだけでなんとなく嫌な予感はしていた。
 黙ったまま、スッ、とくるみ色をした瞳が細くなるのを見つめていると、躊躇(ためら)いを微塵も見せない表情で、緋夏が静かに告げた。

「瑠胡って無理して笑ってるよね」

 その瞬間、糸が張ったように教室が静かになった。その言葉だけで教室の騒音が消え、教室中の視線がわたしたちに集まる。
 温度のない声、抑揚のないひどく落ち着いた口調。
 まるでロボットか何かのようだった。
 ドッドッと速くなる心音、あがっていく呼吸。身体の表面が冷たいもので覆われ、ぞくりと悪寒がする。それなのに、身体の中心はなぜだか燃えるように熱い。

「え……なんで?」
「だって瑠胡、全然楽しそうじゃないもん。無理してウチらに合わせる必要とか、ないし」

 ふっ、と蔑むように笑った緋夏は、「これからは絡まないから。だから安心して。ね?」と小首を傾げた。取り巻きたちも腕を組み、同調を示すようにうなずいている。

「いや、あの……っ」
「じゃあそういうことだから。ばいばい、木月さん(・・・・)

 
 呼び名を変えて、はっきりと線を引かれた。もう入ってくるなと、お前の居場所はここではないと、そう言われたような気がした。満足そうな笑みを浮かべた緋夏は、そのまま身を翻して教室を出ていく。取り巻きもそれに続いて、ニヤニヤと気持ちの悪い笑みを浮かべながら出ていった。
 ちらちらと周囲からの視線を感じる。

 かわいそー。だっさ。まじウケる。

 憐れみの目、笑いの対象を蔑む視線、滑稽な存在を嘲笑う声。そんなもので教室中が溢れているような気がして、たまらず目をかたく閉じた。

 今さら捨てられてしまっては、これからの学校生活において独りぼっち生活は不可避だ。グループが確立してしまったこの時期に見放されるなんて、わたしはどうしてこんなに要領が悪いのだろう。惨めでしかない。


 わたしはまた、失敗してしまった。

「……っ」

 何度呼吸をしても息苦しくて、鞄を掴んでそのまま教室を飛びだす。じわりと涙の膜が張り、それは水滴の形になって落ちてしまった。赤い目のまま廊下を走って昇降口へと向かう。すれ違った何人かが驚いたようにわたしを見ていたけれど、止まらなかった。

 もう高校生なのに、恥ずかしい。


 わたしはどうしてこうも弱いのか。ちょっとしたことで涙が出てしまうのか。我慢しようとすればするほど、脳内の自分が自分を(けな)すのだ。

 役立たず。無能。要領が悪い。生きる価値なし。

 そんな言葉が渦巻くから、自己嫌悪に陥って泣いてしまう。一度始まった負のループは止まらない。自分で自分の首を絞め、苦しめてしまう。

「今日は、会えないな……」

 呟いて、視線を落とした。
 こんなみっともない姿、見せられない。やはり泣いてばかりいるのだと呆れられて、嫌われるのが怖かった。
 学校を飛び出して、近くにあったコンビニに入る。顔が見えないようにうつむきながら不織布マスクを買い、すぐにつけた。マスクの中で息がくぐもる。呼吸がしづらくなったその感覚に、なぜだかひどく安心した。
 みじめな顔をこれ以上晒していたくなかった。すべて覆い隠してしまいたかった。
 涙でマスクが濡れてひどく気持ちが悪い。それでも、こんなみっともない泣き顔を晒すよりはマシだった。

 いつもより二本遅い電車に乗ろう。そうしたら、先輩と会うことはきっとないはず。
 公園のベンチに座って、そんなことをぼんやりと考える。泣いたせいで腫れた目は、一向に治りそうになかった。頭がだる重い。まるで大きく重たい石が頭の上にのっているような感覚だ。
 
 これからわたしは、ずっとひとりなのだろうか。

 ハブられた可哀想な人として、認識されてしまうのだろうか。わたしは普通になりたいのに、悪い意味で普通ではなくなってしまった。ひっそりと生きるどころか、完全に悪目立ちしている。
 あとからあとから涙は溢れてくる。どんなに手で拭っても、まったくといっていいほど無意味だった。せめて呼吸だけでも落ち着かせるため、はあ、と深くため息を吐いたそのときだった。

「どうしたの? あの、よかったらこれ使って?」

 ふいに横から声がして肩が跳ねる。鈴を転がしたような可愛らしい声だった。

「急にごめんね。なんだか困ってるみたいだったから、つい声をかけてしまったの」

 ゆっくりと顔をあげると、困ったように眉を寄せてハンカチを差し出す女の子がそこにいた。彼女の整った顔立ちに、思わず息を呑む。
 ぱっちり二重と高い鼻、ピンク色の薄い唇となにより加工アプリのようなツヤ肌。今まで可愛らしい女の子はみたことがあったけれど、誰から見ても「可愛い」と断言できる美貌を見るのは初めてだった。

「今日はたまたま二枚持ってたから、こっちは使っていないの。少し冷やしたほうがいいかなって思って持ってきたんだけど、余計なお世話だったらごめんなさい」

 困惑したままハンカチを受け取って目に当てると、ひやりとした感覚が伝わってくる。じわりと涙が染み込んでいく。

「考えるより先に身体が動いちゃうタイプなの。だからよくおせっかいって言われちゃうけど、今回だけは許してね」

 顔をあげると、にこりと笑みが降ってきた。どきりと心臓が跳ねる。同性をも惹きつける魅力が、彼女の微笑みにはあるようだった。

 同じ制服のはずなのにわたしよりもずっと似合っている彼女は、小さく歯を見せて笑った。ずっとにこやかな笑みを絶やさない彼女は、人を惹きつける魅力がある。
 いったい誰なのだろう。落ち着きようや雰囲気から、もしかすると先輩かもしれない。

「あの……あなたは」

 問いかけると、小さく微笑んだ彼女はまっすぐにわたしの目を見て告げた。

「私、古園琴亜(ふるぞのことあ)。一年五組です」
「……え」

 古園。その苗字には聞き覚えがあった。どくっと心臓が脈を打つ。
 一度耳を通った言葉が記憶となって、濁流のようによみがえってくる。

『小テストじゃなくて、五組の古園さんが嫌いだって話をしてたんだよ』
『なんか調子乗ってると思っちゃうんだよね。自分で自分のこと可愛いとか思ってそうで嫌い』

 以前、緋夏たちとの会話で出てきた女の子。五組、古園。たったそれだけのキーワードだったけれど、すぐにわかった。間違いであってほしいと願いながら、それでも心のどこかで妙に納得してしまう自分もいた。
 だって、彼女は可愛すぎるのだから。あの人たちの嫉妬の対象になってしまうのだってうなずける。

「となり、座ってもいい?」
「あっ……うん」

 目にハンカチを当てたままこくりとうなずく。安堵したように息を洩らした古園さんは、背負っていたリュックを前で抱えるようにして座った。

「お名前は?」
「木月……瑠胡です」
「瑠胡ちゃん。可愛い名前だね」

 えへへと笑う古園さんは、本当に可愛らしかった。どうしてこんな人があんなにも酷いことを言われなければならないのか分からない。それと同時に、わたしはこんなに優しい人を傷つけてしまったのだと罪悪感が渦巻いていく。消え入りそうな謝罪が醜い口からこぼれていく。

「ごめんなさい……ごめんなさ……っ」
「どうして謝るの? 瑠胡ちゃんは何も悪いことしてないのに」

 見えないところで、わたしはあなたを傷つけた。それなのに、なぜか被害者ヅラして泣いている。泣く資格なんてわたしにはないのに。
 眩しい古園さんと、影のようなわたし。緋夏に見放されたくなくて、自分を偽って古園さんを貶したのに、結局緋夏にも見捨てられてしまった。

「泣くのは悪いことじゃないんだよ。いっぱい泣いてすっきりするなら、いくらでも泣いていいんだから」

 あたたかい手が背中をさすってくれる。優しさを感じてしまえば、あとからあとから涙は溢れてきた。いい加減、初対面の人の前で泣くのをやめたい。ぐっと唇を噛むと、久しぶりに痛みを感じた。

「こんなこと初対面で訊くのはおかしいかもしれないけど……瑠胡ちゃんってHSPだったりする?」

 充血した目を向けると、「なんとなく、私と同じような気がして」と告げられる。

「……HSPって、なに?」
「簡単に言うと、繊細な人のことかな。今はネットでもいろんな情報が出てるし、診断もできるみたいだからやってみたらいいかも。もちろんその診断結果が全てではないけど、たぶん瑠胡ちゃんは私と一緒な気がする。まあこれは私の勘だから、あまり気にしないで」

 ふふっと笑う古園さんからは、敵意をまったく感じなかった。

ーー敵意、だなんて。

 わたしはいつからか、周りの人間はすべて敵なのだと思うようになっていた。話すより先に距離をとる。疎ましく思われないために、邪魔だと思われないために。
 ささいな表情の変化で、その人の気持ちというものは案外伝わるものだ。それらを敏感に感じとってしまうから、いつしか人に怯えるようになってしまった。

「生きづらさを感じる人が全員HSPだって決めつけはよくないってことは知ってるの。だけど、知識として知っているか知っていないかだと、きっと前者のほうがいいと思うの。誰だって安心するでしょ? 考えすぎてしまうのは自分の体質なんだって自分を認めることができるから。自分を否定する回数が減るのなら、わたしは調べてみるのもありだと思うな」
「……」
「もし瑠胡ちゃんが周りとうまくいかなくて、苦しむことがあったらね」

 ふうっと息を吐き出した古園さんは、わたしと視線を合わせて微笑んだ。

「そのときは、私が瑠胡ちゃんの味方になるから。きっと、私たちならこの生きにくさを分かち合えると思うんだ」
「古園さん……」
「だからね、瑠胡ちゃん。私の前では我慢しなくていいんだよ」

 あたたかい涙が込み上げてきて、ハンカチで目元を押さえる。すべてを包み込むような優しさを向けてくれる彼女。

 緋夏たちの話とは全然違う。ぶりっ子でも、調子に乗っているわけでもない。心から、こんなにも優しい人だ。それなのに、噂で勝手に決めつけて、見たこともないのに同調して。
 わたしはなんてひどいやつなんだろう。それでいて、どうしてこの子とは何もかもが正反対なのだろう。

「私、琴亜。そう呼んでくれると嬉しいな」

 わたしにその名前を呼ぶ資格があるのだろうか。しばらく黙っていたけれど、宝石を埋め込んだような目をこちらに向ける彼女の圧にあっさりと敗北してしまう。

「……ありがとう、琴亜ちゃん」

 小さく呟くと、琴亜はふわりと嬉しそうに笑った。
 守りたくなるような、無邪気な笑顔だった。


──────


 カタカタと、夜中の部屋に響くタイピング音。両親が起きないように忍ばせながら、息を潜めるようにして指を動かした。

【HSPとは】
【HSP どうなる】
【HSP 改善方法】

 そんな履歴で画面が埋められていく。その中で、【HSP簡単セルフチェック】という記事を見つけ、すかさずクリックする。どうやら表示される質問に答えれば、簡単にHSPかどうかの診断が受けられるようだった。

 質問は本当に簡単なものばかりだった。けれど、わたしが日々思っていることや感じていることに関する質問が多く、自分という存在が紐解かれていくような、そんな気がした。

 診断結果は、HSPである可能性が高いとのこと。無論、これが必ず合っているというわけでも間違っているというわけでもないけれど、知って損はないので、深呼吸をしてから詳細について見ていく。



【HSP(ハイリー・センシティブ・パーソン)】

・感受性が強く、繊細
・音や光など、周囲の刺激に敏感
・環境の変化に弱い
・強い感情に敏感
・HSPは生まれ持った性質のことで、病気ではない

 書いてあること一つひとつが、自分に当てはまっていく。散らばったピースがひとつにまとまるような感覚だった。ここまではっきりと結果に頷ける診断は初めてで驚く。

 特徴やストレス解消方法、向いている仕事や人との付き合い方。そんな情報がどんどん出てきて、夢中になって調べた。
 ノートにメモをとっていく。あっという間にページが埋まり、次のページに書き込んでいく。
 そんな作業を続けていくと、HSPに悩む人は案外多いことがわかった。
 五人に一人。
 数値ではそう出ているらしい。

 意外だった。ものすごく少ないと思っていたのに、知らないだけで同じ思いを抱えている人がたくさんいるのだ。わたしだけじゃない。

 HSPは生まれ持った性質のこと。決して病気ではない。
 だから自分は人よりも繊細なんだと、人となりを受け入れることができれば、今の状態よりも楽になれるかもしれない。

 今まで自分だけが味わっていると思っていた生きづらさは、決して無意味なものではなかった。おかしなことではなかったのだ。
 それだけで、肩の力が抜けていく。

 正直、これが分かったところで今の状況が変わるわけではないし、生きやすくなるわけでもない。けれど、自分の生き方を変えることはできる。ほんの少しでも、微々たる差でも。

 ほんのささいな意識の変化で、世界はガラッと色を変える。

 その第一歩を、自分自身で踏み出せたような気がした。けれどすぐに、明日からは緋夏たちがまわりにいないのだと思い出し、また気分が落ちていく。
 わたしは完全にひとりになってしまった。明日からわたしはひとりで、学校に耐えることができるだろうか。