それからしばらく、先輩は駅に現れなかった。教室でのわたしの立ち位置もとくに改善することはなく、もう諦めるよりほかなかった。
少しずつ上がっていた気持ちが、また一気に降下していく。気持ちの起伏に酔ってしまいそうだ。
最悪なことに、いくら寝ても寝た気がしない。そのせいか、ハクトくんが現れる不思議な夢も見られなくなった。
現実でも夢でも、気持ちの吐き出し場所がない。先輩とハクトくんに出会う前のように、自分の中に悩みや黒い感情がたまっていく。
布団の中で目をつむっても、一向に眠気がやってこない。仕方なく、適当にかけてあったカーディガンを羽織って、部屋を出る。息を潜めて覗くと、リビングでは両親がなにやら言い争いをしていた。
またか。
内心でため息を吐きつつ、玄関へと足を進める。ドアを開けると、一気に夜がわたしを包み込んだ。ドアの開閉の音すら、母たちには聞こえないらしい。そのことにどこか安心して、夜の世界に飛びだした。
夜は、街がガラッと顔を変える。
どこまでも静かで、ヒヤリとしていて、ふとした瞬間に消えてしまいそうになる。まるで自分という存在が夜の一部になってしまったみたいだ。
息遣いを消すほどの喧騒がない。ひそめるように息をしながら、どこへという目的地すらなく歩いた。ふと、公園の前で足が止まる。昔、よく母と来ていた公園だった。
「なつかしい……」
キイ、キイと、ブランコを漕ぐたび音が鳴り、それが面白くて毎日のようにここで遊んでいた。ゆっくりと歩み寄って、ブランコに座る。音が鳴るのを期待して少し揺らしてみたけれど、何の音もしなかった。
ああ、と小さく落胆する。
わたしが知らない間に、このブランコは新しいものに替えられてしまったのだ。
そんなの、当たり前だよね。
いつまでも過去にこだわっていたところで、時間は止まらず進んでいく。過去に戻りたいと願っている瞬間ですら、わたしたちは前へと進んでいるのだ。
スマホを取り出して、メッセージアプリを開く。そこにピン留めされているのは、中学時代の親友だった。
【彩歌】
何があっても彼女だけはわたしの味方だと何の根拠もなしに信じられるほど、絶対的な親友だった。クラスも、部活もずっと一緒。学校生活をともにする時間が増え、自然と休みの日も一緒にいるようになった。どうしても予定が合わない日は電話、それも無理ならメール。
恋人と言っても通用するのではないかと思うくらい、とても仲がよく離れ難かった。きっとわたしがここまで恋愛皆無で成長してきたのは、彼女よりも優先順位が上になる人が存在しなかったからだろう。彼女に対して恋愛感情を抱いているわけではないけれど、他の人たちが恋人に向けるであろう情熱のようなものを彼女に注いでいたのは確かだった。そして彼女もまた、同じように思ってくれていたはずだ。
女の子同士の友情というのはそんなものだろうと思う。普通の友達と親友は、まったく別物だ。親友の前というのは、家族の前よりも素の自分でいられる唯一の場所なのだ。
親友の前では必死に背伸びをして、自分を取り繕う必要などない。
けれど高校に入学してから毎日会うことはできなくなり、電話をすることもなくなった。
「……電話はわたしのせいなんだけど」
短いぼやきが夜闇に消えていく。
心優しき親友は入学してから毎日連絡をくれていた。どんなに短い時間だったとしても、必ず電話をかけてくれた。けれど、中学時代とは比にならないほどの予習復習の量に追われていたわたしは、ついに電話をする余裕がなくなり、自分から断ってしまった。
今思い返せばそんなに焦る必要はなかったのに、過度な緊張と重圧に毎日押しつぶされていたのだ。はじめより余裕が出てきた今、断ってしまったせいでなんだか連絡するのが気まずいという、わけの分からない状態に陥っている。
なによりも至福で一日の疲れを癒す時間を、わたしは自分でなくしてしまったのだ。そんな判断をくだしてしまうほどに、わたしには余裕がなかった。
電話をしなくなって、メールもしなくなって、気づけば連絡をとらなくなっていた。日にすればそんなに昔のことではないのに、いつなんどきも一緒にいた身としてはずいぶんと長く感じてしまう。
SNSのストーリーには、彼女が高校の友達と楽しそうに笑い合っている写真があがっている。それを見た瞬間、彼女の中の"いちばん"が変わってしまったような気がして、すうっと身体の力が抜けていくような気がした。
わがままで、身勝手で、独りよがりな感情だった。
彼女との時間を拒絶したくせ、自分が常にいちばんでありたいだなんて、そんなふうに考えている自分がなによりも気持ち悪くて、大嫌いだった。
いつまでも彼女に執着しているのはわたしなのだと気づいたから連絡を絶った。それなのに話さなくなればなるほど、声が聞きたくてたまらない。また笑い合えたらどんなにいいだろう。何にも縛られない、偽りのない素の自分で。
液晶画面に視線を落とす。
「……話したいな」
会いたいし、声が聞きたい。何も考えずに、くだらないことで笑い合ったあの日々に戻れたらどんなにいいだろう。一緒にいることが何よりの救いだった。疲労がたまる日々だからこそ、それらを吹き飛ばすために毎日のように会っていた。
けれど互いに生きる道は違う。いつまでも同じ道を辿れるわけではないのは当たり前のことだ。
彼女はダンスがとても上手かった。ダンスの大会で賞状やトロフィーを持って笑っている写真を、何度もストーリーで見たことがある。彼女はダンスが有名な学校を受験し、見事合格した。そしてわたしは、流れるように普通高校へ。
正直、彼女がとなりにいない生活は慣れない。学校で過ごすどの瞬間も、「今ここにいてくれたら」と感じてしまう。どう頑張っても叶うはずのない願いを抱えながら、愛想笑いを貼り付けて生活をしているのだ。こんなの、楽しいわけがない。
『離れ離れになっても会えなくなるわけじゃないんだから。定期的に連絡してね、あたしもするから』
卒業式の日、彼女はそう言って笑っていた。いつもわたしが見てきた笑顔で、桜に溶けるようにそう告げたのだ。
目の前にある当たり前は、失くしてから気づいても遅い。いくら戻りたいと願ったところで、どうにもならないのだ。
電話をかけようとしていた手が止まる。
もし、冷たくされたら?
向こうでのようすを楽しく語られたら?
そしたらきっとわたしは耐えられないだろう。そう思うと、怖くて指が震える。そのままスマホの電源を切って、重い息を吐き出した。
空を見上げると、白い月がぼんやりと浮かんでいた。光は薄くて、雲に霞んだ丸い月が、静かに道を照らしている。
きれい、なんだよね。きっと。
もっと心に余裕があれば、いくらでも美しさを感じることができただろう。だけど今は、月が出ているという事実としてしか認識することができない。
光るものを包みぼかしてしまうような霞みさえ美しいと思える日はくるのだろうか。そんなふうに風情を感じ、月を見て笑える日が来るのだろうか。
ぼんやりとそんなことを考えながら過ごす夜は、いくつもの孤独を溶かすように、ただ静かに広がっていた。
*
「塾の回数、増やしたから」
母からそんな言葉をかけられたのは、朧月を見た数日後のことだった。あまりに突然のことで、頭が真っ白になる。
「増やしたって、どういうこと?」
「言葉通り、そのままよ。部活もやってないし、週四でいくことぐらい簡単よね。というか、普通だわ。今までの週二回っていうのが少なすぎたのよ」
「……そんな」
どうして勝手に決めてしまうの。そんなに軽々しく言わないで。
わたしにはわたしのペースがあって、それをかき乱されることがいちばん嫌いなのに。
「わたし、そんなにいけないよ」
言葉が口をつく。驚いたように目を丸くする母は、「瑠胡が言い返すなんて珍しいわね」と少しの怒りを言葉に混ぜた。
自分でもびっくりした。今までのわたしは、すべてに従って生きてきた。親の言うことは絶対。そんな暗黙のルールがあったから。
「どうしていけないの? 何か部活でもする気になった?」
「そういうわけじゃない、けど」
首を振った途端、母の顔が険しくなる。まるで獲物を見るような、心の奥を見透かすような、鋭く冷たいものに変わった。
「だったらどうしてできないの。怠けってこと?」
ぐさっと刃が心に突き刺さる。
「あのねぇ瑠胡。学生は勉強が仕事なんだから、逃げ出すわけにはいかないでしょう」
「……」
「せっかく良い高校に入れたのに、そんなんじゃすぐに置いていかれるわよ」
淡々と述べる母をじっと見つめると、「なにその目」と声のトーンがまた低くなる。だけどもううんざりだった。勉強、勉強、勉強って。
確かに勉強は大事だ。今後のために、頑張らないといけないのは分かっている。だけど……母の言葉に素直に頷けない。
「わたしはちゃんと勉強してる。だけど、勉強ばかりは嫌なの」
「だからどうして?」
こうして一つの物事に対して、理由や理屈を求めてくるのが嫌いだ。感情を理解することができないのかと、心底嫌になる。
いつもなら、ここで口をつぐんで終わりだった。けれど、クラスメイトとのすれ違いや、先輩と会えていないストレスで、とどめるはずだった言葉が口をつく。
「理由なんてないよ。ただ、やりたくない。それだけ」
「そんなの許されるわけないじゃない。大人になったらもっと大変なのよ? 頭を下げたり、常に笑顔で対応したり。子どものうちは勉強するだけだって言ってるじゃない。なんでそんなに簡単なこともできないの」
ああ。まずい。
そう思った時には、もう溢れていた。どろっとした、鉛のように重くて、黒い感情が。
「もうわたしはこれが限界なの! いちいち口出ししないで! わたしはお母さんが思っているほど有能じゃないし、いい子でもなんでもないから!!」
「瑠胡っ、待ちなさい!」
バタンと荒々しくドアを閉めて、家を飛び出す。背中からわたしを呼ぶ声が聞こえたけれど、振り返らなかった。
振り返ってしまったら、きっと母の顔を見てしまう。そしたら、偽物の罪悪感が渦巻き、わたしを取り込んでしまう気がした。
母がわたしのためを思って、そう言ってくれているのは分かっている。何かやりたいことが見つかった時、その夢が少しでも早く叶うように。
だけど、人生を構成するものが勉強だけじゃないことを、わたしは最近考えるようになった。
たとえば、部活に打ち込んで何かの賞をとったり、綺麗なものを探しに出かけたり、大切な人と心を通わせたり。趣味がいつの日か夢になって、それが叶って職業となるかもしれない。
今しかできないことも山ほどある。
『自分の気持ちに正直になれよ、瑠胡』
先輩の声が聞こえる。
そうだ、わたしは。
わたしの気持ちに、正直でありたいのだ。
*
「瑠胡ちゃん?」
公園のベンチに座っていると、ふいに声がした。驚いて声がした方を見ると、心配そうに近寄ってくる琴亜ちゃんの姿がある。
「琴亜ちゃん……」
「なにかつらいこと、あったの?」
優しい声音でたずねられて、視界がじわりと歪んでいく。ここ数日間流せていなかった涙が、簡単にあふれ出していく。
「ゆっくりでいいから、聞かせて」
瑠胡ちゃんは嗚咽混じりのわたしの吐露を、うなずきながら聞いてくれた。話し終えた後もわたしの手を握りながら、「がんばったね」と声をかけてくれる。
「瑠胡ちゃんはすごいよ。自分の気持ちをぶつけられたんだから。すごく強くなってる証拠だよ」
「……そうかな」
「そうだよ!」
ぎゅっとわたしの手を握った琴亜ちゃんは「たまたまこの公園の前を通りかかってね」と説明してくれる。
「瑠胡ちゃんが悲しそうな顔をしてたから、思わず話しかけちゃった」
初めて会ったときと同じだね、と笑う琴亜ちゃんの顔を見つめる。
悲しそうな顔をしていたから話しかけた。誰しもができることではない、と思う。少なくともわたしなら、踏み入ることなく素通りしてしまう。
それを彼女は、わざわざ踏み込んでまでわたしに会いにきてくれた。
なんて優しい子だろう。わたしは彼女に助けられてばかりだ。
「少しは落ち着いた?」
「うん。ありがとう、琴亜ちゃん」
「いえいえ! じゃあ、そろそろおうちに帰る?」
「……うん、そうする」
ばいばい、と手を振って琴亜ちゃんと別れた。
心なしか、家までの足取りが軽くなっているような気がする。
「ただいま……」
自室に入ろうとしたところでわたしに気づいたお母さんが、抑揚のない声でぼそりと告げた。
「とりあえず、週二回に戻しておいたから。また気が向いたら、声かけて」
「……うん」
わかってもらえた、というよりは、どこか諦めたような口調だった。ピンと張っていた期待という名の糸が切れ、わたしと両親を繋いでいたものは、これでなにひとつなくなってしまった。
だけど……後悔は、してない。
だってこれ以上自分を追い込んだら、もうわたしは確実にダメになっていた。
『頑張るのをやめるんじゃなくて、頑張りすぎるのをやめるだけ。頑張りすぎて自分をぶっ壊してたら元も子もないだろ』
先輩の言葉が、今のわたしを救ってくれた。未来のわたしを生かしてくれた。
先輩の存在が、またわたしを助けてくれた。
先輩に会いたい。暗いトンネルを抜けた先で、彼に会いたい。
その思いは、日を追うごとに強くなっていった。
うつむきがちに、歩を進める。駅までの道を、ぽつり、ぽつりと。
たしか入学してからはしばらくは、こんな感じで歩いていた。前を向くことが、つらくて。たったそれだけのことでもものすごく体力と気力を使うから、こうして下を向いているのがいちばん楽だった。
すっかり元に戻ってしまったみたいだ。色のない日々がわたしの日常。もともとこれがわたしにとっての"普通"なのだから。
先輩と過ごした束の間の幸せは、わたしが死ぬまでのちょっとした休息だったのかもしれない。そんなふうに、馬鹿げたことを思うようになっていた。
だから、もう悔いはないのかもしれない。このまま先輩と会うことがなければ、学校に通う意味も、生きる意味すらも分からなくなってしまう。
「……重すぎる」
自分が思っている以上に、わたしはひとに対して重い気質なのかもしれない。そんなことを思いながら、雨で散ってしまった桜の木を見上げる。それからゆっくりと地面に視線を落とすと、花びらが桜色の絨毯のように広がっていた。
「なにが重いんだ?」
なにより耳が欲していた音色に、息が止まる。ついに幻聴まできこえるようになってしまったのか。そんな説はどうにか否定してほしくて、この目で存在を確かめたくて、ゆっくりと振り返る。
「よっ、元気?」
変わらない笑顔がそこにあった。数日間会わなかっただけで、ずいぶん懐かしいと感じてしまう。
「先輩……!」
「そんな嬉しそうにされると照れるわ」
照れ笑いを浮かべながら後頭部を掻く先輩は、「会えなくてごめんな」と小さくなった。慌てて首を振ると、安堵したように緩められた頰が、わずかに桃色に染まる。
「もうすぐ電車くるよな。一緒に行こう」
「はい……!」
前に視線を移した瞬間、景色にパッと色がついた。桜も、空も、道も、風ですら、すべてが鮮やかに彩られて世界が一気に華やいだ。わたしの世界が色づくためには、やはり彼が必要らしいのだ。
「桜散ったな」
「ですね……少し寂しいです」
手を伸ばせば簡単に届いてしまう、心音が聞こえてしまいそうな距離。
二人並んで歩く時間は、もっとを求めてしまうほどに、和やかなものだった。
─────
いつものように電車に乗り、空を眺めながら揺られること数分。
ふとこちらを見た先輩が小さく首を傾げた。
「今日、これから時間ある?」
「え……ありますけど、どうしてですか」
「ちょっと一緒に行きたいところがあって」
ニッ、と笑う先輩は、秘密基地に向かう子供のような、そんな無邪気な顔をしていた。唇の隙間からちらりと覗く八重歯が可愛らしいな、なんて。頭の片隅をよぎる言葉。
そんな思想を脳内から追いやり、問い返した。
「どこですか?」
「それはまだ内緒」
唇の前で指を立て、目を細める先輩。艶っぽい仕草に、心臓がトクンと音を立てる。
「ついてきてくれる?」
「はい。行きたいです」
素直にうなずくと、嬉しそうに笑った先輩は「じゃあ次の駅で降りるから」と告げた。そんな場所で降りたことはないので、やや緊張気味に降車し、電車を見送る。
あっという間に走っていってしまった電車。思っていたよりもあっさりしたものだった。
周りを見渡すと、緑が多い。風の音がやけに大きく感じられる。
きっと都会に住む人が理想とする田舎の形がそこにあった。それくらい、のどかで、落ち着いていて、こんな場所が通学までの停車駅にあったのだと驚いてしまうほど。
「ここから少し歩く。行こう」
鞄を掛け直して歩き出す。傾斜の急な坂を降りていた時、思わず足を滑らせそうになると、その瞬間振り返った先輩に手を取られた。
「……ありがとう、ございます」
「ん」
てっきりすぐに離されると思っていた手は、いまだに繋がれたままだ。
繋がれた手は身体の横へとゆっくりと移動する。
骨張った手の感覚に、思わず心臓が跳ねた。触れ合った左手が妙に熱くて、神経がそればっかりに集中してしまうのに、先輩はなんでもないように平然としていた。それどころか、「きれいな景色だな」なんて景色を楽しむ余裕まであるみたいだ。
手を引かれながら黙って歩く。ドッ、ドッという胸の鼓動が、指先を伝わって先輩に届いていないか心配だった。
汗が噴き出すように、全身が熱い。
手を繋いでいる。
この行為自体に意味なんてきっとない。意識しているのはわたしだけで、先輩にとっては当たり前のことなのかもしれない。異性とのスキンシップに慣れていないわたしにとっては、ハードルが高すぎるくらいだけれど。
でもきっと先輩は……。
こんなことを考えてしまう自分が嫌だ。打ち消すように首を振り、前を向く。歩くたび先輩の髪が揺れるのを見ながら、歩くこと十数分。
「ついた」
「わあ……っ」
そこには、真っ青な海が広がっていた。その美しさに思わず感嘆の声が洩れるけれど、それと同時に何か引っかかりを覚える。モヤモヤとしていて、うまく言葉に表せないけれど、何かを忘れているような、そんな不思議な感覚だった。
「どうした?」
「……いえ、なんでも」
不思議そうにわたしを覗き込む先輩。どうせならもっとしっかりリアクションしたかった。違和感に流されてしまう前に、感動を伝えたかったのに。
やるせない気持ちになっていると、眉を寄せた先輩がわたしの顔をのぞき込んだ。
「なんでちょっと残念そうなんだよ」
「ち、違います」
なんでもお見通しの先輩は、またわたしの額を弾いた。これでは、落ち込んでいる理由までバレていそうだ。
「こっち座って少し話そう」
先輩に促され、海と少し離れた、草が茂る場所に座る。しばらく沈黙が降りるけれど、決して嫌な空間ではなかった。気まずさとか、寂しさとか、怖さとか。そんなものをいっさい感じないから不思議だ。
遠くのほうから、サア────と心地のよい波音がきこえてくる。波の音は1/fゆらぎだったはず。それは、人間が心地よく感じるゆらぎのことだ。まったくその通りだな、と納得してしまう。
「俺、実は医者志望なんだよ」
ゆらぎの一部にするように、先輩はそれだけを淡々と告げた。聞き間違いを疑う必要がないほど、はっきりと。医療系の志望者が多い学校であることは理解しているので、特別驚くわけではない。それでも、自分には到底無理だということだけは分かるので、素直に感心してしまう。
「勉強が行き詰まってどうしようもなくなったとき、ここにいると落ち着くんだ。だから瑠胡も同じだったらいいなって。少しだけでも息抜きになったら、またいつもみたいに笑ってくれよ」
先輩には医者というはっきりとした目標がある。終着点が定まっているのが、ほんの少しだけ羨ましかった。たどり着くべき場所が決まっている人は、そこまでの道のりがどんなに険しくて茨の道だったとしても、諦めずに進んでいく強さを持っているのだから。
視線を落としていると、急に顔を覗き込まれて肩が跳ねた。美形の接近は心臓に悪いからやめてほしい。
「元気ないのは、なんで?」
ここ数日、先輩に会えなかったからですよ、なんて。そんなこと恥ずかしくて言えるはずがない。ぶんぶんと首を横に振る。
「せ、先輩は最近なにしてたんですか」
妙に早口になってしまう。質問に質問で返してしまったのに、先輩は気分を害した素振りもなく、柔らかく笑っていた。それからじっとわたしを見つめたあと、ゆっくりと息を吐いて目を伏せる。
「図書館で勉強してた。あとは学校に残って講習会の日もあったな」
「あ……なるほど」
「寂しい気持ちにさせて悪かったな」
「……別に、大丈夫です」
つい、言葉が出てしまう。本当は何も、大丈夫なんかじゃないのに。
ふっ、と口許を緩ませた先輩は「素直じゃねーの」なんて言って笑っていた。すべてバレている。わたしが今日まで元気がなかった理由も、先輩の返答からしてバレてしまったようなものだろう。
先輩が小さく息をついて、前を向いたまま口を開く。
「なにか、悩みごとがあるんじゃねえの?」
「……」
「大丈夫だ。ここなら、ぜんぶ海が受け止めてくれる」
その言葉を聞いた瞬間、また妙な引っかかりを覚えた。今度ははっきりと、何かが引っかかる音がした。
わたし、何を忘れてるの?
さっきの言葉を、わたしは今初めて聞いた。そのはずなのに、なぜだか記憶のどこかに同じ言葉が眠っている。思い出せそうで、思い出せない。
……そう思うのも、二度目だ。
────あ。
違和感の正体がばちっと繋がる。どうして気づかなかったのだろう。こんなに分かりやすいのに。
そう思った次の瞬間、無意識のうちに、口がその名前を呼んでいた。
「ハクトく……」
「ここは、俺の思い出の場所なんだ」
けれど、言葉をかき消すようなタイミングで先輩がぼそっとつぶやく。それが意図されたものなのか、偶然なのかは分からなかった。わたしの口から出た名前は、先輩の耳に届くことはなかった。完全にタイミングを逃してしまい、気分を落としながら、慎重に問いかける。
「特別な場所、ってことですか」
「特別な……まあ、そうだな」
うなずく先輩は、草の上に視線を落とした。なんとなくそれ以上は踏み込んではいけないような気がして、喉元にある言葉を飲み込む。
その代わりに、ずっと胸の中で溜め込んできた、たったひとつの思いがこぼれた。
『特別』とは対照的な、その想いが。
「わたしは……普通になりたいんです」
そう呟いた瞬間、先輩の目がわずかに大きくなった。
こんなこと、誰にも言ったことがなかった。だけど、小さい頃からの切実な思いだった。わたしが理想とする自分の姿は、普通でいられることなのだ。
「何でもできるようになりたいだなんて、そんな図々しいこと言わないから、すべてが人並みにできるようになりたいんです。目立たず、浮かず、ただ平穏に普通に生活できるなら、わたしは誰かの特別になる必要だって、万人に好かれる必要だってないんです。ただ、嫌わないでいてくれれば」
初めて口にした、今まで出せなかった鉛のような感情が、胸の奥深くから吐き出されていく。それと同時に、ぽろぽろと涙が溢れだす。それは、こんなふうに暗い気持ちを抱えてしまう自分の情けなさと、それから、
(やっと、言えた)
という、安堵からだった。
「人よりも劣りたくない。なんでも要領よくこなせるような、そんな楽な人間になりたい。どうでもいいことに悩んで落ち込んで、苦しむこんな性格大嫌いなんです。どうして自分だけうまくできないのか分からない。みんなはもっと楽しそうに生きてるのに、わたしだけ取り残されてるみたいなんです」
無論、それはわたしが見ている世界。周囲の人たちにもそれぞれに苦悩があって、わたしには見えない部分がたくさんあるのだってちゃんと分かっている。けれど、それを微塵も見せないような上手な生き方ができることが、それもまた羨ましくてたまらない。
そこまで黙って聞いていた先輩は、まっすぐにわたしを見て、静かに唇を震わせた。
「それはきっと瑠胡が自分に期待しすぎてるんだと思うよ。期待すればするほど自分としての理想像が高くなって苦しくなる。必要以上の力を求めてしまうから」
諭すような口調に、思わず口を噤む。頭を鈍器で殴られたような感覚だった。
期待しすぎてる、だなんて。
なぜだか自分を否定されたような気がして、悲しみとともに憤りを感じた。誰かに傷つけられても、悲しいとは思ってもそれが怒りに変わることはなかった。けれど今は、自分の思いが"怒り"というたしかな感情に変化していくのを心中で感じる。
いつもわたしの心を理解して、寄り添ってくれた先輩に、そんなふうに言われてしまった。唯一の存在に非難されたような気がして、それがたまらなく悲しくて、苦しくて、悔しかったのだ。
どうしてわかってくれないんだろう。
今までは理解されないことが当たり前だったのに。以前のわたしからすればおこがましく感じてしまうようなことを、わたしは平然と思っているのだ。
ぎゅっと拳を握りしめて、同じように先輩の瞳をまっすぐ射抜いた。
「諦めろってことですか。自分には何もできないんだって」
期待をしないということはそういうことだろう。両親に見放されてしまった今、いちばん近くにいる自分という存在すら、己を見捨ててしまってはだめなのではないか。せめて自分一人だけでも期待していないと、期待に応えることすらできなくなってしまう。何のために生きているのか分からなくなってしまう。
わたしの言葉に先輩は目を伏せ、それから静かに呟いた。
「俺は自分に期待してない。ただ、信じてはいる」
それは凪のごとく静かで、穏やかで、言葉をそっと手渡すような口調だった。じっと見つめると、パチリと開いた瞳が流れ、海の色がわたしを捉える。
「人を信じるって、期待するよりはるかに難しいことだろ。幻想を抱いて期待するのは誰だってできるけど、自分を委ねられるほど信じるってなかなかできない。だからせめて、俺だけは俺を信じてやるって決めたんだ」
期待することと信じること。似ているようで、全然違う。
「無条件に信じるって、確証を求める人間にとってすげえ難しいことだろ? だから、なんの心配もなく自分を委ねられる存在なんて、一生のうちに数人出会えるか出会えないかなんだ」
裏切る、という言葉があるけれど、それは相手と自分を信じていないと成り立たない。大人になる過程で何度もそれを経験して、重ねていくうちに誰も信じられなくなる。
わたしだって同じようなものだ。見放されて失うのが怖いから、初めから近づくことをやめてしまう。裏切られるのが怖いから、人を信じることができなくなった。
「なあ、瑠胡」
振り向くとそこには、ひどく優しげな表情をした先輩がいた。いくつもの、名前を知らない感情が混ざり合ったような顔をする先輩は、まっすぐにわたしの目を見つめて告げた。
「俺のこと、信じろとは言わないけど────信じていいよ」
そのときふと、あたりが柔らかい光に包まれて、導かれるように視線が空に吸い寄せられる。太陽と逆の空に、アッシュピンクのラインがかかる。青色と混ざり合うようにグラデーションになるそれはまるでピンク色の橋のようだった。
言葉には表せない絶景に息を呑む。すべてを溶かし込むような淡い色をした空は、どこまでも終わりなく広がっていた。
「ビーナスベルト」
「え?」
ぽつりと呟いた先輩に視線を移すと、「ビーナスベルトって言うんだ。すげえ綺麗だろ」と誇らしげに笑っていた。その顔を見た途端に、胸の奥がキュッと締めつけられる。けれどそれは苦しくなるようなものではなくて、ささやかで甘いときめきをもたらす、そんなもの。
「ビーナスベルトは空気が澄んだ日にしか見られないから、春や夏にはあまり見られないんだと」
「え、でも今」
「だから俺たちはツイてるんだ。ほら、しっかり目に焼き付けろ。次いつ見れるか分からないからな」
そう言われて、視線を空に戻す。海と空の間がぼやけて、神秘的な光に包まれている。
「ヴィーナス。ローマ神話の女神、だっけ。恋と美の女神」
なにやら解説をしてくれる先輩。黙って先輩を見つめると、あっちを見ろといったようにまた視線を景色に戻される。
「ビーナスベルトの下に濃い青が広がってるだろ、あれが地球影。遠い場所の夜の色。この現象には赤い光と青い光の錯乱が関係しているんだ。その錯乱が混ざってピンクになる。この現象はすぐに消えてしまうから、言うなれば、魔法の時間ってやつだな」
「魔法の、時間……」
その言葉を反芻する。先輩はこの気象現象の仕組みさえ知っているようだった。
「まあ細かいことはいいよ、難しいし。それより今は景色を楽しめ。あともう少ししたら消えちまうから」
おもむろに立ち上がった先輩は、いきなり靴を脱いで、迷うことなく海の中に入っていく。押し寄せる波が先輩の足を濡らす。時折「冷てえ」と声を出しながら、子供のようにはしゃぐ先輩。その姿が珍しくて、微笑ましくて、つい笑みがこぼれてしまった。
「瑠胡」
少しでも目を離せば溶けてしまいそうな世界のなかで、先輩が笑っている。その瞬間、ドクッと耳の横で音がしたような気がした。一度だったけれど、今までとはまったく違う、力強い鼓動だった。
──ああ、と。
そこでようやく気がついた。否、ずっとこの気持ちの正体を探っているふりをして、本当は初めから気づいていたのだ。それでも気づかないふりをしていたのは、傷つくことが怖いから。想いを認めてしまったら、もう後戻りはできないとわかっていたからだ。
まっすぐに彼を見つめると、柔らかい笑顔が返ってくる。その顔を見ていると、色々な感情が混ざって泣きたくなってしまう。けれどその涙は、きっとなによりもあたたかい。
────わたし、琥尋先輩のことが好きなんだ。
自覚をしてしまうと、フィルターがかかったように、一瞬で世界が鮮やかになる。この感情が言葉として出てしまいそうになった。ぐっと口に力を入れて、それをとどめる。
誰よりも会いたくて、話がしたくて、顔を見られると嬉しくて。一日のなかで彼と過ごす時間こそが、わたしの楽しみになっていた。会えない日は泣くほど苦しくて、名前を呼ばれるたび胸が高鳴って、呼吸の仕方を忘れてしまう。朝起きたらいちばんに会いたくて、彼の顔を見てから眠りにつきたい。そんなふうに、毎日毎日、彼のことを考えている。
信じていいよ、と。そう言われたとき、なんの迷いもなくうなずける自分がいた。信頼と愛は、無条件に与えることができるのだと。そして自分も与えられたいと、人生ではじめて思った。
この感情は、きっと恋。経験したことがなくても、わたしはこの気持ちを知っている。ずっとずっと昔から知っていたような気さえしていた。
「来いよ」
スッと伸ばされた手がわたしを呼んでいる。透明なピンクと青が混ざり合う世界で、たったひとつだけ輪郭がはっきりとしているもの。
わたしは、先輩が好き。
この気持ちだけは揺らぐことなく、ぼやけることもなく、ただそこに在る。
冷たい水の感触が足を包み込む。上昇した体温と水の温度差が心地よくて、もっと浸っていたいとすら思ってしまう。
だけど。
きっとわたしの想いなんて、先輩には届かない。もし奇跡が起きたとしても、わたしの存在なんて重荷にしかならないだろう。医学部受験は大変だと、詳細を知らないわたしですら、分かっている事実なのだから。
淡いピンク色を見つめながら、泣きたくなった。はっきりと恋心を自覚してしまったのに、この気持ちの行き場がない。先輩の邪魔はできないし、したくない。
もしもわたしが強い人間だったなら。
迷惑をかけずにいられる、重くない人物だったとしたら。
そんなタラレバを考えることすらしてはいけない。
同じようにビーナスベルトを見つめ、さらさらと髪を揺らす先輩が、視線を逸らさずわたしに問いかけた。
「ブルーモーメントって知ってるか」
「ブルー、モーメント?」
「そう。俺はそれがいちばん好き」
どんな景色なんですか、と。今までのわたしならきっと迷わず訊いていただろう。けれど今なら次に何を言うべきか、自分が何を言いたいのか、わかる。
意識しなくても、自然と言葉が溢れていた。
「先輩と一緒に見たいです。ブルーモーメント」
その瞬間先輩の顔がほころび、あたりが優しい光に包まれた。足に触れる冷たい水と身体中の熱のせいで、ふわふわと浮いているような不思議な感覚になる。先輩の頰はほんのりピンク色に染まっていた。
それはきっとビーナスベルトのせいなのだと。周りの景色が先輩に溶け込んでいるだけなのだと。勘違いしそうになる自分を必死に説得する。
「約束な」
細くて長い指が差し出された。驚くほど白くて、少しだけ骨張った手。その手を見るたび「琥尋先輩だ」と、わけのわからないことを思ってしまうわたしはきっと手遅れ。跳ねる鼓動を抑えて、同じように小指を差し出す。
「ふふっ、子供みたい」
「まだ子供だからしょうがねーだろ」
「次誕生日が来たら成人ですね、先輩」
「あと三ヶ月……ってとこかな」
指を絡めあったまま、そう会話をして笑い合う。
ブルーモーメントを見る、そのときまで。あともう少しだけ、一緒にいたい。
まだ引き返せる、そのときまで。もう少しだけでいいから、この夢に甘えさせて。
それで最後にする。すべて、なかったことにするんだ。
海で交わされた桃色の約束を、あたたかい光が静かに包み込んでいた。
───────
夢をみるのは、久しぶりだった。
ずっとよく眠れない日が続いていたから、ここにくることも、久しぶりだった。
『瑠胡ちゃん。久しぶりだね』
生々しい水の感触。煌めく水面から前に視線を預けると、薄茶色の髪がさらさらとなびいていた。
(どうして気づかなかったんだろう)
初めて会った、その日から。気づくチャンスはきっといくらでもあったはずなのに。
「久しぶり、ハクトくん」
『なかなか来ないから、心配してたんだよ』
ふはっと笑う顔が、また重なる。
『でも、心配する必要はないみたいだね。すごくすっきりした顔してる』
「え?」
『最初のころの瑠胡ちゃん、どんな顔してたか覚えてる? こんな死にそうな顔してたよ』
手を使って萎れたような表情をつくる彼は、ニヤリと口の端を上げてからかうような笑みを浮かべる。怖くなってしまうほど白くて細い手足と顔。それでも違和感なくいられたのは、誰かによく似た美貌と夢のせいだろうか。
「ねえ、ハクトくん。教えて。わたし今日この海に来たの。誰とかわかる?」
『……知らないな』
わざとらしく目を逸らされる。彷徨う視線が、ほとんど答えのようなものだった。言ってしまえば何かが変わってしまうかもしれない。そう分かっていても、静かに告げた。
「琥尋先輩と、だよ」
ずっと夢で見ていたこの場所が、まさか現実に存在していると思っていなかった。だけど、先輩はここが『思い出の場所』だと言っていた。そして、毎度見る夢は、必ずここが舞台。
彼らの関係を考えてしまうのは、至極当たり前のことだった。
「ハクトくんは先輩の弟なの?」
『先輩ってだれ』
「琥尋先輩。知らない?」
ふるふると力なく首を横に振る彼。だけど、どう考えてもそうなのだろう。琥尋先輩とハクトくんは、兄弟関係にある。
「だって、すごく似てるんだもん。笑い方、そっくり」
先輩のほうが少しだけぶっきらぼうな感じはするけれど。ふと重なる影がそっくりなのだから。
「どうしてわたしを助けてくれるの? わたし、先輩とハクトくんのおかげで自分をちゃんと見つめることができるようになったの」
『それは……よかった』
「夜がくるのが怖いって思わなくなったのは、ハクトくんのおかげだよ。この夢の中で、わたしを待っていてくれるから」
切なそうに目を細めるハクトくんは、静かに目を伏せ、それから意を決したようにわたしに向き直った。
『瑠胡ちゃん』
わたしの名前が呼ばれる。あたたかい響きだった。
『そろそろアイツ、壊れるだろうから。どうか守ってやってほしい。こんなこと、瑠胡ちゃんにしか頼めないんだ』
「壊れるって、なんで……」
『アイツはすごく弱いから。僕よりもずっと、脆くて弱いやつだから』
憂いが混ざる瞳は、どこか遠い場所を見ていた。わたしを見ているはずなのに、どこかピントが合わない。
『瑠胡ちゃんとアイツが出逢ったのは、ちゃんと意味がある。偶然かもしれないけど、紛れもなく必然なんだ。アイツを救えるのは瑠胡ちゃんだけ。アイツの未来を託せるのは君だけなんだ』
「未来……?」
『どうか、救ってやってほしい』
僕にはそれすらもできないから────。
同じ色をした水色の瞳が、揺れながらそう訴えていた。
「……無理だよ。わたしには、そんなことできない。その役目はわたしが背負うものじゃない」
『どうして』
「だって……そういうものだから」
言葉にすると、余計に泣きたくなった。
好きな人の夢は応援してあげたい。だけどわたしなんかがそばにいたところで、マイナスにしか働かない。これも、自分に自信がないせいだ。こんな半端な気持ちでそばにいたいだなんて、本当にどうかしている。だから、自分から離れるべきだ。
『そんなふうに決めつけたらダメだよ』
「決めつけじゃなくて一般論だよ。先輩の迷惑にはなりたくない」
『アイツが言ったの? 迷惑だって』
目を逸らしたくなるほどまっすぐな視線で射抜いてくる。その瞳の熱さが、また重なってしまう。
『アイツを見くびってもらっちゃ困るよ。なんでもうまくやるに決まってるじゃん』
「すごい……信頼してるんだね」
『別に、そういうわけではないけど』
「先輩、こんなに弟に応援してもらえて。いいなぁ」
家族愛、とか。わたしの家庭はそういうのとはかけ離れているから、ますます羨ましい。先輩はたくさんの愛に囲まれて、あんなに素敵な人になったのだ。強くて、あたたかくて、わたしを救ってくれた大切な人。
そして目の前にいる彼もまた、四月のわたしを救ってくれたひとりだ。
「ハクトくん、夢じゃない世界で会おうね。ここでだけ会うのは嫌だよ」
そう告げると、彼の瞳に切なさの色が小さく混じったような気がした。けれどそれは一瞬で、すぐに「うん」と返ってくる。
ぼやけていく視界の中で、ハクトくんが目を細める。そして。
『これだけは言えるよ。アイツは……琥尋は、誰よりも優しいやつだ』
そんな響きだけが、海に溶けて消えた。
それからまたしばらく、先輩は駅には現れなかった。
クラスも、部活のことも、何も知らないわたしはただ、駅で会える日を心待ちにしているしかなかった。
きっと勉強が大変なのだろう。
わたしに構っている暇などないのだろう。もう五月に入り、毎日毎日、受験まで日が進んでいく。一日たりとも無駄にしてはいけないと、かつての先輩インタビューで誰かが言っていた。誇張ではなく、本当にその通りなのだろう。
ブルーモーメントを見たいとは言ったものの、それが実現する日がくるのかどうかなんて、わからない。
先輩と一緒にいたい。
そんな気持ちを抱くのとは裏腹に、そんなのは無理だともう一人の自分が告げていた。
せめてブルーモーメントを見るときまで。そう、決めたから。
付き合いたいとか、四六時中一緒にいたいとか、そんなことは言わないから。せめて一日の終わりに会話をして、元気をもらいたい。それすらわがままだと言われてしまうのだろうか。
一人で電車に揺られながら、窓の外を見遣る。紫と、ピンク。遠くにいくほど薄くなって、グラデーションになった雲がぷかぷかと浮いている。
「……会いたい」
笑顔がみたい。一日の疲れや不満がすべて吹っ飛んでしまうような、あの笑顔をわたしに向けてほしい。
恋をするということは、強欲な自分を生み出してしまうことでもあるのだと。やり場のない想いを、ぎゅっと胸の前で抱きしめる。
ブルーモーメントを見たら離れよう、なんて。そんな甘い考えが通用しないほど、自分の気持ちが大きくなっていることに、わたしはまだ気づいていなかった。
想いを馳せている彼がこの時、どこにも逃げ出せない葛藤に苦しめられていたことにすら、わたしは気づけていなかったのだ────。
*
「もう、会えない」
目の前にいる彼から発せられた言葉が信じられなかった。ひどく冷たい声音で告げられる。「え……?」と声にならない声が口から洩れる。
ベンチに座り、わたしに向き直った先輩は、色のない瞳でわたしを見つめた。せっかく久しぶりに会えたというのに、どうやら嬉しいと思っていたのはわたしだけみたいだ。
「約束は……? ブルーモーメント見るって、約束したじゃないですか」
声が震える。
縋るような気持ちで問いかけると、先輩は静かに目を伏せて「……悪い」とそれだけを呟いた。
「そんなの……あんまりです」
「自分勝手でごめんな。でも、もう決めたことだから」
「え……なんで急に? だって、この間まで」
──── 一緒にいたじゃないですか。
そんな言葉は、声にならなかった。先輩の、突き放すような冷たい視線が刺さり、心臓が嫌な音を立てて、脳へと危険信号を送っているみたいだった。
「……悪い」
いつも自信に満ち溢れていて、わたしの知らない世界を教えてくれて、何度もわたしを救ってくれた人。どんなときだって前を向くことを忘れない、そんな彼が。どうしてここまで追い詰められた表情をしているのだろうか。
心底迷惑だと。そんなふうに、わたしを評価しているのだろうか。
「せめて、約束を果たしてからにしませんか。わたし、ブルーモーメントを見られたら、ちゃんと身を引きます。だから」
それ以上言葉を紡げなかった。何を言っても無駄だと、光を失った目が訴えていた。ゆっくりと視線を落とした先輩が、薄い唇をわずかに震わせる。
「本当はこの間で最後にすればよかったんだ。俺が全部悪いから」
「……っ、そんなふうに言われたくありません。嫌いになったならなったって、はっきりそう言ってください」
強気なふりをしながら、本当は泣きそうだった。唇をぐっと噛みしめていないと、すぐにでも涙がこぼれてしまいそうだった。
好きだと自覚したあとにこんなことを言われては、引き返せない。もうどうしたって、好きになる前には戻れないのだから。
「……き」
先輩の瞳が揺れる。出会ったときと変わらない、海の色をした瞳だ。透き通っていて綺麗な目。
「きらい……だよ」
そう言った先輩のほうが、わたしよりもずっとずっと泣きそうな顔をしていた。言及しても、きっと彼は口を割ってくれない。ずしりと響く『きらい』という三文字が頭の中を渦巻き、やばいと思う暇もなくじわりと涙の膜が張る。
「……じゃあ、そういうことだから」
言い終わる前に身を翻し、去っていく背中を見つめる。
(結局、踊らされていたんだね)
信じるなんて、なにを馬鹿げたことを思っていたのか。寿命が少しだけ延びたことを、ありがたく思うべきなのかもしれない。彼と出会って、確実に楽しかった日々があった。それらは偽りのない、本当だった。
「……もとに戻っただけ。なにも悲しいことなんてない」
愛なんてくだらないと。はじめから、知っていたはずだ。
泡沫の夢に溺れて、感覚がおかしくなってしまった。悲しいなどという感情は、とっくに消さなければいけないものだったのに。
もう、いっそ。
────死んでしまおうか。
あの日、彼と出会ったこと自体が、最初から間違いで。とっくに消えていたはずの命は、奇跡的に今の今まで繋がれているけれど、もう必要ない。
カーンカーンと踏み切りの音がする。少し前に時間が巻き戻されたような感覚だ。新城琥尋という人に出逢う、その前に。
ぎゅ、と手に力がこもる。だんだんと息が上がって、ぷっくりと水滴が目に浮かぶ。
線路に身体を倒すなんて、簡単なこと。
一度できたのだから、今回だってきっとできるはず。
ぎゅっと目をつむって、タイミングを待った。すうっと息を吸うと、どこか懐かしい春の匂いがした。
ぐら、と身体が傾く感覚があった。まるであの時の繰り返しのよう。
(これで……楽になれる?)
そこにあるのは、死への恐怖か、それとも自由を手にする希望か。
わたしは目をつむったまま、黄色い線を越える────ことができなかった。今のわたしの心にあるのは、前者だった。以前なら、迷いなく後者に背中を押されていたはずなのに。足が地面に縫い付けられたように、びくともしない。プシューと目の前に止まった電車を見て、いつのまにか震えていた足の力が抜けた。
「君。大丈夫?」
空いた窓から、運転士が顔をのぞかせる。へたり込んだまま顔を上げると、眉を下げた運転士の男性がこちらをじっと見下ろしていた。
「大丈……」
ふと声に出そうとして、言葉が止まる。力なく首を振れば、焦ったように電車を降りた運転士が、目線を合わせてしゃがみこんでいた。
なになに? どうしたの? と車内が騒然としているのが分かる。それでも、いつかの日のように消えたいと思うことはなかった。
「すみません。少し……めまいがしてしまって」
「少し待っていてください。水を買いますから」
言い終わらないうちに、ピッ、と自販機が音を立てる。差し出されたのは、以前先輩が買ってくれた水と同じものだった。
「ありがとう、ございます」
やけに呼吸が落ち着いている。脈拍も、普段通りの速さに戻りつつあった。
わたし……ほっとしてる?
あんなに死にたい、消えたいと願っていたのに、今はこうしてまだ心臓が鼓動を続けていることに、たまらなく安堵している。
────はじめてこんなにも、死ぬのが怖いと思った。痛みが怖いのではなく、存在が消えてしまうことが、こんなにも恐ろしくてたまらなくなったのは、生まれてはじめてだった。
空の青さも、海の青さも、先輩の瞳の青さも。舞い散る桜も、緑の葉も、何もかも。見ることができなくなるのだと思うと、この世界からいなくなるのが、ひどく怖かった。
「あ、でも、お金」
「いいんですよ。気にしないでください」
「いえ。また後日必ず返します。本当にありがとうございます」
頭を下げると、首を振った運転士は、「ご無事でなによりです」と、呟いた。それだけで、きっと全てバレていたんだろうな、と悟る。
「乗車されますか?」
「はい」
頷いて乗車し、気づく。
電車を遅延させてしまったのではないか。その場合、賠償金を支払わなくてはいけないと、いつか読んだ新聞記事に書いてあったような気がする。
「あ、あの。ご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした」
車内がしんと静まる。喉がからからに渇いて、どうにかなりそうだった。
「体調不良は責める理由になりませんよ。それに、ここにはあなたを非難する人なんていませんから。頭を下げる必要なんてないのですよ」
柔らかい声に顔をあげると、座席に座る誰もが、目元を緩めて微笑んでいた。もっと迷惑そうな視線を向けられると思っていたのに、それとは真反対の表情を向けられて困惑する。
優しさだけが、そこにはあった。
「では発車します」
そんなアナウンスのあと、電車が動きだす。
「ここにお座りになったら? 立っていると疲れてしまうでしょう」
にこにこと笑みを浮かべる女性が、空いた席をトントンと手で示す。促されるまま座ると同時に、強張っていた筋肉がゆるんでいくのを感じた。
「ありがとうございます」
「いいえ。学業は大変だと思うけれど、頑張りすぎるのもほどほどにね?」
「……はい、そうします」
ふふっ、と上品に微笑んだ女性は、「次で降車だわ」と呟いて、荷物を持った。
「普段一緒にいる彼は、今日は一緒じゃないのね」
「え……?」
「ほら、よく一緒に乗っているでしょ。実はいつも微笑ましいって思って見ているのよ。ごめんなさいね」
目尻にしわを寄せた女性は、そう言って電車を降りていった。
意外と見られているのだ、と、途端に熱が集まる。けれど、そう言われるのももうないのだと思うと、気持ちが降下していく。
それでも以前ほど感情の起伏に酔うことはない。
ぼんやりと空を眺める。灰色の雲が近づいてきているということは、もうすぐ雨が降るのだろうか。きっと雨も素敵なんだろうな。雨音を聴きながら夜勉強するのもいいかもしれない。
そんなふうに思えるようになったのは、好きな人のおかげ。わたしに『生きたい』と思わせてくれた、特別な人だ。
先輩との出会いと一緒に過ごしたことは過去の思い出にして、わたしは強い自分になりたい。先輩がいなくても前を向けるような、そんな人に。
先輩と出会ったことは、やはり間違いではなかったのだ。こんなにも自分を変えてくれる、必要不可欠な出会いだったと、そんなふうに思っても許されるだろう。
雲の隙間から差す光が、たったひとつの希望のように見えた。そして、わたしがこれからするべきことを伝えてくれているような、そんな気がした。
「ふざけないでよ!」
放課後の中庭に響き渡る怒声に、びくりと肩が跳ねた。
怒声は苦手だ。自分が怒られているかのような錯覚に陥ってしまうから。他人が怒られているところを見ると、なぜか自分も泣きたくなってしまう。
つくづく運が悪いと、自分の不運にげんなりしながら足に力を込める。面倒なことになる前に、さっさとこの場から離れてしまおうと思ったのだ。
(花のことなんて、気にしなければよかった)
最近、朝のルーティーンが崩れてきて、花のようすを見にくることができていなかった。だからと思って放課後に覗きにきたはいいものの、どうやらまずい現場に居合わせてしまったようだ。
できるだけ関わりたくない。
その一心で身を翻そうとした瞬間、「私はなにも知らないの……」とか細い声が耳に届く。
(あれ)
その声をどこかで聞いたことがあるような気がして、踵を返そうとしていた足が止まる。影からそろりとのぞいてみると、そこにはよく見知った人物が立っていた。
「どうせキラのこともたぶらかしたんでしょ? この尻軽女!」
バシッ、と鈍い音がして、おさげの少女が倒れ込む。そのようすを見て高らかに笑うのは、緋夏だ。キラというのは緋夏の彼氏の名前だ。入学してからすぐにアプローチを受け、付き合うことになったらしい。以前はあんなに不平不満を自慢のように垂れ流していたのに、結局は彼のことが好きなのだ。
「あたし、知ってるんだから。あんたがいろんな男たぶらかしてるの。悔しいからって人の彼氏に色目つかってんじゃないわよ」
「私、本当になにも……」
「言い訳するな!」
おさげを引っ張られるようにして無理やり立たされる女の子の顔が、光を受けてこちらにも見えた。その瞬間、ギュッと心臓を掴まれたように苦しくなる。ぞわりと鳥肌が立ち、背筋に冷たいものが走った。
「ずいぶん上手な泣き演技ね。ま、それ使ってオトコと遊んでるんだもの。上手になるに決まってるわ」
ふふっ、と笑う緋夏の顔は、影になっていてなんとも歪だった。再度振り上げられた右手が、容赦なくおさげの女の子────琴亜に直撃する。うっ、と小さくうめきをあげて倒れた琴亜を、取り巻き達が逃すまいといったように囲んだ。
(わたしは何をしているの。助けに行かなきゃ。友達が傷つけられているのに、かげから見ているだけではダメ)
心の中ではそう思っているのに、身体の震えが止まらない。まるで自分がやられているかのような、心臓が破裂してしまうような痛みと、寒気。じわりと涙が張っていく。呼吸が浅くなっていくのが、自分でもはっきりと分かった。
自分は変われただなんて、自惚れるのも大概にしたほうがいい。結局また何もできないのか、わたしは。
「謝って。人の彼氏をとってごめんなさい、手を出してごめんなさいって謝罪して。あんたは立派な罪を犯したんだから」
ピッ、と取り巻きのひとりがスマホのカメラを起動した。無機質な長方形の箱が、琴亜と瞳を合わせた。その他の子たちは、緋夏に視線を向けられ、慌てたように謝罪コールをし出した。そのコールに紛れるように、もう一度スマホが音を立てる。
これじゃあまるで、いじめじゃないか。否、まるでじゃなくて、完全にそうだ。
取り囲まれた琴亜の表情は見えない。けれど、きらりと光るなにかが地面に落ちるのだけは、この目ではっきりと見ることができた。
「私……謝らない」
鈴のような琴亜の声が響く。
それは、とても小さな、けれどたしかな拒絶だった。
わたしには到底できなかったことだった。
「は? 何言ってんの?」
途端に緋夏の眉間にしわがよる。そして、へたり込んだままの琴亜にじりじりと詰め寄った緋夏は、目線を合わせるようにしゃがんだ。
「生意気なんじゃない? 謝れって言ってんの。ごめんなさいって、それだけ言えば済む話でしょう?」
怖いほど静かで、耐え難い口調だった。まるで自分がすべて正しいのだと、そう信じて疑わないような自信に満ち溢れた表情だった。
どうかしてる。緋夏も、取り巻きたちも、わたしも。
この場にいて、何もしていないだけで、わたしも同罪なのだ。いくら味方だと思っていても、叫ばなければ意味がない。
顔をあげた琴亜は、まっすぐに緋夏を見つめてはっきりと首を振った。壁に隠れるように身を潜めるわたしにも、揺らぐことのない声が聞こえてくる。
「……そんなことしたら、私が悪いって認めることになるから、いや! 私は何もやってないから謝る必要なんてない!!」
「黙りなさい!! 生意気なのよ!!」
その言葉を聞いて逆上した緋夏が、近くにあったホースを手にする。怒り狂ったその顔は、本人のものとは思えないほど醜くて、可哀想になるほど惨めだった。
何をしようとしているのか、そんなものは深く考えなくても分かった。
『どうして謝るの? 瑠胡ちゃんは何も悪いことしてないのに』
『……そんなことしたら、私が悪いって認めることになるから、いや!』
意味もなく、言われた通りに謝罪を口にしていたわたしにとって、彼女の強い意志は、ただただ眩しかった。正しさを貫くことを諦めないその姿勢は、強さは。
どうしたら、手に入れることができるだろうか。
(そんなの、決まってる。自分で動かないと、人はいつまでも変われない)
あの日、あの時、彼女がわたしに寄り添ってくれたから、わたしは沈みすぎることなくいられた。そして、自分を受け入れ、こんな自分を────少しでも、好きになることができた。
「やめて!!」
取り巻きたちを押し避けて躍り出ると、驚いたように目を丸くした緋夏が、にやりと気持ち悪い笑みを浮かべた。そして、迷いなくホースの先をわたしに向ける。
「瑠胡、ちゃん……?」
「遅くなって、ごめん。酷いやつで、ごめんね」
消え入るように名前を呼ぶ彼女は、ふるふると首を横に振った。そんなやりとりを、緋夏が面白くてたまらないといったように見ている。
「助けにきたヒーローのつもりかしら? 入学式の日、ひとりになりそうでビクビクしてたあんたを助けてあげたのは誰? 救ってあげたのは誰? 結局ウチらについてこられなかった落ちこぼれみたいだけど」
小刻みに肩を揺らした緋夏は、それから天を仰ぐように大きく笑う。
「まったく、ふざけないで。弱い者ふたりがそろったところで、ちっとも怖くないの。残念ね」
シャ────と冷たく、生ぬるい水が制服を濡らしてゆく。その間も、緋夏はずっと笑っていた。
髪、顔、ブレザー、スカート、靴下、靴。
順々に黒塗られていき、水気を含んで重たくなる。わたしの後ろでは、琴亜が「やめて!」と泣き叫んでいた。
氷のような冷たさに、体が冷えていく。けれど、身体の芯の部分だけは、燃えるような熱さに包まれていた。
「……そんなことして、楽しいの?」
「黙りなさいよ。あんたはこうして無様に濡れていればいいの」
顔にかかる水は、あの日の雨に比べたら全然大したことなかった。背中に庇うように隠した琴亜ちゃんの震えがわたしにも伝わってくる。大丈夫だよと言うように手を握れば、同じぬくもりが返された。
「わたし、人の機嫌とって生きるのはもうやめたの。自由に生きるって決めたから」
「……ふっ、なにそれ。自由? 笑わせないでよ、ねぇ?」
「琴亜ちゃんに嫉妬してこんなことするの、いちばんかっこ悪いよ」
図星だったから余計に悔しかったんだろう。みるみる緋夏の顔が赤く染まっていく。
「琴亜ちゃん、何もしてないって言ってるじゃん。なのにどうしてこんなひどいことするの?」
「ぶ、部外者が口出ししてこないで!」
「たしかに部外者だけど……友達が傷つけられてるのに、そんなの見過ごせない。助けてもらった分、今度はわたしが助ける番なの」
ポタポタと雫が落ちる。スッ、とこめかみを伝った水滴は、顎まで伝い、それから地面へと落ちた。
「こんないじめみたいなことしてても、何も面白くないじゃない。これ以上わたしの友達を傷つけるのはやめて!」
「ウザいのよ!!」
つかつかと歩み寄ってきた緋夏が、思い切りわたしの肩を押す。
「……っ!!」
力に耐えられず、花壇に倒れ込む。あ、と思ったときにはすでに遅かった。
(花が……!)
ぐしゃっと生命が消える音がした。慌てて飛び退いたけれど、茎の部分から折れてしまっている。
「ごめん……! ごめんね……っ」
あれほど丁寧に手入れした花が。こんなにもあっさりと折れてしまった。
ふつふつと、怒り以上の何かが渦巻いて、悲しみや悔しさが混ざり、大きな黒い感情となる。声を上げるならばここしかない。
いつも自信がなくて、目立ちたくなくて、人より優れなくていいから劣りたくない。そう思って、存在を消すように息を潜めて生きていた。けれど、そんなふうに生きるのは、もう終わり。
人を変えるには、自分が動かないとダメだ。人に期待などしてはいけないと、知っているから。
「みんなも緋夏のいいなりになるのはやめなよ。本当はこんなことしたくないんでしょう?」
「……は?」
顔をあげると、緋夏が眉を寄せる。それでも、わたしは続けた。
「一緒にいたとき、必死にご機嫌取りしてたのはわたしだけじゃなかったはず。わたしがハブかれたとき、自分じゃなくてよかった、って安心した顔してた人、たくさんいたよ」
ぐるりとあたりを見回すと、誰もが決まって目を逸らす。顔を隠すようにカメラを構える子に近づき、勢いよくスマホを取り上げると、今にも泣きそうな顔が現れた。
「こんなこと、したくないんでしょ? 分かってるよ」
スマホ画面をのぞくと、「やめて!!」と叫んだその子は、ひったくるようにスマホを奪い返した。
「やっぱり……動画撮影されてないね」
「……ち、違うよ。これは、間違って」
「だったらそんな顔しないでしょう」
罪悪感に押し潰されそうな顔、してる。焦ったようなコールの仕方も、どこか違和感があった。学校でのヒエラルキーは、時に上位の人たちも苦しめる。
「もうやめようよ。高校生にもなってこんなこと。一人で歯向かうのは怖くても、みんなで叫べば怖くないよ」
ぐるりと視線を動かして、一人ひとりの顔を見つめる。まだ目を逸らす人が何人もいる中で、バチッと視線がかち合った人がいた。
「ひとりにはならないよ。わたしが、いる」
四月のわたしのように、ひとりになることに怯えているのだとしたら。あなたは一人ではないと、そう伝えてあげることが必要だと思った。支えてくれる人が一人でもいるだけで、なんだってできるような気がしてくるのだから。わたしはそれを、大切な人から教えてもらった。
「だからこんなこともうやめよう。わたしと一緒にいようよ」
「……っ」
震えながらスマホを握りしめる子にも、同じように手を差し伸べる。
「マキ! アサ!」
目を見開いた緋夏が、二人を交互に睨みつける。怯えたように瞳を揺らす二人は、視線を地面に落とした。そのまま沈黙が降りる。
生ぬるい風が頰を撫でた。
「……あたし、見たの。緋夏の彼氏が、古園さんに言い寄ってるとこ」
ぽつりと。マキと呼ばれた子が、小さく言葉を洩らす。
「は……? なに言ってるのマキ。ふざけないで」
「ふざけてなんかない! 緋夏、あたしこんなことしたくないよ。今まで黙ってたけど、度が過ぎてる。一緒にいても全然楽しくない」
伸ばした手に、繋いだぬくもり。そのまま引き寄せれば、マキは緋夏のほうを向いてまっすぐに立った。
「アサもエコも、ワカもさ、もうこんなことやめようよ。言いなりになるなんて、そんな弱いことするのやめよう!」
マキの呼びかけに、唇を噛んだ人たちがぞろぞろとわたしのほうへと近づく。困惑したように目を見開いて固まる緋夏へと向き直った。
「緋夏のことは好き。だけど、こんなことする緋夏のことは嫌い」
「いつも可愛くて明るくて、一緒にいて楽しいけど、人の悪口言う人とは一緒にいたくない」
「緋夏がいい人だってこと、あたし知ってるから。だから、こんなことしてないでいつもの緋夏に戻ってよ」
その時の感情で、思わぬことを口走ったり、非行に走ってしまうことは誰にだってある。けれど、必ず正してくれる人が必要なのだ。
口を結んだまま鋭い視線を向ける緋夏に、一歩近づく。
入学式の日、わたしに話しかけてくれたこと。それは本当に嬉しかったのだ。
彼女が持つものは、こんなマイナスなことだけではない。それは緋夏という人物の一面なだけであって、優しい部分も、人間らしい部分も、ちゃんと持っているはずなのだから。
「緋夏。わたし、緋夏が話しかけてきてくれて、本当に嬉しかったんだ。緊張とか不安とか、そういうの。全部吹き飛んでいったから」
わたしは彼女と向き合うことから逃げていた。あの日の感謝も、それから一緒に過ごした日々の思いも、何一つ伝えられていなかった。
「だからちゃんと友達になりたい。一緒にいることがつらくならないような関係を築いていきたい。ダメ、かな」
友達になってください、なんて、小学生じゃあるまいし。心の中で思ったけれど、それがいちばんの近道かもしれないと思った。
大人になればなるほど、表と裏の顔をつくるのが上手になって────否、上手にならざるを得なくなって、どこからが友情なのか、境界線が分からなくなってしまう。純粋な友達と呼べる人が少なくなってしまう。
だけど、偽ることのない素を。そんなものを出せる瞬間が少しでもあるのなら、きっとそれは友情だと呼べるだろう。
そんなふうに、思った。
しばらく目を瞑っていた緋夏が、座り込む琴亜ちゃんに近づく。警戒することはないと、なんとなくわかっていた。くるみ色の瞳が、柔らかいものへと変わっていることに気がついたから。入学式の日、わたしに向けられたものと同じ、まっすぐな瞳だった。たとえ間違った道を選択してしまったとしても、目の奥に宿る光は、きっといつだって取り戻すことができる。
「……ごめん、なさい」
差し出された手をじっと見つめていた琴亜ちゃんは、目に涙を浮かべたままその手をとった。立ち上がった琴亜ちゃんは、そのまま緋夏を抱きしめる。身体を強張らせていた緋夏は、静かに身体を預けた。
「嫉妬して……ひどいことして、ごめんなさい」
「ううん。大丈夫」
ゆるりと頰を緩める琴亜ちゃんに抱きしめられたままの緋夏は、瞳を流してわたしを見つめた。そして、薄い唇を静かに動かす。
「瑠胡にも、ひどいことして、ごめん。ハブいてごめん」
首を振ると、緋夏は言葉を続ける。
「……許してもらえるとは思わないけど、友達としてそばにいたい。瑠胡と一緒にいて、ウチもすごく楽しかった」
思えばこうして真正面からぶつかり、和解をし、新たな関係を築こうとしたのはいつぶりだろう。今までなら諦め、少しでも困難な人間関係は避けてきたというのに。
人と人との繋がり、信じることの大切さを、彼と出会って知ったからだろうか。
「わたしもだよ、緋夏」
こくりと頷くと、安堵したように目元を緩めた緋夏は、うつむいて涙をこぼした。
琴亜から離れた緋夏に、取り巻き────ではなく、友達が駆け寄る。「ありがとう」と。それだけを呟いた緋夏は、彼女たちに連れられて去っていった。
去ってゆく背中を見届けた瞬間、身体が一気に解放されたような感覚になる。ドッドッと脈を打つのが速くなってゆく。
「わたし……ちゃんと、琴亜ちゃんを守れた、かな」
「十分だよ! 巻き込んで、本当に……」
「謝らないで。琴亜ちゃんは何も悪くないよ」
申し訳なさからか、安堵からか。泣きそうな顔をする琴亜ちゃんに首を振る。友達として当然のことをしたまでだと、やっとできたのだと、そう伝えたかった。
「瑠胡ちゃ────」
次の瞬間、視界がぐらりと歪む。身体が傾いている感覚だけは伝わってくるのに、手足はいうことを聞いてくれなかった。
スローモーションのように、時間がゆっくりと流れていく。心臓の音だけが、耳のそばでズクンズクンと響いていた。
(わたしは何か変われたでしょうか。少しでも成長することができていますか────?)
誰に問いかけるでもなく、ふとそう思った。もしこれを問いかける相手がいるとするならば、それは、神様というかたちのない崇高な存在だろうか。
「瑠胡────!」
朦朧とする意識のなかで、ふわりと鼻をつく懐かしい香り。わたしはこのにおいを、よく知っている。
目を閉じると一筋伝ったそれを、あたたかい何かが、静かに拭ったような気がした。
───────
─────
あたたかい夢の中にいた。ふわふわと漂う意識は、まるでクラゲにでもなったかのようで、不思議な気分に陥る。眩い光がからだを包み込むように広がり、空と海を取り込んで揺れていた。
『瑠胡ちゃん……!』
遠くのほうから、誰かが駆けてくる。出会った時と同じくらい距離があるけれど、すぐにハクトくんだと分かった。わたしも小走りで近寄ると、あっという間に互いの顔が見えるほどの距離になる。
『今日頑張ったんだね。瑠胡ちゃんの姿、見てたよ』
「えっ……ハクトくん、いたの?」
その問いに、彼は微笑むだけだった。さらりと吹く風が頬を撫でる。瞳を揺らした彼は、薄い唇を開いた。
『瑠胡ちゃんは間違いなく成長しているよ。出会ったときよりも、ずっとね』
「そう、なのかな」
『うん。僕が保証するよ』
胸を張るハクトくんは、また微笑む。こんなにあたたかい表情をされたら、勇気を出して行動してよかったと心から思う。
ひどく大人びて見えるハクトくんは、一歩わたしに近づいた。ふわ、と鼻腔をついた香りは、深い森のようなもの。兄弟だと匂いまで似るのだろうか、と微笑ましく思ったときだった。
『だけど瑠胡ちゃん、まだやるべきことが残っているよ』
諭すような口調に、まどろみかけていた意識が戻る。彼の言葉の意図が分からなくて、「やるべきこと?」と問いかけると、強くうなずいた彼はわたしの手をとった。
子供の体温なのかと驚いてしまうほどに、ひどく冷たい手だった。
けれど、リアクションをする暇もないまま、『お願い、瑠胡ちゃん』と透き通る瞳がわたしを見つめた。
『瑠胡ちゃんにしか、できない。瑠胡ちゃんにしか頼めない。アイツは昔から不器用で、素直になれないやつだけど……だけど本心は違う。大切なものだからこそ、守り方が分からないんだよ。傷つけたくないから、自分から離そうとするやつなんだ』
「……うん」
『これが僕にできる最後のことだから。素直になれないアイツを、誰よりも優しいアイツを、今度は瑠胡ちゃんが救ってやってほしい。お願いばかりでごめ……』
「もちろん、そのつもりだよ。ウザがられても、嫌がられても、伝えにいくって決めたから。ハクトくんに頼まれたからじゃない。わたしの意志で、助けに行くの」
ぎゅっと手を握ると、同じ強さで握り返される。その手はわずかに震えていた。
わたしを変えてくれた人。何も言わないまま、離れてしまうなんて。そんなこと絶対にできないと、さっき自分の口から出てくる言葉を聞きながら、思った。
たとえ終わりが来たとしても、わたしは彼とのはじまりを見てみたい。怖がって、恐れて、はじまりから逃げたくない。
「わたしには、先輩が必要みたい。だから、いってくるね」
にっ、と笑うと、泣きそうな顔をしたハクトくんは、もう一度うなずいた。キラリと目に光るものは、いちいち説明する必要などないだろう。
『いってらっしゃい、瑠胡ちゃん』
「いってきます」
視界がぼやけていき、急激に意識が引っ張り上げられていく。
海底から浮き上がった泡が、水面でパンッと弾けてしまうように、わたしの意識もまた、はじけた。
*
「っ……!!」
真っ白な視界がクリアになっていく。最初にわたしの目がとらえたのは、前髪をめずらしく左右に分けている琴亜ちゃんだった。
「瑠胡ちゃん……!? よかった、目覚めた! 今先生呼んでく……」
「琴亜ちゃん」
待ってというように手を伸ばして制すると、彼女はあげた腰をおろして丸椅子に座り直す。それから会話がしやすいようにと、横になるわたしを少し覗き込むような体勢になった。
「いつから……されてたの、あんなこと」
喉が詰まって苦しい。掠れていてところどころ声が消えてしまうけれど、なんとか絞り出して訊ねる。
「いつからだったかな……でも最近? なんだよね。あんまり覚えてないけど」
「覚えて、ないの?」
「なんていうか……こういう恋愛関係? のゴタゴタって日常茶飯事で。もう慣れたっていうか……まあ、慣れるものではないと思うんだけどね」
彼女はへにゃりと力の抜けたような顔で笑った。
「もちろん私はなにもしてないの。一部の人たちからなんでだか知らないけど、色々思われちゃうらしくて。でもきっと贅沢な悩みって部類に入るのかなって思って、誰にも言ってこなかった。あなたの彼氏が勝手に好きになってきたんです、なんて口が裂けても言えないよ」
「それは贅沢な悩みなんかじゃないと思う、けど」
「え?」
「声を上げてもいい、ちゃんとした悩みだし、いじめだよ」
手を伸ばすと、慌てたように握られる。指先が少しだけ冷たかった。
「……ありがとう、瑠胡ちゃん。本当に……」
「ううん。わたしはただ、当然のことをしただけだよ。初めて会った日、琴亜ちゃんがしてくれたことのお返しがしたかった」
お返しになったのか分からないけど、と続けると、首を振った琴亜ちゃんは、大きなアーモンド型の目に涙を浮かべる。
「助けてくれて、嬉しかった。瑠胡ちゃんの言葉に救われた人、たくさんいるよ」
「……そう、だといいけど」
ふっと笑うと、強く頷きが返ってくる。倒れる前に見た、緋夏とその他の子たちの泣きそうな顔が浮かんだ。
「少しでも届いてたなら、よかったぁ……」
「瑠胡ちゃんはすごいよ」
安堵で息を洩らすと、ぎゅっと手を握ってくれる琴亜ちゃん。しばらくそうしていて、ふと気がついた。
「そういえば……ここまで運んでくれた……んだよね? ありがとう」
むくりと身体を起き上がらせるのと同時にお礼を言うと、「え、違うよ?」と琴亜ちゃんは首を横に振った。
「ここまで運んできたのは私じゃないよ」
「え……じゃあ、いったい誰が」
「背の高い男の人。たぶん先輩なんだろうけど……すごく焦った顔してた。私てっきり、瑠胡ちゃんの彼氏さんかと思ってたんだけど」
今度はわたしがぶんぶんと首を振る番だった。
「わたし、彼氏なんて」
「え、じゃああれは誰なんだろう。すごくかっこよかったんだけどな」
心当たりがあるとするなら、たった一人だけ。
だけど、期待するなと脳内の自分が叫んでいる。
ふわりと鼻腔をついた優しい香りも、あたたかさも、わたしはすべて知っている。間違いない。わたしをここまで運んでくれたのは。
『素直になれないアイツを、誰よりも優しいアイツを、今度は瑠胡ちゃんが救ってやってほしい』
『もちろん、そのつもりだよ。わたしの意志で、助けに行くの』
夢の中の言葉が蘇ってくる。
「わたし……行かなきゃ」
ベッドから降り、保健室を出ようとすると、「待って瑠胡ちゃん」と呼び止められる。振り返ると、焦ったような顔でこちらに手を伸ばす琴亜ちゃんがいた。
「まだ身体冷えてるかもしれないのに、危ないよ。それに、先生に健康観察してもらわなきゃ」
「ごめん、琴亜ちゃん」
きっと彼女は、わたしが目覚めるまで、ずっとここに座って待っていてくれたのだろう。そんな彼女を置いて飛び出すなんて、失礼極まりない行為かもしれない。
「だけど、行かないといけないから」
「どこに……?」
「────信じてる人のところに」
嫌いだと言われて突き放されても、邪魔者扱いされても、迷惑がられてもそれでもいい。ただ、わたしは向かわないといけない。そう誰かが告げていた。
過去のわたしか、未来のわたしか、今のわたしか。行け、走れと、そう叫びながら背中を押すのだ。
「わかった。いってらっしゃい、瑠胡ちゃん」
何かを悟ったように強くうなずいた琴亜ちゃんは、目を細めて手を振った。うなずきを返して、保健室を飛び出す。
がむしゃらに廊下を走った。通り過ぎる人たちの視線が刺さるけれど、そんなものはもうどうでもよかった。
(先輩に好きだって伝えよう。それで最後にするから、全部ぜんぶ話してしまおう)
拒絶されても、それでもいいと思った。この気持ちを伝えた先にある結果なら。
『俺が思わせてみせるよ』
『瑠胡はいま大丈夫じゃない。だから嘘つくな、ありのままでいい』
『俺のこと、信じろとは言わないけど────信じていいよ』
『死にたいわけじゃねえけど、生きたくもなくなんの。あの感情って何なんだろうな』
嫌われるのが怖かった。好かれなくてもいいから誰からも嫌われたくないと、そう思いながら人の機嫌をとって生活していた。誰にも理解されない苦しみを抱えながら、それが当然なのだと諦めていた。
だけど。
彼と出会って、彼の考えに触れるたび、わたしの中の何かが静かに、けれど確かに動きだす音がした。普通になりたかったはずのわたしが、唯一、特別を願ってしまった。
世界中から非難され、後ろ指を指されたとしても、彼が、彼だけが、笑顔でわたしを迎えてくれるのなら。
どんなことでも、できるような気がした。
『そろそろアイツ、壊れるだろうから。どうか守ってやってほしい』
『アイツはすごく弱いから。僕よりもずっと、脆くて弱いやつだから』
ハクトくんは言っていた。そろそろ先輩が壊れてしまうと。あんなに強くて、立派で、まっすぐに前を向いている先輩が。
この先で、壊れてしまうのだと。
『きらい……だよ』
走っていって引きとめて、話を聞くべきだった。ウザがられても、真正面からぶつかっていけばよかった。なにを素直に納得していたのだろう。
わたしはまだ、彼の『心』に触れられていない。いつも助けてもらうばかりで、わたしが彼に何かをしてあげられたことなんて、ひとつもないのだ。
電車に飛び乗り、吊り革に捕まる。窓からのぞく空は晴天。どこまでも晴れ晴れとした、美しい眺めだった。
ーー先輩はきっとあの場所にいる。
確証なんてないけれど、確信していた。わたしが目指す先に、きっと先輩はいる。
降車し、電車を見送ることすらしないまま夢中で駆けだす。
徐々に息が上がるけれど、止まることなく足を動かした。夢で何度も見た青い世界へと、必死に走る。
この先に、彼らの思い出の場所に、先輩はいる。
海と同じほど真っ青な空が、ただまっすぐな想いを包み込むように広がっていた。
走って、走って。呼吸が苦しくなっても、止まることなく必死に走った。
遠い遠い堤防にすらりと立つ影が見える。あの姿は先輩だと、はっきりと思えた。
「琥尋先輩……!!」
大声で名前を呼んだ瞬間びくりと先輩の肩が震えた。それでも振り向かない先輩は、目の前に広がる海を眺めて佇んでいる。
「先輩……!」
何度も何度も呼んで、距離を縮める。あと一歩踏み出せば海に落ちてしまう。そんな場所に、先輩はいた。
「やっぱりここにいたんですね。もう少しこっちに来てください、先輩」
「何で来たんだよ。俺は瑠胡が……きら────」
「わたしは好きです」
ヒュ、と先輩が息を呑んだ音がした。先輩が発している雰囲気が、この世界を拒絶するかのように深く深く広がっていた。けれどそんなもの、わたしがいくらだって取り払う。
「わたし、先輩のことが好きなんです。先輩はわたしのことが嫌いでも、わたしは違う。だから、最後に全部伝えてしまおうと思ったんです」
「……困るんだよ」
「それでもいいです。自己中心的でも構いません。ウザがられても、迷惑だと嫌われても、それでもわたしは先輩が好きですから」
やっと言えた。こんなふうに一方的に感情をぶつけることが、正しいとは言えないけれど、それでも。
「先輩、こっちに来てください。落ちてしまいます」
何も言えないまま別れになることを思えば、最善の選択だったと言えるだろう。まだ動かない先輩は、黙ってわたしの言葉を聞いている。
「先輩。どうしたんですか」
ただそれだけを訊ねた。大丈夫ですか、とは訊かなかった。訊いてはいけなかった。
先輩はわたしに「大丈夫」かどうか、訊ねたことは一度もない。
大丈夫? と訊かれると、決まって大丈夫だと答えてしまう。今まで向けられたその言葉は呪いのようで、心配されているはずなのに、とても苦しかった。
背を向けたまま、風に髪を揺らす先輩は、こちらを振り返ることなく、小さく告げた。
「もう全部、やめてしまいたくなった。怖くなったんだ、すべてに」
夢、受験、将来、成績。そんなことしか思い浮かばないのは、わたしが彼を知らなすぎるせいだ。ゴールまでまっすぐに進んでいる先輩しか見たことがないから。いつも笑っている先輩しか見たことがないから。
振り返った先輩が浮かべた、今にも消えそうな微笑に、わたしは思わず息を呑んだ。
「こわいんだ……自分で決めたくせにこわいんだよ、俺」
「受験することが、ですか」
「もっと広い全部のことが。その先で、将来の自分が本当に満足できるのか、分からなくなった」
目の際が赤くなっている。こんなにも弱っている先輩を見るのは初めてだった。
「アイツだったら、なんていうかな」
乾いたように笑う先輩は、今にも泣きそうな表情をしていた。
そんな顔をする先輩を見るのだって、弱音を聞くのだってこれが初めて。弱さのかけらを微塵を見せなかった彼が、もう耐えられないとわたしに告げていた。
アイツ。
彼の口から出るその対象は、いったい誰なのか。もし、わたしの予想が当たっているのだとしたら。
「……弟さん、ですよね。先輩の弟の、ハクトくん」
その名前を告げた瞬間、先輩の目が見開かれる。その表情を見て、確信した。ハクトくんはやはり先輩の弟なのだと。
夢と現実は繋がっている。そんなファンタジーのような不思議な出来事も、今なら信じることができる。
「どこで、その名前を」
信じられないといったように息を呑む先輩の額には汗が浮かんでいた。ここで焦ってはダメだと自分を落ち着けて、低いトーンのまま話を続ける。
「こんなこと、信じてもらえないかもしれないですけど」
今から話すことは、『絶対』のない話。うそだと突っぱねられてしまえば、うなずくしかないような話であることは自分がいちばん分かっていた。なにせ、夢と現実の狭間にあるような話なのだから。
だけど、先輩ならどんな話でも聞いてくれるような気がした。彼になら話してもいいと、過去を積み重ねてきたわたしが言っている。
「実は四月に入ってから、何度もみる夢があって。そこに、ハクト、っていう男の子が出てくるんです」
あまりにも普通に会話できてしまう状況が、初めはただただ怖かった。ありえないほど"自然"な空間すぎて、現実かと何度も疑ってしまった。
「先輩と、すごく似ていて。笑顔のつくり方も、言葉も、重なるところがたくさんあって。だから兄弟なのかもって、ずっと思っていました」
「そんなことが、あるのかよ」
「わたしも不思議なんですけどね。先輩とくるより先に、この海にも来ていました。ハクトくんと会うときは、必ずこの海が舞台なんです」
両者にとって、きっとここは思い出の場所。そんな場所をわたしにも共有してくれた。それがたまらなく嬉しい。
息を吐いた先輩は、しばらくして口を開いた。依然として、わたしとの距離を縮めることはないまま。
「確かに俺と珀都は兄弟だけど……でも、瑠胡の予想は違う」
「え」
「珀都は俺の、兄貴だ」
「え?」と声が洩れる。一瞬聞き間違えたかと思ったけれど、「俺の兄ちゃんだよ」ともう一度先輩が繰り返したことで、やはり聞き違いではないのだと理解する。
「え、でも。ハクトくんは、先輩より小さい男の子、で……」
言葉が消えていく。先輩の横顔がなんとも言えない儚さと切なさが混ざったように歪んでいて、それ以上言葉を紡げなくなった。
黙り込んだわたしをみることなく、視線を海に流した先輩が口を開く。その唇は、わずかに震えていた。
「死んだんだ。俺が、殺した」
「……え」
「この海で、俺がアイツを殺したんだよ」
聞き馴染みのない言葉に息が詰まる。ゆっくりと目線を上げて、先輩の瞳を見つめる。その目に宿る光は、出会ったときから変わらない、ただひたすらにまっすぐなものだった。
(やっぱり、綺麗な目)
不思議だ。"殺した"だなんて、恐ろしい言葉が出ているのに、ちっとも怖くない。それは、その言葉をそのまま受け取ってはいけないと分かっているから。わたしが彼を信じているからだろう。
「どうせ……あれですよね? 自分は彼を助けられなかった、目の前で亡くしてしまった、そういうことでしょう?」
「どうして」
「先輩は……罪悪感に悩まされて、苦しんで、いつも無理をしている優しい人です。じゃないとそんなつらそうな顔してないでしょう」
いつかの日、先輩がそう言ってくれたみたいに。同じ言葉を、今度はわたしが返す番。
彼はきっと、わたしが思っている以上にずっと脆くて、弱い人だ。だけどその脆さも弱さも、ずっとずっと抑え込んで隠して生きてきた、紛れもなく強い人。
「教えてください、先輩。話すだけでも、楽になることだってあります。わたしはそう、習いました」
しばらく口を結び、その唇を震わせていた先輩は、意を決したように向き直った。それだけでわたしたちを取り囲む空気がガラッと変わる。
ひや、と背筋を汗が伝った。
「俺の兄貴……珀都は、この海で、死んだ。自分で飛び込んだのが、最後だった」
「それは……何歳のときですか」
「俺が八歳で、アイツが十歳のとき」
夢の中の珀都くんと同じくらい。珀都くんの時間は、あのまま止まってしまったのだ。今までの言動を振り返ってみると、たしかに納得できる。年齢に似合わない大人びた表情や、不思議な言葉の数々。それらは全て、珀都くんの中身だけが成長してしまったせいだろうか。
「どうして……って、きいてもいいですか」
踏み込んだ質問だから、慎重にもなる。おずおずと訊ねると、「ああ」と少しうなずいた先輩は、海の先を見つめた。
「……病気だったんだ。小児がん」
あまりにも重い響きに、頭を鈍器で殴られたような衝撃があった。
だって、あの珀都くんが? いつも夢の中で微笑んでいる彼が?
信じられなかった。言葉にも顔にも身体にも、病気を潜めた素振りなんていっさい見せなかったから。彼はただ、琥尋先輩という兄のことが大好きな弟。それだけに見えていたというのに。
「昔から何でもできるやつだった。勉強も運動も出来て、大人びてるのに子供っぽいところもあって、とにかく完璧なやつだった。周りの人たちからもすげー褒められて可愛がられてさ。逆に俺は出来損ないで、子供ながらに俺、疎外感半端なくて」
「……うん」
「だけどそれを認めるしかないくらい、めちゃくちゃ優しくてさ。少しは嫌なやつだったら、それなりに嫌いになれたんだろうけど。本当に、非の打ちどころのないような兄貴だった」
「……うん」
「弱さとか、絶対に見せなくて。だから本当に病気なのかな、俺を騙すための嘘なんじゃないかなって、ずっとそう思ってた」
相槌を打つたび、反応をうかがうように視線がわたしに向く。話すことを怯えているような目だった。
「だけど……珀都が自殺する日、一緒にここに来て。それで、同じようにここに立って、アイツは俺の目の前で、この海に飛び込んだ」
「……っ」
「死にたい、もう苦しい、って、俺に泣きながら言うんだよ。ついには『お願いだから死なせてくれ』って。まだ……まだ十歳だったのに」
「……っ、せんぱい」
思わず近寄って、震える身体を抱きしめた。びくりと跳ねたのち、ゆるりと緩くなる。
どんなにつらかったことだろう。珀都くんも、先輩も。
聞いているわたしですら、つらくて泣いてしまいそうなのに。
「俺、それ言われて何もできなくて。もう生きたくないって言ってるやつに生きろって言うのは、ものすごく残酷なことなんじゃないかって。ここから消えるっていう手段すら奪っておいて、この世界での幸せの保証なんてしてやれないのに、そんなの無責任なんじゃないかって」
「……それで、先輩は」
「助けられなかった。突然すぎて動けなかったし……なにより俺は怖かった。飛び込むことなんてできなくて、見ていることしかできなかった」
ぐっと唇を噛んだ先輩は、まっすぐにわたしを見つめた。充血した目は、それでもなお光を失ってはいない。スッとわたしの心に差し込んでくる、あたたかな木漏れ日のような光。
「だから駅で瑠胡を見たとき、咄嗟に身体が動いてた。今度は、動けたことにすごく安堵して、それと同時に思ったんだ。俺は選択肢を奪ってしまったんじゃないかって」
先輩の手が、わたしの手を握る。小刻みに揺れる指で、包み込むように握られる。
「死ぬのって勇気いるだろ? 簡単にはできないよ。よほど悩んで、苦しんで、葛藤した先の結果だと俺は思うから。だけど俺は、瑠胡に生きてほしかった。これは俺のただのわがままかもしれないけど、それでも俺は、瑠胡に死んでほしくなかった」
「わたしも……助けてくれて、嬉しかったです。本当に感謝しています」
「生きたいって思わせるとか、そんなふうに豪語したけど、俺はちゃんとできてる?」
強くうなずくと、安堵したように息を吐いた先輩は、「よかった」と呟いた。
「先輩はすごい人です。はじめから、わたしの中ではずっと」
握った手に力を込めると、ふるふると首を横に振られる。
「俺はそんなにすごいやつじゃないよ。なにせ今、逃げようとしてたところだったんだから。ていうか、実際逃げたし……な」
「えっ」
「何でもできるアイツが羨ましかった。いつも比較されて、いちばんを奪われていくのがつらかった。だから病気に勝てたら、そしたら……珀都に勝てると思った」
何回か呼吸を入れながら、ゆっくりゆっくり話す先輩。静まり返った世界の中で、先輩の心の声だけが、わたしの耳へと届く。
「ただそれだけのクソみたいな理由で、俺は医者を目指してた。アイツが勝てなかった病気に勝ちたい、それだけなんだ。こんな最低なやつが人の命救いたいだなんて、笑えるだろ」
「でも、先輩」
「そのつもりで勉強してきたのに、そんな半端な気持ちでこの先続けていけるわけない。将来の自分が笑えているのか分からないのに、重圧背負いながら勉強して、俺は何やってんだろうって自分の存在理由が分かんなくなった」
それで、ここに。すべてを吐き出してしまうために、先輩はこの場所にいたんだ。
ふ、と息を吐いて少し目を閉じた後、先輩はまた口を開く。
「瑠胡に弱さを見せたくなくて、怖くなって、逃げた。俺がいなくても瑠胡はもう十分立派に生きていける。そう思ったら、もう俺がそばにいる理由なんてないんじゃないかって」
先輩も、先輩のお兄さんも、弱さをみせるのが下手くそだ。糸がちぎれてしまうギリギリまで我慢して、ほぼちぎれた頃に吐き出すのだから。
『そろそろアイツ、壊れるだろうから。どうか守ってやってほしい。こんなこと、瑠胡ちゃんにしか頼めないんだ』
僕にはそれすらもできないから────。
珀都くんの言葉がフラッシュバックする。
彼の目が、わたしにそう訴えているような気がした。
笑ったとき、目尻にしわがよるところ。口の右端がちょっとだけ上がるところ。微笑んだときの表情と仕草が、思えばいつも重なっていた。
そしていちばん似ているところは、互いが互いを好きなところ。
「人の命助けたいとか、憧れだとか、そんな理由じゃないから幻滅しただろ」
自嘲する先輩は、わたしの手をそっと離した。まるで自分とは別物だと、そう言われたような気がした。
「いいんじゃないですか、理由なんて」
気づいたら口からこぼれていた。わたしの言葉に顔をあげた先輩は、何かを期待するような瞳でこちらを見つめる。
もしかするとこの人は、自分が言ってほしい言葉を、わたしにくれていたのかもしれない。同じように気持ちがわかるからこそ、わたしがいちばん求めていた言葉を、そっと手渡してくれたのかもしれない。
「医者になりたい理由も、存在理由も、わたしのことを先輩が助けてくれた理由も、そばにいてくれた理由も、わたしが先輩を好きな理由も、きっと必要ないと思います。ただ、そうなる運命だっただけ」
運命、という言葉に、自分自身の体温が上昇していく気がした。
けれど、ありのままの気持ちを伝えたくて、口が動くままに声を出す。
「それで片付けたら、ダメなんですか?」
「……」
「それに先輩は、ちゃんとわたしのことを救ってくれました。先輩のおかげで、確実にわたしの命は助かったんです。人の命を助ける理由なんて、なんでもいいと思います。ただ、医者になりたいってだけで、仕事を全うして、救える命を救うことができれば、それでいいと思います」
すうっと息を吸う。この先を続けるのはすごく怖いけれど、素直な気持ちをぶつけてしまおうと思った。これが最後になってしまうかもしれないから、後悔はしないように。
「この先、先輩が不安なら、今度はわたしが先輩を笑顔にできるように頑張ります。どんな選択をした先輩のことも、となりで支えていきたいです。だから……その」
「悪い」
口を開閉している間に告げられて、喉まで出かかった声を呑み込む。覚悟はしていたけれどはっきりと言葉にされると思っていた以上につらくて、涙が出そうになるのを必死に堪えた。
生ぬるい風が、頬をひどく優しく撫でてゆく。
やはりわたしでは、先輩のとなりには並べないらしい。
突きつけられた事実に、胸が張り裂けてしまいそうなほど痛くなる。
こんなに想っていても、届かない気持ちはある。だからこそ世の恋人たちは、想いが重なり合った奇跡を、大切にしていくのだろう。
ペコリと頭を下げる。用が済んだら、すぐに立ち去ろうと思った。
「……わ、分かりました。色々でしゃばって、すみませ────」
「俺、瑠胡に嘘ついた」
落とされた言葉に顔を上げると、そこにはひどく優しい顔があって、思わず息が止まりそうになる。今にも泣きそうな顔をしている彼は、ふっ、とその瞳に夜のような光を宿した。
(懐かしい。出逢った時の色をしてる)
魅力的すぎて眩しくなるような色。わたしは初めからこの瞳に囚われていたのかもしれないと、今になってぼんやりと思う。
静かに目を伏せ、深呼吸した先輩は、それからゆっくりと目を開ける。その瞳には、迷いも憂いも含まれていなかった。硝子玉のような瞳のなかにわたしがいて、まるで夜に溶け込んでいるかのようだった。
唇が、動く。この瞬間が来ることを、心のどこかで期待していた。きっと、出逢った時から、ずっと。
「俺、瑠胡が好きだ」
波の音も、鳥の鳴き声も、木の葉のざわめきも、全てが消えた。先輩の声だけがわたしの鼓膜を震わせ、心の内にあたたかさを運んでくる。
「それなのに怖くなって、嫌いだって嘘ついて逃げた。本当に悪かった」
「……せん、ぱい」
「瑠胡は初めから、俺にとって特別だよ」
先輩の口から発せられる言葉が信じられなくて、息を呑んでいると、やや緊張したように顔を強張らせた先輩は言葉を続ける。
「やっぱ自分で決めた道だから、俺頑張ってみるよ。アイツが負けた病気に、今度こそ勝ってみせる。……いや、そもそもアイツは負けてなんかないから」
彼らはやっぱり、お互いのことが好きだ。なかなか素直になれなくて、すれ違っている部分があったとしても、互いに支え合っている。
その兄弟『愛』は、決してくだらないものなんかじゃなかった。素敵で、神秘的で、誰にも侵せない愛の形。
「これから先、色々と迷惑かけるかもしれないけど、それでも俺は瑠胡と一緒にいたい。瑠胡に応援していてほしい」
小さく息を吸った先輩は、まっすぐに告げた。海がザーッと音を上げ、それから一気に静まる。世界が、わたしたちに時を合わせてくれているような気がした。
すべての時が、止まる。
「俺のとなりで、ずっと笑っていてほしい」
それがどういう意味なのか、いちいち聞かなくたってわかった。信じがたくて、それでも信じたくて、泣き笑いのままうなずく。
「もちろんです」
狂おしいほどの想いが涙とともに溢れて止まらない。
先輩の目元からも、きらりと何かが溢れたように見えた瞬間、あたりが一気に青い光に包まれた。
冷たさ、静けさ、寂しさのなかに混ざるあたたかさ。心を鷲掴みにされて、何度も揺さぶられる。この美しい景色を、なによりも大切な人と共有できている奇跡をゆっくりと噛み締める。また涙がこぼれた。
「見れた……先輩と一緒に、見られたんですね」
「これが、俺のいちばん好きな景色だよ」
果たされた、約束。
諦めなくてよかった、向き合ってよかった。自分をさらけ出して、相手の心に触れられてよかった。今までの道で間違えることは何度もあったけれど、今ここに辿り着くための道のりとして、それらは全て間違いではなかったのだ。すべて、正解の道。
視界に映るすべてが青色に染まる。先輩の瞳だけではなく、髪も、肌も。全部が鮮やかな青だ。
ぽろ、と一筋の涙が頰を伝って落ちる。
「瑠胡の目も、青」
わたしの目を覗き込んだ先輩が、そう言ってふっと笑う。至近距離で見つめられて、ドクドクと鼓動が響きだした。
「涙まで青い。泣くなよ、瑠胡」
呆れたように笑う先輩の指が伸びてきて、優しく目元をなぞる。それだけで、留まることを知らない涙はどんどん溢れ出していくから。
「しょうがねえな。向こう向いて、瑠胡」
意味がわからないまま反対側を向くと、そんな言葉の後にぐっと抱き寄せられて、先輩の香りが鼻先をくすぐった。
「出会った時から、こうしないと泣き止まねえから」
景色が見えるようにと、そんな配慮までされた結果、バックハグのような状態になってしまった。
どうしてだろう。死のうとしたあの日、抱きしめられたところからわたしたちは始まっているのに、あの時とは心音がまるで違う。今はただ、トクントクンと、聞いたことのないほど甘やかな音が、控えめに鳴っているのだ。
「……迎えにきてくれてありがとう」
ぽつりと先輩が呟く。まるでこの瞬間を噛み締めるように。
「いえ」
「よくここが分かったな」
「まぁ……好きな人の、ことなので」
漫画やドラマで、ヒロインの居場所をヒーローがちゃんと分かって助けに来るシーン。その逆も然りだけれど、読むたびに違和感を覚えていた。どうして分かるのだろうと、単純な疑問だった。
だけど、今ならなんとなく分かる。
自分でもよく分からないけれど、好きだから、わかるのだ。
「……瑠胡ってわりと無自覚なところあるよな」
「そう、でしょうか」
「うん」
迷いなくうなずく先輩と一緒に、約束の景色を見つめる。ふわりと香る先輩の香りが、今はやけに近くて、波の音に勝るくらい大きな鼓動が響きだす。
「きれい……とっても、きれい」
「ああ、きれいだな」
「わたし、生きててよかった。これからも、ずっと生きていきたい」
美しい世界を見るために。ずっとずっと、彼のとなりで笑うために。
先輩がいるから、わたしはこの世界を彩りあるものとして生きていけるんだ。そしていつか、わたしも先輩の豊かな世界のために生きていけるようになりたい。
「よかった」
「ちゃんと思えました。たとえ先輩がいなくても、生きたいって思えるようになりました」
もう会えないと告げられた日、たしかに先輩が離れていってしまった日、一瞬猛烈に死にたくなった。けれど、とどまることができたのはきっと、生きることで得られる幸せのかけらを見つけることができたから。
「だけど……わたしの世界が色づくには、先輩が必要です。だから、できるかぎり、先輩のとなりにいたいです」
先輩がいなくても生きていくことはできるけれど、こんなにも輝きある世界を生きていくことはできない。
先輩がとなりにいてくれるから世界に色がついて、先輩が笑うから毎日が楽しくなる。つらいこと、悲しいことがあっても、もう一度前を向こうと思うことができる。
「もちろん。俺もとなりにいたいし、いてほしいって思うよ」
わたしの耳に、優しい響きが落ちてくる。
引き寄せるように与えられるぬくもり。
わたしたちを包み込むように広がる青の瞬間は、大切な人と見るブルーモーメントは、泣けるほど美しい眺めだった。
*
「お父さん、お母さん。話があるの」
リビングには、仕事帰りの両親がいた。疲れきった表情で、ソファや椅子に座っている。わたしが声をかけると同時に、どこか焦点を定めていない瞳が動き、わたしを捉えた。
「……わたしね、将来の夢が決まったんだ」
無表情のままたたずんでいる二人。聞いているのか聞いていないのか分からないけれど、わたしは息を吸ってその先を続けた。
「その夢を叶えるための勉強はこれから自分でやっていくつもり。頑張って叶えられるように、しっかりやるべきことを果たそうって思う」
興味すらなくなってしまったのだろうか。
以前のわたしなら、両親がこんな状態になってしまったら泣き叫んで謝っていただろう。従うからどうか見捨てないでくれと喚いていたに違いない。
けれど今のわたしは、自分でも信じられないくらいひどく冷静だった。自分の伝えたいことを言うことができれば、相手の反応なんてどうでもいいと思えるようになっていた。
(だって昔は、きっと期待してたから)
良い点をとって帰れば「すごいね」「頑張ったね」と褒めてもらえると思っていた。だけど実際はできない部分だけを見られて、「できるところ」にはいっさい目を向けてくれなかった。
わたしはずっと両親に【できる子】だと思われたかった。うちの子はすごいのだと、誇ってほしかったのだ。
「わたしはこの先やりたいことをやって、学んで、楽しみながら生きていく。自分の人生は自分で決めるから」
「……」
「お母さん」
呼ぶと、お母さんが顔を上げてわたしを見つめる。光を失ったような目だ。けれど前みたいに失望の色に染まっているわけではない。
「お母さんがわたしのためを思ってくれてるのは分かってる。だからできるだけお母さんのために頑張りたいって思った」
限界を超えてでも。ぼろぼろに傷ついたとしても。
それでもお母さんのためなら、頑張ろうって自分を奮い立たせていた。
「だけど、頑張りすぎなくてもいいんだって、大切な人が教えてくれた。だからわたし……」
「ごめんね」
ふいに耳に届いた声に、思わず口を閉じる。それは長年聞いていなかった、本来のお母さんの声だった。柔らかくて、弱々しくて、どこか儚いような響き。この独特な空気の震わせ方が、わたしは昔から好きだった。
「お母さん、あれから色々と考えたの。そしたら、やりすぎだったことに気がついたわ。たしかに瑠胡の人生は瑠胡のものだもの。お母さんが決めるものじゃないのよね」
「お母さん……」
「これからは好きに生きてちょうだい。さっき教えてくれた夢が叶うように、お父さんもお母さんも全力でサポートするから」
お母さんの言葉に、お父さんが立ち上がってわたしの方へと近寄ってくる。久しぶりに対面したお父さんの顔は、なんだか見慣れなくて妙な感覚がした。
「……ずいぶん明るい顔をしているな」
「え?」
「お父さんもお母さんも、お前の笑顔が好きなんだよ。将来の瑠胡がずっと笑っていられるように、幸せになれるようにって詰め込みすぎてしまったんだ。辿る道は本人が決めるべきなのに。悪かった」
ときどき、夜遅くまで喧嘩や言い合いが続いていたことをわたしは知っている。会話の中に『瑠胡』という単語が出ていたことも。
「ありがとう、お父さんお母さん。これからも、よろしくね」
両親が微笑む。久しぶりに見た、とても優しい表情で。
もう無理だと諦めていたことも、気持ちを伝えるだけで案外壁はすぐに壊れる。分かりあうことができる。
すべてを抑え込んで卑屈になっているだけでは見えない世界が山ほどあるのだと。抱え込むことが解決につながるわけではないのだと。
この春、出会った彼がわたしに教えてくれた。
【今日は講義で遅くなるから一緒には帰れない】
そんなメッセージに了解のスタンプを送信し、スマホを閉じる。視線を上げた先、にやにやとした顔でこちらを見下ろす緋夏とばっちり目が合い、思わず「うわっ」と声が洩れた。
「なになにー、彼氏さんとのラブラブやりとりですか」
「ち、違うよ。ただの業務連絡みたいなもの」
「業務連絡て、真面目かっ」
「真面目でごめんなさいね」
ふん、と視線を逸らすと「ごめんて」と謝られる。それでも拗ねたようにしていると、「それでさ」とお得意の要領で話題を変えられる。けれど以前のような不快感は全くない。
「これから近くのクレープ屋に行くんだけど、瑠胡も来る? あ、メンツは女子だけの構成だから安心して」
「えー! 俺たち行けねーのかよ!」
「緋夏ちゃんに俺ら奢るよ?」
「女子だけとかずりぃ」
「ごめん! 今日は女子だけ、男子禁制でーす」
あの日以来、随分と柔らかくなった緋夏の人気度は男女共に爆上がりし、本当の意味でクラスのマドンナ的存在になった。わたしにもかつての取り巻きたちにも横柄に接することはなくなり、一緒にいてとても楽しい。
「瑠胡、どう?」
「うん、行こうかな」
うなずくと、「やった」とガッツポーズをする緋夏は、「琴亜も呼ぼうか」と言い、鞄を持った。
「先に昇降口で待ってるから、琴亜に伝えるのお願いしてもいい?」
「うん、いいよ」
快諾すると、安心したように息を吐いた緋夏は、友達数名と教室を出ていく。
わたしも鞄に荷物を詰めて、一年五組へと足を運んだ。
「琴亜ちゃん」
教室の戸のそばから声をかけると、くるりと振り返った琴亜ちゃんがパァッと顔を明るくした。「ちょっと待ってね」と返してから、何やら物を鞄に詰めている。数枚の手紙のようだった。毎日毎日大変だな、と半ば呆れながらそのようすを見ていると、ピロンとスマホに通知が届く。
【今日の夜、通話OKだよ。話したいって思ってた】
それはよく知った親友からのメールだった。液晶画面に【彩歌】と、表示されている。
久々にみる文字の配列に、胸が躍る。
以前はこわくて連絡をするのをやめてしまったけれど、やはり久しぶりに話したくて昨日メールをした。文字を打つ時は手が震えたけれど、もし断られてしまってもわたしは一人になるわけじゃない。そう思うと、ずっと抱えていた鉛のような感情が抜けていった。
それに、きっと彩歌は快く応じてくれる。一度連絡を断ったからといって、怒るような人ではない。
信じているから、彩歌を。
【やった!! うれしい】
フリックする手が、はやくはやくと急かされるように動く。迷わず送信ボタンを押すと、「ぽんっ」という効果音とともに、メッセージが送られた。瞬時に既読がつく。そして、【じゃあ夜楽しみにしてるね!】というメッセージとともにスタンプが送られてきた。
「おまたせ! あれ、何かいいことでもあった?」
いつのまにか支度を終えたらしい琴亜ちゃんが、可愛らしく小首を傾げて目の前に立っていた。
「うん。中学時代の親友と、久しぶりに通話の約束ができたの」
「それはいいね。中学の頃の友達って、やっぱり大事な存在だからね」
「うん。離れてみて、初めて気づくよね」
何度も共感を示すようにうなずく琴亜ちゃんは、「あっ、それで何の用だったの?」と思い出したように訊ねてくる。緋夏からの言葉をそっくり伝えると、「行きたい!」と目を輝かせた琴亜ちゃんはわたしの腕を掴んで廊下を歩き出した。ふわ、とシャボンの香りが鼻先をくすぐる。
すれ違うたび、男子たちが「古園さんだ」「やっぱ可愛いな」などと耳打ち合っている声がばっちりと聞こえてくる。以前であれば、自分との違いに落ち込んで、へこんで、病んでいただろう。となりを歩きたくないとか、そんな最低なことを思っていたかもしれない。
だけど今は、違う。
たとえたくさんの人がわたしを見てくれなくても、たった一人だけがわたしを見て、必要としてくれればそれでいい。先輩のいちばんでいられたら、他者からの目など関係ない。そう思えるようになった。
「緋夏ちゃん!」
「待ってたよ」
たたっと緋夏のもとへと駆け寄る琴亜ちゃん。二人の仲も良好そうで、本当によかったと息を吐くばかりだ。
「じゃあ向かいますか」
「はーい!」
きゃはっとした、明るいけれど騒がしすぎない雰囲気が広がる。いかにも女子高生のような、キラキラとした空気感に包まれながら、わたしたちはクレープ屋へと向かったのだった。
*
「先輩、来るかな」
思わず声に出していた。
ベンチに座って、電車を待つ。クレープを食べてから少し街を散策したため、いつもの電車よりも二本遅い。だから、もしかすると講義終わりの先輩に会えるかもしれない。そう思ったのだ。
「……会えると、いいな」
わがままを言ってはいけないとは思いつつ、やはり寂しいものは寂しい。会いたいし、話したい。この気持ちはずっと変わらない。
駅で待っていることは、先輩には伝えていない。どうせならサプライズで、びっくりさせたかった。
黙って線路を見つめたまま、ぼんやりと過去を偲ぶ。
わたしたちの出逢いは、この駅だ。あの日、あの時、ここにわたしがいなかったら。先輩がここにきてくれなかったら。わたしが自殺しようという気になっていなかったなら。先輩が助けてくれなかったら。わたしたちは一生他人のまま、終わっていたのかもしれない。
どれが欠けてもだめだった。どれかひとつだけでもエピソードが足りなかったら、今の形にはなっていない。
『瑠胡ちゃんとアイツが出逢ったのは、ちゃんと意味がある。偶然かもしれないけど、紛れもなく必然なんだ。アイツを救えるのは瑠胡ちゃんだけ。アイツの未来を託せるのは君だけなんだ』
ふと、珀都くんの言葉が蘇ってくる。偶然が積み重なったら、それはきっと必然だった。そんな勝手な解釈をしてしまいたくなる。
「ハクトくん……」
わたしの背中を押してくれたあの日以来、ハクトくんはもう夢に出てくることはなかった。弟の幸せを祈り、願い、わたしのことまで救ってくれた偉大な人。もし叶うのならば、この世界の彼を見てみたかった。
ベンチに座ったまま、視線を落とす。しんみりとした気分になっていると、ふと、となりに影を感じた。ウッディ系の落ち着いた香り。好きな人に酷似した香りと雰囲気が、風にのってわたしに届く。
「せん……っ」
思わず言葉が止まる。そこにいたのは、先輩に似ているけれど、全く違う誰かだった。薄茶色の髪が静かに風に揺れ、あたたかなまなざしは、まっすぐにわたしを見つめている。輪郭がぼやけていて、今にも消えそうな儚さを纏う彼。
「……ハクトくん」
きっと彼が高校生だったら、この姿になっていたに違いない。そう確信できる何かがあった。
伝えなきゃ、彼にも。たくさんの想いと感謝がある。
「わたしのこと、助けてくれて……救ってくれて、ありがとう。居場所を作ってくれて、ありがとう。背中を押してくれて、応援してくれて、ありがとう」
もっとたくさんのありがとうがある。彼がわたしと先輩に与えてくれた優しさは計り知れない。
「わたしね……夢、見つかったよ」
将来やりたいことが見つからなくて、高校にきた意味すら分かっていなかった。何をやってもうまくいかなくて、毎日死にたいと嘆きながら、そんな勇気が出なくて苦しい日々を過ごしていた。けれどそんな自分でも、こうして前を向くことができた。自分を変えることができるのは自分だけだけれど、自分を救ってくれるのは自分だけではない。他の人と関わり合い、支えられて、もう一度立ち上がることができる。だってもともと立っていたのだから。自分の足で立つ力を、本来は持っているのだから。
歩みだすのではなく、その前段階、『もう一度立ち上がる』ための手助けがしたい。
「人の心を助ける仕事がしたい」
臨床心理士、公認心理師、心理カウンセラー。さまざまあるものの中で、これといった職業はまだ決まっていないけれど、自分に何がしたいのか、どんなことに興味があるのか、まっさらな状態から、ここまでキャンバスを塗ることができた。
『……いい夢だね。応援しているよ』
頭に直接響くような声。夢の中よりも低くて、あたたかい声だった。
静かに微笑んだハクトくんは、『ありがとう』と小さく呟いて、すうっと溶けるように消えていく。水色の瞳が、最後に小さく揺れた。
「珀都くん……」
くん呼びに違和感を感じてしまうほど、彼はどう見ても高校生だった。誰も見られなかった姿を、わたしだけが知っている。
わたしの将来の夢は、ハクトくんしか知らない。あの青い夢を通して、わたしたちは互いに秘密の共有をしたのだ。
物思いに耽っていると、遠くの方から足音が近づいてくる。
(きっと先輩だ)
すぐに分かった。足音だけで、分かってしまう。
疲れた表情でホームに入ってきた先輩は、ベンチに視線を流し、わたしの姿を捉えると目を丸くした。立ち上がって駆け寄ると、泣きそうな顔で口角を上げた先輩が両手を広げる。
「先輩……!」
迷わず飛び込んで感じるあたたかさ。顔を上げると、先輩が大好きな顔で笑っている。
「どうして……待っててくれたのか?」
「さっきまで友達と遊んでたんです。この時間なら先輩に会えるかもと思って、ちょっとだけ」
並んでベンチに座り、会話を交わす。ハクトくんがいた場所に、今度は先輩が座っている。そのことに、なぜだか少しだけ泣きそうになった。
「瑠胡ってさ……毎朝、花の世話してるだろ」
「え、どうして知ってるんですか」
「見てた……から、かな」
突然そんなことを言われて困惑する。周りには誰もいないことを確認していたのに、まさか。
いつ、どこで見られていたのだろう。
『綺麗に咲いてるね』
『わたしもいつか、咲けるといいなあ』
花に向かって話しかけているところも見られていたかもしれないと思うと、あまりの恥ずかしさに逃げ出したくなる。誰もいないと思っていたのに、いったいどうして。
「実は、さ」
先輩は照れたように頭を掻きながら、暗色が混ざる空を見上げた。
「毎朝学校図書館で勉強してると、窓から花壇が見えるんだよ。……引かれるのが怖くて黙ってたけど、言うわ」
瞳を揺らした先輩は、少しだけわたしに近づいた。それだけであっという間に縮まる距離。手を伸ばせば、お互いが簡単に触れられてしまう。
「毎朝瑠胡を見るたびに、いつかちゃんと話してみたいって思ってた。瑠胡を見ると、勉強も医者の夢を追うことも頑張ろうって思えたんだ。初めて見たときからずっと、俺は瑠胡のことが好きだよ」
言葉の端に混ざる、柔らかい口調と声音。それが向けられているのは、世界中どこを探してもわたしひとりだけ。今この瞬間、先輩の瞳はわたしだけを映している。
ただそれだけのことが、たまらなく嬉しかった。たったそれだけのことに、喜びを感じることができる自分がいる。
たぶん、あの日から。ホームで救ってもらったあの瞬間から、わたしの時間は再び動き出していた。
「駅のホームで出会ったあの日、一生分の運を使い切ったと思うくらい、ほんとはすげえ嬉しかった」
でも死にかけてて焦ったけど、と先輩は笑う。
「助けられて本当によかった」
それは心からの安堵を交えた言葉だった。幸せを噛み締めていると、カーンカーンと踏切の音が鳴りだす。
立ち上がると、同じように立った先輩が振り返った。
「瑠胡」
「はい」
名前を呼ばれて返事をすると、少しだけ首を傾げた先輩がわたしを見下ろしていた。そして、少し躊躇いがちに言葉が紡がれる。
「教室まで迎えに行こうか」
ちらりと試すように向けられた視線に、ふるふると首を横に振る。それは、わたしの意思を試す言葉というよりは、お互いの考えが一致しているのを確かめるような質問だった。
「いえ、大丈夫です」
微笑みながら断ると、「だよな」と同じように笑顔が返ってくる。
ーー好き。
クシャッと愛らしく向けられた笑顔に、胸の内からあふれる想い。
付き合っているのなら、という先輩なりの配慮だったのかもしれないけれど、わたしはこの駅で彼と待ち合わせたい。それはきっと、彼も同じだったのだろう。
出逢った駅で、一日の話をして、笑い合って、一緒に帰る。そんなささやかな幸せでいい。それだけでわたしは十分生きていける。
「待ち合わせは、この駅で」
「了解」
スっと伸びてきた先輩の手が、ポン、と頭にのる。
それがなんだか恥ずかしくて、それでもやっぱり嬉しくて、無意識のうちに頬が緩んでしまう。
「ありがとうございます、琥尋先輩」
「うわ、すっげえ不意打ち……」
言葉にしよう。伝えよう。
思いを共有して、同じものを分け合って、与え合う日々は、きっと彩りあるものになる。ずっと嫌いだった春も、四月も、季節が巡れば必ずやってくる出逢いと別れも、今はすべてが愛おしい。
照れを噛み殺していた先輩の目が、スッと細くなり、色を含む。まっすぐな瞳がわたしをとらえ、薄い唇から静かな音が紡がれた。
「これから先も、何度だって助けにいく。四月の瑠胡が笑えるように」
ほんのり色づく頬と、風にのって届く春の香り。
キイ────と、目の前で電車が止まる。
「帰るか」
「はい」
そっと差し出された手をとると、わずかなぬくもりが伝わった。
「ねえ、先輩」
電車に乗り込む瞬間、ふと言葉にしたくなって、手を引かれたまま呟く。先輩に教えてもらった、大切な気持ちが、溢れた。
わたしは春という季節が、四月という月が、目の前で笑顔を咲かせるあなたのことが──
「───…だいすき。」
四月のきみが笑うから。 了
何度だって助けにいく。
四月のきみが笑えるように。