「ふざけないでよ!」
放課後の中庭に響き渡る怒声に、びくりと肩が跳ねた。
怒声は苦手だ。自分が怒られているかのような錯覚に陥ってしまうから。他人が怒られているところを見ると、なぜか自分も泣きたくなってしまう。
つくづく運が悪いと、自分の不運にげんなりしながら足に力を込める。面倒なことになる前に、さっさとこの場から離れてしまおうと思ったのだ。
(花のことなんて、気にしなければよかった)
最近、朝のルーティーンが崩れてきて、花のようすを見にくることができていなかった。だからと思って放課後に覗きにきたはいいものの、どうやらまずい現場に居合わせてしまったようだ。
できるだけ関わりたくない。
その一心で身を翻そうとした瞬間、「私はなにも知らないの……」とか細い声が耳に届く。
(あれ)
その声をどこかで聞いたことがあるような気がして、踵を返そうとしていた足が止まる。影からそろりとのぞいてみると、そこにはよく見知った人物が立っていた。
「どうせキラのこともたぶらかしたんでしょ? この尻軽女!」
バシッ、と鈍い音がして、おさげの少女が倒れ込む。そのようすを見て高らかに笑うのは、緋夏だ。キラというのは緋夏の彼氏の名前だ。入学してからすぐにアプローチを受け、付き合うことになったらしい。以前はあんなに不平不満を自慢のように垂れ流していたのに、結局は彼のことが好きなのだ。
「あたし、知ってるんだから。あんたがいろんな男たぶらかしてるの。悔しいからって人の彼氏に色目つかってんじゃないわよ」
「私、本当になにも……」
「言い訳するな!」
おさげを引っ張られるようにして無理やり立たされる女の子の顔が、光を受けてこちらにも見えた。その瞬間、ギュッと心臓を掴まれたように苦しくなる。ぞわりと鳥肌が立ち、背筋に冷たいものが走った。
「ずいぶん上手な泣き演技ね。ま、それ使ってオトコと遊んでるんだもの。上手になるに決まってるわ」
ふふっ、と笑う緋夏の顔は、影になっていてなんとも歪だった。再度振り上げられた右手が、容赦なくおさげの女の子────琴亜に直撃する。うっ、と小さくうめきをあげて倒れた琴亜を、取り巻き達が逃すまいといったように囲んだ。
(わたしは何をしているの。助けに行かなきゃ。友達が傷つけられているのに、かげから見ているだけではダメ)
心の中ではそう思っているのに、身体の震えが止まらない。まるで自分がやられているかのような、心臓が破裂してしまうような痛みと、寒気。じわりと涙が張っていく。呼吸が浅くなっていくのが、自分でもはっきりと分かった。
自分は変われただなんて、自惚れるのも大概にしたほうがいい。結局また何もできないのか、わたしは。
「謝って。人の彼氏をとってごめんなさい、手を出してごめんなさいって謝罪して。あんたは立派な罪を犯したんだから」
ピッ、と取り巻きのひとりがスマホのカメラを起動した。無機質な長方形の箱が、琴亜と瞳を合わせた。その他の子たちは、緋夏に視線を向けられ、慌てたように謝罪コールをし出した。そのコールに紛れるように、もう一度スマホが音を立てる。
これじゃあまるで、いじめじゃないか。否、まるでじゃなくて、完全にそうだ。
取り囲まれた琴亜の表情は見えない。けれど、きらりと光るなにかが地面に落ちるのだけは、この目ではっきりと見ることができた。
「私……謝らない」
鈴のような琴亜の声が響く。
それは、とても小さな、けれどたしかな拒絶だった。
わたしには到底できなかったことだった。
「は? 何言ってんの?」
途端に緋夏の眉間にしわがよる。そして、へたり込んだままの琴亜にじりじりと詰め寄った緋夏は、目線を合わせるようにしゃがんだ。
「生意気なんじゃない? 謝れって言ってんの。ごめんなさいって、それだけ言えば済む話でしょう?」
怖いほど静かで、耐え難い口調だった。まるで自分がすべて正しいのだと、そう信じて疑わないような自信に満ち溢れた表情だった。
どうかしてる。緋夏も、取り巻きたちも、わたしも。
この場にいて、何もしていないだけで、わたしも同罪なのだ。いくら味方だと思っていても、叫ばなければ意味がない。
顔をあげた琴亜は、まっすぐに緋夏を見つめてはっきりと首を振った。壁に隠れるように身を潜めるわたしにも、揺らぐことのない声が聞こえてくる。
「……そんなことしたら、私が悪いって認めることになるから、いや! 私は何もやってないから謝る必要なんてない!!」
「黙りなさい!! 生意気なのよ!!」
その言葉を聞いて逆上した緋夏が、近くにあったホースを手にする。怒り狂ったその顔は、本人のものとは思えないほど醜くて、可哀想になるほど惨めだった。
何をしようとしているのか、そんなものは深く考えなくても分かった。
『どうして謝るの? 瑠胡ちゃんは何も悪いことしてないのに』
『……そんなことしたら、私が悪いって認めることになるから、いや!』
意味もなく、言われた通りに謝罪を口にしていたわたしにとって、彼女の強い意志は、ただただ眩しかった。正しさを貫くことを諦めないその姿勢は、強さは。
どうしたら、手に入れることができるだろうか。
(そんなの、決まってる。自分で動かないと、人はいつまでも変われない)
あの日、あの時、彼女がわたしに寄り添ってくれたから、わたしは沈みすぎることなくいられた。そして、自分を受け入れ、こんな自分を────少しでも、好きになることができた。
「やめて!!」
取り巻きたちを押し避けて躍り出ると、驚いたように目を丸くした緋夏が、にやりと気持ち悪い笑みを浮かべた。そして、迷いなくホースの先をわたしに向ける。
「瑠胡、ちゃん……?」
「遅くなって、ごめん。酷いやつで、ごめんね」
消え入るように名前を呼ぶ彼女は、ふるふると首を横に振った。そんなやりとりを、緋夏が面白くてたまらないといったように見ている。
「助けにきたヒーローのつもりかしら? 入学式の日、ひとりになりそうでビクビクしてたあんたを助けてあげたのは誰? 救ってあげたのは誰? 結局ウチらについてこられなかった落ちこぼれみたいだけど」
小刻みに肩を揺らした緋夏は、それから天を仰ぐように大きく笑う。
「まったく、ふざけないで。弱い者ふたりがそろったところで、ちっとも怖くないの。残念ね」
シャ────と冷たく、生ぬるい水が制服を濡らしてゆく。その間も、緋夏はずっと笑っていた。
髪、顔、ブレザー、スカート、靴下、靴。
順々に黒塗られていき、水気を含んで重たくなる。わたしの後ろでは、琴亜が「やめて!」と泣き叫んでいた。
氷のような冷たさに、体が冷えていく。けれど、身体の芯の部分だけは、燃えるような熱さに包まれていた。
「……そんなことして、楽しいの?」
「黙りなさいよ。あんたはこうして無様に濡れていればいいの」
顔にかかる水は、あの日の雨に比べたら全然大したことなかった。背中に庇うように隠した琴亜ちゃんの震えがわたしにも伝わってくる。大丈夫だよと言うように手を握れば、同じぬくもりが返された。
「わたし、人の機嫌とって生きるのはもうやめたの。自由に生きるって決めたから」
「……ふっ、なにそれ。自由? 笑わせないでよ、ねぇ?」
「琴亜ちゃんに嫉妬してこんなことするの、いちばんかっこ悪いよ」
図星だったから余計に悔しかったんだろう。みるみる緋夏の顔が赤く染まっていく。
「琴亜ちゃん、何もしてないって言ってるじゃん。なのにどうしてこんなひどいことするの?」
「ぶ、部外者が口出ししてこないで!」
「たしかに部外者だけど……友達が傷つけられてるのに、そんなの見過ごせない。助けてもらった分、今度はわたしが助ける番なの」
ポタポタと雫が落ちる。スッ、とこめかみを伝った水滴は、顎まで伝い、それから地面へと落ちた。
「こんないじめみたいなことしてても、何も面白くないじゃない。これ以上わたしの友達を傷つけるのはやめて!」
「ウザいのよ!!」
つかつかと歩み寄ってきた緋夏が、思い切りわたしの肩を押す。
「……っ!!」
力に耐えられず、花壇に倒れ込む。あ、と思ったときにはすでに遅かった。
(花が……!)
ぐしゃっと生命が消える音がした。慌てて飛び退いたけれど、茎の部分から折れてしまっている。
「ごめん……! ごめんね……っ」
あれほど丁寧に手入れした花が。こんなにもあっさりと折れてしまった。
ふつふつと、怒り以上の何かが渦巻いて、悲しみや悔しさが混ざり、大きな黒い感情となる。声を上げるならばここしかない。
いつも自信がなくて、目立ちたくなくて、人より優れなくていいから劣りたくない。そう思って、存在を消すように息を潜めて生きていた。けれど、そんなふうに生きるのは、もう終わり。
人を変えるには、自分が動かないとダメだ。人に期待などしてはいけないと、知っているから。
「みんなも緋夏のいいなりになるのはやめなよ。本当はこんなことしたくないんでしょう?」
「……は?」
顔をあげると、緋夏が眉を寄せる。それでも、わたしは続けた。
「一緒にいたとき、必死にご機嫌取りしてたのはわたしだけじゃなかったはず。わたしがハブかれたとき、自分じゃなくてよかった、って安心した顔してた人、たくさんいたよ」
ぐるりとあたりを見回すと、誰もが決まって目を逸らす。顔を隠すようにカメラを構える子に近づき、勢いよくスマホを取り上げると、今にも泣きそうな顔が現れた。
「こんなこと、したくないんでしょ? 分かってるよ」
スマホ画面をのぞくと、「やめて!!」と叫んだその子は、ひったくるようにスマホを奪い返した。
「やっぱり……動画撮影されてないね」
「……ち、違うよ。これは、間違って」
「だったらそんな顔しないでしょう」
罪悪感に押し潰されそうな顔、してる。焦ったようなコールの仕方も、どこか違和感があった。学校でのヒエラルキーは、時に上位の人たちも苦しめる。
「もうやめようよ。高校生にもなってこんなこと。一人で歯向かうのは怖くても、みんなで叫べば怖くないよ」
ぐるりと視線を動かして、一人ひとりの顔を見つめる。まだ目を逸らす人が何人もいる中で、バチッと視線がかち合った人がいた。
「ひとりにはならないよ。わたしが、いる」
四月のわたしのように、ひとりになることに怯えているのだとしたら。あなたは一人ではないと、そう伝えてあげることが必要だと思った。支えてくれる人が一人でもいるだけで、なんだってできるような気がしてくるのだから。わたしはそれを、大切な人から教えてもらった。
「だからこんなこともうやめよう。わたしと一緒にいようよ」
「……っ」
震えながらスマホを握りしめる子にも、同じように手を差し伸べる。
「マキ! アサ!」
目を見開いた緋夏が、二人を交互に睨みつける。怯えたように瞳を揺らす二人は、視線を地面に落とした。そのまま沈黙が降りる。
生ぬるい風が頰を撫でた。
「……あたし、見たの。緋夏の彼氏が、古園さんに言い寄ってるとこ」
ぽつりと。マキと呼ばれた子が、小さく言葉を洩らす。
「は……? なに言ってるのマキ。ふざけないで」
「ふざけてなんかない! 緋夏、あたしこんなことしたくないよ。今まで黙ってたけど、度が過ぎてる。一緒にいても全然楽しくない」
伸ばした手に、繋いだぬくもり。そのまま引き寄せれば、マキは緋夏のほうを向いてまっすぐに立った。
「アサもエコも、ワカもさ、もうこんなことやめようよ。言いなりになるなんて、そんな弱いことするのやめよう!」
マキの呼びかけに、唇を噛んだ人たちがぞろぞろとわたしのほうへと近づく。困惑したように目を見開いて固まる緋夏へと向き直った。
「緋夏のことは好き。だけど、こんなことする緋夏のことは嫌い」
「いつも可愛くて明るくて、一緒にいて楽しいけど、人の悪口言う人とは一緒にいたくない」
「緋夏がいい人だってこと、あたし知ってるから。だから、こんなことしてないでいつもの緋夏に戻ってよ」
その時の感情で、思わぬことを口走ったり、非行に走ってしまうことは誰にだってある。けれど、必ず正してくれる人が必要なのだ。
口を結んだまま鋭い視線を向ける緋夏に、一歩近づく。
入学式の日、わたしに話しかけてくれたこと。それは本当に嬉しかったのだ。
彼女が持つものは、こんなマイナスなことだけではない。それは緋夏という人物の一面なだけであって、優しい部分も、人間らしい部分も、ちゃんと持っているはずなのだから。
「緋夏。わたし、緋夏が話しかけてきてくれて、本当に嬉しかったんだ。緊張とか不安とか、そういうの。全部吹き飛んでいったから」
わたしは彼女と向き合うことから逃げていた。あの日の感謝も、それから一緒に過ごした日々の思いも、何一つ伝えられていなかった。
「だからちゃんと友達になりたい。一緒にいることがつらくならないような関係を築いていきたい。ダメ、かな」
友達になってください、なんて、小学生じゃあるまいし。心の中で思ったけれど、それがいちばんの近道かもしれないと思った。
大人になればなるほど、表と裏の顔をつくるのが上手になって────否、上手にならざるを得なくなって、どこからが友情なのか、境界線が分からなくなってしまう。純粋な友達と呼べる人が少なくなってしまう。
だけど、偽ることのない素を。そんなものを出せる瞬間が少しでもあるのなら、きっとそれは友情だと呼べるだろう。
そんなふうに、思った。
しばらく目を瞑っていた緋夏が、座り込む琴亜ちゃんに近づく。警戒することはないと、なんとなくわかっていた。くるみ色の瞳が、柔らかいものへと変わっていることに気がついたから。入学式の日、わたしに向けられたものと同じ、まっすぐな瞳だった。たとえ間違った道を選択してしまったとしても、目の奥に宿る光は、きっといつだって取り戻すことができる。
「……ごめん、なさい」
差し出された手をじっと見つめていた琴亜ちゃんは、目に涙を浮かべたままその手をとった。立ち上がった琴亜ちゃんは、そのまま緋夏を抱きしめる。身体を強張らせていた緋夏は、静かに身体を預けた。
「嫉妬して……ひどいことして、ごめんなさい」
「ううん。大丈夫」
ゆるりと頰を緩める琴亜ちゃんに抱きしめられたままの緋夏は、瞳を流してわたしを見つめた。そして、薄い唇を静かに動かす。
「瑠胡にも、ひどいことして、ごめん。ハブいてごめん」
首を振ると、緋夏は言葉を続ける。
「……許してもらえるとは思わないけど、友達としてそばにいたい。瑠胡と一緒にいて、ウチもすごく楽しかった」
思えばこうして真正面からぶつかり、和解をし、新たな関係を築こうとしたのはいつぶりだろう。今までなら諦め、少しでも困難な人間関係は避けてきたというのに。
人と人との繋がり、信じることの大切さを、彼と出会って知ったからだろうか。
「わたしもだよ、緋夏」
こくりと頷くと、安堵したように目元を緩めた緋夏は、うつむいて涙をこぼした。
琴亜から離れた緋夏に、取り巻き────ではなく、友達が駆け寄る。「ありがとう」と。それだけを呟いた緋夏は、彼女たちに連れられて去っていった。
去ってゆく背中を見届けた瞬間、身体が一気に解放されたような感覚になる。ドッドッと脈を打つのが速くなってゆく。
「わたし……ちゃんと、琴亜ちゃんを守れた、かな」
「十分だよ! 巻き込んで、本当に……」
「謝らないで。琴亜ちゃんは何も悪くないよ」
申し訳なさからか、安堵からか。泣きそうな顔をする琴亜ちゃんに首を振る。友達として当然のことをしたまでだと、やっとできたのだと、そう伝えたかった。
「瑠胡ちゃ────」
次の瞬間、視界がぐらりと歪む。身体が傾いている感覚だけは伝わってくるのに、手足はいうことを聞いてくれなかった。
スローモーションのように、時間がゆっくりと流れていく。心臓の音だけが、耳のそばでズクンズクンと響いていた。
(わたしは何か変われたでしょうか。少しでも成長することができていますか────?)
誰に問いかけるでもなく、ふとそう思った。もしこれを問いかける相手がいるとするならば、それは、神様というかたちのない崇高な存在だろうか。
「瑠胡────!」
朦朧とする意識のなかで、ふわりと鼻をつく懐かしい香り。わたしはこのにおいを、よく知っている。
目を閉じると一筋伝ったそれを、あたたかい何かが、静かに拭ったような気がした。
放課後の中庭に響き渡る怒声に、びくりと肩が跳ねた。
怒声は苦手だ。自分が怒られているかのような錯覚に陥ってしまうから。他人が怒られているところを見ると、なぜか自分も泣きたくなってしまう。
つくづく運が悪いと、自分の不運にげんなりしながら足に力を込める。面倒なことになる前に、さっさとこの場から離れてしまおうと思ったのだ。
(花のことなんて、気にしなければよかった)
最近、朝のルーティーンが崩れてきて、花のようすを見にくることができていなかった。だからと思って放課後に覗きにきたはいいものの、どうやらまずい現場に居合わせてしまったようだ。
できるだけ関わりたくない。
その一心で身を翻そうとした瞬間、「私はなにも知らないの……」とか細い声が耳に届く。
(あれ)
その声をどこかで聞いたことがあるような気がして、踵を返そうとしていた足が止まる。影からそろりとのぞいてみると、そこにはよく見知った人物が立っていた。
「どうせキラのこともたぶらかしたんでしょ? この尻軽女!」
バシッ、と鈍い音がして、おさげの少女が倒れ込む。そのようすを見て高らかに笑うのは、緋夏だ。キラというのは緋夏の彼氏の名前だ。入学してからすぐにアプローチを受け、付き合うことになったらしい。以前はあんなに不平不満を自慢のように垂れ流していたのに、結局は彼のことが好きなのだ。
「あたし、知ってるんだから。あんたがいろんな男たぶらかしてるの。悔しいからって人の彼氏に色目つかってんじゃないわよ」
「私、本当になにも……」
「言い訳するな!」
おさげを引っ張られるようにして無理やり立たされる女の子の顔が、光を受けてこちらにも見えた。その瞬間、ギュッと心臓を掴まれたように苦しくなる。ぞわりと鳥肌が立ち、背筋に冷たいものが走った。
「ずいぶん上手な泣き演技ね。ま、それ使ってオトコと遊んでるんだもの。上手になるに決まってるわ」
ふふっ、と笑う緋夏の顔は、影になっていてなんとも歪だった。再度振り上げられた右手が、容赦なくおさげの女の子────琴亜に直撃する。うっ、と小さくうめきをあげて倒れた琴亜を、取り巻き達が逃すまいといったように囲んだ。
(わたしは何をしているの。助けに行かなきゃ。友達が傷つけられているのに、かげから見ているだけではダメ)
心の中ではそう思っているのに、身体の震えが止まらない。まるで自分がやられているかのような、心臓が破裂してしまうような痛みと、寒気。じわりと涙が張っていく。呼吸が浅くなっていくのが、自分でもはっきりと分かった。
自分は変われただなんて、自惚れるのも大概にしたほうがいい。結局また何もできないのか、わたしは。
「謝って。人の彼氏をとってごめんなさい、手を出してごめんなさいって謝罪して。あんたは立派な罪を犯したんだから」
ピッ、と取り巻きのひとりがスマホのカメラを起動した。無機質な長方形の箱が、琴亜と瞳を合わせた。その他の子たちは、緋夏に視線を向けられ、慌てたように謝罪コールをし出した。そのコールに紛れるように、もう一度スマホが音を立てる。
これじゃあまるで、いじめじゃないか。否、まるでじゃなくて、完全にそうだ。
取り囲まれた琴亜の表情は見えない。けれど、きらりと光るなにかが地面に落ちるのだけは、この目ではっきりと見ることができた。
「私……謝らない」
鈴のような琴亜の声が響く。
それは、とても小さな、けれどたしかな拒絶だった。
わたしには到底できなかったことだった。
「は? 何言ってんの?」
途端に緋夏の眉間にしわがよる。そして、へたり込んだままの琴亜にじりじりと詰め寄った緋夏は、目線を合わせるようにしゃがんだ。
「生意気なんじゃない? 謝れって言ってんの。ごめんなさいって、それだけ言えば済む話でしょう?」
怖いほど静かで、耐え難い口調だった。まるで自分がすべて正しいのだと、そう信じて疑わないような自信に満ち溢れた表情だった。
どうかしてる。緋夏も、取り巻きたちも、わたしも。
この場にいて、何もしていないだけで、わたしも同罪なのだ。いくら味方だと思っていても、叫ばなければ意味がない。
顔をあげた琴亜は、まっすぐに緋夏を見つめてはっきりと首を振った。壁に隠れるように身を潜めるわたしにも、揺らぐことのない声が聞こえてくる。
「……そんなことしたら、私が悪いって認めることになるから、いや! 私は何もやってないから謝る必要なんてない!!」
「黙りなさい!! 生意気なのよ!!」
その言葉を聞いて逆上した緋夏が、近くにあったホースを手にする。怒り狂ったその顔は、本人のものとは思えないほど醜くて、可哀想になるほど惨めだった。
何をしようとしているのか、そんなものは深く考えなくても分かった。
『どうして謝るの? 瑠胡ちゃんは何も悪いことしてないのに』
『……そんなことしたら、私が悪いって認めることになるから、いや!』
意味もなく、言われた通りに謝罪を口にしていたわたしにとって、彼女の強い意志は、ただただ眩しかった。正しさを貫くことを諦めないその姿勢は、強さは。
どうしたら、手に入れることができるだろうか。
(そんなの、決まってる。自分で動かないと、人はいつまでも変われない)
あの日、あの時、彼女がわたしに寄り添ってくれたから、わたしは沈みすぎることなくいられた。そして、自分を受け入れ、こんな自分を────少しでも、好きになることができた。
「やめて!!」
取り巻きたちを押し避けて躍り出ると、驚いたように目を丸くした緋夏が、にやりと気持ち悪い笑みを浮かべた。そして、迷いなくホースの先をわたしに向ける。
「瑠胡、ちゃん……?」
「遅くなって、ごめん。酷いやつで、ごめんね」
消え入るように名前を呼ぶ彼女は、ふるふると首を横に振った。そんなやりとりを、緋夏が面白くてたまらないといったように見ている。
「助けにきたヒーローのつもりかしら? 入学式の日、ひとりになりそうでビクビクしてたあんたを助けてあげたのは誰? 救ってあげたのは誰? 結局ウチらについてこられなかった落ちこぼれみたいだけど」
小刻みに肩を揺らした緋夏は、それから天を仰ぐように大きく笑う。
「まったく、ふざけないで。弱い者ふたりがそろったところで、ちっとも怖くないの。残念ね」
シャ────と冷たく、生ぬるい水が制服を濡らしてゆく。その間も、緋夏はずっと笑っていた。
髪、顔、ブレザー、スカート、靴下、靴。
順々に黒塗られていき、水気を含んで重たくなる。わたしの後ろでは、琴亜が「やめて!」と泣き叫んでいた。
氷のような冷たさに、体が冷えていく。けれど、身体の芯の部分だけは、燃えるような熱さに包まれていた。
「……そんなことして、楽しいの?」
「黙りなさいよ。あんたはこうして無様に濡れていればいいの」
顔にかかる水は、あの日の雨に比べたら全然大したことなかった。背中に庇うように隠した琴亜ちゃんの震えがわたしにも伝わってくる。大丈夫だよと言うように手を握れば、同じぬくもりが返された。
「わたし、人の機嫌とって生きるのはもうやめたの。自由に生きるって決めたから」
「……ふっ、なにそれ。自由? 笑わせないでよ、ねぇ?」
「琴亜ちゃんに嫉妬してこんなことするの、いちばんかっこ悪いよ」
図星だったから余計に悔しかったんだろう。みるみる緋夏の顔が赤く染まっていく。
「琴亜ちゃん、何もしてないって言ってるじゃん。なのにどうしてこんなひどいことするの?」
「ぶ、部外者が口出ししてこないで!」
「たしかに部外者だけど……友達が傷つけられてるのに、そんなの見過ごせない。助けてもらった分、今度はわたしが助ける番なの」
ポタポタと雫が落ちる。スッ、とこめかみを伝った水滴は、顎まで伝い、それから地面へと落ちた。
「こんないじめみたいなことしてても、何も面白くないじゃない。これ以上わたしの友達を傷つけるのはやめて!」
「ウザいのよ!!」
つかつかと歩み寄ってきた緋夏が、思い切りわたしの肩を押す。
「……っ!!」
力に耐えられず、花壇に倒れ込む。あ、と思ったときにはすでに遅かった。
(花が……!)
ぐしゃっと生命が消える音がした。慌てて飛び退いたけれど、茎の部分から折れてしまっている。
「ごめん……! ごめんね……っ」
あれほど丁寧に手入れした花が。こんなにもあっさりと折れてしまった。
ふつふつと、怒り以上の何かが渦巻いて、悲しみや悔しさが混ざり、大きな黒い感情となる。声を上げるならばここしかない。
いつも自信がなくて、目立ちたくなくて、人より優れなくていいから劣りたくない。そう思って、存在を消すように息を潜めて生きていた。けれど、そんなふうに生きるのは、もう終わり。
人を変えるには、自分が動かないとダメだ。人に期待などしてはいけないと、知っているから。
「みんなも緋夏のいいなりになるのはやめなよ。本当はこんなことしたくないんでしょう?」
「……は?」
顔をあげると、緋夏が眉を寄せる。それでも、わたしは続けた。
「一緒にいたとき、必死にご機嫌取りしてたのはわたしだけじゃなかったはず。わたしがハブかれたとき、自分じゃなくてよかった、って安心した顔してた人、たくさんいたよ」
ぐるりとあたりを見回すと、誰もが決まって目を逸らす。顔を隠すようにカメラを構える子に近づき、勢いよくスマホを取り上げると、今にも泣きそうな顔が現れた。
「こんなこと、したくないんでしょ? 分かってるよ」
スマホ画面をのぞくと、「やめて!!」と叫んだその子は、ひったくるようにスマホを奪い返した。
「やっぱり……動画撮影されてないね」
「……ち、違うよ。これは、間違って」
「だったらそんな顔しないでしょう」
罪悪感に押し潰されそうな顔、してる。焦ったようなコールの仕方も、どこか違和感があった。学校でのヒエラルキーは、時に上位の人たちも苦しめる。
「もうやめようよ。高校生にもなってこんなこと。一人で歯向かうのは怖くても、みんなで叫べば怖くないよ」
ぐるりと視線を動かして、一人ひとりの顔を見つめる。まだ目を逸らす人が何人もいる中で、バチッと視線がかち合った人がいた。
「ひとりにはならないよ。わたしが、いる」
四月のわたしのように、ひとりになることに怯えているのだとしたら。あなたは一人ではないと、そう伝えてあげることが必要だと思った。支えてくれる人が一人でもいるだけで、なんだってできるような気がしてくるのだから。わたしはそれを、大切な人から教えてもらった。
「だからこんなこともうやめよう。わたしと一緒にいようよ」
「……っ」
震えながらスマホを握りしめる子にも、同じように手を差し伸べる。
「マキ! アサ!」
目を見開いた緋夏が、二人を交互に睨みつける。怯えたように瞳を揺らす二人は、視線を地面に落とした。そのまま沈黙が降りる。
生ぬるい風が頰を撫でた。
「……あたし、見たの。緋夏の彼氏が、古園さんに言い寄ってるとこ」
ぽつりと。マキと呼ばれた子が、小さく言葉を洩らす。
「は……? なに言ってるのマキ。ふざけないで」
「ふざけてなんかない! 緋夏、あたしこんなことしたくないよ。今まで黙ってたけど、度が過ぎてる。一緒にいても全然楽しくない」
伸ばした手に、繋いだぬくもり。そのまま引き寄せれば、マキは緋夏のほうを向いてまっすぐに立った。
「アサもエコも、ワカもさ、もうこんなことやめようよ。言いなりになるなんて、そんな弱いことするのやめよう!」
マキの呼びかけに、唇を噛んだ人たちがぞろぞろとわたしのほうへと近づく。困惑したように目を見開いて固まる緋夏へと向き直った。
「緋夏のことは好き。だけど、こんなことする緋夏のことは嫌い」
「いつも可愛くて明るくて、一緒にいて楽しいけど、人の悪口言う人とは一緒にいたくない」
「緋夏がいい人だってこと、あたし知ってるから。だから、こんなことしてないでいつもの緋夏に戻ってよ」
その時の感情で、思わぬことを口走ったり、非行に走ってしまうことは誰にだってある。けれど、必ず正してくれる人が必要なのだ。
口を結んだまま鋭い視線を向ける緋夏に、一歩近づく。
入学式の日、わたしに話しかけてくれたこと。それは本当に嬉しかったのだ。
彼女が持つものは、こんなマイナスなことだけではない。それは緋夏という人物の一面なだけであって、優しい部分も、人間らしい部分も、ちゃんと持っているはずなのだから。
「緋夏。わたし、緋夏が話しかけてきてくれて、本当に嬉しかったんだ。緊張とか不安とか、そういうの。全部吹き飛んでいったから」
わたしは彼女と向き合うことから逃げていた。あの日の感謝も、それから一緒に過ごした日々の思いも、何一つ伝えられていなかった。
「だからちゃんと友達になりたい。一緒にいることがつらくならないような関係を築いていきたい。ダメ、かな」
友達になってください、なんて、小学生じゃあるまいし。心の中で思ったけれど、それがいちばんの近道かもしれないと思った。
大人になればなるほど、表と裏の顔をつくるのが上手になって────否、上手にならざるを得なくなって、どこからが友情なのか、境界線が分からなくなってしまう。純粋な友達と呼べる人が少なくなってしまう。
だけど、偽ることのない素を。そんなものを出せる瞬間が少しでもあるのなら、きっとそれは友情だと呼べるだろう。
そんなふうに、思った。
しばらく目を瞑っていた緋夏が、座り込む琴亜ちゃんに近づく。警戒することはないと、なんとなくわかっていた。くるみ色の瞳が、柔らかいものへと変わっていることに気がついたから。入学式の日、わたしに向けられたものと同じ、まっすぐな瞳だった。たとえ間違った道を選択してしまったとしても、目の奥に宿る光は、きっといつだって取り戻すことができる。
「……ごめん、なさい」
差し出された手をじっと見つめていた琴亜ちゃんは、目に涙を浮かべたままその手をとった。立ち上がった琴亜ちゃんは、そのまま緋夏を抱きしめる。身体を強張らせていた緋夏は、静かに身体を預けた。
「嫉妬して……ひどいことして、ごめんなさい」
「ううん。大丈夫」
ゆるりと頰を緩める琴亜ちゃんに抱きしめられたままの緋夏は、瞳を流してわたしを見つめた。そして、薄い唇を静かに動かす。
「瑠胡にも、ひどいことして、ごめん。ハブいてごめん」
首を振ると、緋夏は言葉を続ける。
「……許してもらえるとは思わないけど、友達としてそばにいたい。瑠胡と一緒にいて、ウチもすごく楽しかった」
思えばこうして真正面からぶつかり、和解をし、新たな関係を築こうとしたのはいつぶりだろう。今までなら諦め、少しでも困難な人間関係は避けてきたというのに。
人と人との繋がり、信じることの大切さを、彼と出会って知ったからだろうか。
「わたしもだよ、緋夏」
こくりと頷くと、安堵したように目元を緩めた緋夏は、うつむいて涙をこぼした。
琴亜から離れた緋夏に、取り巻き────ではなく、友達が駆け寄る。「ありがとう」と。それだけを呟いた緋夏は、彼女たちに連れられて去っていった。
去ってゆく背中を見届けた瞬間、身体が一気に解放されたような感覚になる。ドッドッと脈を打つのが速くなってゆく。
「わたし……ちゃんと、琴亜ちゃんを守れた、かな」
「十分だよ! 巻き込んで、本当に……」
「謝らないで。琴亜ちゃんは何も悪くないよ」
申し訳なさからか、安堵からか。泣きそうな顔をする琴亜ちゃんに首を振る。友達として当然のことをしたまでだと、やっとできたのだと、そう伝えたかった。
「瑠胡ちゃ────」
次の瞬間、視界がぐらりと歪む。身体が傾いている感覚だけは伝わってくるのに、手足はいうことを聞いてくれなかった。
スローモーションのように、時間がゆっくりと流れていく。心臓の音だけが、耳のそばでズクンズクンと響いていた。
(わたしは何か変われたでしょうか。少しでも成長することができていますか────?)
誰に問いかけるでもなく、ふとそう思った。もしこれを問いかける相手がいるとするならば、それは、神様というかたちのない崇高な存在だろうか。
「瑠胡────!」
朦朧とする意識のなかで、ふわりと鼻をつく懐かしい香り。わたしはこのにおいを、よく知っている。
目を閉じると一筋伝ったそれを、あたたかい何かが、静かに拭ったような気がした。