四月のきみが笑うから。

 荒かった呼吸が少しずつ落ち着いていく。そろりと視線を移すと、片手を伸ばしたくらいの距離を空けてベンチに座った彼は、ぼんやりと線路を見つめていた。さらさらと、艶やかな黒髪が風に揺れている。

「……あの」

 とりあえず、お礼を言わなければ。水のお礼と、それから……命を助けてもらったお礼。

「ありがとう、ございました」

 若干詰まりつつも、ちゃんと言葉にできたことに安堵する。いつもは言葉が詰まって出てこないから、なんとか声になったことに驚いた。彼はこちらを見ることなく、「それで」と呟く。

「え」
「どうしたんだよ」

 淡々とした口調で問われる。彼はきっと、わたしが何をしようとしたのか分かっているのだろう。だから、偶然線路に落ちそうになってしまって、といった誤魔化しはきかない。
 確実に引き返せる場所から、わざと身を倒したのは紛れもない、わたしなのだから。

 初対面の彼に、あんなに情けない姿を見せてしまったのだ。罪悪感と羞恥が同時に押し寄せてきて、体温が上昇していく。

「『何でもない』は、なしだから。何かあるのは分かってる」

 過度に心配や追及をせず、それでも話を聞く姿勢を見せる彼。なんというか、今まで出会ったことのない類の雰囲気に包まれている人だ。包容力のある人、というのは、彼のような人のことを言うのかもしれない。

「言いたくないならそう言ってくれたらいい。ただ、次の電車までわりと時間があるから、話ぐらいは聞いてやれる」

 だから何もないとは言うな、と。
 その言葉と同時に、彼がこちらを向く。青く澄んだ瞳と近距離で目が合った。


ーー綺麗な目。

 ここまで綺麗な目を持った人は初めて見たかもしれない。目の大きさや形云々ではなく、彼は瞳そのものが綺麗だ。まるで夜が溶けているような、薄紫と紺青が混ざり合った色。そんな特徴的な色をしているのに浮くことなく似合ってしまう美貌には、凛々しさとわずかな甘さが同居していた。
 思わず言葉を洩らしたのは、そんな彼の瞳に触発されたからかもしれない。


「……わたしも、よく分からないんです」


 ぽろりと言葉がこぼれる。ペットボトルのキャップに視線を落として、緊張を紛らわすために指の腹でキャップをなぞった。


「何がつらいか分からなくて、自分が今しんどいのかも分からないんですけど。ただ……このまま事故で死んじゃうのも、ありなのかなって」


ーーそう、思ったんです。
 先ほどの行為は衝動的なもので、少しは冷静になった今なら、あの瞬間の自分は相当狂っていたと分かる。けれども、あの瞬間の自分にはそれを考えるほどの余裕も落ち着きもなかった。

 わたしの話を黙ってきいていた彼は、少し眉を下げて遠くを見つめた。沈黙が降り、そこでようやく自分が何を口走ってしまったのか悟る。堂々と鬱感情を語ってしまった羞恥心で消えたくなる。


「……なんて、言われても困りますよね。すみません」


 慌てて軽く言い流そうとしたけれど、すでに手遅れであるということはとうに分かりきっていた。初対面の彼に自分の情けない精神状態を晒すなんて、わたしはいったい何をやっているのだろう。
 ぐるぐると一人で考え込んでいると、少しだけトーンの下がった声が静かに響いた。


「死にたいじゃなくて、消えたいだろ? きっと」


 予想外の言葉に驚いて振り向くと、同じようにこちらを見た彼はふっと目を細めた。その表情があまりにも切なくて、なぜだか分からないのに胸を打たれた。美しく青い双眸がまっすぐにわたしの目を射抜いている。


「消えたいって思う瞬間くらい、誰にでもあるよ」


 死にたい。消えたい。
 そんな破滅的なことを思って毎日を生きているのはわたしだけなのだと思っていた。わたしがおかしい(・・・・)だけで、わたしが弱い(・・)だけで、わたしが適応できない(・・・・・・)だけで。
 死にたいなんて思ってしまうわたしはきっとどうかしていて、周りの人間とは別物なんだって。


「あなたも……思ったことが、あるんですか」


 気付いたら声に出していた。死にたいとか、消えたいとか。
 そんな負の感情とはどうやっても結びつかないように見える彼も、わたしと同じように思ったことがあるのだろうか。
 あまりにもかけ離れすぎていて、にわかに信じがたい。


「……消えたいは、あるかな」


 ふはっ、と脱力したように笑う彼は、ここではないどこかを見つめていた。その表情に、思わず息を呑んでしまう。


ーー不思議な人。

 身体の中心とすべての意識が彼に引っ張られているような感覚だった。明確な理由などないのに、もっと話してみたい、知りたいと思い始めている。

 ほわほわとした未だ名前を知らない感情がずっと心に居座っていて、なんだか変な気持ちだ。


「死にたいわけじゃねえけど、生きたくもなくなんの。あの感情って何なんだろうな」


 初めてだった。死にたくないけど生きたくもないなんて、そんなことを口にする人と出会ったのは。
 わたしが日々思っているようなことを、的確に言語化してくれる人に出会ったのは。

 毎日気持ち悪くて吐きそうで逃げ出したいと思っているのに、どうして気持ち悪いのかが分からない。何が嫌で、どこに逃げたいのか分からない。大事な部分が分からないから改善のしようがない。明確な理由がないものを他人に理解してもらうのは難しい。分からない、は理由として成立しないのだろうか。

 学校を休むのにも、部活をしないのにも、塾を辞めるのにも理由がいる。そしてそれが『やりたくない』『行きたくない』だった場合、怠けるなと言われてしまう。それでも首を横に振れば、ついには見放されてしまう。
 それがいちばん怖いから、毎日毎日必死に生きていくしかない。
 じわりと視界が涙で滲む。我慢しようとすればするほど、溢れて止まらなかった。

「……っ」
「おい、また泣くのか」
「ごめ……んなさ……っ」
「謝んな」

 仲間がいたとか、分かり合えたとか、そういうことではなかった。ただ、わたしが長年抱いていたこの感情は間違ったものではなかったのだと思えたことが、たまらなく嬉しかったのだ。

 死にたい、消えたい。言葉ではそう言ったり思ったりしていても、実際は違う。"生きていたくない"のだ。自分で死んではいけない。死にたいなんて言葉使ってはいけない。そんなの、誰だってわかっている。生きていたいと思えなくなるからその道を選ぶだけで、初めから死にたいなんて思って生まれてくるわけじゃない。

「泣かれると困る」

 静寂が落ちた次の瞬間、ふわりとウッディ系の香りが鼻腔をつく。クラスメイトが漂わせるような鼻を刺激する甘ったるいにおいとは違って、馴染みのある心地よい香りだった。それと同時に、あたたかさに包まれる。先ほどと同じ、二度目の感覚。まるで静かな森の中にいるようだった。

「頑張りすぎなんじゃねえの」

 肩を揺らして嗚咽を堪えようとすれば、わたしを抱きしめる手に力が込められる。力強くて、優しくて。初対面だというのに、彼に抱きしめられるこの感覚を、ずっと待っていたような気がした。

「頑張らないと、生きていけません。誰もわたしを見てくれなくなります」

 いずれは、落ちこぼれ、って。そんな下卑た言葉を投げつけられるようになってしまう。頑張らないと生きていけないのがこの世界だ。生きても苦しい、死んでも苦しい。
 この世界は生き地獄だと、以前SNSのコメント欄に書き込まれていた。それを見たとき、深く共感してしばらく目を離せなかった。

 ゆっくり落ちてきた言葉が耳朶を打つ。

「名前、教えて」
木月(きづき)です。木月、瑠胡(るこ)

 ここまで自然に名乗れたのは久しぶりだった。まず名前をきかれることがないし、きかれたとしても苗字しか言わないから。フルネームを並べるのはどこか違和感があるけれど、それ以上に何の抵抗もなく名乗れた自分に驚いた。

「頑張らなくていいっていうのは」

 ぽん、と何かが頭にのった。それが何なのか、暗い視界の中でも分かってしまう。

「必死に頑張ってるやつが、他人から言われる権利を持つ言葉なんだよ。瑠胡はちゃんと、言われる権利を持ってるよ。頑張るのをやめるんじゃなくて、頑張りすぎるのをやめるだけ。頑張りすぎて自分をぶっ壊してたら元も子もないだろ」

 優しい音で一つひとつ、木漏れ日のように落ちてくる。心の奥の凍りついた部分に差し込んで、ゆっくりと溶かしていく。ずっと秘めて固く閉ざしていた部分を、するするとすり抜けられているような感覚がする。

「肩の力抜いて、もっと楽に生きようぜ。そしたら少しは生きたいって思えるかもしれねえから」
「……もし思えなかったら?」
「俺が思わせてみせるよ」


 ゆっくりと顔をあげると、静かな微笑みがそこにはあった。綺麗な目が細くなって、口許が少しだけ緩んでいる。どんなことでも受け止めるよと、そう言われているような気がした。これはわたしに都合がいいだけの、勝手な解釈かもしれない。それでも、彼がこんなふうに笑ってくれるのなら、その優しさに甘えてしまいたくなった。
 彼の言葉を聞いているうちに、自然と涙が引っ込んでいく。

「瑠胡は一年?」

 はい、とうなずく。新入生特有の雰囲気のせいだろうか。彼にはとっくにバレていたみたいだ。駅で泣くほど余裕がなくなるのだから、そう考えられても仕方がないか、と思う。二年生や三年生になって自分に余裕が生まれている未来はみえないけれど、とりあえず今のような精神状態からは抜け出せていると信じたい。

「先輩、ですよね」

 わたしの問いに、「まあ一応は」と答える彼。身体中から滲み出ている余裕と落ち着きようから、同級生ではないのだろうという予想はしていた。案の定先輩だったらしい。

「先輩は……三年生さん、ですか」
「当たり。今年受験とか信じたくねえ」

 高校生にもなると学年の区別なんて分からない、と誰かが言っていたけれど、それでもやっぱり分かってしまう。なんとなくだったとしても、だいたい当たっているものだ。
 こんなこと口が裂けても言えないけれど、クラスメイトとは安心感がまるで違う。先輩は、わたしみたいなちっぽけな人間よりも、ずっとずっと大人に見えた。生まれた年がふたつしか違わないのに、この差は本当に大きい。

「お、来た」

 先輩の目線を追う。特有の音を立てながら、再び電車がやってきた。さらりと桜色の風が吹いて、先輩の髪が揺れる。

「今度は乗れそうか?」

 からかうような口調で訊かれ、はい、とうなずく。わたしの返事に「よし」と笑った先輩は、ベンチから立ち上がって鞄を持った。右から走ってきた電車が、数十分前を彷彿とさせるように目の前で止まる。キイ────という耳障りな音はさっきと何も変わっていないのに、今はあまり気にならなかった。




 となりに並んで電車に揺られる午後五時二十分。無事乗車することができたわたしに「ここ」と、となりの座席を示したのは先輩だった。

「先輩の帰る時間まで遅くなってしまって、すみません」
「いいよ別に」
「お手数おかけしま……」
「いいって言ってるだろ」

 強めの口調で制される。びくりと肩を震わせると、先輩はわたしの顔を覗き込むようにして、眉を寄せた。

「すぐ謝る癖はできるだけ直したほうがいい。俺は瑠胡に謝ってほしいなんて思ってない」

 小さく頭を下げて、そのまましばらくうつむいていると、「瑠胡」と名前を呼ばれる。

「瑠胡はさ、毎日電車に乗ってるときどこ見てる?」
「え……足元、ですかね」
「やっぱり。そうだろうなって思った」

 行きの電車は息が詰まるし、帰りの電車は気分が落ちているから自然と視線も足元へ落ちる。座席に余裕のある日は座って教科書を読んでいるから、それ以外に見るところなどない。

「電車が混んでない時は、こっちを見るのがおすすめ」
「え」

 先輩が指をさしたのは、わたしたちの背中側の窓。そっと振り返ると、鮮やかなピンク色とうっすらとした青色が視界に映った。遠くの方には薄紫色の雲が浮かんでいる。すべてが繊細で、綺麗で、まるで柔らかいタッチで描かれた絵画のようだった。

 世界にはこんなに色があるのだと、忘れかけていた事実に気がつく。
 電車が進むのに合わせて、少しずつ景色がずれていく。それでも空はそのまま変わらない。この景色をそのまま切り取れたらどんなにいいだろう。こんなに綺麗なのに、まったく同じ景色は一瞬だけしか見られないなんて、そんなのもったいない。

「通学するための乗り物じゃなくてさ、綺麗な景色が見られる乗り物っていう認識にすれば、少しは気分上がらない?」
「上がるかも、しれないです」
「じゃあ明日からはできるだけ窓の外を眺めることだな。足なんかを見るよりずっといい」

 窓の外を見たまま、先輩がそう言って笑う。(あで)やかで、綺麗な微笑みだった。

「……はい」

 そう頷くのが精一杯だった。熱くなる頬をごまかすように窓の外を眺めながら、眩い光を受ける。


『次は桜舞です。お降りの方は────』

 あっという間に降りる駅に着いてしまった。いつもなら長く感じる時間も、今日はとても短かった。

「俺はもう一駅向こうだから」
「わかりました」

 会釈をして席を立つ。ゆっくりと電車が止まって、プシューっとドアが開いた。ぞろぞろと人の波が電車の外へと流れ出ていく。

「じゃあまたな」
「本当に、ありがとうございました」

 電車を降りようとした瞬間、ふと足が止まった。このまま帰ってはだめだと、誰かがわたしを引き留めているような気がしたのだ。
 訊きたいことをきかないで、本当に後悔しないのか、と。


 きっとわたしは行動してもしなくても、どちらにせよ後悔する。自分の判断が必ずしも間違っているとは限らないのに、無理やり間違いだったと決めつけて、後悔に結びつけてしまう。

 だったら、自分のしたいようにすればいい。

 どうせどちらに進んでも後悔するならば、今この瞬間の気持ちに任せて進んでみたい。

 鞄の持ち手を握りしめて、くるりと振り返る。

「あのっ、先輩。お名前、教えてくれませんか」

 問いかけると、彼は白い歯を見せて笑った。太陽のような、という比喩はこの人のためにあるんじゃないかと錯覚してしまうほどに眩しい笑顔。

新木(あらき)琥尋(こひろ)。気をつけて帰れよ、瑠胡」
「……っ、ありがとうございます」

 電車から降りると、タイミングよくドアが閉まる。小さな窓から先輩を見れば、微笑んだ先輩は小さく手を振っていた。わたしも会釈をして発車を見送る。


ーーあらき、こひろ。
 心のなかでそっとつぶやいた。


 先輩を乗せた電車が小さくなって見えなくなっても、わたしはしばらくそこから目を離せないでいた。


───────────


 その夜、わたしは夢をみた。青い空が広がる海で、誰かがわたしを呼んでいる。薄茶色の髪をした誰か。それが果たして男性なのか女性なのか、そんな判別すら不可能だった。

『ねえ、君の名前は』

 脳内に直接語りかけるような声。たとえばこれが夢ならば、声を出すことなどできなかっただろう。

「るこ……! 木月、瑠胡です……!」

 けれど、意外にも声を返すことができて困惑する。叫んでも醒めない夢をみるのは初めてだった。夢特有のぼんやりとした感覚がなく、やけにはっきりとしていて景色もピントが合っているのに、人物の認識だけがうまくできない。

『そばにいてほしい。アイツの、そばに』
「あいつ……?」

 それだけを言うと、スウッと水平線に溶けるように消えてしまう。手を伸ばしても、到底掴めるはずもなかった。

「待って……あなたの名前は……!?」

 夢中で声を出すけれど、そんなものは届かない。寄せる波が、すべての音を消してしまう。漣の音がだんだん大きくなって、視界が青く染まっていった。



 鼓膜を刺激する目覚まし音に意識が引っ張られて、目が覚めた。いつもは目覚ましが鳴る前に起きるのだけど、今日は少し遅かったらしい。まだ視界が鮮明ではない目を擦り、静かに息を吐く。そして、新しい空気を吸い込んだ。
 なんだか変な夢をみたような気がする。どんな夢だったのかはあまり覚えていないけれど、誰かと会話していたことだけはぼんやりと覚えている。

「モヤモヤする……」

 思い出せそうで思い出せない。こういうときが、何気にいちばん不快なときかもしれない。思い出せない自分に苛立ってしまう。
 しばらく天井を見つめていたけれど、一向に思い出せないので諦めた。素早く身支度を済ませ、朝食をとってから玄関で挨拶をして家を出る。

 いつもよりゆったりとしたテンポで歩く。朝食がパンだったため、早く食べ終わって少しだけ時間に余裕ができたのだ。まだ履き慣れていない新しい靴で地面を踏むたび、違和感がお腹のあたりをくすぐる。

 ふと、風に揺れる桜の花びらが何枚か落ちてきた。

「きれい」

 受け止めようと手を伸ばしてみるけれど、なかなか掴めなかった。何度も手を開いては閉じ、開いては閉じとしているうちに、思っていたよりも時間が過ぎていたのに気付いて慌てて駅に向かう。結局、花びらは一枚も手に入らなかった。

 駅に着くと、電車はすでに到着していた。改札を抜けて、電車に乗り込む。車内は人がまばらにいる程度で、ほっと息を吐いた。いくら田舎とはいえど、通勤通学ラッシュは車内の密度が高くなる。やはりこの時間帯の電車で通うと、いちばん心を落ち着かせることができるのだ。まもなくして、聞き慣れたアナウンスの後、電車が動きだす。


 先輩もこの電車に乗っているのだろうか。


 普段はわたしが気づいていないだけで、もしかしたら毎日同じ車両に乗っていたのではないか。そんな淡い希望を胸に抱きながらあたりを見回してみたけれど、先輩の姿はどこにもなかった。今度こそ、我慢していたはずのため息が落ちる。それと同時に、視線も足元に落ちた。電車の上下の揺れだけが足に伝わってくる。
 どんよりと気持ちが沈みかけたそのとき。


『じゃあ明日からはできるだけ窓の外を眺めることだな。足なんかを見るよりずっといい』


 ふいに先輩の言葉がフラッシュバックして、思わず顔が上がる。そしてそのまま、流れるように視線が背後の窓の外へと吸い寄せられた。

「……わ、っ」

 雲ひとつない青空。それがどこか寂しいと感じてしまうほど、わたしを包む空には青だけが広がっていた。わたしは毎日この景色を見ないで、くすんだ色をした床だけを見ていたのだ。
 なんてもったいないことをしていたのだろう。


 気づけてよかった。心の底からそう思う。

 もし先輩と出会わなかったら、わたしの通学は霞んだ色で染められていたのかもしれない。毎日毎日電車に揺られながら、彩りあるものに目を向けず、高校生を終えていたのかもしれない。

「すごい……」

 世界が色づくきっかけは、ほんのささいな意識の変化。

 そのきっかけをくれたのは、他の誰でもない、先輩だった。



───
───


 まだ静かな校舎に出迎えられ、心の中で学生のスイッチを入れた。面倒なことだけれど、わたしはこうしてスイッチを切り替えないと環境にうまく対応できない。急な変化や予定外の出来事は苦手だ。そのときはなんとか笑えていても、あとからその反動がきてしまう。

 まだ誰もいない教室に鞄を置き、それからいつものように中庭へ出た。最近習慣になりつつある、花壇の世話をするためだ。

「今日も綺麗に咲いてるね」

 声をかけながら根元に水をやる。少し前まで枯れそうだったのに、やはり生き物の生命力は馬鹿にはできない。
 本来であれば花壇の水やりは環境委員会が行うべきだけど、前に土と花の状態を見た限り、まったくと言っていいほどに手入れされていなかった。四月のはじめなので、まだ委員会が動いていないのだろう。旧委員会が世話をしているかもしれないという考えが頭をよぎったけれど、荒れた花壇の状態を見るに、そういうわけでもないらしい。

 余計なことかもしれないと思いつつ、枯れていくのをただみることもできなくて、毎朝こうして観察にきているのだ。
 完全に枯れてしまう前に気づけてよかった。萎れている状態だったから、なんとか復活させてあげることができた。さすがに天然の雨だけで生き延びることは難しいだろう。

 せっかくこんなに広い花壇なのに、咲かないともったいない。
 きれいだよ、みんな。

 赤、青、オレンジ、黄色。春を彩る花々が上を向いて笑っているような気がする。それらを見ていると、自然と笑みが洩れた。

「わたしもいつか、咲けるといいなあ」


 わたしもいつか、こんなふうに堂々と笑えるようになりたい。

 そう言葉にしてから、慌てて周囲に人がいないか確認する。無意識は何よりの本心だとどこかで聞いたことがある。聞かれてはいけない内容ではないけれど、自身を花の蕾に例えるような比喩は、できるだけ人に聞かれたくない。なんというか、詩的な言い回しは文学作品だからこそ映える気がするのだ。
 あたりを見回して、わたしひとりだけだったことに安堵する。

「……そろそろ時間かな」

 用具入れにじょうろを戻して教室に戻るころには、もう多くのクラスメイトの喧騒で包まれていた。


 また今日も始まる。
 学校という名の、息苦しい時間が。

 逃げられないこの空間が大嫌いだ。逃げてしまいたいのに、見えない何かで縛られている。
 わたしはゆっくりと息を吐きだして、息苦しい世界へと飛び込んだ。

──────


 移動教室、ペア活動、班活動。こんなものなかったらいいのにと、わたしは今までに何度思ったのだろう。

「瑠胡! もう行くよ!」
「あっ……うん」

 教室に響き渡るほどの大声で名前を呼ばれた。振り向くと、数人の女子が荷物を持ってこちらを見ていた。入学式の日に初めて話して以来、一緒に移動教室をしている緋夏(ひな)と、緋夏を取り囲むいわゆる"取り巻き"という立ち位置の女子たちだった。緋夏は入学してから一ヶ月も経っていないのに、すでに圧倒的な存在感でわたしたちのクラスをものにしている。慌てて荷物を持ち、彼女たちのほうへと駆け寄った。

「おそーい」
「ご、ごめんなさい」

 謝ると、「謝らないでよ。うちらが言わせたみたいじゃん」と呆れたように言われる。その反応が心底嫌そうで、言葉に詰まった。
 だったらその「おそーい」は何の目的で発されるのだろう。謝罪以外に、彼女は何を求めているのだろう。
 分からない。正解答があるなら、今度こそ間違えないようにするから教えてほしい。
 いちいちこんなことを考えてしまう癖が嫌いだ。わたしはつくづく面倒くさい人間だろう。

「今日って英語の小テだよね。まじで何のためにあるのって感じなんだけど」
「それなー」

 そんな意味のない会話がとなりから聞こえてくる。嫌がったところで小テストは逃げてくれないけれど、そんなこと彼女たちにとってはどうでもいい。会話の内容が大事なのではなく、会話をすることそのものが本来の目的なのだ。
 移動教室の間、沈黙が訪れて気まずくなるのを回避するために、各々がいくつか話題を持っていなければならない。黙々と移動するような、居心地の悪い空気を作り出すことは禁忌とされている。
 そしてそれができない人は、グループからの居場所をなくす。だからわたしはいつも必死に────。

「瑠胡もそう思うでしょ?」

 ぐるぐると考えていると、急に言葉が飛んできて頭が真っ白になる。
 いったい何のことについてなのだろうか。話題が変わっていなければ、小テストに関することだろうか。頭をフル回転させて、めいっぱいの愛想笑いを貼りつける。

「小テスト、そうだね。わたしも嫌かも」

 今日もまた、思ってもいないことを口にした。
 正直、テスト自体は別に嫌ではない。しっかり勉強していれば満点を取れるような、英単語のテストなのだから。
 けれどそれを正直に話せば、明らかに嫌な顔をされてハブかれるのは目に見えていた。彼女たちだって、テストが好きか嫌いかで言えば"嫌い"に分類されるというだけで、休んだり早退するほど嫌というわけではないはずだ。
 めんどくさいね。そうだね。こんなのやっても無駄だよね。できなくてもいいよね、小テストだし。成績にはどうせ入らないって。
 ただ、定型文を垂れ流していくだけ。だからここは適当に誤魔化して合わせておく。

「毎日あると大変だよね、小テスト」

 無理やり笑みの形をつくりながらそう言った途端、緋夏の眉間にしわが寄った。急な表情の変化に、背筋が凍っていく。何かまずいことをしたんだ、わたし。

「小テストじゃなくて、五組の古園さんが嫌いだって話をしてたんだよ」
「ちゃんと話聞いてる?」
「瑠胡、話に乗り遅れてるよ」

 矢のように言葉が降ってくる。すかさず謝ると、また苛立たしげに「だから謝んないでって」と返された。そんな怖い顔をしていながら謝るなだなんて、そんなのどうしていいか分からなくなる。

「なんか調子乗ってると思っちゃうんだよね。自分で自分のこと可愛いとか思ってそうで嫌い」
「性格悪そうだもんね」
「ぶりっ子でむかつく。色目使ってるのバレバレだし」

 黒い感情は、止まることなくむしろ勢いが増していく。

「え、話したことあるの?」
「いや? 一度もなーい」
「うっわ、性格わっる!」
「悪くてけっこー」

 ためらいの欠片もなく、どんどん出てくる悪口。耳を通すたびに意識が(けが)れ、顔が歪むのを自覚する。お腹のなかが変な感覚に包まれていて、今すぐにでもこの場を離れてしまいたかった。
 五組の古園さんをわたしは知らない。話したこともなければ、当然見たことすらなかった。今ここで悪口を言っている人の何人が、直接彼女と関わり、自分の意思で「嫌いだ」と判断したのだろうか。
 振り向いた緋夏に「瑠胡もそう思うよね?」と共感を求められて、言葉に詰まったのち静かにうなずく。


ーーああ。これでわたしも立派な加害者だ。


 この空間にいたくなくて、それでも逃げ出すことなんてできなくて、罪悪感がぐるぐると渦巻いていくのを感じながら教科書を持つ手に力を込めた。教科書のかたさと冷たさが、弱いわたしを責めているようだった。

 うつむいていると、話題はいつのまにか恋バナへと変わっていた。けれど、キラキラきゃはきゃはとしたものではなく、緋夏の彼氏の愚痴を一方的に聞かされるといった形だ。半分惚気のようにも聞こえるそれを、取り巻きたちは必死に聞いていた。

 この中に、本当にかわいそう、大変だと思って聞いている人は何人いるのだろう。まったく、仮面を被るのが誰も彼も上手だ。「追いラインがしつこいんだけどー」なんて言っている彼女は、結局のところ全然迷惑していない。むしろ"愛されている自分"を自慢したい。そんなふうに見えた。

 はあ、とため息が落ちる。
 一緒にいたくない。だけど、独りにはなりたくない。
 天秤にかけたときに、どうしても後者の方が重くなってしまう。

 だからわたしは、いつまでたっても変われない。


 窓の外には沈む気持ちとは裏腹に、真っ青な空が広がっている。そんな青にひとつだけぽっかりと浮かんでいる雲がなんだか今のわたしのようで、それでもあんなに伸びやかに漂うことなんてできなくて、やるせない気持ちを押し込めて再び笑顔の仮面を被った。





──── 今日も会えるだろうか。
 昨日の今日にそんな期待はしてはいけないと分かっているのに、心のどこかで思うのを止められない。駅に向かう足が無意識のうちに速くなってしまう。帰りのHRが終わるなり、できるだけ無駄な動きを省いて駅に直行する。


 期待したらいけない。
 今日も会えたらいいなんて、決して思ったらいけない。

 そうやって意味もなく期待して、いつだって落胆してきた。だから今回だって期待してはいけないのだ。何度も自分に言い聞かせて足を進める。

 駅に向かうまでの道に咲いている桜が、おだやかな春風とともに出迎えてくれた。桜並木を見上げながら春を吸い込んで歩く。悪口や陰口で濁った心ですら、美しい桜に浄化されていくような気がした。
 前に視線を戻すと、それと同時に足が止まって、途端に目が逸らせなくなる。桜よりももっとわたしの視線を惹きつけるもの……ひと(・・)が、いたのだ。

「せん……っ」

 ふと出そうになった声は喉元で消えた。風にのって、薄紅色の桜がはらはらと舞う。まるで彼の登場を華やかにするための演出かと思うほど、美しかった。この瞬間だけ時が止まっているかのような、世界に彼とわたししか存在していないような、そんな錯覚に陥ってしまう。


……なんて綺麗なひと。


 ここまで桜が似合う人をわたしは知らない。さらさら、さらさら。手を伸ばして花びらに触れようとする彼は、儚く柔らかい表情をしていた。こぼれる桜が先輩の頭にひらりと着地して、淡いピンク色を添える。息をするのも忘れて、わたしはただひたすら、絵画のような瞬間を目に焼き付けていた。

 この美しさがいつまでも色褪せることなく、わたしの記憶に刻まれるように。

 そのとき、透き通った瞳がスッと流れて、立ち止まっているわたしを捉えた。思わず視線を逸らしてしまう。桜を映した目でわたしを見ないでほしい。あんなに綺麗なものの次だと、余計に廃れて見えてしまうだろうから。

「瑠胡! そんなとこで何してんだよ」

 けれど大きな声で呼びかけられて、そろりと視線を戻すと、小さく首を傾げてこちらを見る先輩と再び目が合った。トクン、とわけの分からない音がかすかに鳴ったような気がして、胸元を手で押さえる。

 名前、覚えててくれたんだ。
 たったそれだけのことがたまらなく嬉しかった。自然と口許が緩むのを自覚する。

「先輩……!」

 手招きする先輩に駆け寄る。ふわりと桜の香りが鼻腔をくすぐった。
 ふと、先輩の頭に花びらがついていることに気がつく。わたしの視線が動いたことに気づいた先輩は、「ん?」と小さく首を傾げた。

「花びら、ついてます」
「うそ、どこ?」
「左のほう。もう少し……あ、それはいきすぎです」

 なかなかとれずに何度も髪を触る先輩。そのようすが、クールな顔と合わないほど可愛くて、つい笑みが洩れてしまう。

「先輩、少しかがんでください」

 不思議そうな顔をしつつ、膝を折った先輩に一歩近寄って、少しだけ背伸びをする。

「失礼しますね」
「おう……さんきゅ」
「いえ」

 かなりの急接近だったことに気づいたのは、花びらをとって先輩から離れたあとのことだった。
 取った花びらから手を離すと、風にのってひらりと飛んでいく。白い花びらが、儚く舞っていった。

「普通は俺が取る側だよな……」
「え?」
「いや、なんでもない」

 誤魔化すように笑った先輩は、わたしの顔を覗き込んだ。わたしの表情を確認して、それからにっと笑顔になる。

「今日は泣いてないじゃん。頑張ったな」
「……いつも泣いてるわけじゃ、ないです」

 まるでわたしが毎日泣いているとでも言うような物言いに、ふいと視線を逸らすと「拗ねるなって」と額を軽く弾かれる。そんなものにすら心臓が狂いそうになってしまう今日のわたしは、どこかおかしい。

「昨日は泣いてたじゃん」
「昨日は、偶然です」

 出会いが涙から始まっているので、毎日泣いていると思われていてもおかしくないけれど、それは間違いなのできちんと訂正しておきたかった。
 先輩は「ほーん」と適当な返事をする。必要以上に踏み込んだり言及しないその返しが、とても心地よかった。

「今日は早い時間で帰れるっぽいな」
「ですね」

 駅のベンチに並んで座る。電車がくるまでまだ少し時間がある。たたずむわたしたちの頰をぬるい風が撫でた。

「今日はどうだった?」

 おもむろに先輩が口を開く。反射的な言葉が口から飛び出た。

「楽しかったです」

 すると、先輩の眉間にしわが寄る。嘘をつくな、というような鋭い視線が向けられて、ドキリと心臓が冷たい音を立てた。少し前屈みの姿勢で、先輩が顔を覗き込むようにしてくる。

「本当は?」
「……あまり」

 もう正直に言うことにした。どう足掻いたところで、この人にはすべて見破られてしまう、そんな気がした。いくら隠そうとしても、結局無意味なことなのだろう。

「何がつまんなかったんだ? 授業? 休み時間? それともよく分かんねえ何か?」
「よく分かんねえ何かです」
「あ、汚い言葉遣いが移った。瑠胡がフリョーになっちまう」

 おどけた口調の先輩に、自然と笑みがこぼれる。いつもは意識して口角を上げるのに、今は完全に無意識だった。目を線にして笑う先輩の顔があまりにあどけない。先ほどみた彫刻のような顔は笑っても崩れることがなくて、ふとその造形美が羨ましくなった。

「いつか、夜露死苦!とか言ってきたらどうしよ」
「そこまでいったら、もはや自分で学びにいってますから」

 ツッコミを入れると、お腹を抱えて笑う先輩。あまりに楽しそうに笑うものだから、つられて笑ってしまう。流れるように、片眉を上げた先輩が口を開く。

「不良少女の瑠胡サン、何かお困りで?」
「……人間関係ってほんとうまくいかないもんだな」
「おっ、意外と才能あるよ瑠胡」

 目を丸くする先輩にくすりと笑う。案外さらっとフリョー口調を真似できたことに自分でも驚いた。普段こんな話し方はしないので、どこか違和感があるけれど。

「で、人間関係なあ。確かに俺も苦手だわ」
「……あ」

 無意識のうちに悩みを口にしていて、慌てて口を覆ったけれど、もう遅い。先輩はにやりと悪戯っぽく笑っていた。

「誰かに何かされたのか。嫌なこと言われたのか」
「……逆、です。わたしが傷つけたんです」

 力なく首を振って言葉を落とす。一瞬息を呑んだ先輩は、それから小さく息を吐いて「なるほどな」と呟いた。

「どうせあれだろ? 友達の悪口に同調しちまったとか、そういうことだろ?」
「え、なんで」
「瑠胡は絶対に自分から人を傷つけたりしない。じゃないとそんなつらそうな顔してねえだろ」

 額を指で弾かれる。先輩にはなんでもお見通しだ。わたしが悪口に同調して人を傷つけてしまったこと、それで後悔してまた自分のことが嫌いになっていること。今まで気づいてくれる人がいなかったので、心にあたたかい感情が生まれた。けれど。

「でも、大丈夫です」

 話を聞いてほしいのに、口から出るのはこれまで幾度となく口にしてきた定型文だった。意識よりも先に口からこぼれてしまうその言葉は、今までのわたしを助け、そして何よりも苦しめたものだった。
 それは今も変わらずに、わたしの日常に張り付いてはわたしを苦しめてくる。

 首を横に振った先輩は、わたしの頭に手をのせた。ポン、ポンという二度の後、わたしの目を覗き込む。

「瑠胡はいま大丈夫じゃない。だから嘘つくな、ありのままでいい」

 言い聞かせるようなその口調に、固く閉ざされていた心が開かれていく。自分の気持ちが、素直な思いが繋がって、言葉として口から出ていきそうになる。


「自分の気持ちに正直になれよ、瑠胡」


 ありのままでいい。自分の気持ちに正直でいい。
 そんな言葉をかけられるのは初めてだった。

 自分の中だけに閉じ込めておくつもりだったのに、気づけば口を開いていた。


「人の悪口を聞いていると、自分が言われてるみたいになるんです。苦しくて、つらくて。人のこと悪く言ったところでメリットなんてないはずなのに。でも、その中で一人反論するのは怖いし、同調してる自分のこと、どんどん嫌いになっていくんです」

 彼女たちと離れてしまいたい。だけど、そんなことできるはずがない。すべて今更なのだ。

 入学式の日、ぽつんと一人で席にいたわたしに声をかけてきてくれたのが緋夏だった。派手な子だな、というのが第一印象だったように思う。ハーフツインと呼ばれる髪型で、目元にはキラキラとラメが光っていて。田舎の高校生にしては少々浮くのではないかと思うような、そんな身なりをしていた。

 名前を教えあって、アドレスを交換して、よく話すようになった。休み時間、移動教室、その他諸々において、緋夏はわたしを誘うようになった。それ自体は問題なかった。緋夏がわたしを求めてくれるのなら、わたしも一緒にいたいと思っていたから。

 けれど、わたしは緋夏の特別でも、唯一でもなかった。性格も飛び抜けて明るく、いつも笑顔を絶やさない緋夏の周りには自然と人が集まっていた。そうして形成されたグループは、誰もが緋夏寄りの系統の子たちばかりで、わたしみたいにいつも下を向いているような人間ではなかった。

 わたしだけが、浮いている。明らかにわたしだけが違う。異物のような存在。
 いつしかそんな状態になって、ここにいるべきではないと気づいたときには、すでに何もかも遅かった。

「だけど独りになりたくないんです。もう、どうすればいいのか分からなくて……」


 自分勝手な気持ちの末路だった。
 甘えたことを言うなと、自業自得だと罵られてしまうかもしれない。だけど、こんな思いを抱えていたら、きっと心が死んでしまう。


「……ひとりは、こわい?」


 控えめな先輩の問いに、うなずく。生きるときも死ぬときも結局はひとりなのに、それでもひとりはこわい。馬鹿馬鹿しくて情けなくても、ひとりでいいなんて絶対に言えない。わたしはそこまで強い人間ではない。

「情けないですよね。でも、やっぱりひとりになるのはこわいんです」
「別に情けなくないよ。世の中のやつらの大概はそう思って生きてるよ」

 「じゃないと孤独なんて言葉存在しないはずだろ」と先輩は天を仰いだ。そのときちょうど踏切の音が鳴り出す。

「だから、一人になれとは言わない。だけど、苦しいところにわざわざいる必要もないだろ。今は気がついていないだけで、案外居場所って近くにあるものだからさ」
「居場所……?」
「もし瑠胡が毎日居場所がないって考えてるなら、俺と会ってるこの時間だけは、俺が瑠胡の居場所になるし。必ず一個に絞って、ずっとそこで過ごさなきゃいけねえ決まりなんてないだろ?」

 白い歯を見せて笑う先輩。
 それでも、重かった身体が楽になっていくのを感じる。すうっと何かが抜けていくように、ネガティブな気持ちも言葉も、すべてが解消されていった。


 やっぱり、すごいひと。


 どうしてこんなに心が楽になるのだろう。彼は何か不思議な力を持っているのかもしれない。

「話すだけで楽になれることだってある。ただそれだけなんだよ、瑠胡」

 わたしの心を見透かしたように告げ、立ち上がった先輩。すらりと伸びた背が、夕陽を受けて影をつくる。くるりと振り返り、切長の目を細めた先輩は。

「すっきりしたら笑え。瑠胡は笑顔がいちばん似合ってる」

 と、どこか照れくさそうに、笑った。

──────


 ああ、また(・・)夢だ、と。
 そう唐突に理解したのは、目の前が青で染まっていたから。キラキラと水面に反射する光が、まっすぐにわたしに届いていた。

 さわ、と木の葉が揺れる。ふと何かの気配を感じて振り返ると、柔らかい表情でたたずむ少年がいた。

「あなたは」
『瑠胡ちゃん、はじめまして……ではないか。昨日ぶりだね』
「どうしてわたしの名前を……?」

 目を丸くすると、『昨日言ってくれたじゃない』と微笑む男の子。男性というより、本当に【男の子】という形容が合う少年だった。

 この夢は、前回の夢と繋がっているのだと理解する。やけにリアルで、到底夢だとは思えないけれど、それでもわたしを囲む空気がなんとなく、いつもの世界とは違って、どこか異質なものだった。

「あなたは、だれ?」

 おずおずと問うと、何度か目を瞬かせた彼は、口の端をあげてにこりと笑う。

『ハクトだよ』

 口の中で溶かすようにその名前を呟いてみるけれど、まったく聞き覚えのない名前だった。そもそも、ハクトと名乗るこの子が現実の世界に存在しているのかも分からない。わたしが勝手に脳内でつくりだした虚像である可能性だってある。

「ハクトくんは、いったい何者なの?」
『それはそのときが来たらわかるよ』

 そんな曖昧な返答をされてしまう。いちばん気になっていることを濁されてしまえば、わたしはもう何も彼に聞くことができない。口を閉ざすと、彼はわたしを見たまま少し微笑んで告げた。

『僕は瑠胡ちゃんが幸せになる手助けをしたい』
「どうして?」
『瑠胡ちゃんが幸せになれば、きっとアイツも幸せになれるから。そしたら僕も、幸せになれる』
「……アイツ、って」

 その問いにハクトくんは答えることなく、静かに首を横に振って目を伏せた。誤魔化すようなその仕草は、少年がするにはひどく大人びて見えた。

『ここでは我慢する必要なんてない。ぜんぶ海が受け止めてくれるから』

 叫んでもいい。嘆いてもいい。
 ここは何をしてもいい世界。

 つまりは、そういうことらしい。

『ぜんぶ吐いちゃいなよ。誰も(とが)めたりしないから。素直な気持ちを、ここでは出してもいいんだよ』
「素直な、気持ち」
『頑張りすぎてるからつらいでしょ。発散どころがないと、壊れちゃう』

 それを聞いて、途端に唇が震えだす。ちらりとハクトくんをみると、彼はいいよ、というようにしっかりと頷いてみせた。


 毎日毎日、叫んで逃げ出したくなる日々を過ごしている。けれど学校はおろか、家でさえわたしは自分の気持ちを押し込めて、一言も洩らしてしまわないように堪えている。
 どこかで誰かに聞かれるかもしれない。叫んだら、家族に何か思われるかもしれない。そんな恐怖で、いつもわたしは自分の気持ちが言えない。
 だけど、今は。叫んでも醒めない夢を見ているのだとしたら。

 大きく息を吸って、感情のままに声をだす。

「わたし、独りになりたくない! だけど無理してみんなに合わせるのは疲れた! もうぜんぶやめてしまいたい……!」

 濁流のように押し寄せる思いが溢れていく。今まで封じ込めてきた思い。それを今日は先輩とハクトくんのおかげで、こうして吐き出すことができている。

『もっと言っていいんだよ。瑠胡ちゃんが我慢する必要なんてひとつもない』
「悪口とか陰口とか、そんなのききたくない!! わたしに共感を求めてこないで! もう嫌なの! うんざりする!」

 声が響いたのち、静けさがおとずれる。漣の音が大きくなっていき、なんとなく夢の終わりが近づいていることを悟った。
 少しずつ、胸にたまっていたもやもやした感情が消えていく。自分の気持ちを言葉にしただけなのに、どこか爽快で開放的な気分になった。

『瑠胡ちゃんが困ったとき、つらくなったとき、いつでもここで待ってるから。無理して生きなくてもいいんだ。どんなにみっともない姿でも、周りの人みたいに上手く生きられなかったとしても、死なないでいてくれれば……ただそれだけで』

 眩い光がわたしを包み込む。優しく背中を撫でられているような、そんな感覚だった。

 あたたかい。優しい。

 ほわほわとした感情がわたしの心の中に入ってくる。静かに目を閉じると、意識が急激に吸い寄せられた。
 そしてこの青い夢から、醒める。


─────

「夢……」

 目を開けると、天井が見えた。やはり夢だったのだと理解する。けれど、夢の中で感じた爽快さは夢から醒めても残っており、素直に驚いた。
 毎朝身体と頭がだる重くて、朝一番に「学校行きたくない」という負の感情を抱くのに、今日はなぜかすっきりとしている。
 普段、感情の起伏が激しいわたしにとって、ここまで爽快な朝は久しぶりだった。

 爽快で、心地よくて、そして奇妙な夢だった。

*


 月に一度、我が校では委員会が開かれるらしく、今日の放課後はわたしの所属する環境委員会の集まりがある。

 指定された空き教室に向かって歩いていると、ふと、空にハート型の雲を見つけた。青色の澄んだ空にぷかぷか浮いているそれは、わたしの緊張した気持ちなどつゆ知らず、風にゆったりと流されてゆく。


 入学してすぐのHR活動で、アンケートにより委員会が決まった。学級委員は男女ともに立候補する人がいて、あっさり決定したけれど、その他の委員会は人気が偏るものも多く、かなり時間をかけての決定となった。

 特に体育委員会や文化委員会など、学園祭関連の委員会が人気だった。それらの委員会は業務内容が多く派手なので、とても目立つ。逆に、図書委員会や保健委員会、そして環境委員会といった、活動内容が地味なものは競争率が低く、そこまで揉めることなく決定することができた。


 もともと自主的に花壇の世話をしていたということもあり、早い時間に登校して水やりをすることにそこまで抵抗がなかったわたしは、環境委員会に入ることにした。
 やはり早めの登校と花壇整備は他の人にとっては苦らしく、女子はわたし一人だけの立候補だったのがありがたい。男子はなかなか決まらず、最終的にはジャンケンで決めていた。


 今回が初の委員会となり、三学年を通しての活動でもあるため少し緊張する。【環境委員会】と書かれたファイルを胸の前で抱きしめながら、わたしは空き教室に足を踏み入れた。


 すでに三年生のほとんどは集まっていて、窓側の席が埋まっていた。どうやら窓側から三年生、真ん中が二年生、廊下側が一年生となっているようだ。わたしは何度か髪に指を通しながら、指定された席につく。じゃんけんに負けて環境委員になった真陰(まかげ)くんは、まだ来ていなかった。

 真陰くんはとても明るく目立つ性格をしていて、わたしとは真逆の世界を生きている人だ。サッカー部に所属していて、定期試合にはたくさんの友達が応援に行っている印象がある。緋夏たちとの恋バナでも、過去に何度か名前が登場した。『真陰が』『真陰くんが』という呼び名を聞くたびに、苗字に【陰】が入っているのは違和感だなとこっそり思っていた。

 もちろんわたしは彼と話したことがなかったし、彼もわたしと話そうとする素振りを見せなかったので、ここにはわたしひとりで来た。
 けれど、委員会開始時刻まではあと五分。秒針が動くたびに、真陰くんは間に合うだろうかと不安がよぎる。

「あれ、そこ。男子の委員は?」

 委員長が教卓から声を張り上げ、周囲の視線がわたしに集まる。たらりと背中を冷や汗が伝い、急激に背筋が冷えていく。

「あ……えっと」

 カチ、カチと秒針の音がやけに大きく聞こえる。喉が焼けるように熱を帯びている。
 どうしよう。何か返事をしなければ変に思われる。
 こんなことなら、声をかけて一緒に来たほうがよかったかもしれない。
 
 沈黙を破るのはわたししかいないのに、絞り出した声はか細く、わたしの鼓膜だけを震わせた。
 あ、え、と曖昧なぼやきとも言えるそれを紡ぐことしかできない。
 そのとき、ふいに椅子が音を立てた。

「瑠胡」

 俯いていた視線を上げ、そっと声の主をたどると、そこには先輩の顔があった。先輩の青い瞳はまっすぐにわたしを見ていて、締まっていた喉が徐々にゆるくなっていく。

 お、ち、つ、け。
 わたしだけに見えるように口パクで伝えたあと、先輩は委員長のほうを見て「俺、さっき廊下でみたよ」と告げる。委員長の目が見開かれた。

「真陰、環境委員になったって言ってたんで。ここにいないってことは、空いてる席はどうせ真陰だろ」
「そうなんですか?」

 委員長に問われてこくりとうなずく。先輩は呆れたように眉を寄せながら腕を組んだ。

「ここに来る途中でフラフラしてるところを見た。たぶん、もうすぐ飛び込んでくるぐらいだと……」
「遅れました!!」

 タイムリーに飛び込んできた男子生徒を見て、笑いが起こった。おそらくこの場にいる全員が彼を【真陰】だと認識したのだろう。

 一気に注目を浴びた真陰くんは、「え、なんすか?」 と目を丸くしている。そして一人立っている先輩の姿を見ると、「新木先輩!」とさらに目を丸くした。

「新木先輩、どうしてここに」
「お前なぁ、高校生にもなって時間ギリギリはやめろよ。お前が遅刻しないことは分かってるけど、こっちがハラハラするだろうが」

 先輩にたしなめられた真陰くんは「サーセン」と頭を掻いてわたしのとなりに座った。カチリと時計の針が動き、時間ピッタリに全員集合だ。

 みんな、わたしが言葉に詰まっていたあの瞬間など、もう忘れているみたいだった。地獄のような沈黙は先輩のおかげであっという間に笑いに変わり、おだやかに流れ去っていく。
 ちらと先輩のほうを見ると、先輩はすでに前を向いていた。凛としたその姿勢に薄い光があたり、それがひどく綺麗だった。

 
*

 委員会が終わっても、なお教室に残っている先輩をしばらく見つめていた。声をかけるか、かけないかの二択を何度も頭のなかで繰り返す。
 ようやく答えが出た時には、教室にはわたしと先輩しかいなくなっていた。

「あの、先輩」
「お、来た」

 くるりと振り返った先輩は、笑っていた。どうして笑っているのか分からず困惑していると、先輩の腕が伸びてきてわたしの額を軽くはじいた。

「声かけるかどうか迷ってんのバレバレ。悩みすぎ」
「っ、それは……」
「ま、結果的に声かけてきたから上出来だな。褒めてつかわす」
「なんですか、その言い方……」

 じとりと視線を向けると、まったく気にせず笑ったまま、先輩はとなりの席の椅子を引き、わたしに座るよう促した。

「言いたいことがあったんじゃねえの?」
「……あ」
「待っててやるからゆっくりでいーよ」

 いーよ、というのびやかな口調に安心する。先輩は花壇役割の表に名前を書きながら、わたしに耳を傾けてくれている。

「……助けてくれて、ありがとうございました」

 先輩は、ふっと微笑んだ。心地よい春風が先輩の髪を揺らす。


「まかせろ」

 先輩の口角がくっと上がる。
 あの時、先輩が声を発してくれなかったら、今頃わたしはどうなっていたのだろうか。声を出すこともできずに、ずっと息苦しいままだったかもしれない。

 わたしは弱い。周囲の人よりもずっと心が弱くて、すぐに破滅的な気持ちになってしまう。

「瑠胡」

 ふいに名前を呼ばれて視線を上げると、先輩の柔らかな双眸がわたしを見つめていた。ほんの少し青みがかっていて、凛とした強さを持っているけれど、同時に優しさも溶けている瞳。
 この目に見つめられるたび、わたしはわけもなく安心してしまうのだ。

「焦る必要も、自分を否定する必要もない。瑠胡がピンチの時は、俺がなんとかするから。無理に変わろうとしなくていい」

 心臓が控えめに脈打った。自然と手に力が入って、合わせていた視線が左右に揺れた。

 先輩の目をまっすぐに見つめることができない。


 先輩はまた書類に視線を落として、役割分担表に名前を書き込んでいく。小さな筆記音の隙間に洩れるわずかな呼吸音が、この瞬間のすべてだった。


 あまりの静けさに鼓動の音が聞こえてしまう気がして、思いついた話題を口にしてみる。
 
「あの……真陰くんとはお友達だったんですか」

 すると先輩は表を書きながら「小学校のときの」と呟く。

「同じ学校だったんですか?」
「いや、地域のサッカーチームが一緒だったってだけ。アホそうに見えて、案外頭いいんだな、あいつ」


 きっと先輩は、偏差値のことを考えて言っているのだと思う。この学校に来てから、「人は見かけによらない」と思う機会が増えた。

 人は誰しも、意外な部分があると思う。

 たとえば、真陰くんみたいに普段はおちゃらけているのに学力面では文句のつけようもないほど好成績の人もいれば、普段は物静かなのに部活になると大声を張り上げてチームを引っ張っていく人もいる。
 女子の中で密かに噂されている同級生の男の子は、練習のときはだらだらしているけれど試合になると真面目になり、そこがギャップでかっこいいと、以前緋夏たちが話していた。

「先輩、サッカーしてたんですか」
「ガキの時に少しだけな」

 静かに目を伏せる先輩。
 その表情からは、先輩の心情がよく読み取れなかった。


「あの、どうしてーーーー」

 ーーーー辞めちゃったんですか。
 それを紡ぐ前にいきなり戸が開き、高い声が響いた。


「琥尋!」

 振り返ると、赤いラインの入った靴を履いている女子生徒がこちらを見ていた。ラインの色が赤ということは、先輩と同じ三年生だ。

「今日一緒にどっか行こうと思って待ってたんだけど、琥尋が全然来ないから戻ってきちゃった!」
「は? 何か約束してたっけ」
「してないけど、たまにはリラと遊びに行こうよ」

 自分を『リラ』と名乗った女の子の大きな目が先輩を見ている。

ーーーー先輩しか、見ていない。


 放課後に、約束もしていないのに一緒に出かける関係とはなんだろう。先ほどまで心地よい鼓動を続けていた心臓が、嫌な音を立てた。

「あの……わたし帰ります」

 先輩の顔を見られない。椅子から立ち上がって、うつむきながら『リラ』さんの横を通り過ぎる。通り過ぎる瞬間、ふわんと香った花の香りに、わたしにはない女性らしさを感じた。




「あの子ってさ、さっきの委員会で詰まってた子だよね」




 教室を出る直前、ひそめられた声量で『リラ』さんの声が聞こえた。さっきの、ということは、リラさんも環境委員会に参加していたのだ。先輩のことばかり見ていて、まったく気がつかなかった。

 自分の話題だ、と認識した途端にまた喉が詰まって息がしづらくなる。深い海に放り投げられてしまったように、溺れながら沈んでいく。


「さぁ……忘れた」

 そんな先輩の声を拾って、教室をあとにした。



 お腹の底に、もやもやとした感情が広がっていく。誰に何をされたわけでもない、ただ身勝手な感情なのに、それすら制御できない自分が情けなかった。

 

 夢で、ハクトくんに聞いてもらおう。

 最近すぐに出てくるようになった解決策。現実で溜まりに溜まった思いを、夢の中で発散させる。ここ最近で、いつのまにかそれが習慣化されてきていた。


 だからわたしは、今もまだ夢の中でハクトくんに話を聞いてもらうことでしか、前を向けない。現実世界では先輩に助けられ、夢の世界ではハクトくんに救われて、今日という日を必死に生きている。

 どん底だったわたしの人生は、二人に出会ったことによって少しずつでも向上し始めていた。



ーーーー少なくとも、あの日までは。

「ずっと思ってたんだけどさ」

 それは、四月も下旬に入ったころの、緋夏の一言がはじまりだった。
 放課後、いつものように駅に向かおうとしていたわたしに、緋夏たちが向かい合うよう並ぶ。
 それだけでなんとなく嫌な予感はしていた。
 黙ったまま、スッ、とくるみ色をした瞳が細くなるのを見つめていると、躊躇(ためら)いを微塵も見せない表情で、緋夏が静かに告げた。

「瑠胡って無理して笑ってるよね」

 その瞬間、糸が張ったように教室が静かになった。その言葉だけで教室の騒音が消え、教室中の視線がわたしたちに集まる。
 温度のない声、抑揚のないひどく落ち着いた口調。
 まるでロボットか何かのようだった。
 ドッドッと速くなる心音、あがっていく呼吸。身体の表面が冷たいもので覆われ、ぞくりと悪寒がする。それなのに、身体の中心はなぜだか燃えるように熱い。

「え……なんで?」
「だって瑠胡、全然楽しそうじゃないもん。無理してウチらに合わせる必要とか、ないし」

 ふっ、と蔑むように笑った緋夏は、「これからは絡まないから。だから安心して。ね?」と小首を傾げた。取り巻きたちも腕を組み、同調を示すようにうなずいている。

「いや、あの……っ」
「じゃあそういうことだから。ばいばい、木月さん(・・・・)

 
 呼び名を変えて、はっきりと線を引かれた。もう入ってくるなと、お前の居場所はここではないと、そう言われたような気がした。満足そうな笑みを浮かべた緋夏は、そのまま身を翻して教室を出ていく。取り巻きもそれに続いて、ニヤニヤと気持ちの悪い笑みを浮かべながら出ていった。
 ちらちらと周囲からの視線を感じる。

 かわいそー。だっさ。まじウケる。

 憐れみの目、笑いの対象を蔑む視線、滑稽な存在を嘲笑う声。そんなもので教室中が溢れているような気がして、たまらず目をかたく閉じた。

 今さら捨てられてしまっては、これからの学校生活において独りぼっち生活は不可避だ。グループが確立してしまったこの時期に見放されるなんて、わたしはどうしてこんなに要領が悪いのだろう。惨めでしかない。


 わたしはまた、失敗してしまった。

「……っ」

 何度呼吸をしても息苦しくて、鞄を掴んでそのまま教室を飛びだす。じわりと涙の膜が張り、それは水滴の形になって落ちてしまった。赤い目のまま廊下を走って昇降口へと向かう。すれ違った何人かが驚いたようにわたしを見ていたけれど、止まらなかった。

 もう高校生なのに、恥ずかしい。


 わたしはどうしてこうも弱いのか。ちょっとしたことで涙が出てしまうのか。我慢しようとすればするほど、脳内の自分が自分を(けな)すのだ。

 役立たず。無能。要領が悪い。生きる価値なし。

 そんな言葉が渦巻くから、自己嫌悪に陥って泣いてしまう。一度始まった負のループは止まらない。自分で自分の首を絞め、苦しめてしまう。

「今日は、会えないな……」

 呟いて、視線を落とした。
 こんなみっともない姿、見せられない。やはり泣いてばかりいるのだと呆れられて、嫌われるのが怖かった。
 学校を飛び出して、近くにあったコンビニに入る。顔が見えないようにうつむきながら不織布マスクを買い、すぐにつけた。マスクの中で息がくぐもる。呼吸がしづらくなったその感覚に、なぜだかひどく安心した。
 みじめな顔をこれ以上晒していたくなかった。すべて覆い隠してしまいたかった。
 涙でマスクが濡れてひどく気持ちが悪い。それでも、こんなみっともない泣き顔を晒すよりはマシだった。

 いつもより二本遅い電車に乗ろう。そうしたら、先輩と会うことはきっとないはず。
 公園のベンチに座って、そんなことをぼんやりと考える。泣いたせいで腫れた目は、一向に治りそうになかった。頭がだる重い。まるで大きく重たい石が頭の上にのっているような感覚だ。
 
 これからわたしは、ずっとひとりなのだろうか。

 ハブられた可哀想な人として、認識されてしまうのだろうか。わたしは普通になりたいのに、悪い意味で普通ではなくなってしまった。ひっそりと生きるどころか、完全に悪目立ちしている。
 あとからあとから涙は溢れてくる。どんなに手で拭っても、まったくといっていいほど無意味だった。せめて呼吸だけでも落ち着かせるため、はあ、と深くため息を吐いたそのときだった。

「どうしたの? あの、よかったらこれ使って?」

 ふいに横から声がして肩が跳ねる。鈴を転がしたような可愛らしい声だった。

「急にごめんね。なんだか困ってるみたいだったから、つい声をかけてしまったの」

 ゆっくりと顔をあげると、困ったように眉を寄せてハンカチを差し出す女の子がそこにいた。彼女の整った顔立ちに、思わず息を呑む。
 ぱっちり二重と高い鼻、ピンク色の薄い唇となにより加工アプリのようなツヤ肌。今まで可愛らしい女の子はみたことがあったけれど、誰から見ても「可愛い」と断言できる美貌を見るのは初めてだった。

「今日はたまたま二枚持ってたから、こっちは使っていないの。少し冷やしたほうがいいかなって思って持ってきたんだけど、余計なお世話だったらごめんなさい」

 困惑したままハンカチを受け取って目に当てると、ひやりとした感覚が伝わってくる。じわりと涙が染み込んでいく。

「考えるより先に身体が動いちゃうタイプなの。だからよくおせっかいって言われちゃうけど、今回だけは許してね」

 顔をあげると、にこりと笑みが降ってきた。どきりと心臓が跳ねる。同性をも惹きつける魅力が、彼女の微笑みにはあるようだった。

 同じ制服のはずなのにわたしよりもずっと似合っている彼女は、小さく歯を見せて笑った。ずっとにこやかな笑みを絶やさない彼女は、人を惹きつける魅力がある。
 いったい誰なのだろう。落ち着きようや雰囲気から、もしかすると先輩かもしれない。

「あの……あなたは」

 問いかけると、小さく微笑んだ彼女はまっすぐにわたしの目を見て告げた。

「私、古園琴亜(ふるぞのことあ)。一年五組です」
「……え」

 古園。その苗字には聞き覚えがあった。どくっと心臓が脈を打つ。
 一度耳を通った言葉が記憶となって、濁流のようによみがえってくる。

『小テストじゃなくて、五組の古園さんが嫌いだって話をしてたんだよ』
『なんか調子乗ってると思っちゃうんだよね。自分で自分のこと可愛いとか思ってそうで嫌い』

 以前、緋夏たちとの会話で出てきた女の子。五組、古園。たったそれだけのキーワードだったけれど、すぐにわかった。間違いであってほしいと願いながら、それでも心のどこかで妙に納得してしまう自分もいた。
 だって、彼女は可愛すぎるのだから。あの人たちの嫉妬の対象になってしまうのだってうなずける。

「となり、座ってもいい?」
「あっ……うん」

 目にハンカチを当てたままこくりとうなずく。安堵したように息を洩らした古園さんは、背負っていたリュックを前で抱えるようにして座った。

「お名前は?」
「木月……瑠胡です」
「瑠胡ちゃん。可愛い名前だね」

 えへへと笑う古園さんは、本当に可愛らしかった。どうしてこんな人があんなにも酷いことを言われなければならないのか分からない。それと同時に、わたしはこんなに優しい人を傷つけてしまったのだと罪悪感が渦巻いていく。消え入りそうな謝罪が醜い口からこぼれていく。

「ごめんなさい……ごめんなさ……っ」
「どうして謝るの? 瑠胡ちゃんは何も悪いことしてないのに」

 見えないところで、わたしはあなたを傷つけた。それなのに、なぜか被害者ヅラして泣いている。泣く資格なんてわたしにはないのに。
 眩しい古園さんと、影のようなわたし。緋夏に見放されたくなくて、自分を偽って古園さんを貶したのに、結局緋夏にも見捨てられてしまった。

「泣くのは悪いことじゃないんだよ。いっぱい泣いてすっきりするなら、いくらでも泣いていいんだから」

 あたたかい手が背中をさすってくれる。優しさを感じてしまえば、あとからあとから涙は溢れてきた。いい加減、初対面の人の前で泣くのをやめたい。ぐっと唇を噛むと、久しぶりに痛みを感じた。

「こんなこと初対面で訊くのはおかしいかもしれないけど……瑠胡ちゃんってHSPだったりする?」

 充血した目を向けると、「なんとなく、私と同じような気がして」と告げられる。

「……HSPって、なに?」
「簡単に言うと、繊細な人のことかな。今はネットでもいろんな情報が出てるし、診断もできるみたいだからやってみたらいいかも。もちろんその診断結果が全てではないけど、たぶん瑠胡ちゃんは私と一緒な気がする。まあこれは私の勘だから、あまり気にしないで」

 ふふっと笑う古園さんからは、敵意をまったく感じなかった。

ーー敵意、だなんて。

 わたしはいつからか、周りの人間はすべて敵なのだと思うようになっていた。話すより先に距離をとる。疎ましく思われないために、邪魔だと思われないために。
 ささいな表情の変化で、その人の気持ちというものは案外伝わるものだ。それらを敏感に感じとってしまうから、いつしか人に怯えるようになってしまった。

「生きづらさを感じる人が全員HSPだって決めつけはよくないってことは知ってるの。だけど、知識として知っているか知っていないかだと、きっと前者のほうがいいと思うの。誰だって安心するでしょ? 考えすぎてしまうのは自分の体質なんだって自分を認めることができるから。自分を否定する回数が減るのなら、わたしは調べてみるのもありだと思うな」
「……」
「もし瑠胡ちゃんが周りとうまくいかなくて、苦しむことがあったらね」

 ふうっと息を吐き出した古園さんは、わたしと視線を合わせて微笑んだ。

「そのときは、私が瑠胡ちゃんの味方になるから。きっと、私たちならこの生きにくさを分かち合えると思うんだ」
「古園さん……」
「だからね、瑠胡ちゃん。私の前では我慢しなくていいんだよ」

 あたたかい涙が込み上げてきて、ハンカチで目元を押さえる。すべてを包み込むような優しさを向けてくれる彼女。

 緋夏たちの話とは全然違う。ぶりっ子でも、調子に乗っているわけでもない。心から、こんなにも優しい人だ。それなのに、噂で勝手に決めつけて、見たこともないのに同調して。
 わたしはなんてひどいやつなんだろう。それでいて、どうしてこの子とは何もかもが正反対なのだろう。

「私、琴亜。そう呼んでくれると嬉しいな」

 わたしにその名前を呼ぶ資格があるのだろうか。しばらく黙っていたけれど、宝石を埋め込んだような目をこちらに向ける彼女の圧にあっさりと敗北してしまう。

「……ありがとう、琴亜ちゃん」

 小さく呟くと、琴亜はふわりと嬉しそうに笑った。
 守りたくなるような、無邪気な笑顔だった。


──────


 カタカタと、夜中の部屋に響くタイピング音。両親が起きないように忍ばせながら、息を潜めるようにして指を動かした。

【HSPとは】
【HSP どうなる】
【HSP 改善方法】

 そんな履歴で画面が埋められていく。その中で、【HSP簡単セルフチェック】という記事を見つけ、すかさずクリックする。どうやら表示される質問に答えれば、簡単にHSPかどうかの診断が受けられるようだった。

 質問は本当に簡単なものばかりだった。けれど、わたしが日々思っていることや感じていることに関する質問が多く、自分という存在が紐解かれていくような、そんな気がした。

 診断結果は、HSPである可能性が高いとのこと。無論、これが必ず合っているというわけでも間違っているというわけでもないけれど、知って損はないので、深呼吸をしてから詳細について見ていく。



【HSP(ハイリー・センシティブ・パーソン)】

・感受性が強く、繊細
・音や光など、周囲の刺激に敏感
・環境の変化に弱い
・強い感情に敏感
・HSPは生まれ持った性質のことで、病気ではない

 書いてあること一つひとつが、自分に当てはまっていく。散らばったピースがひとつにまとまるような感覚だった。ここまではっきりと結果に頷ける診断は初めてで驚く。

 特徴やストレス解消方法、向いている仕事や人との付き合い方。そんな情報がどんどん出てきて、夢中になって調べた。
 ノートにメモをとっていく。あっという間にページが埋まり、次のページに書き込んでいく。
 そんな作業を続けていくと、HSPに悩む人は案外多いことがわかった。
 五人に一人。
 数値ではそう出ているらしい。

 意外だった。ものすごく少ないと思っていたのに、知らないだけで同じ思いを抱えている人がたくさんいるのだ。わたしだけじゃない。

 HSPは生まれ持った性質のこと。決して病気ではない。
 だから自分は人よりも繊細なんだと、人となりを受け入れることができれば、今の状態よりも楽になれるかもしれない。

 今まで自分だけが味わっていると思っていた生きづらさは、決して無意味なものではなかった。おかしなことではなかったのだ。
 それだけで、肩の力が抜けていく。

 正直、これが分かったところで今の状況が変わるわけではないし、生きやすくなるわけでもない。けれど、自分の生き方を変えることはできる。ほんの少しでも、微々たる差でも。

 ほんのささいな意識の変化で、世界はガラッと色を変える。

 その第一歩を、自分自身で踏み出せたような気がした。けれどすぐに、明日からは緋夏たちがまわりにいないのだと思い出し、また気分が落ちていく。
 わたしは完全にひとりになってしまった。明日からわたしはひとりで、学校に耐えることができるだろうか。
 まるで地獄。
 今のわたしの状況を一言で表すならば、それだった。
 八時十五分をさす腕時計に視線を落としながら、耳だけに神経を集中させる。昨日遅くまでHSPについて調べていたせいで寝坊し、今も寝不足で頭が痛い。周りの人たちの声が余計に大きく頭に響いて、うずくまりたくなるのを必死に堪えている。

「さーちゃんおはよー」
「シータいる? 数学の教科書貸してちょーだい」
「うわ、英語の課題プリントやってない! 誰か写させて」

 ガヤガヤと喧騒に包まれる教室の前で立ち止まり、深い息をゆっくりと吐き出す。この感覚は何年ぶりだろう。何度経験しても、絶対に慣れることはない。
 誰も味方がいない場所に独りで立ち向かっていく勇気、というと、どこかのヒーローのように聞こえるけれど、現実はそんなに勇ましいものではない。むしろビクビクと怯えているこの姿は、誰にも見せられないほど惨めだ。わたし自身、こんな自分がみっともなくて大嫌い。

 となりを過ぎていくクラスメイトが、立ちすくむわたしに訝しげな視線を向けて、それから何事もなかったかのように教室を出ていく。その扱いは、たとえるなら空気。果たしてわたしの姿が見えているのか、そんな憶測すらきっと不要だろう。
 どちらにせよ、わたしはそれらしい価値を見出してもらえなかったのだ。
 カチ、カチと時計の秒針が時を刻んでいる。

 大丈夫。わたしは、だいじょうぶ。


 心のなかで唱えながら、トントンと胸を叩く。「お願い、強い自分出てきて」と内に秘めたもう一人の自分にノックをしているようだった。

 教室に入った瞬間、水の中に飛び込んだように途端に息ができなくなる。苦しくて喘ごうにも、喉が潰れてしまったように、声を出すことができない。空気で肺を満たすことすら、今のわたしには容易なことではなかった。

 チラチラと周囲の視線を感じる。まるで主人公にでもなったみたいだ。ただ、注目される理由は正反対だろうけれど。
 すべての視界を遮断するように、うつむきながら席につく。その間もずっと嘲笑われているような気がして、「消えたい」を頭の中で永遠と繰り返していた。

「おっはよー!!」
「わー、緋夏! おっはよ」
「おは〜」

 一際目立って登場したのは緋夏だ。取り巻きたちが飛びつくように挨拶を返す。緋夏は、今日も今日とて巻き髪にネイルにと、とびきりオシャレな姿で立っている。
 ちらとわたしを一瞥した緋夏は、それから何も見なかったかのようにスッと視線を流した。

 ああ、あっけない。


 友情という名の繋がりは、こんなにも脆いのだと。今まで必死に築いてきたはずのものは、まったくもって無意味だったのだと。ここまではっきりと拒絶されてしまっては、悲しみや怒りなどの片鱗すら浮かんでこなかった。

ーーそもそも友情と呼べたのかすら、定かではないのに。


 この状況に納得してしまっている自分は、きっと彼女に対して初めから期待をしていなかった。彼女がわたしをあっさり捨てることができるように、わたしもまた彼女を信頼していなかったのだとここにきてようやく気がつく。
 お互いが偽りだけでできた、くだらない関係だったのだ。


────────
─────


 移動教室、昼休み、放課後の清掃活動、すべてにおいてわたしは独りだった。
 独りでいることが寂しくて嫌なのではなく、"独りでいる人"という見方を周りの人からされるのが嫌なのだ。"可哀想な人"という肩書きを理不尽につけられることが耐えられない。

 ねえ見て、ハブかれてる。
 うわ、かわいそー。

 どうせ陰で言われているのだろう。グループから外されてしまったのは事実でしかないから、さらに惨めで消えたくなる。
 教室にいる全員から、"可哀想な人"として哀れみの目を向けられているかもしれない、なんて被害妄想が自分でもとどめられないほどに膨らんでいく。

 ホームルームが終わり、ぞろぞろと人が退散し出した頃、

「木月」

 と、ふいに出入り口付近で引き止められた。振り返ると、ちょいちょいと手招きをする先生がいた。
 何だろうと不思議に思いながら近寄ると、「木月」ともう一度わたしを呼んだ先生は、積み上がった資料集の上にポンと手を乗せた。

「悪いがこれ、資料室に持っていってくれないか。木月は確か帰宅部だっただろう」
「え、はい…… 一応、そうです……けど」
「じゃあ頼めるか。学級委員の山根も岡崎も、部活があって無理らしくてな。いやぁ、木月がいてくれて助かったよ」

 問答無用。わたしの意思などまるで関係ない。
 わたしの返事を聞く前に、半ば強引に仕事を押し付けた担任は、「じゃあよろしくな」と大して気持ちのこもっていない挨拶をして足早に教室を出ていった。残ったのは、勢いに呑まれたわたしだけ。

 電車の時間に間に合うだろうかと、そんな不安が頭をかすめる。けれど、こうして無駄に悩んでいる時間さえもったいなくて、身体の前で抱えるように資料集を持ち上げた。鞄を肩にかけたままなので、その重さといったら半端じゃない。か弱い女子認定されていないことは分かっているけれど、せめて少しくらいは気遣ってほしかった。身体の構造上、男の子とは圧倒的に持っている力が違うのだから。

「重た……」

 二回に分けて運ぶのは面倒だからと一気に持ってきてしまったけれど、横着せずに分けていればよかったかもしれない。小さな後悔が芽生える。


 廊下を歩いていると、どこからかトランペットの音色が聴こえてきた。きっと吹奏楽部だろう。
 音楽室は三階にあるはずなのにこんなところまで聴こえるなんて。そう思っていると、階段をのぼった先にあるガラス張りになった場所で、数人の女子が演奏をしているのが見えた。俗に言う、パート練習というものだろうか。
 普段、ホームルームが終わるなり駅に直行するわたしにとってその光景は珍しいものであり、それと同時にわたしにはない青春(・・・・・・・・・)を仄めかすような、そんな不思議なものだった。胸の奥がキュッと締め付けられるような感覚がする。

 もしも部活をしていれば、もっとクラスに馴染めていたのだろうか。もっとたくさんの友達に囲まれて楽しく生活していたのだろうか。そこまで考えて、ふるふると首を横に振る。
 わたしが孤立しているのは、何と言おうとわたし自身の内気な性格に問題があるからだ。部活に入っていなくても、すでにクラスに溶け込んでいる人なんて山ほどいる。もちろん、部活に入ることで繋がる縁もあるだろうけれど、最終的にはその人の性格次第だろう。

 考えれば考えるほど、どんよりと気分が落ち込む。今わたしが苦しいのは、全部わたしのせいだ。自分を変えることができるのは自分だけだと知っていながら、他人に助けてもらうことを望み、甘えた感情に縋ってしまいたくなっているのだ。

「……情けない」

 自分には、とっくに呆れてしまった。期待したところで無駄だ。わたしはいつも、自分の期待に応えられない。
 ため息をついて、廊下の角を曲がろうとした時だった。

「────っ!!」

 ちょうど向こうから曲がってきた人と衝突し、わたしは声を上げられないままその場に倒れ込んだ。その拍子に、抱えていた資料集が床に散らばる。ジンジンとぶつかった箇所が響いて痛い。立てずにうつむいていると、「木月さん?」と声がした。
 おそるおそる視線をあげると、すぐそばに真陰くんの顔があって、心臓が縮み上がった。委員会が同じということしか接点がなかったのに、ぶつかるという最悪なかたちで関わってしまった。

「ごめん、大丈夫?」

 差し出された手を凝視した。
 彼はこうやって誰にでも手を差し伸べられるのだ。たとえ委員会が同じという接点しかなく、たいして話したことのない人間が相手だったとしても。
 その手をとるのが、こわかった。唇が震える。

 大丈夫、ありがとう。
 こっちこそぶつかってごめんね。


 たったそれだけのことが、わたしには言えない。

 結局わたしは何も変われていない。そう痛感する。
 少しずつでも、自分の気持ちを吐露することができるようになっていると思っていた。先輩と出会って、ほんのわずかでも自分は変わり始めていると思っていた。けれど、それはすべて勘違いだった。
 結局わたし一人では、ただ下を向いて震えていることしかできない。


「だいじょう、ぶ……です」

 なんとか絞って出した声は、ひどく掠れていて言葉になっていたのかどうかも分からない。果たして彼に届いたのか、そんなことを考える余裕すらわたしにはなかった。
 いつまでもわたしのために彼の時間を使わせるわけにはいかない。その一心で使ってしまった「大丈夫」に、胸が締め付けられたように苦しくなる。


『瑠胡はいま大丈夫じゃない。だから嘘つくな、ありのままでいい』


 やはりわたしは先輩の前でないと自分の気持ちを口に出せない。救いを求めることができない。はやく先輩に会いたい。彼に会って話がしたい。


「それ、一人じゃ大変だよね。俺、運ぼうか」
「……え、いや」

 散らばった資料集を拾い集めて、太陽みたいな笑顔で話しかけてくる真陰くんがまぶしくてうつむいた。手を煩わせたくない。これ以上、一緒にいたくない。いられない。
 はやく、ひとりになりたい。

 ふるふると首を横に振ると、真陰くんはしばらく動きを止めていたけれど、「そっか」と言って去っていった。


「……ふ、っ」

 居心地が悪くて息苦しかった場所から一気に解放されたような気分になる。無意識のうちに止めてしまっていた呼吸を何度も繰り返して、悲鳴をあげていた肺を酸素で満たした。



 なんとなく分かっていたことだけれど、資料室のドアは古びていて建て付けが悪かった。力を加えてドアを開けると、鼻が曲がりそうなほどのほこり臭さに吐き気をおぼえる。はやく部屋を出たい一心で、資料を台にどさっと置いた。

 頼まれたことはやった。先生も、これで文句はないはず。
 息を吐くのすら惜しくて、逃げるように資料室を出る。


 肩を上下させながら昇降口につく。
 やっとこの地獄の空間から解放されると思うと、全身の力が抜けていくような気がした。脱力するのをなんとか堪えながら外に出る。

 そのときだった。
 地面が割れるような激しい音とともに、大粒の雨が空から降り注いだ。辺りが光り、直後雷鳴が轟く。木の葉の音と吹きつける風が不協和音を奏でて、灰色に覆われた空気を震わせていた。


「……あ、傘」

 小雨とは言えない雨量なのに、傘を持ってくるのを忘れていた。春だからと完全に油断していたのだ。ここまで激しく降られるとは思っておらず、落ち込んでいた気分がさらに降下していく。

 このまま雨が止むまで校舎で待とうかと思ったけれど、帰宅時間が遅くなるのが面倒で、その考えはすぐに消えてしまった。それに、待っていたからと言って雨が止むとは限らない。最悪の場合、今よりもひどくなるかもしれない。走ればギリギリ間に合う時間なのだから、ここは覚悟を決めて駅に向かうのが妥当だろう。

 体力が壊滅的なわたしにとって、駅まで走るということは思っていた以上に困難だった。ずいぶん走ってなかったせいで体力は底をついているのに、自分の力を過信していた。足を進めるたび、地面に溜まった水が跳ねる。容赦なく打ちつける雨は、制服も鞄も何もかも黒く濡らしてしまう。わたしの心でさえ、雨に黒塗られてしまいそうだった。

 肩で息をしながら必死に走る。遠くなのか近くなのか分からない距離で雷が響いている。目の前に落ちたらどうしようと、幼いときから変わらない思考を巡らせたまま、ただひたすら駅を目指した。


 今日は最悪な日。
 今日の楽しかったところをあげようとしても、何ひとつ思い浮かばない。この瞬間わたしは心から笑えていた、と。そんなふうに思える時間が一秒もなかった。
 それならせめて、一日の終わりに。彼と話す時間があってもいいのではないか。
 わたしにとってそれは、つまらない毎日の中で唯一の楽しみなのだから────。




「先輩!!」

 雨に濡れてぐしゃぐしゃの状態のままホームに飛び込む。全身が濡れ、見ていられないほど悲惨で恥じるべき格好だったとしても構わなかった。ただ一秒でもはやく彼の姿をこの目で見たかった。できるだけはやく今日のことを話したくて、乱れた呼吸のまま前を見据える。

 少しでもいい。一瞬だったとしても構わない。
 彼の顔を見て会話することができたら、それだけでじゅうぶんだった。



 けれど、先輩の姿はそこにはなかった。


「……いない」

 叩きつけるような雨の音と、地を割るような雷だけが鳴り響いている。それはまるで、わたしにすべての終わりを告げているようだった。
 今日という日をどん底に突き落とすような出来事に、目頭が熱くなる。そのまま視界が歪んで、ホームに鎮座するベンチも、雨風で散る桜の花びらも、何もかもが見えなくなった。
 どんよりと覆われた薄灰の空と滝のような雨、地に張りついた桜。目に映る景色は最悪以外のなにものでもなかった。けれど、景色などわたしにとってはどうでもよかった。
 たとえ雨で濡れようと、湿気で髪がうねろうと、桜が見られなくなろうと、それらはきっと我慢できる。けれど、いちばん耐えられないのは。

 先輩がいない。
 ただそれだけの事実が、何よりも心を苦しめる。

「なんで……いないの、せんぱい……っ」

 耐えられなくなった膝からガクッと崩れ落ちる。溢れる涙が、降りかかる雨に紛れて地面へと落ちてゆく。
 暗くて、真っ黒で、息苦しい。色付いたはずの世界は、またモノクロに戻ってしまった。

 嗚咽は雷鳴が消してくれる。涙は春雨が流してくれる。
 わたしは幼い子供のように感情に身を任せて泣いた。必死に抑えようとしても溢れ出るそれは、もう止まらなかった。


 そこからは、どうやって家に帰ったのかよく覚えていない。ただ、夜通し雨が降っていて、その音をぼんやりと自室で聞いていたような気がする。意識がはっきりとしてきた頃には、薄く澄んだ空気とともに、夜が明けていた。

 翌日は学校を休んだ。睡眠負債のせいで頭痛がしていたし、雨に打たれたせいで身体も少し熱っぽかった。
 午前中は家で寝ていて、体力が回復した午後は、シャーペンの芯とノートがなくなっていることを思い出したので母の買い物についていきたいとお願いした。
 母は「買ってくるわよ」と言ってくれたけれど、シャーペンの芯にもノートにもこだわりがあったので自分で直接選ぶことにしたのだ。

 訪れたショッピングモールで、年始の一度だけ親戚の集まりで顔を合わせる女性に偶然会った。彼女は母の妹──つまりわたしの叔母にあたる存在で、遠方で暮らしているためなかなか顔を合わせる機会がない。


「どうしてこんなところにいるの? 連絡してくれればよかったじゃない」
「仕事の関係でたまたま戻ってきてたの。連絡してなかったなんて、あたしったらうっかりしてたわ」
「もう、昔からあなたはそうなんだから……」


 はきはきしている母とは対照的に、叔母さんは昔からおっとりしている。親戚の集まりでも、大人同士の話題に自ら参加するわけではなく、少し離れたところで控えめに笑っているのを何度も見た。

 楽しそうに会話をする二人を見ていると、ふと、叔母さんは母に向けていた視線をわたしに移した。おだやかな双眸がわたしをとらえる。


「瑠胡ちゃん、学校はどう? 楽しい?」


 その言葉が耳を通り抜けた瞬間、心臓がぎゅっと縮まる感覚がした。
 目を合わせるのがなんだか気まずくて、ゆるくパーマのかかった髪ばかりに視線が向いてしまう。
 脳内で、ゆっくりと質問を反芻した。


 学校は楽しいのか。
 

 学生に会った時、大人が必ず訊く典型的な質問。
 この質問には、あらかじめ模範回答がある。


 わたしは口の端をあげて、無理やり笑みのかたちをつくった。

「はい、楽しいです」

 すると叔母さんは「あらそう、頑張ってね」とにこやかに笑って、また母との世間話に花を咲かせる。わたしは少し離れた場所で、強く唇を噛んだ。

 もし、いいえと答えたならば、彼女はどんな反応をするだろうか。母は、どんな反応をするのだろうか。
 きっと、「楽しくない」なんて反応が返ってくるなど思わないだろうし、わたしがいくら暗い顔をしたって、親戚というつながりしかない彼女には関係ないことだ。おそらく困惑されるか、軽く流されて終わりだ。


 無理やり楽しい素振りをするだけで、精神が削られていく。
 わたしはいつまで、こうして嘘を吐き続けるのだろう。


 母と叔母さんを見やると、まだ話は続きそうだった。そっと二人のもとを離れて、文具コーナーに行く。


 昔から、文具コーナーを眺めるのが好きだった。買うわけでもないのに、並んでいる製品を見ているだけで満たされた気分になる。それぞれの製品に工夫がなされていて、たくさんの人の努力を概念的に感じられるからかもしれない。


 中学の時からずっと使い続けているシャー芯を手に取る。『ずっと手綺麗、文字綺麗』のキャッチコピー通り、書いている途中に手でこすれても、紙や手が汚れない仕組みになっている。
 文字を書くたびに汚れた手を洗う手間が省けるので、長年の愛用品だ。


 シャー芯を選んだあと、ノートコーナーで五冊セットのノートを選び、その他に何か足りないものはないか考える。もともと物をあまり多く持ち運ばないタイプなので、しばらく考えてみたけれど特に不足している物はなかった。


 母たちの会話は終わった頃だろうか。
 もし終わっていなかったら、わたしはその間何をして時間を潰せばいいのだろう。


 ぐるぐると行き場のない気持ちが胸に広がって染みを作っていく。
 


 わたしの生活は、わたし中心で回ってはいない。わたしは家族の生活リズムに合わせて生活しているし、学校では緋夏たちに同調して過ごしていた。

 母の世間話が長いからと言ってわたしだけ早めに帰ることはできないし、少なくとも今は母中心の生活にわたしが合わせなければいけない。


 自分で自分の行動を決めるのは、わたしにとってとても難しいことだ。

 人に言われたとおりに動いて、上手くいくように努めて、予定通りいかなければ自分のせいではないと責任転嫁をする。

 わたしは今までもこれからもずっと、そうやって弱くずるく生きていくしかないのだ。



 ふと、シャーペンを眺めていると、委員会の日に先輩が握っていたシャーペンを見つけた。無意識のうちに近寄って手に取っていた。

 ぶわっと先輩の顔が浮かんで、泣きそうになる。
 昨日、先輩は駅に現れなかった。

 長いトンネルの中に潜ってしまったように、先が見えない。
 この先に、出口があるのかどうかすら分からない。




「……先輩」


 先輩とまた会える日が来るのか。

 その答えはまだ分かりそうになかった。
 

 それからしばらく、先輩は駅に現れなかった。教室でのわたしの立ち位置もとくに改善することはなく、もう諦めるよりほかなかった。
 少しずつ上がっていた気持ちが、また一気に降下していく。気持ちの起伏に酔ってしまいそうだ。

 最悪なことに、いくら寝ても寝た気がしない。そのせいか、ハクトくんが現れる不思議な夢も見られなくなった。
 現実でも夢でも、気持ちの吐き出し場所がない。先輩とハクトくんに出会う前のように、自分の中に悩みや黒い感情がたまっていく。

 布団の中で目をつむっても、一向に眠気がやってこない。仕方なく、適当にかけてあったカーディガンを羽織って、部屋を出る。息を潜めて覗くと、リビングでは両親がなにやら言い争いをしていた。

 またか。

 内心でため息を吐きつつ、玄関へと足を進める。ドアを開けると、一気に夜がわたしを包み込んだ。ドアの開閉の音すら、母たちには聞こえないらしい。そのことにどこか安心して、夜の世界に飛びだした。

 夜は、街がガラッと顔を変える。
 どこまでも静かで、ヒヤリとしていて、ふとした瞬間に消えてしまいそうになる。まるで自分という存在が夜の一部になってしまったみたいだ。

 息遣いを消すほどの喧騒がない。ひそめるように息をしながら、どこへという目的地すらなく歩いた。ふと、公園の前で足が止まる。昔、よく母と来ていた公園だった。

「なつかしい……」

 キイ、キイと、ブランコを漕ぐたび音が鳴り、それが面白くて毎日のようにここで遊んでいた。ゆっくりと歩み寄って、ブランコに座る。音が鳴るのを期待して少し揺らしてみたけれど、何の音もしなかった。

 ああ、と小さく落胆する。
 わたしが知らない間に、このブランコは新しいものに替えられてしまったのだ。


 そんなの、当たり前だよね。


 いつまでも過去にこだわっていたところで、時間は止まらず進んでいく。過去に戻りたいと願っている瞬間ですら、わたしたちは前へと進んでいるのだ。

 スマホを取り出して、メッセージアプリを開く。そこにピン留めされているのは、中学時代の親友だった。

彩歌(あやか)

 何があっても彼女だけはわたしの味方だと何の根拠もなしに信じられるほど、絶対的な親友だった。クラスも、部活もずっと一緒。学校生活をともにする時間が増え、自然と休みの日も一緒にいるようになった。どうしても予定が合わない日は電話、それも無理ならメール。

 恋人と言っても通用するのではないかと思うくらい、とても仲がよく離れ難かった。きっとわたしがここまで恋愛皆無で成長してきたのは、彼女よりも優先順位が上になる人が存在しなかったからだろう。彼女に対して恋愛感情を抱いているわけではないけれど、他の人たちが恋人に向けるであろう情熱のようなものを彼女に注いでいたのは確かだった。そして彼女もまた、同じように思ってくれていたはずだ。

 女の子同士の友情というのはそんなものだろうと思う。普通の友達と親友は、まったく別物だ。親友の前というのは、家族の前よりも素の自分でいられる唯一の場所なのだ。
 親友の前では必死に背伸びをして、自分を取り繕う必要などない。


 けれど高校に入学してから毎日会うことはできなくなり、電話をすることもなくなった。




「……電話はわたしのせいなんだけど」

 短いぼやきが夜闇に消えていく。
 心優しき親友は入学してから毎日連絡をくれていた。どんなに短い時間だったとしても、必ず電話をかけてくれた。けれど、中学時代とは比にならないほどの予習復習の量に追われていたわたしは、ついに電話をする余裕がなくなり、自分から断ってしまった。
 今思い返せばそんなに焦る必要はなかったのに、過度な緊張と重圧に毎日押しつぶされていたのだ。はじめより余裕が出てきた今、断ってしまったせいでなんだか連絡するのが気まずいという、わけの分からない状態に陥っている。
 なによりも至福で一日の疲れを癒す時間を、わたしは自分でなくしてしまったのだ。そんな判断をくだしてしまうほどに、わたしには余裕がなかった。

 電話をしなくなって、メールもしなくなって、気づけば連絡をとらなくなっていた。日にすればそんなに昔のことではないのに、いつなんどきも一緒にいた身としてはずいぶんと長く感じてしまう。

 SNSのストーリーには、彼女が高校の友達と楽しそうに笑い合っている写真があがっている。それを見た瞬間、彼女の中の"いちばん"が変わってしまったような気がして、すうっと身体の力が抜けていくような気がした。

 わがままで、身勝手で、独りよがりな感情だった。
 彼女との時間を拒絶したくせ、自分が常にいちばんでありたいだなんて、そんなふうに考えている自分がなによりも気持ち悪くて、大嫌いだった。

 いつまでも彼女に執着しているのはわたしなのだと気づいたから連絡を絶った。それなのに話さなくなればなるほど、声が聞きたくてたまらない。また笑い合えたらどんなにいいだろう。何にも縛られない、偽りのない素の自分で。

 液晶画面に視線を落とす。

「……話したいな」

 会いたいし、声が聞きたい。何も考えずに、くだらないことで笑い合ったあの日々に戻れたらどんなにいいだろう。一緒にいることが何よりの救いだった。疲労がたまる日々だからこそ、それらを吹き飛ばすために毎日のように会っていた。
 けれど互いに生きる道は違う。いつまでも同じ道を辿れるわけではないのは当たり前のことだ。
 彼女はダンスがとても上手かった。ダンスの大会で賞状やトロフィーを持って笑っている写真を、何度もストーリーで見たことがある。彼女はダンスが有名な学校を受験し、見事合格した。そしてわたしは、流れるように普通高校へ。

 正直、彼女がとなりにいない生活は慣れない。学校で過ごすどの瞬間も、「今ここにいてくれたら」と感じてしまう。どう頑張っても叶うはずのない願いを抱えながら、愛想笑いを貼り付けて生活をしているのだ。こんなの、楽しいわけがない。

『離れ離れになっても会えなくなるわけじゃないんだから。定期的に連絡してね、あたしもするから』

 卒業式の日、彼女はそう言って笑っていた。いつもわたしが見てきた笑顔で、桜に溶けるようにそう告げたのだ。

 目の前にある当たり前は、失くしてから気づいても遅い。いくら戻りたいと願ったところで、どうにもならないのだ。

 電話をかけようとしていた手が止まる。


 もし、冷たくされたら?
 向こうでのようすを楽しく語られたら?

 そしたらきっとわたしは耐えられないだろう。そう思うと、怖くて指が震える。そのままスマホの電源を切って、重い息を吐き出した。
 空を見上げると、白い月がぼんやりと浮かんでいた。光は薄くて、雲に霞んだ丸い月が、静かに道を照らしている。

 きれい、なんだよね。きっと。

 もっと心に余裕があれば、いくらでも美しさを感じることができただろう。だけど今は、月が出ているという事実としてしか認識することができない。
 光るものを包みぼかしてしまうような霞みさえ美しいと思える日はくるのだろうか。そんなふうに風情を感じ、月を見て笑える日が来るのだろうか。

 ぼんやりとそんなことを考えながら過ごす夜は、いくつもの孤独を溶かすように、ただ静かに広がっていた。





「塾の回数、増やしたから」

 母からそんな言葉をかけられたのは、朧月を見た数日後のことだった。あまりに突然のことで、頭が真っ白になる。

「増やしたって、どういうこと?」
「言葉通り、そのままよ。部活もやってないし、週四でいくことぐらい簡単よね。というか、普通だわ。今までの週二回っていうのが少なすぎたのよ」
「……そんな」

 どうして勝手に決めてしまうの。そんなに軽々しく言わないで。
 わたしにはわたしのペースがあって、それをかき乱されることがいちばん嫌いなのに。

「わたし、そんなにいけないよ」

 言葉が口をつく。驚いたように目を丸くする母は、「瑠胡が言い返すなんて珍しいわね」と少しの怒りを言葉に混ぜた。

 自分でもびっくりした。今までのわたしは、すべてに従って生きてきた。親の言うことは絶対。そんな暗黙のルールがあったから。

「どうしていけないの? 何か部活でもする気になった?」
「そういうわけじゃない、けど」

 首を振った途端、母の顔が険しくなる。まるで獲物を見るような、心の奥を見透かすような、鋭く冷たいものに変わった。

「だったらどうしてできないの。怠けってこと?」

 ぐさっと刃が心に突き刺さる。

「あのねぇ瑠胡。学生は勉強が仕事なんだから、逃げ出すわけにはいかないでしょう」
「……」
「せっかく良い高校に入れたのに、そんなんじゃすぐに置いていかれるわよ」

 淡々と述べる母をじっと見つめると、「なにその目」と声のトーンがまた低くなる。だけどもううんざりだった。勉強、勉強、勉強って。
 確かに勉強は大事だ。今後のために、頑張らないといけないのは分かっている。だけど……母の言葉に素直に頷けない。

「わたしはちゃんと勉強してる。だけど、勉強ばかりは嫌なの」
「だからどうして?」

 こうして一つの物事に対して、理由や理屈を求めてくるのが嫌いだ。感情を理解することができないのかと、心底嫌になる。
 いつもなら、ここで口をつぐんで終わりだった。けれど、クラスメイトとのすれ違いや、先輩と会えていないストレスで、とどめるはずだった言葉が口をつく。

「理由なんてないよ。ただ、やりたくない。それだけ」
「そんなの許されるわけないじゃない。大人になったらもっと大変なのよ? 頭を下げたり、常に笑顔で対応したり。子どものうちは勉強するだけだって言ってるじゃない。なんでそんなに簡単なこともできないの」

 ああ。まずい。
 そう思った時には、もう溢れていた。どろっとした、鉛のように重くて、黒い感情が。

「もうわたしはこれが限界なの! いちいち口出ししないで! わたしはお母さんが思っているほど有能じゃないし、いい子でもなんでもないから!!」
「瑠胡っ、待ちなさい!」

 バタンと荒々しくドアを閉めて、家を飛び出す。背中からわたしを呼ぶ声が聞こえたけれど、振り返らなかった。
 振り返ってしまったら、きっと母の顔を見てしまう。そしたら、偽物の罪悪感が渦巻き、わたしを取り込んでしまう気がした。


 母がわたしのためを思って、そう言ってくれているのは分かっている。何かやりたいことが見つかった時、その夢が少しでも早く叶うように。
 だけど、人生を構成するものが勉強だけじゃないことを、わたしは最近考えるようになった。

 たとえば、部活に打ち込んで何かの賞をとったり、綺麗なものを探しに出かけたり、大切な人と心を通わせたり。趣味がいつの日か夢になって、それが叶って職業となるかもしれない。

 今しかできないことも山ほどある。


『自分の気持ちに正直になれよ、瑠胡』

 先輩の声が聞こえる。
 そうだ、わたしは。

 わたしの気持ちに、正直でありたいのだ。


*


「瑠胡ちゃん?」

 公園のベンチに座っていると、ふいに声がした。驚いて声がした方を見ると、心配そうに近寄ってくる琴亜ちゃんの姿がある。

「琴亜ちゃん……」
「なにかつらいこと、あったの?」

 優しい声音でたずねられて、視界がじわりと歪んでいく。ここ数日間流せていなかった涙が、簡単にあふれ出していく。

「ゆっくりでいいから、聞かせて」


 瑠胡ちゃんは嗚咽混じりのわたしの吐露を、うなずきながら聞いてくれた。話し終えた後もわたしの手を握りながら、「がんばったね」と声をかけてくれる。

「瑠胡ちゃんはすごいよ。自分の気持ちをぶつけられたんだから。すごく強くなってる証拠だよ」
「……そうかな」
「そうだよ!」

 ぎゅっとわたしの手を握った琴亜ちゃんは「たまたまこの公園の前を通りかかってね」と説明してくれる。

「瑠胡ちゃんが悲しそうな顔をしてたから、思わず話しかけちゃった」

 初めて会ったときと同じだね、と笑う琴亜ちゃんの顔を見つめる。
 悲しそうな顔をしていたから話しかけた。誰しもができることではない、と思う。少なくともわたしなら、踏み入ることなく素通りしてしまう。

 それを彼女は、わざわざ踏み込んでまでわたしに会いにきてくれた。
 なんて優しい子だろう。わたしは彼女に助けられてばかりだ。

「少しは落ち着いた?」
「うん。ありがとう、琴亜ちゃん」
「いえいえ! じゃあ、そろそろおうちに帰る?」
「……うん、そうする」


 ばいばい、と手を振って琴亜ちゃんと別れた。
 心なしか、家までの足取りが軽くなっているような気がする。

「ただいま……」

 自室に入ろうとしたところでわたしに気づいたお母さんが、抑揚のない声でぼそりと告げた。

「とりあえず、週二回に戻しておいたから。また気が向いたら、声かけて」
「……うん」

 わかってもらえた、というよりは、どこか諦めたような口調だった。ピンと張っていた期待という名の糸が切れ、わたしと両親を繋いでいたものは、これでなにひとつなくなってしまった。

 だけど……後悔は、してない。
 だってこれ以上自分を追い込んだら、もうわたしは確実にダメになっていた。


『頑張るのをやめるんじゃなくて、頑張りすぎるのをやめるだけ。頑張りすぎて自分をぶっ壊してたら元も子もないだろ』


 先輩の言葉が、今のわたしを救ってくれた。未来のわたしを生かしてくれた。
 先輩の存在が、またわたしを助けてくれた。

 先輩に会いたい。暗いトンネルを抜けた先で、彼に会いたい。
 その思いは、日を追うごとに強くなっていった。
 うつむきがちに、歩を進める。駅までの道を、ぽつり、ぽつりと。

 たしか入学してからはしばらくは、こんな感じで歩いていた。前を向くことが、つらくて。たったそれだけのことでもものすごく体力と気力を使うから、こうして下を向いているのがいちばん楽だった。
 すっかり元に戻ってしまったみたいだ。色のない日々がわたしの日常。もともとこれがわたしにとっての"普通"なのだから。
 先輩と過ごした束の間の幸せは、わたしが死ぬまでのちょっとした休息だったのかもしれない。そんなふうに、馬鹿げたことを思うようになっていた。
 だから、もう悔いはないのかもしれない。このまま先輩と会うことがなければ、学校に通う意味も、生きる意味すらも分からなくなってしまう。

「……重すぎる」

 自分が思っている以上に、わたしはひとに対して重い気質なのかもしれない。そんなことを思いながら、雨で散ってしまった桜の木を見上げる。それからゆっくりと地面に視線を落とすと、花びらが桜色の絨毯のように広がっていた。

「なにが重いんだ?」

 なにより耳が欲していた音色に、息が止まる。ついに幻聴まできこえるようになってしまったのか。そんな説はどうにか否定してほしくて、この目で存在を確かめたくて、ゆっくりと振り返る。

「よっ、元気?」

 変わらない笑顔がそこにあった。数日間会わなかっただけで、ずいぶん懐かしいと感じてしまう。
 
「先輩……!」
「そんな嬉しそうにされると照れるわ」

 照れ笑いを浮かべながら後頭部を掻く先輩は、「会えなくてごめんな」と小さくなった。慌てて首を振ると、安堵したように緩められた頰が、わずかに桃色に染まる。

「もうすぐ電車くるよな。一緒に行こう」
「はい……!」

 前に視線を移した瞬間、景色にパッと色がついた。桜も、空も、道も、風ですら、すべてが鮮やかに彩られて世界が一気に華やいだ。わたしの世界が色づくためには、やはり彼が必要らしいのだ。

「桜散ったな」
「ですね……少し寂しいです」

 手を伸ばせば簡単に届いてしまう、心音が聞こえてしまいそうな距離。
 二人並んで歩く時間は、もっとを求めてしまうほどに、和やかなものだった。

─────

 いつものように電車に乗り、空を眺めながら揺られること数分。
 ふとこちらを見た先輩が小さく首を傾げた。

「今日、これから時間ある?」
「え……ありますけど、どうしてですか」
「ちょっと一緒に行きたいところがあって」

 ニッ、と笑う先輩は、秘密基地に向かう子供のような、そんな無邪気な顔をしていた。唇の隙間からちらりと覗く八重歯が可愛らしいな、なんて。頭の片隅をよぎる言葉。
 そんな思想を脳内から追いやり、問い返した。

「どこですか?」
「それはまだ内緒」

 唇の前で指を立て、目を細める先輩。艶っぽい仕草に、心臓がトクンと音を立てる。

「ついてきてくれる?」
「はい。行きたいです」

 素直にうなずくと、嬉しそうに笑った先輩は「じゃあ次の駅で降りるから」と告げた。そんな場所で降りたことはないので、やや緊張気味に降車し、電車を見送る。
 あっという間に走っていってしまった電車。思っていたよりもあっさりしたものだった。

 周りを見渡すと、緑が多い。風の音がやけに大きく感じられる。
 きっと都会に住む人が理想とする田舎の形がそこにあった。それくらい、のどかで、落ち着いていて、こんな場所が通学までの停車駅にあったのだと驚いてしまうほど。

「ここから少し歩く。行こう」

 鞄を掛け直して歩き出す。傾斜の急な坂を降りていた時、思わず足を滑らせそうになると、その瞬間振り返った先輩に手を取られた。

「……ありがとう、ございます」
「ん」

 てっきりすぐに離されると思っていた手は、いまだに繋がれたままだ。
 繋がれた手は身体の横へとゆっくりと移動する。
 骨張った手の感覚に、思わず心臓が跳ねた。触れ合った左手が妙に熱くて、神経がそればっかりに集中してしまうのに、先輩はなんでもないように平然としていた。それどころか、「きれいな景色だな」なんて景色を楽しむ余裕まであるみたいだ。
 手を引かれながら黙って歩く。ドッ、ドッという胸の鼓動が、指先を伝わって先輩に届いていないか心配だった。
 汗が噴き出すように、全身が熱い。

 手を繋いでいる。
 この行為自体に意味なんてきっとない。意識しているのはわたしだけで、先輩にとっては当たり前のことなのかもしれない。異性とのスキンシップに慣れていないわたしにとっては、ハードルが高すぎるくらいだけれど。

 でもきっと先輩は……。


 こんなことを考えてしまう自分が嫌だ。打ち消すように首を振り、前を向く。歩くたび先輩の髪が揺れるのを見ながら、歩くこと十数分。


「ついた」
「わあ……っ」

 そこには、真っ青な海が広がっていた。その美しさに思わず感嘆の声が洩れるけれど、それと同時に何か引っかかりを覚える。モヤモヤとしていて、うまく言葉に表せないけれど、何かを忘れているような、そんな不思議な感覚だった。

「どうした?」
「……いえ、なんでも」

 不思議そうにわたしを覗き込む先輩。どうせならもっとしっかりリアクションしたかった。違和感に流されてしまう前に、感動を伝えたかったのに。
 やるせない気持ちになっていると、眉を寄せた先輩がわたしの顔をのぞき込んだ。

「なんでちょっと残念そうなんだよ」
「ち、違います」

 なんでもお見通しの先輩は、またわたしの額を弾いた。これでは、落ち込んでいる理由までバレていそうだ。

「こっち座って少し話そう」

 先輩に促され、海と少し離れた、草が茂る場所に座る。しばらく沈黙が降りるけれど、決して嫌な空間ではなかった。気まずさとか、寂しさとか、怖さとか。そんなものをいっさい感じないから不思議だ。
 遠くのほうから、サア────と心地のよい波音がきこえてくる。波の音は1/fゆらぎだったはず。それは、人間が心地よく感じるゆらぎのことだ。まったくその通りだな、と納得してしまう。

「俺、実は医者志望なんだよ」

 ゆらぎの一部にするように、先輩はそれだけを淡々と告げた。聞き間違いを疑う必要がないほど、はっきりと。医療系の志望者が多い学校であることは理解しているので、特別驚くわけではない。それでも、自分には到底無理だということだけは分かるので、素直に感心してしまう。

「勉強が行き詰まってどうしようもなくなったとき、ここにいると落ち着くんだ。だから瑠胡も同じだったらいいなって。少しだけでも息抜きになったら、またいつもみたいに笑ってくれよ」

 先輩には医者というはっきりとした目標がある。終着点(ゴール)が定まっているのが、ほんの少しだけ羨ましかった。たどり着くべき場所が決まっている人は、そこまでの道のりがどんなに険しくて茨の道だったとしても、諦めずに進んでいく強さを持っているのだから。
 視線を落としていると、急に顔を覗き込まれて肩が跳ねた。美形の接近は心臓に悪いからやめてほしい。

「元気ないのは、なんで?」

 ここ数日、先輩に会えなかったからですよ、なんて。そんなこと恥ずかしくて言えるはずがない。ぶんぶんと首を横に振る。

「せ、先輩は最近なにしてたんですか」

 妙に早口になってしまう。質問に質問で返してしまったのに、先輩は気分を害した素振りもなく、柔らかく笑っていた。それからじっとわたしを見つめたあと、ゆっくりと息を吐いて目を伏せる。

「図書館で勉強してた。あとは学校に残って講習会の日もあったな」
「あ……なるほど」
「寂しい気持ちにさせて悪かったな」
「……別に、大丈夫です」

 つい、言葉が出てしまう。本当は何も、大丈夫なんかじゃないのに。
 ふっ、と口許を緩ませた先輩は「素直じゃねーの」なんて言って笑っていた。すべてバレている。わたしが今日まで元気がなかった理由も、先輩の返答からしてバレてしまったようなものだろう。
 先輩が小さく息をついて、前を向いたまま口を開く。

「なにか、悩みごとがあるんじゃねえの?」
「……」
「大丈夫だ。ここなら、ぜんぶ海が受け止めてくれる」

 その言葉を聞いた瞬間、また妙な引っかかりを覚えた。今度ははっきりと、何かが引っかかる音がした。


 わたし、何を忘れてるの?

 さっきの言葉を、わたしは今初めて聞いた。そのはずなのに、なぜだか記憶のどこかに同じ言葉が眠っている。思い出せそうで、思い出せない。


 ……そう思うのも、二度目だ。


 ────あ。


 違和感の正体がばちっと繋がる。どうして気づかなかったのだろう。こんなに分かりやすいのに。
 そう思った次の瞬間、無意識のうちに、口がその名前を呼んでいた。

「ハクトく……」
「ここは、俺の思い出の場所なんだ」

 けれど、言葉をかき消すようなタイミングで先輩がぼそっとつぶやく。それが意図されたものなのか、偶然なのかは分からなかった。わたしの口から出た名前は、先輩の耳に届くことはなかった。完全にタイミングを逃してしまい、気分を落としながら、慎重に問いかける。

「特別な場所、ってことですか」
「特別な……まあ、そうだな」

 うなずく先輩は、草の上に視線を落とした。なんとなくそれ以上は踏み込んではいけないような気がして、喉元にある言葉を飲み込む。
 その代わりに、ずっと胸の中で溜め込んできた、たったひとつの思いがこぼれた。
 『特別』とは対照的な、その想いが。


「わたしは……普通になりたいんです」


 そう呟いた瞬間、先輩の目がわずかに大きくなった。
 こんなこと、誰にも言ったことがなかった。だけど、小さい頃からの切実な思いだった。わたしが理想とする自分の姿は、普通でいられることなのだ。

「何でもできるようになりたいだなんて、そんな図々しいこと言わないから、すべてが人並みにできるようになりたいんです。目立たず、浮かず、ただ平穏に普通に生活できるなら、わたしは誰かの特別になる必要だって、万人に好かれる必要だってないんです。ただ、嫌わないでいてくれれば」

 初めて口にした、今まで出せなかった鉛のような感情が、胸の奥深くから吐き出されていく。それと同時に、ぽろぽろと涙が溢れだす。それは、こんなふうに暗い気持ちを抱えてしまう自分の情けなさと、それから、

(やっと、言えた)

 という、安堵からだった。

「人よりも劣りたくない。なんでも要領よくこなせるような、そんな楽な人間になりたい。どうでもいいことに悩んで落ち込んで、苦しむこんな性格大嫌いなんです。どうして自分だけうまくできないのか分からない。みんなはもっと楽しそうに生きてるのに、わたしだけ取り残されてるみたいなんです」

 無論、それはわたしが見ている世界。周囲の人たちにもそれぞれに苦悩があって、わたしには見えない部分がたくさんあるのだってちゃんと分かっている。けれど、それを微塵も見せないような上手な生き方ができることが、それもまた羨ましくてたまらない。

 そこまで黙って聞いていた先輩は、まっすぐにわたしを見て、静かに唇を震わせた。


「それはきっと瑠胡が自分に期待しすぎてるんだと思うよ。期待すればするほど自分としての理想像が高くなって苦しくなる。必要以上の力を求めてしまうから」


 諭すような口調に、思わず口を噤む。頭を鈍器で殴られたような感覚だった。


 期待しすぎてる、だなんて。


 なぜだか自分を否定されたような気がして、悲しみとともに憤りを感じた。誰かに傷つけられても、悲しいとは思ってもそれが怒りに変わることはなかった。けれど今は、自分の思いが"怒り"というたしかな感情に変化していくのを心中で感じる。
 いつもわたしの心を理解して、寄り添ってくれた先輩に、そんなふうに言われてしまった。唯一の存在に非難されたような気がして、それがたまらなく悲しくて、苦しくて、悔しかったのだ。

 どうしてわかってくれないんだろう。

 今までは理解されないことが当たり前だったのに。以前のわたしからすればおこがましく感じてしまうようなことを、わたしは平然と思っているのだ。
 ぎゅっと拳を握りしめて、同じように先輩の瞳をまっすぐ射抜いた。

「諦めろってことですか。自分には何もできないんだって」

 期待をしないということはそういうことだろう。両親に見放されてしまった今、いちばん近くにいる自分という存在すら、己を見捨ててしまってはだめなのではないか。せめて自分一人だけでも期待していないと、期待に応えることすらできなくなってしまう。何のために生きているのか分からなくなってしまう。

 わたしの言葉に先輩は目を伏せ、それから静かに呟いた。

「俺は自分に期待してない。ただ、信じてはいる」

 それは凪のごとく静かで、穏やかで、言葉をそっと手渡すような口調だった。じっと見つめると、パチリと開いた瞳が流れ、海の色がわたしを捉える。

「人を信じるって、期待するよりはるかに難しいことだろ。幻想を抱いて期待するのは誰だってできるけど、自分を委ねられるほど信じるってなかなかできない。だからせめて、俺だけは俺を信じてやるって決めたんだ」

 期待することと信じること。似ているようで、全然違う。

「無条件に信じるって、確証を求める人間にとってすげえ難しいことだろ? だから、なんの心配もなく自分を委ねられる存在なんて、一生のうちに数人出会えるか出会えないかなんだ」

 裏切る、という言葉があるけれど、それは相手と自分を信じていないと成り立たない。大人になる過程で何度もそれを経験して、重ねていくうちに誰も信じられなくなる。
 わたしだって同じようなものだ。見放されて失うのが怖いから、初めから近づくことをやめてしまう。裏切られるのが怖いから、人を信じることができなくなった。

「なあ、瑠胡」

 振り向くとそこには、ひどく優しげな表情をした先輩がいた。いくつもの、名前を知らない感情が混ざり合ったような顔をする先輩は、まっすぐにわたしの目を見つめて告げた。

「俺のこと、信じろとは言わないけど────信じていいよ」

 そのときふと、あたりが柔らかい光に包まれて、導かれるように視線が空に吸い寄せられる。太陽と逆の空に、アッシュピンクのラインがかかる。青色と混ざり合うようにグラデーションになるそれはまるでピンク色の橋のようだった。
 言葉には表せない絶景に息を呑む。すべてを溶かし込むような淡い色をした空は、どこまでも終わりなく広がっていた。

「ビーナスベルト」
「え?」

 ぽつりと呟いた先輩に視線を移すと、「ビーナスベルトって言うんだ。すげえ綺麗だろ」と誇らしげに笑っていた。その顔を見た途端に、胸の奥がキュッと締めつけられる。けれどそれは苦しくなるようなものではなくて、ささやかで甘いときめきをもたらす、そんなもの。

「ビーナスベルトは空気が澄んだ日にしか見られないから、春や夏にはあまり見られないんだと」
「え、でも今」
「だから俺たちはツイてるんだ。ほら、しっかり目に焼き付けろ。次いつ見れるか分からないからな」

 そう言われて、視線を空に戻す。海と空の間がぼやけて、神秘的な光に包まれている。

「ヴィーナス。ローマ神話の女神、だっけ。恋と美の女神」

 なにやら解説をしてくれる先輩。黙って先輩を見つめると、あっちを見ろといったようにまた視線を景色に戻される。

「ビーナスベルトの下に濃い青が広がってるだろ、あれが地球影。遠い場所の夜の色。この現象には赤い光と青い光の錯乱が関係しているんだ。その錯乱が混ざってピンクになる。この現象はすぐに消えてしまうから、言うなれば、魔法の時間ってやつだな」
「魔法の、時間……」

 その言葉を反芻する。先輩はこの気象現象の仕組みさえ知っているようだった。

「まあ細かいことはいいよ、難しいし。それより今は景色を楽しめ。あともう少ししたら消えちまうから」

 おもむろに立ち上がった先輩は、いきなり靴を脱いで、迷うことなく海の中に入っていく。押し寄せる波が先輩の足を濡らす。時折「冷てえ」と声を出しながら、子供のようにはしゃぐ先輩。その姿が珍しくて、微笑ましくて、つい笑みがこぼれてしまった。

「瑠胡」

 少しでも目を離せば溶けてしまいそうな世界のなかで、先輩が笑っている。その瞬間、ドクッと耳の横で音がしたような気がした。一度だったけれど、今までとはまったく違う、力強い鼓動だった。

 ──ああ、と。
 そこでようやく気がついた。否、ずっとこの気持ちの正体を探っているふりをして、本当は初めから気づいていたのだ。それでも気づかないふりをしていたのは、傷つくことが怖いから。想いを認めてしまったら、もう後戻りはできないとわかっていたからだ。
 まっすぐに彼を見つめると、柔らかい笑顔が返ってくる。その顔を見ていると、色々な感情が混ざって泣きたくなってしまう。けれどその涙は、きっとなによりもあたたかい。


 ────わたし、琥尋先輩のことが好きなんだ。

 
 自覚をしてしまうと、フィルターがかかったように、一瞬で世界が鮮やかになる。この感情が言葉として出てしまいそうになった。ぐっと口に力を入れて、それをとどめる。

 誰よりも会いたくて、話がしたくて、顔を見られると嬉しくて。一日のなかで彼と過ごす時間こそが、わたしの楽しみになっていた。会えない日は泣くほど苦しくて、名前を呼ばれるたび胸が高鳴って、呼吸の仕方を忘れてしまう。朝起きたらいちばんに会いたくて、彼の顔を見てから眠りにつきたい。そんなふうに、毎日毎日、彼のことを考えている。
 信じていいよ、と。そう言われたとき、なんの迷いもなくうなずける自分がいた。信頼と愛は、無条件に与えることができるのだと。そして自分も与えられたいと、人生ではじめて思った。

 この感情は、きっと恋。経験したことがなくても、わたしはこの気持ちを知っている。ずっとずっと昔から知っていたような気さえしていた。


「来いよ」


 スッと伸ばされた手がわたしを呼んでいる。透明なピンクと青が混ざり合う世界で、たったひとつだけ輪郭がはっきりとしているもの。


 わたしは、先輩が好き。


 この気持ちだけは揺らぐことなく、ぼやけることもなく、ただそこに在る。
 冷たい水の感触が足を包み込む。上昇した体温と水の温度差が心地よくて、もっと浸っていたいとすら思ってしまう。


 だけど。
 きっとわたしの想いなんて、先輩には届かない。もし奇跡が起きたとしても、わたしの存在なんて重荷にしかならないだろう。医学部受験は大変だと、詳細を知らないわたしですら、分かっている事実なのだから。
 淡いピンク色を見つめながら、泣きたくなった。はっきりと恋心を自覚してしまったのに、この気持ちの行き場がない。先輩の邪魔はできないし、したくない。


 もしもわたしが強い人間だったなら。

 迷惑をかけずにいられる、重くない人物だったとしたら。
 そんなタラレバを考えることすらしてはいけない。

 同じようにビーナスベルトを見つめ、さらさらと髪を揺らす先輩が、視線を逸らさずわたしに問いかけた。

「ブルーモーメントって知ってるか」
「ブルー、モーメント?」
「そう。俺はそれがいちばん好き」

 どんな景色なんですか、と。今までのわたしならきっと迷わず訊いていただろう。けれど今なら次に何を言うべきか、自分が何を言いたいのか、わかる。
 意識しなくても、自然と言葉が溢れていた。

「先輩と一緒に見たいです。ブルーモーメント」

 その瞬間先輩の顔がほころび、あたりが優しい光に包まれた。足に触れる冷たい水と身体中の熱のせいで、ふわふわと浮いているような不思議な感覚になる。先輩の頰はほんのりピンク色に染まっていた。
 それはきっとビーナスベルトのせいなのだと。周りの景色が先輩に溶け込んでいるだけなのだと。勘違いしそうになる自分を必死に説得する。

「約束な」

 細くて長い指が差し出された。驚くほど白くて、少しだけ骨張った手。その手を見るたび「琥尋先輩だ」と、わけのわからないことを思ってしまうわたしはきっと手遅れ。跳ねる鼓動を抑えて、同じように小指を差し出す。
 
「ふふっ、子供みたい」
「まだ子供だからしょうがねーだろ」
「次誕生日が来たら成人ですね、先輩」
「あと三ヶ月……ってとこかな」

 指を絡めあったまま、そう会話をして笑い合う。


 ブルーモーメントを見る、そのときまで。あともう少しだけ、一緒にいたい。



 まだ引き返せる、そのときまで。もう少しだけでいいから、この夢に甘えさせて。
 それで最後にする。すべて、なかったことにするんだ。

 海で交わされた桃色の約束を、あたたかい光が静かに包み込んでいた。


───────


 夢をみるのは、久しぶりだった。
 ずっとよく眠れない日が続いていたから、ここ(・・)にくることも、久しぶりだった。

『瑠胡ちゃん。久しぶりだね』

 生々しい水の感触。煌めく水面から前に視線を預けると、薄茶色の髪がさらさらとなびいていた。

(どうして気づかなかったんだろう)

 初めて会った、その日から。気づくチャンスはきっといくらでもあったはずなのに。

「久しぶり、ハクトくん」
『なかなか来ないから、心配してたんだよ』

 ふはっと笑う顔が、また重なる。

『でも、心配する必要はないみたいだね。すごくすっきりした顔してる』
「え?」
『最初のころの瑠胡ちゃん、どんな顔してたか覚えてる? こんな死にそうな顔してたよ』

 手を使って萎れたような表情をつくる彼は、ニヤリと口の端を上げてからかうような笑みを浮かべる。怖くなってしまうほど白くて細い手足と顔。それでも違和感なくいられたのは、誰かによく似た美貌と夢のせいだろうか。

「ねえ、ハクトくん。教えて。わたし今日この海に来たの。誰とかわかる?」
『……知らないな』

 わざとらしく目を逸らされる。彷徨う視線が、ほとんど答えのようなものだった。言ってしまえば何かが変わってしまうかもしれない。そう分かっていても、静かに告げた。

「琥尋先輩と、だよ」

 ずっと夢で見ていたこの場所が、まさか現実(リアル)に存在していると思っていなかった。だけど、先輩はここが『思い出の場所』だと言っていた。そして、毎度見る夢は、必ずここが舞台。
 彼らの関係を考えてしまうのは、至極当たり前のことだった。

「ハクトくんは先輩の弟なの?」
『先輩ってだれ』
「琥尋先輩。知らない?」

 ふるふると力なく首を横に振る彼。だけど、どう考えてもそうなのだろう。琥尋先輩とハクトくんは、兄弟関係にある。

「だって、すごく似てるんだもん。笑い方、そっくり」

 先輩のほうが少しだけぶっきらぼうな感じはするけれど。ふと重なる影がそっくりなのだから。

「どうしてわたしを助けてくれるの? わたし、先輩とハクトくんのおかげで自分をちゃんと見つめることができるようになったの」
『それは……よかった』
「夜がくるのが怖いって思わなくなったのは、ハクトくんのおかげだよ。この夢の中で、わたしを待っていてくれるから」

 切なそうに目を細めるハクトくんは、静かに目を伏せ、それから意を決したようにわたしに向き直った。

『瑠胡ちゃん』

 わたしの名前が呼ばれる。あたたかい響きだった。

『そろそろアイツ、壊れるだろうから。どうか守ってやってほしい。こんなこと、瑠胡ちゃんにしか頼めないんだ』
「壊れるって、なんで……」
『アイツはすごく弱いから。僕よりもずっと、脆くて弱いやつだから』

 憂いが混ざる瞳は、どこか遠い場所を見ていた。わたしを見ているはずなのに、どこかピントが合わない。

『瑠胡ちゃんとアイツが出逢ったのは、ちゃんと意味がある。偶然かもしれないけど、紛れもなく必然なんだ。アイツを救えるのは瑠胡ちゃんだけ。アイツの未来を託せるのは君だけなんだ』
「未来……?」
『どうか、救ってやってほしい』

 僕にはそれすらもできないから────。

 同じ色をした水色の瞳が、揺れながらそう訴えていた。

「……無理だよ。わたしには、そんなことできない。その役目はわたしが背負うものじゃない」
『どうして』
「だって……そういうものだから」

 言葉にすると、余計に泣きたくなった。
 好きな人の夢は応援してあげたい。だけどわたしなんかがそばにいたところで、マイナスにしか働かない。これも、自分に自信がないせいだ。こんな半端な気持ちでそばにいたいだなんて、本当にどうかしている。だから、自分から離れるべきだ。

『そんなふうに決めつけたらダメだよ』
「決めつけじゃなくて一般論だよ。先輩の迷惑にはなりたくない」
『アイツが言ったの? 迷惑だって』

 目を逸らしたくなるほどまっすぐな視線で射抜いてくる。その瞳の熱さが、また重なってしまう。

『アイツを見くびってもらっちゃ困るよ。なんでもうまくやるに決まってるじゃん』
「すごい……信頼してるんだね」
『別に、そういうわけではないけど』
「先輩、こんなに弟に応援してもらえて。いいなぁ」

 家族愛、とか。わたしの家庭はそういうのとはかけ離れているから、ますます羨ましい。先輩はたくさんの愛に囲まれて、あんなに素敵な人になったのだ。強くて、あたたかくて、わたしを救ってくれた大切な人。
 そして目の前にいる彼もまた、四月のわたしを救ってくれたひとりだ。

「ハクトくん、夢じゃない世界で会おうね。ここでだけ会うのは嫌だよ」

 そう告げると、彼の瞳に切なさの色が小さく混じったような気がした。けれどそれは一瞬で、すぐに「うん」と返ってくる。
 ぼやけていく視界の中で、ハクトくんが目を細める。そして。

『これだけは言えるよ。アイツは……琥尋は、誰よりも優しいやつだ』

 そんな響きだけが、海に溶けて消えた。
 それからまたしばらく、先輩は駅には現れなかった。
 クラスも、部活のことも、何も知らないわたしはただ、駅で会える日を心待ちにしているしかなかった。

 きっと勉強が大変なのだろう。

 わたしに構っている暇などないのだろう。もう五月に入り、毎日毎日、受験まで日が進んでいく。一日たりとも無駄にしてはいけないと、かつての先輩インタビューで誰かが言っていた。誇張ではなく、本当にその通りなのだろう。
 ブルーモーメントを見たいとは言ったものの、それが実現する日がくるのかどうかなんて、わからない。

 先輩と一緒にいたい。

 そんな気持ちを抱くのとは裏腹に、そんなのは無理だともう一人の自分が告げていた。

 せめてブルーモーメントを見るときまで。そう、決めたから。

 付き合いたいとか、四六時中一緒にいたいとか、そんなことは言わないから。せめて一日の終わりに会話をして、元気をもらいたい。それすらわがままだと言われてしまうのだろうか。

 一人で電車に揺られながら、窓の外を見遣る。紫と、ピンク。遠くにいくほど薄くなって、グラデーションになった雲がぷかぷかと浮いている。

「……会いたい」

 笑顔がみたい。一日の疲れや不満がすべて吹っ飛んでしまうような、あの笑顔をわたしに向けてほしい。
 恋をするということは、強欲な自分を生み出してしまうことでもあるのだと。やり場のない想いを、ぎゅっと胸の前で抱きしめる。

 ブルーモーメントを見たら離れよう、なんて。そんな甘い考えが通用しないほど、自分の気持ちが大きくなっていることに、わたしはまだ気づいていなかった。
 想いを馳せている彼がこの時、どこにも逃げ出せない葛藤に苦しめられていたことにすら、わたしは気づけていなかったのだ────。





「もう、会えない」

 目の前にいる彼から発せられた言葉が信じられなかった。ひどく冷たい声音で告げられる。「え……?」と声にならない声が口から洩れる。

 ベンチに座り、わたしに向き直った先輩は、色のない瞳でわたしを見つめた。せっかく久しぶりに会えたというのに、どうやら嬉しいと思っていたのはわたしだけみたいだ。

「約束は……? ブルーモーメント見るって、約束したじゃないですか」

 声が震える。
 縋るような気持ちで問いかけると、先輩は静かに目を伏せて「……悪い」とそれだけを呟いた。

「そんなの……あんまりです」
「自分勝手でごめんな。でも、もう決めたことだから」
「え……なんで急に? だって、この間まで」

 ──── 一緒にいたじゃないですか。
 そんな言葉は、声にならなかった。先輩の、突き放すような冷たい視線が刺さり、心臓が嫌な音を立てて、脳へと危険信号を送っているみたいだった。

「……悪い」

 いつも自信に満ち溢れていて、わたしの知らない世界を教えてくれて、何度もわたしを救ってくれた人。どんなときだって前を向くことを忘れない、そんな彼が。どうしてここまで追い詰められた表情をしているのだろうか。
 心底迷惑だと。そんなふうに、わたしを評価しているのだろうか。

「せめて、約束を果たしてからにしませんか。わたし、ブルーモーメントを見られたら、ちゃんと身を引きます。だから」

 それ以上言葉を紡げなかった。何を言っても無駄だと、光を失った目が訴えていた。ゆっくりと視線を落とした先輩が、薄い唇をわずかに震わせる。

「本当はこの間で最後にすればよかったんだ。俺が全部悪いから」
「……っ、そんなふうに言われたくありません。嫌いになったならなったって、はっきりそう言ってください」

 強気なふりをしながら、本当は泣きそうだった。唇をぐっと噛みしめていないと、すぐにでも涙がこぼれてしまいそうだった。
 好きだと自覚したあとにこんなことを言われては、引き返せない。もうどうしたって、好きになる前には戻れないのだから。

「……き」

 先輩の瞳が揺れる。出会ったときと変わらない、海の色をした瞳だ。透き通っていて綺麗な目。

「きらい……だよ」

 そう言った先輩のほうが、わたしよりもずっとずっと泣きそうな顔をしていた。言及しても、きっと彼は口を割ってくれない。ずしりと響く『きらい』という三文字が頭の中を渦巻き、やばいと思う暇もなくじわりと涙の膜が張る。

「……じゃあ、そういうことだから」

 言い終わる前に身を翻し、去っていく背中を見つめる。

(結局、踊らされていたんだね)

 信じるなんて、なにを馬鹿げたことを思っていたのか。寿命が少しだけ延びたことを、ありがたく思うべきなのかもしれない。彼と出会って、確実に楽しかった日々があった。それらは偽りのない、本当だった。

「……もとに戻っただけ。なにも悲しいことなんてない」

 愛なんてくだらないと。はじめから、知っていたはずだ。
 泡沫の夢に溺れて、感覚がおかしくなってしまった。悲しいなどという感情は、とっくに消さなければいけないものだったのに。
 もう、いっそ。

────死んでしまおうか。

 あの日、彼と出会ったこと自体が、最初から間違いで。とっくに消えていたはずの命は、奇跡的に今の今まで繋がれているけれど、もう必要ない。

 カーンカーンと踏み切りの音がする。少し前に時間が巻き戻されたような感覚だ。新城琥尋という人に出逢う、その前に。

 ぎゅ、と手に力がこもる。だんだんと息が上がって、ぷっくりと水滴が目に浮かぶ。

 線路に身体を倒すなんて、簡単なこと。

 一度できたのだから、今回だってきっとできるはず。
 ぎゅっと目をつむって、タイミングを待った。すうっと息を吸うと、どこか懐かしい春の匂いがした。

 ぐら、と身体が傾く感覚があった。まるであの時の繰り返しのよう。

(これで……楽になれる?)

 そこにあるのは、死への恐怖か、それとも自由を手にする希望か。
 わたしは目をつむったまま、黄色い線を越える────ことができなかった。今のわたしの心にあるのは、前者だった。以前なら、迷いなく後者に背中を押されていたはずなのに。足が地面に縫い付けられたように、びくともしない。プシューと目の前に止まった電車を見て、いつのまにか震えていた足の力が抜けた。

「君。大丈夫?」

 空いた窓から、運転士が顔をのぞかせる。へたり込んだまま顔を上げると、眉を下げた運転士の男性がこちらをじっと見下ろしていた。

「大丈……」

 ふと声に出そうとして、言葉が止まる。力なく首を振れば、焦ったように電車を降りた運転士が、目線を合わせてしゃがみこんでいた。

 なになに? どうしたの? と車内が騒然としているのが分かる。それでも、いつかの日のように消えたいと思うことはなかった。

「すみません。少し……めまいがしてしまって」
「少し待っていてください。水を買いますから」

 言い終わらないうちに、ピッ、と自販機が音を立てる。差し出されたのは、以前先輩が買ってくれた水と同じものだった。

「ありがとう、ございます」

 やけに呼吸が落ち着いている。脈拍も、普段通りの速さに戻りつつあった。

 わたし……ほっとしてる?


 あんなに死にたい、消えたいと願っていたのに、今はこうしてまだ心臓が鼓動を続けていることに、たまらなく安堵している。

 ────はじめてこんなにも、死ぬのが怖いと思った。痛みが怖いのではなく、存在が消えてしまうことが、こんなにも恐ろしくてたまらなくなったのは、生まれてはじめてだった。

 空の青さも、海の青さも、先輩の瞳の青さも。舞い散る桜も、緑の葉も、何もかも。見ることができなくなるのだと思うと、この世界からいなくなるのが、ひどく怖かった。

「あ、でも、お金」
「いいんですよ。気にしないでください」
「いえ。また後日必ず返します。本当にありがとうございます」

 頭を下げると、首を振った運転士は、「ご無事でなによりです」と、呟いた。それだけで、きっと全てバレていたんだろうな、と悟る。

「乗車されますか?」
「はい」

 頷いて乗車し、気づく。
 電車を遅延させてしまったのではないか。その場合、賠償金を支払わなくてはいけないと、いつか読んだ新聞記事に書いてあったような気がする。

「あ、あの。ご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした」

 車内がしんと静まる。喉がからからに渇いて、どうにかなりそうだった。

「体調不良は責める理由になりませんよ。それに、ここにはあなたを非難する人なんていませんから。頭を下げる必要なんてないのですよ」

 柔らかい声に顔をあげると、座席に座る誰もが、目元を緩めて微笑んでいた。もっと迷惑そうな視線を向けられると思っていたのに、それとは真反対の表情を向けられて困惑する。
 優しさだけが、そこにはあった。

「では発車します」

 そんなアナウンスのあと、電車が動きだす。

「ここにお座りになったら? 立っていると疲れてしまうでしょう」

 にこにこと笑みを浮かべる女性が、空いた席をトントンと手で示す。促されるまま座ると同時に、強張っていた筋肉がゆるんでいくのを感じた。

「ありがとうございます」
「いいえ。学業は大変だと思うけれど、頑張りすぎるのもほどほどにね?」
「……はい、そうします」

 ふふっ、と上品に微笑んだ女性は、「次で降車だわ」と呟いて、荷物を持った。

「普段一緒にいる彼は、今日は一緒じゃないのね」
「え……?」
「ほら、よく一緒に乗っているでしょ。実はいつも微笑ましいって思って見ているのよ。ごめんなさいね」

 目尻にしわを寄せた女性は、そう言って電車を降りていった。
 意外と見られているのだ、と、途端に熱が集まる。けれど、そう言われるのももうないのだと思うと、気持ちが降下していく。
 それでも以前ほど感情の起伏に酔うことはない。

 ぼんやりと空を眺める。灰色の雲が近づいてきているということは、もうすぐ雨が降るのだろうか。きっと雨も素敵なんだろうな。雨音を聴きながら夜勉強するのもいいかもしれない。

 そんなふうに思えるようになったのは、好きな人のおかげ。わたしに『生きたい』と思わせてくれた、特別な人だ。

 先輩との出会いと一緒に過ごしたことは過去の思い出にして、わたしは強い自分になりたい。先輩がいなくても前を向けるような、そんな人に。

 先輩と出会ったことは、やはり間違いではなかったのだ。こんなにも自分を変えてくれる、必要不可欠な出会いだったと、そんなふうに思っても許されるだろう。

 雲の隙間から差す光が、たったひとつの希望のように見えた。そして、わたしがこれからするべきことを伝えてくれているような、そんな気がした。