走って、走って。呼吸が苦しくなっても、止まることなく必死に走った。
 遠い遠い堤防にすらりと立つ影が見える。あの姿は先輩だと、はっきりと思えた。

琥尋(こひろ)先輩……!!」

 大声で名前を呼んだ瞬間びくりと先輩の肩が震えた。それでも振り向かない先輩は、目の前に広がる海を眺めて佇んでいる。

「先輩……!」

 何度も何度も呼んで、距離を縮める。あと一歩踏み出せば海に落ちてしまう。そんな場所に、先輩はいた。

「やっぱりここにいたんですね。もう少しこっちに来てください、先輩」
「何で来たんだよ。俺は瑠胡が……きら────」
「わたしは好きです」

 ヒュ、と先輩が息を呑んだ音がした。先輩が発している雰囲気が、この世界を拒絶するかのように深く深く広がっていた。けれどそんなもの、わたしがいくらだって取り払う。

 
「わたし、先輩のことが好きなんです。先輩はわたしのことが嫌いでも、わたしは違う。だから、最後に全部伝えてしまおうと思ったんです」
「……困るんだよ」
「それでもいいです。自己中心的でも構いません。ウザがられても、迷惑だと嫌われても、それでもわたしは先輩が好きですから」


 やっと言えた。こんなふうに一方的に感情をぶつけることが、正しいとは言えないけれど、それでも。

「先輩、こっちに来てください。落ちてしまいます」

 何も言えないまま別れになることを思えば、最善の選択だったと言えるだろう。まだ動かない先輩は、黙ってわたしの言葉を聞いている。
 

「先輩。どうしたんですか」


 ただそれだけを訊ねた。大丈夫ですか、とは訊かなかった。訊いてはいけなかった。
 先輩はわたしに「大丈夫」かどうか、訊ねたことは一度もない。

 大丈夫? と訊かれると、決まって大丈夫だと答えてしまう。今まで向けられたその言葉は呪いのようで、心配されているはずなのに、とても苦しかった。

 背を向けたまま、風に髪を揺らす先輩は、こちらを振り返ることなく、小さく告げた。



「もう全部、やめてしまいたくなった。怖くなったんだ、すべてに」



 夢、受験、将来、成績。そんなことしか思い浮かばないのは、わたしが彼を知らなすぎるせいだ。ゴールまでまっすぐに進んでいる先輩しか見たことがないから。いつも笑っている先輩しか見たことがないから。
 振り返った先輩が浮かべた、今にも消えそうな微笑に、わたしは思わず息を呑んだ。

「こわいんだ……自分で決めたくせにこわいんだよ、俺」
「受験することが、ですか」
「もっと広い全部のことが。その先で、将来の自分が本当に満足できるのか、分からなくなった」

 目の(きわ)が赤くなっている。こんなにも弱っている先輩を見るのは初めてだった。


「アイツだったら、なんていうかな」
 

 乾いたように笑う先輩は、今にも泣きそうな表情をしていた。
 そんな顔をする先輩を見るのだって、弱音を聞くのだってこれが初めて。弱さのかけらを微塵を見せなかった彼が、もう耐えられないとわたしに告げていた。

 アイツ。
 彼の口から出るその対象は、いったい誰なのか。もし、わたしの予想が当たっているのだとしたら。

「……弟さん、ですよね。先輩の弟の、ハクトくん」

 その名前を告げた瞬間、先輩の目が見開かれる。その表情を見て、確信した。ハクトくんはやはり先輩の弟なのだと。
 夢と現実は繋がっている。そんなファンタジーのような不思議な出来事も、今なら信じることができる。

「どこで、その名前を」

 信じられないといったように息を呑む先輩の額には汗が浮かんでいた。ここで焦ってはダメだと自分を落ち着けて、低いトーンのまま話を続ける。

「こんなこと、信じてもらえないかもしれないですけど」

 今から話すことは、『絶対』のない話。うそだと突っぱねられてしまえば、うなずくしかないような話であることは自分がいちばん分かっていた。なにせ、夢と現実の狭間にあるような話なのだから。
 だけど、先輩ならどんな話でも聞いてくれるような気がした。彼になら話してもいいと、過去を積み重ねてきたわたしが言っている。

「実は四月に入ってから、何度もみる夢があって。そこに、ハクト、っていう男の子が出てくるんです」

 あまりにも普通に会話できてしまう状況が、初めはただただ怖かった。ありえないほど"自然"な空間すぎて、現実(リアル)かと何度も疑ってしまった。


「先輩と、すごく似ていて。笑顔のつくり方も、言葉も、重なるところがたくさんあって。だから兄弟なのかもって、ずっと思っていました」
「そんなことが、あるのかよ」
「わたしも不思議なんですけどね。先輩とくるより先に、この海にも来ていました。ハクトくんと会うときは、必ずこの海が舞台なんです」

 両者にとって、きっとここは思い出の場所。そんな場所をわたしにも共有してくれた。それがたまらなく嬉しい。
 息を吐いた先輩は、しばらくして口を開いた。依然として、わたしとの距離を縮めることはないまま。

「確かに俺と珀都(はくと)は兄弟だけど……でも、瑠胡の予想は違う」
「え」
「珀都は俺の、兄貴だ」

 「え?」と声が洩れる。一瞬聞き間違えたかと思ったけれど、「俺の兄ちゃんだよ」ともう一度先輩が繰り返したことで、やはり聞き違いではないのだと理解する。

「え、でも。ハクトくんは、先輩より小さい男の子、で……」

 言葉が消えていく。先輩の横顔がなんとも言えない儚さと切なさが混ざったように歪んでいて、それ以上言葉を紡げなくなった。
 黙り込んだわたしをみることなく、視線を海に流した先輩が口を開く。その唇は、わずかに震えていた。

「死んだんだ。俺が、殺した」
「……え」
「この海で、俺がアイツを殺したんだよ」

 聞き馴染みのない言葉に息が詰まる。ゆっくりと目線を上げて、先輩の瞳を見つめる。その目に宿る光は、出会ったときから変わらない、ただひたすらにまっすぐなものだった。

(やっぱり、綺麗な目)

 不思議だ。"殺した"だなんて、恐ろしい言葉が出ているのに、ちっとも怖くない。それは、その言葉をそのまま受け取ってはいけないと分かっているから。わたしが彼を信じているからだろう。

「どうせ……あれですよね? 自分は彼を助けられなかった、目の前で亡くしてしまった、そういうことでしょう?」
「どうして」
「先輩は……罪悪感に悩まされて、苦しんで、いつも無理をしている優しい人です。じゃないとそんなつらそうな顔してないでしょう」

 いつかの日、先輩がそう言ってくれたみたいに。同じ言葉を、今度はわたしが返す番。
 彼はきっと、わたしが思っている以上にずっと脆くて、弱い人だ。だけどその脆さも弱さも、ずっとずっと抑え込んで隠して生きてきた、紛れもなく強い人。

「教えてください、先輩。話すだけでも、楽になることだってあります。わたしはそう、習いました」

 しばらく口を結び、その唇を震わせていた先輩は、意を決したように向き直った。それだけでわたしたちを取り囲む空気がガラッと変わる。
 ひや、と背筋を汗が伝った。

「俺の兄貴……珀都は、この海で、死んだ。自分で飛び込んだのが、最後だった」
「それは……何歳のときですか」
「俺が八歳で、アイツが十歳のとき」

 夢の中の珀都くんと同じくらい。珀都くんの時間は、あのまま止まってしまったのだ。今までの言動を振り返ってみると、たしかに納得できる。年齢に似合わない大人びた表情や、不思議な言葉の数々。それらは全て、珀都くんの中身だけが成長してしまったせいだろうか。

「どうして……って、きいてもいいですか」

 踏み込んだ質問だから、慎重にもなる。おずおずと訊ねると、「ああ」と少しうなずいた先輩は、海の先を見つめた。

「……病気だったんだ。小児がん」

 あまりにも重い響きに、頭を鈍器で殴られたような衝撃があった。

 だって、あの珀都くんが? いつも夢の中で微笑んでいる彼が?

 信じられなかった。言葉にも顔にも身体にも、病気を潜めた素振りなんていっさい見せなかったから。彼はただ、琥尋先輩という兄のことが大好きな弟。それだけに見えていたというのに。

「昔から何でもできるやつだった。勉強も運動も出来て、大人びてるのに子供っぽいところもあって、とにかく完璧なやつだった。周りの人たちからもすげー褒められて可愛がられてさ。逆に俺は出来損ないで、子供ながらに俺、疎外感半端なくて」
「……うん」
「だけどそれを認めるしかないくらい、めちゃくちゃ優しくてさ。少しは嫌なやつだったら、それなりに嫌いになれたんだろうけど。本当に、非の打ちどころのないような兄貴だった」
「……うん」
「弱さとか、絶対に見せなくて。だから本当に病気なのかな、俺を騙すための嘘なんじゃないかなって、ずっとそう思ってた」

 相槌を打つたび、反応をうかがうように視線がわたしに向く。話すことを怯えているような目だった。

「だけど……珀都が自殺する日、一緒にここに来て。それで、同じようにここに立って、アイツは俺の目の前で、この海に飛び込んだ」
「……っ」
「死にたい、もう苦しい、って、俺に泣きながら言うんだよ。ついには『お願いだから死なせてくれ』って。まだ……まだ十歳だったのに」
「……っ、せんぱい」

 思わず近寄って、震える身体を抱きしめた。びくりと跳ねたのち、ゆるりと緩くなる。

 どんなにつらかったことだろう。珀都くんも、先輩も。
 聞いているわたしですら、つらくて泣いてしまいそうなのに。

「俺、それ言われて何もできなくて。もう生きたくないって言ってるやつに生きろって言うのは、ものすごく残酷なことなんじゃないかって。ここから消えるっていう手段すら奪っておいて、この世界での幸せの保証なんてしてやれないのに、そんなの無責任なんじゃないかって」
「……それで、先輩は」
「助けられなかった。突然すぎて動けなかったし……なにより俺は怖かった。飛び込むことなんてできなくて、見ていることしかできなかった」

 ぐっと唇を噛んだ先輩は、まっすぐにわたしを見つめた。充血した目は、それでもなお光を失ってはいない。スッとわたしの心に差し込んでくる、あたたかな木漏れ日のような光。

「だから駅で瑠胡を見たとき、咄嗟に身体が動いてた。今度は、動けたことにすごく安堵して、それと同時に思ったんだ。俺は選択肢を奪ってしまったんじゃないかって」

 先輩の手が、わたしの手を握る。小刻みに揺れる指で、包み込むように握られる。

「死ぬのって勇気いるだろ? 簡単にはできないよ。よほど悩んで、苦しんで、葛藤した先の結果だと俺は思うから。だけど俺は、瑠胡に生きてほしかった。これは俺のただのわがままかもしれないけど、それでも俺は、瑠胡に死んでほしくなかった」
「わたしも……助けてくれて、嬉しかったです。本当に感謝しています」
「生きたいって思わせるとか、そんなふうに豪語したけど、俺はちゃんとできてる?」

 強くうなずくと、安堵したように息を吐いた先輩は、「よかった」と呟いた。

「先輩はすごい人です。はじめから、わたしの中ではずっと」

 握った手に力を込めると、ふるふると首を横に振られる。

「俺はそんなにすごいやつじゃないよ。なにせ今、逃げようとしてたところだったんだから。ていうか、実際逃げたし……な」
「えっ」
「何でもできるアイツが羨ましかった。いつも比較されて、いちばんを奪われていくのがつらかった。だから病気に勝てたら、そしたら……珀都に勝てると思った」

 何回か呼吸を入れながら、ゆっくりゆっくり話す先輩。静まり返った世界の中で、先輩の心の声だけが、わたしの耳へと届く。

「ただそれだけのクソみたいな理由で、俺は医者を目指してた。アイツが勝てなかった病気に勝ちたい、それだけなんだ。こんな最低なやつが人の命救いたいだなんて、笑えるだろ」
「でも、先輩」
「そのつもりで勉強してきたのに、そんな半端な気持ちでこの先続けていけるわけない。将来の自分が笑えているのか分からないのに、重圧背負いながら勉強して、俺は何やってんだろうって自分の存在理由が分かんなくなった」

 それで、ここに。すべてを吐き出してしまうために、先輩はこの場所にいたんだ。
 ふ、と息を吐いて少し目を閉じた後、先輩はまた口を開く。

「瑠胡に弱さを見せたくなくて、怖くなって、逃げた。俺がいなくても瑠胡はもう十分立派に生きていける。そう思ったら、もう俺がそばにいる理由なんてないんじゃないかって」

 先輩も、先輩のお兄さんも、弱さをみせるのが下手くそだ。糸がちぎれてしまうギリギリまで我慢して、ほぼちぎれた頃に吐き出すのだから。

『そろそろアイツ、壊れるだろうから。どうか守ってやってほしい。こんなこと、瑠胡ちゃんにしか頼めないんだ』

 僕にはそれすらもできないから────。

 珀都くんの言葉がフラッシュバックする。

 彼の目が、わたしにそう訴えているような気がした。
 笑ったとき、目尻にしわがよるところ。口の右端がちょっとだけ上がるところ。微笑んだときの表情と仕草が、思えばいつも重なっていた。
 そしていちばん似ているところは、互いが互いを好きなところ。

「人の命助けたいとか、憧れだとか、そんな理由じゃないから幻滅しただろ」

 自嘲する先輩は、わたしの手をそっと離した。まるで自分とは別物だと、そう言われたような気がした。

「いいんじゃないですか、理由なんて」

 気づいたら口からこぼれていた。わたしの言葉に顔をあげた先輩は、何かを期待するような瞳でこちらを見つめる。

 もしかするとこの人は、自分が言ってほしい言葉を、わたしにくれていたのかもしれない。同じように気持ちがわかるからこそ、わたしがいちばん求めていた言葉を、そっと手渡してくれたのかもしれない。

「医者になりたい理由も、存在理由も、わたしのことを先輩が助けてくれた理由も、そばにいてくれた理由も、わたしが先輩を好きな理由も、きっと必要ないと思います。ただ、そうなる運命だっただけ」

 運命、という言葉に、自分自身の体温が上昇していく気がした。
 けれど、ありのままの気持ちを伝えたくて、口が動くままに声を出す。

「それで片付けたら、ダメなんですか?」
「……」
「それに先輩は、ちゃんとわたしのことを救ってくれました。先輩のおかげで、確実にわたしの命は助かったんです。人の命を助ける理由なんて、なんでもいいと思います。ただ、医者になりたいってだけで、仕事を全うして、救える命を救うことができれば、それでいいと思います」

 すうっと息を吸う。この先を続けるのはすごく怖いけれど、素直な気持ちをぶつけてしまおうと思った。これが最後になってしまうかもしれないから、後悔はしないように。

「この先、先輩が不安なら、今度はわたしが先輩を笑顔にできるように頑張ります。どんな選択をした先輩のことも、となりで支えていきたいです。だから……その」
「悪い」

 口を開閉している間に告げられて、喉まで出かかった声を呑み込む。覚悟はしていたけれどはっきりと言葉にされると思っていた以上につらくて、涙が出そうになるのを必死に堪えた。
 生ぬるい風が、頬をひどく優しく撫でてゆく。

 やはりわたしでは、先輩のとなりには並べないらしい。

 突きつけられた事実に、胸が張り裂けてしまいそうなほど痛くなる。
 こんなに想っていても、届かない気持ちはある。だからこそ世の恋人たちは、想いが重なり合った奇跡を、大切にしていくのだろう。
 ペコリと頭を下げる。用が済んだら、すぐに立ち去ろうと思った。

「……わ、分かりました。色々でしゃばって、すみませ────」
「俺、瑠胡に嘘ついた」

 落とされた言葉に顔を上げると、そこにはひどく優しい顔があって、思わず息が止まりそうになる。今にも泣きそうな顔をしている彼は、ふっ、とその瞳に夜のような光を宿した。

(懐かしい。出逢った時の色をしてる)

 魅力的すぎて眩しくなるような色。わたしは初めからこの瞳に囚われていたのかもしれないと、今になってぼんやりと思う。
 静かに目を伏せ、深呼吸した先輩は、それからゆっくりと目を開ける。その瞳には、迷いも憂いも含まれていなかった。硝子玉のような瞳のなかにわたしがいて、まるで夜に溶け込んでいるかのようだった。

 唇が、動く。この瞬間が来ることを、心のどこかで期待していた。きっと、出逢った時から、ずっと。


「俺、瑠胡が好きだ」


 波の音も、鳥の鳴き声も、木の葉のざわめきも、全てが消えた。先輩の声だけがわたしの鼓膜を震わせ、心の内にあたたかさを運んでくる。

「それなのに怖くなって、嫌いだって嘘ついて逃げた。本当に悪かった」
「……せん、ぱい」
「瑠胡は初めから、俺にとって特別だよ」

 先輩の口から発せられる言葉が信じられなくて、息を呑んでいると、やや緊張したように顔を強張らせた先輩は言葉を続ける。

「やっぱ自分で決めた道だから、俺頑張ってみるよ。アイツが負けた病気に、今度こそ勝ってみせる。……いや、そもそもアイツは負けてなんかないから」

 彼らはやっぱり、お互いのことが好きだ。なかなか素直になれなくて、すれ違っている部分があったとしても、互いに支え合っている。
 その兄弟『愛』は、決してくだらないものなんかじゃなかった。素敵で、神秘的で、誰にも侵せない愛の形。

「これから先、色々と迷惑かけるかもしれないけど、それでも俺は瑠胡と一緒にいたい。瑠胡に応援していてほしい」

 小さく息を吸った先輩は、まっすぐに告げた。海がザーッと音を上げ、それから一気に静まる。世界が、わたしたちに時を合わせてくれているような気がした。
 すべての時が、止まる。


「俺のとなりで、ずっと笑っていてほしい」


 それがどういう意味なのか、いちいち聞かなくたってわかった。信じがたくて、それでも信じたくて、泣き笑いのままうなずく。

「もちろんです」

 狂おしいほどの想いが涙とともに溢れて止まらない。
 先輩の目元からも、きらりと何かが溢れたように見えた瞬間、あたりが一気に青い光に包まれた。

 冷たさ、静けさ、寂しさのなかに混ざるあたたかさ。心を鷲掴みにされて、何度も揺さぶられる。この美しい景色を、なによりも大切な人と共有できている奇跡をゆっくりと噛み締める。また涙がこぼれた。

「見れた……先輩と一緒に、見られたんですね」
「これが、俺のいちばん好きな景色だよ」

 果たされた、約束。
 諦めなくてよかった、向き合ってよかった。自分をさらけ出して、相手の心に触れられてよかった。今までの道で間違えることは何度もあったけれど、今ここに辿り着くための道のりとして、それらは全て間違いではなかったのだ。すべて、正解の道。

 視界に映るすべてが青色に染まる。先輩の瞳だけではなく、髪も、肌も。全部が鮮やかな青だ。
 ぽろ、と一筋の涙が頰を伝って落ちる。

「瑠胡の目も、青」

 わたしの目を覗き込んだ先輩が、そう言ってふっと笑う。至近距離で見つめられて、ドクドクと鼓動が響きだした。

「涙まで青い。泣くなよ、瑠胡」

 呆れたように笑う先輩の指が伸びてきて、優しく目元をなぞる。それだけで、留まることを知らない涙はどんどん溢れ出していくから。

「しょうがねえな。向こう向いて、瑠胡」

 意味がわからないまま反対側を向くと、そんな言葉の後にぐっと抱き寄せられて、先輩の香りが鼻先をくすぐった。

「出会った時から、こうしないと泣き止まねえから」

 景色が見えるようにと、そんな配慮までされた結果、バックハグのような状態になってしまった。
 どうしてだろう。死のうとしたあの日、抱きしめられたところからわたしたちは始まっているのに、あの時とは心音がまるで違う。今はただ、トクントクンと、聞いたことのないほど甘やかな音が、控えめに鳴っているのだ。

「……迎えにきてくれてありがとう」

 ぽつりと先輩が呟く。まるでこの瞬間を噛み締めるように。

「いえ」
「よくここが分かったな」
「まぁ……好きな人の、ことなので」

 漫画やドラマで、ヒロインの居場所をヒーローがちゃんと分かって助けに来るシーン。その逆も然りだけれど、読むたびに違和感を覚えていた。どうして分かるのだろうと、単純な疑問だった。

 だけど、今ならなんとなく分かる。
 自分でもよく分からないけれど、好きだから、わかるのだ。

「……瑠胡ってわりと無自覚なところあるよな」
「そう、でしょうか」
「うん」

 迷いなくうなずく先輩と一緒に、約束の景色を見つめる。ふわりと香る先輩の香りが、今はやけに近くて、波の音に勝るくらい大きな鼓動が響きだす。

「きれい……とっても、きれい」
「ああ、きれいだな」
「わたし、生きててよかった。これからも、ずっと生きていきたい」

 美しい世界を見るために。ずっとずっと、彼のとなりで笑うために。
 先輩がいるから、わたしはこの世界を彩りあるものとして生きていけるんだ。そしていつか、わたしも先輩の豊かな世界のために生きていけるようになりたい。

「よかった」
「ちゃんと思えました。たとえ先輩がいなくても、生きたいって思えるようになりました」

 もう会えないと告げられた日、たしかに先輩が離れていってしまった日、一瞬猛烈に死にたくなった。けれど、とどまることができたのはきっと、生きることで得られる幸せのかけらを見つけることができたから。

「だけど……わたしの世界が色づくには、先輩が必要です。だから、できるかぎり、先輩のとなりにいたいです」

 先輩がいなくても生きていくことはできるけれど、こんなにも輝きある世界を生きていくことはできない。

 先輩がとなりにいてくれるから世界に色がついて、先輩が笑うから毎日が楽しくなる。つらいこと、悲しいことがあっても、もう一度前を向こうと思うことができる。


「もちろん。俺もとなりにいたいし、いてほしいって思うよ」

 わたしの耳に、優しい響きが落ちてくる。

 引き寄せるように与えられるぬくもり。


 わたしたちを包み込むように広がる青の瞬間は、大切な人と見るブルーモーメントは、泣けるほど美しい眺めだった。