「俺たちが生きてる意味は、絶対あると思うんだよ。たとえそれが俺たちにとってじゃなくても、周りの奴らにとっては」



 春の音が聞こえる。柔らかくて、なごやかで、落ち着く音だ。

 春は、どうしてすべての音が柔らかく聞こえるのだろうか。夏のような暑苦しさも、秋のような物哀しさも、冬のような鋭さも、春になれば跡形もなく消える。
 春は四季の中でいちばんおだかやで、平和で、時間がゆっくり流れる季節だと思う。



「なぁ、瑠胡(るこ)


 目の前に立つ人物の薄い唇が、静かに震えた。視線を上げると、彼の澄んだ瞳と目が合う。
 出会ったときに、わたしをあっという間に引き込んでしまった青い瞳は、端正な顔立ちに浮くことなく存在していて、まっすぐにわたしを見つめている。


 同じ学校の三年生。医者志望。

 わたしはまだ、彼のことをそれだけしか知らない。


 出会いは入学してから少し経った頃のこと。

 わたしの終わりかけた人生は、あの日、彼と出会ったことで変わった。



「少なくとも、瑠胡は俺のために必要な存在だから」



 彼と過ごす時間がいつまでも続くという保証はどこにもないけれど、あの日繋がった縁をできる限り大切にしていきたいとわたしは思う。

 彼と出会えたことも、今日を生きているわたしの生命も、すべてが奇跡なのだから。


 薄紅色をした桜が、視界いっぱいに映っていたあの日。



 ────あの日、わたしは死ぬはずだった。




 四月は嫌いだ。
 すべての始まりの月だから。

 最寄駅に向かいながら、幾度となく吐いたため息を、今日も静かに吐き出した。
 あぁ、憂鬱(ゆううつ)。わたしはあと何度同じことを思えば、この感情に慣れるのだろうか。

 四月というのは、わたしという弱い人間に課せられた一種の試練だと思う。試練という大きな壁だと認識していないと、それを越えられない自分自身をもっと強く責めてしまうような気がした。

 数々の別れと出会いが一斉におこなわれて、今まで構築してきた人間関係が崩れてしまう時期が好きな人間なんて、いったいどこにいるのだろう。
 毎年四月は憂鬱で逃げ出したい気持ちになるけれど、今年は特に気分が浮かない。理由は分かりきっている。

 この春から、わたしは高校生になったからだ。



「……気持ち悪い」

 突然ぐぐっと腹の底から何かが迫り上がってくるような気がして、思わず口許を押さえた。
 よろよろとふらつきながら、重たい荷物を肩に掛けて歩く。暗い色をしたコンクリートの壁に縋るようにしていないと、すぐにでも倒れてしまいそうだった。


 今日も一日乗り切った。がんばった。
 あと少しの辛抱だから、我慢して。
 頑張って、わたし。

 胸の内で自分を褒め称え、いたわり、応援する。毎日この繰り返しだ。
 帰りのHRを終え、駅まで歩いているこの時間に勝るほど安心する時間はない。

 ようやく解放される。少しは楽になれる。学校という息苦しい空間から逃げ出せるこの瞬間のために、わたしは学校に行っているようなものだ。とてもくだらなくて意味不明な理由だと思う。

 襲ってくる吐き気をなんとか(こら)えながら、細い息を吐き出して呼吸を整えた。


 今年から通い始めた高校には、中学生のときよりも二時間もはやく起きて、人の少ない早い時間の電車で通っている。入学式翌日に通勤通学の時間に出ている電車に乗ったとき、人の多さに酔ってしまい、降車するまでひたすら吐き気を堪えることになった。
 今まで経験したことのない密度で押し込められて、思い出すだけでも悪寒がする。

 たくさんの出会いで笑顔が花咲く四月、わたしはまだ一度も笑えていない。


 わたしは間違えてしまったのだと思う。
 修飾語を入れるとするならば、生き方を、間違えてしまった。


 今になって響いてくる完全な選択ミスに、ずっと苦しめられている。
 どうしてこんなところに進学しようと決めてしまったのか、三ヶ月ほど時間を戻して、受験期のわたしに問いかけたい。

 あなたはなぜその高校に行きたいの?
 将来何になりたくて、何をするためにそこに通おうと決めたの?

 そうしたら、きっと過去のわたしは言うだろう。『分からない』と。


 将来の夢などない。就きたい職業なんて決まっていない。それなのに、たいした理由もなく県内の中でも割と偏差値の高い進学校を受験してしまった。強いて言うなら、優柔不断で流されやすい性格と、小さな見栄のせい。志望校決定に自分の意思など何もない。
 わたしは昔からいつもこうだった。


 誰よりも心配性だから、誰よりも努力した。押し潰されそうな不安と、消えてしまいそうな希望を背負って、涙を流しながら勉強した日々を忘れたことは一度もない。模試の結果が振るわなくて、寝る間も惜しんで勉強した。模試の結果がA判定になっても、学校の先生からゴーサインが出ても、この世に絶対なんてないからと勉強一筋で頑張った。

 その甲斐あって、自分の番号が載っていたときは、これ以上ないほどの喜びと達成感、そして自分にもできるんだという自信を手に入れたはずだった。

 けれど、今は違う。泣きたくなるほど深い後悔に日々苛まれている。

 同じ中学の子が誰もいない高校。一から関係を作っていかなくてはならないプレッシャーに、わたしは簡単に押し潰されてしまった。小学校や中学校のときは同じ地域の子がほとんどで、まだ幾分ホームな雰囲気があった。教室を見渡せば知っている顔がたくさんある。そんな小さなコミュニティがわたしには合っていた。

 どうして適応できなくなったのか。わたしだけがスタートを切れないまま、ずっと取り残されている。
 クラスを見渡すと、知らない顔ばかりで恐怖と不安は募っていく。独りになるのがこわいのに、話しかけるのはもっとこわい。鬱陶しいと思われそうで、関わったら嫌われそうで。それならいっそ顔を覚えられることもないまま、相手の人生に踏み込むことのないまま、全てが終わってしまえばいい。
 こんなふうに悩んで、人よりも弱い自分が毎日嫌いになっていく。

 もうこれ以上頑張れない。この苦しみから逃げ出して楽になるには死ぬしかない。そんな暴論を唱えたところで、どうしようもなかった。

 だって、小心者のわたしに死ぬ勇気なんてないことは、わたし自身がいちばんよく分かっているから。


 生きるのは苦しいけれど、死ぬのはもっと苦しい。それが分かっているから、死に物狂いで頑張るしかない。ぼろぼろになって生きるしかない。どちらに進んでも苦しい。わたしに逃げ場なんて、どこにもない。

 ぐるぐるとまわる悪循環に囚われる。終わらない地獄を永遠と彷徨っているようだった。



『子供なんて楽でいいじゃない。勉強するだけでいいんだから。大人になったらもっと大変だよ?』



 弱音を吐くと、母は必ずこう言う。外で溜め込んだものを家で吐き出せば、またかといったようにため息を吐かれてしまうせいで、いつしか自分の本音を吐露することができなくなった。居場所だった家すら居心地が悪くて、時々唐突な吐き気に襲われる。


 大人のほうが大変。
 仕事も、生活も、人間関係も。きっと、恋愛だってそうだろう。

 そんなことは分かっている。
 "子供だから"という理由で許されていたことが、大人になったら許されなくなること。"子供だから"という理由で助けてもらっていたことが、大人になったらまったく見向きもされなくなること。
 子供が思っている以上に大人の社会は甘くなくて、誰もが学生時代に戻りたくなるような苦痛の日々が待っていること。


 だったら、それらを迎える前に死んでしまったほうがいいのではないか。そんな破滅的な考えがわたしをじわじわ蝕んでいく。
 この先巡り合う幸せと、一生を通しての不幸と。天秤にかけたとしたら、いったいどちらのほうが重いのだろう。


 大人には大人の苦しみがあるように、子供には子供なりの苦悩がある。
 耐える苦しみや背負う重さは、きっと比較するものではない。

 誰かにとっての普通は、わたしにとっての特別。
 逆に、わたしにとっての普通を特別と感じる誰かだっているだろう。


 その人なりの苦しさや悲しみに寄り添って、「辛かったね」ってただ一言。そう言って優しく背中を撫でてくれる人で世界が溢れたならば、きっと誰もが生きやすい世界になるはずなのに。
 人は皆、自分のことに一生懸命だ。自分の人生を輝きあるものにすることで精一杯で、他人のことなど見えていない。

 ただ一人、世界でたった一人だけ。
 自分以外で、同じように見つめることができる人が存在するのならば。そんな人に巡り会えたのならば。


 その奇跡を人はきっと【愛】と呼び、狂おしいほど歪んだ想いを、大切に紡いでいくのだろう。






「愛、なんて……くだら、ない」


 ぽつりと声が洩れた。
 所詮戯れ言。愛ってなんだ。

 知ったふうなことを思いながら、実は自分自身がなによりも否定している。一歩、一歩と地面を見下ろしながら足を進める。少し視線を上げた瞬間、ぐわん、と視界が揺れた。鈍器で何度も頭を殴られているような衝撃と、全身を取り囲む異常なほどの暑さ。

 カーンカーンと踏切の音が遠くでくぐもるように聞こえてくる。


「……いそが、ないと」


 鉛のように重たい身体を引きずるようにして、駅のホームに入る。

 果たして、空気はこんなに薄かっただろうか。肺に入り込んでくる酸素は、ここまでわたしの胸を圧迫させるものだっただろうか。
 額に汗が滲む。じわりと涙が浮かぶ目を動かして右を見ると、こちらへ向かってくる電車が小さく見えた。

 ホームには誰もいない。田舎の無人駅、そして学生たちは部活動に励む午後四時三十分。
 そんな世界に、わたしたった一人だけ。


「っ、はぁ……」


 肩で息をしながら、荷物を肩にかけ直した時だった。無意識のうちに唇が震えて、足がよろめく。ぐらりと身体が傾く感覚だけがわたしを支配する。

 足に力が入ることはなく、ただ流れに身を任すように、まるであらかじめ決まっていた運命に従うように、気付けばレール側に身体を倒していた。あまりにも一瞬の、信じられないほど短い出来事だった。



────ああ、死ぬんだ。わたし。



 斜めに映る景色は、夕暮れに染まるあたたかい色。そんな光の中で思ったのは、ただそれだけだった。

 不可抗力なら仕方がないんじゃない?
 生きることを諦めてもいいんじゃないの、瑠胡(るこ)

 あなたは、よく頑張ったよ。


 ひとりの人間を殺すことは莫大なエネルギーが必要だ。それは自分を殺めるという点でも同じこと。自殺するにも、体力とエネルギーが要る。けれどそれが不幸な事故だったとすれば。体調が優れずに、防ぎようのないものだったとすれば。


 そしたら、わたしの自殺も仕方のないこと(・・・・・・・)として捉えてもらえるのだろうか。


 あれほど怖かったはずの死は、いざ前にしてみるとあまりにもあっけないものだった。スローモーションのような視界も、あと数秒後には真っ暗になっているはずだ。
 はじめから、木月瑠胡という人間など、存在しなかったように。



 さようなら、残酷なほど綺麗で汚い世界。
 もしも来世があるとするならば────わたしは"普通"になりたい。






「……っぶねぇ…!!」

 すぐにでも切れそうな意識のなかで、叫ぶような声が聞こえたのと強く腕が引かれたのはほぼ同時だった。
 何が何だか分からないまま、視界が真っ暗になるなかで鼻腔をつく樹木のような香り。ズクン、と今まで経験したことのない心臓の音が響いた。ドキドキとか、トクトクとか、そんな安直な言葉では表現できない、なんとも言えない響きだった。

 ただひとつ分かるのは、わたしは自殺に失敗したということ。不慮の事故に見せかけた行為は、未遂に終わったのだ。
 その証拠に、わたしの心臓は今もなお鼓動を止めていない。むしろ時間が経てば経つほど、心音を速めるように早鐘を打ちはじめている。

「どうした」

 頭上から声が降ってくる。
 低くて掠れているのに、ひどく落ち着く声だった。ひとつひとつの音を、ばらつきなく綺麗に繋げたような声は、柔らかな音でわたしの耳に落ちてくる。
 そこでようやくわたしは誰かに抱きしめられているのだと気が付いた。それも、おそらく男の人に。

 数秒の沈黙の後、ゆっくりと身体が離れる。明るくなった視界に映ったその顔は、思わず息を呑むほど美しいものだった。
 特に、瞳が。夜空を溶かしたように青みがかった澄んだ目は、綺麗なんて単純な言葉で言い表せないほど、わたしの心を鷲掴みにして離してくれなかった。

 駅に到着した電車が、甲高い音を上げてとまる。アナウンスと同時にドアが開き、なかのようすがちらりと見えた。
 この時間に、この駅に降りる人はほとんどいない。少なくとも、わたしは今まで見たことがなかった。

 今日も人が降りる気配はない。つまり、今この時間はわたしたちが乗車するためだけにあるということだ。ここにいる何十人もの時間を、わたしのために使っている。そう理解すると同時に、再び猛烈な吐き気が襲ってくる。

 この電車は、わたしのせいでとまっている。この無駄な時間は、紛れもなくわたしが作り出している。
 そんな事実を認識すればするほど、申し訳なさと恥ずかしさで頭が真っ白になっていく。


 一向に乗ろうとしないわたしたちを、運転士が不思議そうな顔で見つめていた。


「乗りますか、乗りませんか」


 ヒッ、と喉の奥が締め付けられる感覚がした。空気の通り道を何か固いもので塞がれてしまったような、そんな奇妙な感覚だった。
 こんなところでモタモタしていたら迷惑極まりないことは分かっているのに、まったく足が動かない。力を入れているのに、逆に力が抜けていくようで、身体が言うことをきいてくれなかった。


 なんだよ、おっせーな。
 はやくしろよ、なにあの子。


 そんなことを言われているような気がして、呼吸が浅くなっていく。しだいに吸い込む量と吐き出す量の均衡が保てなくなり、涙が溢れ出した。焦って目に力を入れたけれど、全くの無意味だった。


 恥ずかしい。惨めだ。もう、消えたい。
 やはりわたしは、さっき死んでいればよかったのだ。


 一度負の感情が生まれてしまえば、そこから戻ってくるのはとても難しい。感情曲線が落下傾向にあれば、わたしの場合はそこから落ちるところまで落ち込む。時間が解決しないかぎり、マイナスの沼から這い上がることはできない。

 わたしの腕を掴んだままの彼は、黙り込んでいるわたしの顔を覗き込み、それから「乗りません」と運転士に告げた。再びドアが閉まり、何度聴いても慣れない、悲鳴のような音とともに電車が発車する。


 再び戻った静寂。
 嵐が過ぎ去ったあとのような気味が悪くなるほどの静けさのなかで、小さなため息が聞こえる。無論、そのため息の主は彼だ。


「とりあえずそこ座れ」


 ホームに設置されている小さなベンチに腰掛けるよう促される。動かなければならないことは分かっているのに、石のように固まってしまった足を自分ではどうしようもできなくて、その場で立ちすくむ。そんなわたしを一瞥した彼は、辟易(へきえき)したようにため息を洩らし、わたしの腕を引いてベンチに座らせた。

 涙が乾いた後の変な感覚が頬に残っている。もう涙は出ていないのに、まだ伝っているように感じてしまうのは、これまで何度も流してきたせいかもしれない。わたしはきっと、気づけば泣いている、という状況に慣れすぎてしまったのだと思う。
 うつむいていると、ガコン、と何かが落ちる音がした。

「ん」

 低い声とともに、目の前に透明なペットボトルが差し出される。そろりと視線を上げると、先ほどの彼が無言でこちらを見下ろしていた。そこでようやく、さっきのガコンという音は、彼が自販機で水を買った音だったのだと理解する。

 受け取ってもいいのだろうか。あいにく今日は小銭を持っていない。お金を返すことができないことに罪悪感を抱いて、受け取ることを躊躇してしまう。すると彼は困ったように眉を寄せて、ベンチの空いている部分に腰をおろした。

「これ飲んで落ち着け。さっき泣いた分の水分摂取」

 やや強引にペットボトルを押し付けられ、反射的な動作の一環で受け取ってしまう。ここまでされては、飲まないのもさすがに悪い気がして、キャップをとって液体を喉に流し込む。ほどよい冷たさが乾ききった喉を潤し、それと同時に少しばかりの余裕を心に生んでくれた。
 ふ、と息が洩れる。頭痛と吐き気はまだ少し残っているけれど、電車が到着したころよりはかなりマシになっていた。
 荒かった呼吸が少しずつ落ち着いていく。そろりと視線を移すと、片手を伸ばしたくらいの距離を空けてベンチに座った彼は、ぼんやりと線路を見つめていた。さらさらと、艶やかな黒髪が風に揺れている。

「……あの」

 とりあえず、お礼を言わなければ。水のお礼と、それから……命を助けてもらったお礼。

「ありがとう、ございました」

 若干詰まりつつも、ちゃんと言葉にできたことに安堵する。いつもは言葉が詰まって出てこないから、なんとか声になったことに驚いた。彼はこちらを見ることなく、「それで」と呟く。

「え」
「どうしたんだよ」

 淡々とした口調で問われる。彼はきっと、わたしが何をしようとしたのか分かっているのだろう。だから、偶然線路に落ちそうになってしまって、といった誤魔化しはきかない。
 確実に引き返せる場所から、わざと身を倒したのは紛れもない、わたしなのだから。

 初対面の彼に、あんなに情けない姿を見せてしまったのだ。罪悪感と羞恥が同時に押し寄せてきて、体温が上昇していく。

「『何でもない』は、なしだから。何かあるのは分かってる」

 過度に心配や追及をせず、それでも話を聞く姿勢を見せる彼。なんというか、今まで出会ったことのない類の雰囲気に包まれている人だ。包容力のある人、というのは、彼のような人のことを言うのかもしれない。

「言いたくないならそう言ってくれたらいい。ただ、次の電車までわりと時間があるから、話ぐらいは聞いてやれる」

 だから何もないとは言うな、と。
 その言葉と同時に、彼がこちらを向く。青く澄んだ瞳と近距離で目が合った。


ーー綺麗な目。

 ここまで綺麗な目を持った人は初めて見たかもしれない。目の大きさや形云々ではなく、彼は瞳そのものが綺麗だ。まるで夜が溶けているような、薄紫と紺青が混ざり合った色。そんな特徴的な色をしているのに浮くことなく似合ってしまう美貌には、凛々しさとわずかな甘さが同居していた。
 思わず言葉を洩らしたのは、そんな彼の瞳に触発されたからかもしれない。


「……わたしも、よく分からないんです」


 ぽろりと言葉がこぼれる。ペットボトルのキャップに視線を落として、緊張を紛らわすために指の腹でキャップをなぞった。


「何がつらいか分からなくて、自分が今しんどいのかも分からないんですけど。ただ……このまま事故で死んじゃうのも、ありなのかなって」


ーーそう、思ったんです。
 先ほどの行為は衝動的なもので、少しは冷静になった今なら、あの瞬間の自分は相当狂っていたと分かる。けれども、あの瞬間の自分にはそれを考えるほどの余裕も落ち着きもなかった。

 わたしの話を黙ってきいていた彼は、少し眉を下げて遠くを見つめた。沈黙が降り、そこでようやく自分が何を口走ってしまったのか悟る。堂々と鬱感情を語ってしまった羞恥心で消えたくなる。


「……なんて、言われても困りますよね。すみません」


 慌てて軽く言い流そうとしたけれど、すでに手遅れであるということはとうに分かりきっていた。初対面の彼に自分の情けない精神状態を晒すなんて、わたしはいったい何をやっているのだろう。
 ぐるぐると一人で考え込んでいると、少しだけトーンの下がった声が静かに響いた。


「死にたいじゃなくて、消えたいだろ? きっと」


 予想外の言葉に驚いて振り向くと、同じようにこちらを見た彼はふっと目を細めた。その表情があまりにも切なくて、なぜだか分からないのに胸を打たれた。美しく青い双眸がまっすぐにわたしの目を射抜いている。


「消えたいって思う瞬間くらい、誰にでもあるよ」


 死にたい。消えたい。
 そんな破滅的なことを思って毎日を生きているのはわたしだけなのだと思っていた。わたしがおかしい(・・・・)だけで、わたしが弱い(・・)だけで、わたしが適応できない(・・・・・・)だけで。
 死にたいなんて思ってしまうわたしはきっとどうかしていて、周りの人間とは別物なんだって。


「あなたも……思ったことが、あるんですか」


 気付いたら声に出していた。死にたいとか、消えたいとか。
 そんな負の感情とはどうやっても結びつかないように見える彼も、わたしと同じように思ったことがあるのだろうか。
 あまりにもかけ離れすぎていて、にわかに信じがたい。


「……消えたいは、あるかな」


 ふはっ、と脱力したように笑う彼は、ここではないどこかを見つめていた。その表情に、思わず息を呑んでしまう。


ーー不思議な人。

 身体の中心とすべての意識が彼に引っ張られているような感覚だった。明確な理由などないのに、もっと話してみたい、知りたいと思い始めている。

 ほわほわとした未だ名前を知らない感情がずっと心に居座っていて、なんだか変な気持ちだ。


「死にたいわけじゃねえけど、生きたくもなくなんの。あの感情って何なんだろうな」


 初めてだった。死にたくないけど生きたくもないなんて、そんなことを口にする人と出会ったのは。
 わたしが日々思っているようなことを、的確に言語化してくれる人に出会ったのは。

 毎日気持ち悪くて吐きそうで逃げ出したいと思っているのに、どうして気持ち悪いのかが分からない。何が嫌で、どこに逃げたいのか分からない。大事な部分が分からないから改善のしようがない。明確な理由がないものを他人に理解してもらうのは難しい。分からない、は理由として成立しないのだろうか。

 学校を休むのにも、部活をしないのにも、塾を辞めるのにも理由がいる。そしてそれが『やりたくない』『行きたくない』だった場合、怠けるなと言われてしまう。それでも首を横に振れば、ついには見放されてしまう。
 それがいちばん怖いから、毎日毎日必死に生きていくしかない。
 じわりと視界が涙で滲む。我慢しようとすればするほど、溢れて止まらなかった。

「……っ」
「おい、また泣くのか」
「ごめ……んなさ……っ」
「謝んな」

 仲間がいたとか、分かり合えたとか、そういうことではなかった。ただ、わたしが長年抱いていたこの感情は間違ったものではなかったのだと思えたことが、たまらなく嬉しかったのだ。

 死にたい、消えたい。言葉ではそう言ったり思ったりしていても、実際は違う。"生きていたくない"のだ。自分で死んではいけない。死にたいなんて言葉使ってはいけない。そんなの、誰だってわかっている。生きていたいと思えなくなるからその道を選ぶだけで、初めから死にたいなんて思って生まれてくるわけじゃない。

「泣かれると困る」

 静寂が落ちた次の瞬間、ふわりとウッディ系の香りが鼻腔をつく。クラスメイトが漂わせるような鼻を刺激する甘ったるいにおいとは違って、馴染みのある心地よい香りだった。それと同時に、あたたかさに包まれる。先ほどと同じ、二度目の感覚。まるで静かな森の中にいるようだった。

「頑張りすぎなんじゃねえの」

 肩を揺らして嗚咽を堪えようとすれば、わたしを抱きしめる手に力が込められる。力強くて、優しくて。初対面だというのに、彼に抱きしめられるこの感覚を、ずっと待っていたような気がした。

「頑張らないと、生きていけません。誰もわたしを見てくれなくなります」

 いずれは、落ちこぼれ、って。そんな下卑た言葉を投げつけられるようになってしまう。頑張らないと生きていけないのがこの世界だ。生きても苦しい、死んでも苦しい。
 この世界は生き地獄だと、以前SNSのコメント欄に書き込まれていた。それを見たとき、深く共感してしばらく目を離せなかった。

 ゆっくり落ちてきた言葉が耳朶を打つ。

「名前、教えて」
木月(きづき)です。木月、瑠胡(るこ)

 ここまで自然に名乗れたのは久しぶりだった。まず名前をきかれることがないし、きかれたとしても苗字しか言わないから。フルネームを並べるのはどこか違和感があるけれど、それ以上に何の抵抗もなく名乗れた自分に驚いた。

「頑張らなくていいっていうのは」

 ぽん、と何かが頭にのった。それが何なのか、暗い視界の中でも分かってしまう。

「必死に頑張ってるやつが、他人から言われる権利を持つ言葉なんだよ。瑠胡はちゃんと、言われる権利を持ってるよ。頑張るのをやめるんじゃなくて、頑張りすぎるのをやめるだけ。頑張りすぎて自分をぶっ壊してたら元も子もないだろ」

 優しい音で一つひとつ、木漏れ日のように落ちてくる。心の奥の凍りついた部分に差し込んで、ゆっくりと溶かしていく。ずっと秘めて固く閉ざしていた部分を、するするとすり抜けられているような感覚がする。

「肩の力抜いて、もっと楽に生きようぜ。そしたら少しは生きたいって思えるかもしれねえから」
「……もし思えなかったら?」
「俺が思わせてみせるよ」


 ゆっくりと顔をあげると、静かな微笑みがそこにはあった。綺麗な目が細くなって、口許が少しだけ緩んでいる。どんなことでも受け止めるよと、そう言われているような気がした。これはわたしに都合がいいだけの、勝手な解釈かもしれない。それでも、彼がこんなふうに笑ってくれるのなら、その優しさに甘えてしまいたくなった。
 彼の言葉を聞いているうちに、自然と涙が引っ込んでいく。

「瑠胡は一年?」

 はい、とうなずく。新入生特有の雰囲気のせいだろうか。彼にはとっくにバレていたみたいだ。駅で泣くほど余裕がなくなるのだから、そう考えられても仕方がないか、と思う。二年生や三年生になって自分に余裕が生まれている未来はみえないけれど、とりあえず今のような精神状態からは抜け出せていると信じたい。

「先輩、ですよね」

 わたしの問いに、「まあ一応は」と答える彼。身体中から滲み出ている余裕と落ち着きようから、同級生ではないのだろうという予想はしていた。案の定先輩だったらしい。

「先輩は……三年生さん、ですか」
「当たり。今年受験とか信じたくねえ」

 高校生にもなると学年の区別なんて分からない、と誰かが言っていたけれど、それでもやっぱり分かってしまう。なんとなくだったとしても、だいたい当たっているものだ。
 こんなこと口が裂けても言えないけれど、クラスメイトとは安心感がまるで違う。先輩は、わたしみたいなちっぽけな人間よりも、ずっとずっと大人に見えた。生まれた年がふたつしか違わないのに、この差は本当に大きい。

「お、来た」

 先輩の目線を追う。特有の音を立てながら、再び電車がやってきた。さらりと桜色の風が吹いて、先輩の髪が揺れる。

「今度は乗れそうか?」

 からかうような口調で訊かれ、はい、とうなずく。わたしの返事に「よし」と笑った先輩は、ベンチから立ち上がって鞄を持った。右から走ってきた電車が、数十分前を彷彿とさせるように目の前で止まる。キイ────という耳障りな音はさっきと何も変わっていないのに、今はあまり気にならなかった。




 となりに並んで電車に揺られる午後五時二十分。無事乗車することができたわたしに「ここ」と、となりの座席を示したのは先輩だった。

「先輩の帰る時間まで遅くなってしまって、すみません」
「いいよ別に」
「お手数おかけしま……」
「いいって言ってるだろ」

 強めの口調で制される。びくりと肩を震わせると、先輩はわたしの顔を覗き込むようにして、眉を寄せた。

「すぐ謝る癖はできるだけ直したほうがいい。俺は瑠胡に謝ってほしいなんて思ってない」

 小さく頭を下げて、そのまましばらくうつむいていると、「瑠胡」と名前を呼ばれる。

「瑠胡はさ、毎日電車に乗ってるときどこ見てる?」
「え……足元、ですかね」
「やっぱり。そうだろうなって思った」

 行きの電車は息が詰まるし、帰りの電車は気分が落ちているから自然と視線も足元へ落ちる。座席に余裕のある日は座って教科書を読んでいるから、それ以外に見るところなどない。

「電車が混んでない時は、こっちを見るのがおすすめ」
「え」

 先輩が指をさしたのは、わたしたちの背中側の窓。そっと振り返ると、鮮やかなピンク色とうっすらとした青色が視界に映った。遠くの方には薄紫色の雲が浮かんでいる。すべてが繊細で、綺麗で、まるで柔らかいタッチで描かれた絵画のようだった。

 世界にはこんなに色があるのだと、忘れかけていた事実に気がつく。
 電車が進むのに合わせて、少しずつ景色がずれていく。それでも空はそのまま変わらない。この景色をそのまま切り取れたらどんなにいいだろう。こんなに綺麗なのに、まったく同じ景色は一瞬だけしか見られないなんて、そんなのもったいない。

「通学するための乗り物じゃなくてさ、綺麗な景色が見られる乗り物っていう認識にすれば、少しは気分上がらない?」
「上がるかも、しれないです」
「じゃあ明日からはできるだけ窓の外を眺めることだな。足なんかを見るよりずっといい」

 窓の外を見たまま、先輩がそう言って笑う。(あで)やかで、綺麗な微笑みだった。

「……はい」

 そう頷くのが精一杯だった。熱くなる頬をごまかすように窓の外を眺めながら、眩い光を受ける。


『次は桜舞です。お降りの方は────』

 あっという間に降りる駅に着いてしまった。いつもなら長く感じる時間も、今日はとても短かった。

「俺はもう一駅向こうだから」
「わかりました」

 会釈をして席を立つ。ゆっくりと電車が止まって、プシューっとドアが開いた。ぞろぞろと人の波が電車の外へと流れ出ていく。

「じゃあまたな」
「本当に、ありがとうございました」

 電車を降りようとした瞬間、ふと足が止まった。このまま帰ってはだめだと、誰かがわたしを引き留めているような気がしたのだ。
 訊きたいことをきかないで、本当に後悔しないのか、と。


 きっとわたしは行動してもしなくても、どちらにせよ後悔する。自分の判断が必ずしも間違っているとは限らないのに、無理やり間違いだったと決めつけて、後悔に結びつけてしまう。

 だったら、自分のしたいようにすればいい。

 どうせどちらに進んでも後悔するならば、今この瞬間の気持ちに任せて進んでみたい。

 鞄の持ち手を握りしめて、くるりと振り返る。

「あのっ、先輩。お名前、教えてくれませんか」

 問いかけると、彼は白い歯を見せて笑った。太陽のような、という比喩はこの人のためにあるんじゃないかと錯覚してしまうほどに眩しい笑顔。

新木(あらき)琥尋(こひろ)。気をつけて帰れよ、瑠胡」
「……っ、ありがとうございます」

 電車から降りると、タイミングよくドアが閉まる。小さな窓から先輩を見れば、微笑んだ先輩は小さく手を振っていた。わたしも会釈をして発車を見送る。


ーーあらき、こひろ。
 心のなかでそっとつぶやいた。


 先輩を乗せた電車が小さくなって見えなくなっても、わたしはしばらくそこから目を離せないでいた。


───────────


 その夜、わたしは夢をみた。青い空が広がる海で、誰かがわたしを呼んでいる。薄茶色の髪をした誰か。それが果たして男性なのか女性なのか、そんな判別すら不可能だった。

『ねえ、君の名前は』

 脳内に直接語りかけるような声。たとえばこれが夢ならば、声を出すことなどできなかっただろう。

「るこ……! 木月、瑠胡です……!」

 けれど、意外にも声を返すことができて困惑する。叫んでも醒めない夢をみるのは初めてだった。夢特有のぼんやりとした感覚がなく、やけにはっきりとしていて景色もピントが合っているのに、人物の認識だけがうまくできない。

『そばにいてほしい。アイツの、そばに』
「あいつ……?」

 それだけを言うと、スウッと水平線に溶けるように消えてしまう。手を伸ばしても、到底掴めるはずもなかった。

「待って……あなたの名前は……!?」

 夢中で声を出すけれど、そんなものは届かない。寄せる波が、すべての音を消してしまう。漣の音がだんだん大きくなって、視界が青く染まっていった。



 鼓膜を刺激する目覚まし音に意識が引っ張られて、目が覚めた。いつもは目覚ましが鳴る前に起きるのだけど、今日は少し遅かったらしい。まだ視界が鮮明ではない目を擦り、静かに息を吐く。そして、新しい空気を吸い込んだ。
 なんだか変な夢をみたような気がする。どんな夢だったのかはあまり覚えていないけれど、誰かと会話していたことだけはぼんやりと覚えている。

「モヤモヤする……」

 思い出せそうで思い出せない。こういうときが、何気にいちばん不快なときかもしれない。思い出せない自分に苛立ってしまう。
 しばらく天井を見つめていたけれど、一向に思い出せないので諦めた。素早く身支度を済ませ、朝食をとってから玄関で挨拶をして家を出る。

 いつもよりゆったりとしたテンポで歩く。朝食がパンだったため、早く食べ終わって少しだけ時間に余裕ができたのだ。まだ履き慣れていない新しい靴で地面を踏むたび、違和感がお腹のあたりをくすぐる。

 ふと、風に揺れる桜の花びらが何枚か落ちてきた。

「きれい」

 受け止めようと手を伸ばしてみるけれど、なかなか掴めなかった。何度も手を開いては閉じ、開いては閉じとしているうちに、思っていたよりも時間が過ぎていたのに気付いて慌てて駅に向かう。結局、花びらは一枚も手に入らなかった。

 駅に着くと、電車はすでに到着していた。改札を抜けて、電車に乗り込む。車内は人がまばらにいる程度で、ほっと息を吐いた。いくら田舎とはいえど、通勤通学ラッシュは車内の密度が高くなる。やはりこの時間帯の電車で通うと、いちばん心を落ち着かせることができるのだ。まもなくして、聞き慣れたアナウンスの後、電車が動きだす。


 先輩もこの電車に乗っているのだろうか。


 普段はわたしが気づいていないだけで、もしかしたら毎日同じ車両に乗っていたのではないか。そんな淡い希望を胸に抱きながらあたりを見回してみたけれど、先輩の姿はどこにもなかった。今度こそ、我慢していたはずのため息が落ちる。それと同時に、視線も足元に落ちた。電車の上下の揺れだけが足に伝わってくる。
 どんよりと気持ちが沈みかけたそのとき。


『じゃあ明日からはできるだけ窓の外を眺めることだな。足なんかを見るよりずっといい』


 ふいに先輩の言葉がフラッシュバックして、思わず顔が上がる。そしてそのまま、流れるように視線が背後の窓の外へと吸い寄せられた。

「……わ、っ」

 雲ひとつない青空。それがどこか寂しいと感じてしまうほど、わたしを包む空には青だけが広がっていた。わたしは毎日この景色を見ないで、くすんだ色をした床だけを見ていたのだ。
 なんてもったいないことをしていたのだろう。


 気づけてよかった。心の底からそう思う。

 もし先輩と出会わなかったら、わたしの通学は霞んだ色で染められていたのかもしれない。毎日毎日電車に揺られながら、彩りあるものに目を向けず、高校生を終えていたのかもしれない。

「すごい……」

 世界が色づくきっかけは、ほんのささいな意識の変化。

 そのきっかけをくれたのは、他の誰でもない、先輩だった。



───
───


 まだ静かな校舎に出迎えられ、心の中で学生のスイッチを入れた。面倒なことだけれど、わたしはこうしてスイッチを切り替えないと環境にうまく対応できない。急な変化や予定外の出来事は苦手だ。そのときはなんとか笑えていても、あとからその反動がきてしまう。

 まだ誰もいない教室に鞄を置き、それからいつものように中庭へ出た。最近習慣になりつつある、花壇の世話をするためだ。

「今日も綺麗に咲いてるね」

 声をかけながら根元に水をやる。少し前まで枯れそうだったのに、やはり生き物の生命力は馬鹿にはできない。
 本来であれば花壇の水やりは環境委員会が行うべきだけど、前に土と花の状態を見た限り、まったくと言っていいほどに手入れされていなかった。四月のはじめなので、まだ委員会が動いていないのだろう。旧委員会が世話をしているかもしれないという考えが頭をよぎったけれど、荒れた花壇の状態を見るに、そういうわけでもないらしい。

 余計なことかもしれないと思いつつ、枯れていくのをただみることもできなくて、毎朝こうして観察にきているのだ。
 完全に枯れてしまう前に気づけてよかった。萎れている状態だったから、なんとか復活させてあげることができた。さすがに天然の雨だけで生き延びることは難しいだろう。

 せっかくこんなに広い花壇なのに、咲かないともったいない。
 きれいだよ、みんな。

 赤、青、オレンジ、黄色。春を彩る花々が上を向いて笑っているような気がする。それらを見ていると、自然と笑みが洩れた。

「わたしもいつか、咲けるといいなあ」


 わたしもいつか、こんなふうに堂々と笑えるようになりたい。

 そう言葉にしてから、慌てて周囲に人がいないか確認する。無意識は何よりの本心だとどこかで聞いたことがある。聞かれてはいけない内容ではないけれど、自身を花の蕾に例えるような比喩は、できるだけ人に聞かれたくない。なんというか、詩的な言い回しは文学作品だからこそ映える気がするのだ。
 あたりを見回して、わたしひとりだけだったことに安堵する。

「……そろそろ時間かな」

 用具入れにじょうろを戻して教室に戻るころには、もう多くのクラスメイトの喧騒で包まれていた。


 また今日も始まる。
 学校という名の、息苦しい時間が。

 逃げられないこの空間が大嫌いだ。逃げてしまいたいのに、見えない何かで縛られている。
 わたしはゆっくりと息を吐きだして、息苦しい世界へと飛び込んだ。

──────


 移動教室、ペア活動、班活動。こんなものなかったらいいのにと、わたしは今までに何度思ったのだろう。

「瑠胡! もう行くよ!」
「あっ……うん」

 教室に響き渡るほどの大声で名前を呼ばれた。振り向くと、数人の女子が荷物を持ってこちらを見ていた。入学式の日に初めて話して以来、一緒に移動教室をしている緋夏(ひな)と、緋夏を取り囲むいわゆる"取り巻き"という立ち位置の女子たちだった。緋夏は入学してから一ヶ月も経っていないのに、すでに圧倒的な存在感でわたしたちのクラスをものにしている。慌てて荷物を持ち、彼女たちのほうへと駆け寄った。

「おそーい」
「ご、ごめんなさい」

 謝ると、「謝らないでよ。うちらが言わせたみたいじゃん」と呆れたように言われる。その反応が心底嫌そうで、言葉に詰まった。
 だったらその「おそーい」は何の目的で発されるのだろう。謝罪以外に、彼女は何を求めているのだろう。
 分からない。正解答があるなら、今度こそ間違えないようにするから教えてほしい。
 いちいちこんなことを考えてしまう癖が嫌いだ。わたしはつくづく面倒くさい人間だろう。

「今日って英語の小テだよね。まじで何のためにあるのって感じなんだけど」
「それなー」

 そんな意味のない会話がとなりから聞こえてくる。嫌がったところで小テストは逃げてくれないけれど、そんなこと彼女たちにとってはどうでもいい。会話の内容が大事なのではなく、会話をすることそのものが本来の目的なのだ。
 移動教室の間、沈黙が訪れて気まずくなるのを回避するために、各々がいくつか話題を持っていなければならない。黙々と移動するような、居心地の悪い空気を作り出すことは禁忌とされている。
 そしてそれができない人は、グループからの居場所をなくす。だからわたしはいつも必死に────。

「瑠胡もそう思うでしょ?」

 ぐるぐると考えていると、急に言葉が飛んできて頭が真っ白になる。
 いったい何のことについてなのだろうか。話題が変わっていなければ、小テストに関することだろうか。頭をフル回転させて、めいっぱいの愛想笑いを貼りつける。

「小テスト、そうだね。わたしも嫌かも」

 今日もまた、思ってもいないことを口にした。
 正直、テスト自体は別に嫌ではない。しっかり勉強していれば満点を取れるような、英単語のテストなのだから。
 けれどそれを正直に話せば、明らかに嫌な顔をされてハブかれるのは目に見えていた。彼女たちだって、テストが好きか嫌いかで言えば"嫌い"に分類されるというだけで、休んだり早退するほど嫌というわけではないはずだ。
 めんどくさいね。そうだね。こんなのやっても無駄だよね。できなくてもいいよね、小テストだし。成績にはどうせ入らないって。
 ただ、定型文を垂れ流していくだけ。だからここは適当に誤魔化して合わせておく。

「毎日あると大変だよね、小テスト」

 無理やり笑みの形をつくりながらそう言った途端、緋夏の眉間にしわが寄った。急な表情の変化に、背筋が凍っていく。何かまずいことをしたんだ、わたし。

「小テストじゃなくて、五組の古園さんが嫌いだって話をしてたんだよ」
「ちゃんと話聞いてる?」
「瑠胡、話に乗り遅れてるよ」

 矢のように言葉が降ってくる。すかさず謝ると、また苛立たしげに「だから謝んないでって」と返された。そんな怖い顔をしていながら謝るなだなんて、そんなのどうしていいか分からなくなる。

「なんか調子乗ってると思っちゃうんだよね。自分で自分のこと可愛いとか思ってそうで嫌い」
「性格悪そうだもんね」
「ぶりっ子でむかつく。色目使ってるのバレバレだし」

 黒い感情は、止まることなくむしろ勢いが増していく。

「え、話したことあるの?」
「いや? 一度もなーい」
「うっわ、性格わっる!」
「悪くてけっこー」

 ためらいの欠片もなく、どんどん出てくる悪口。耳を通すたびに意識が(けが)れ、顔が歪むのを自覚する。お腹のなかが変な感覚に包まれていて、今すぐにでもこの場を離れてしまいたかった。
 五組の古園さんをわたしは知らない。話したこともなければ、当然見たことすらなかった。今ここで悪口を言っている人の何人が、直接彼女と関わり、自分の意思で「嫌いだ」と判断したのだろうか。
 振り向いた緋夏に「瑠胡もそう思うよね?」と共感を求められて、言葉に詰まったのち静かにうなずく。


ーーああ。これでわたしも立派な加害者だ。


 この空間にいたくなくて、それでも逃げ出すことなんてできなくて、罪悪感がぐるぐると渦巻いていくのを感じながら教科書を持つ手に力を込めた。教科書のかたさと冷たさが、弱いわたしを責めているようだった。

 うつむいていると、話題はいつのまにか恋バナへと変わっていた。けれど、キラキラきゃはきゃはとしたものではなく、緋夏の彼氏の愚痴を一方的に聞かされるといった形だ。半分惚気のようにも聞こえるそれを、取り巻きたちは必死に聞いていた。

 この中に、本当にかわいそう、大変だと思って聞いている人は何人いるのだろう。まったく、仮面を被るのが誰も彼も上手だ。「追いラインがしつこいんだけどー」なんて言っている彼女は、結局のところ全然迷惑していない。むしろ"愛されている自分"を自慢したい。そんなふうに見えた。

 はあ、とため息が落ちる。
 一緒にいたくない。だけど、独りにはなりたくない。
 天秤にかけたときに、どうしても後者の方が重くなってしまう。

 だからわたしは、いつまでたっても変われない。


 窓の外には沈む気持ちとは裏腹に、真っ青な空が広がっている。そんな青にひとつだけぽっかりと浮かんでいる雲がなんだか今のわたしのようで、それでもあんなに伸びやかに漂うことなんてできなくて、やるせない気持ちを押し込めて再び笑顔の仮面を被った。





──── 今日も会えるだろうか。
 昨日の今日にそんな期待はしてはいけないと分かっているのに、心のどこかで思うのを止められない。駅に向かう足が無意識のうちに速くなってしまう。帰りのHRが終わるなり、できるだけ無駄な動きを省いて駅に直行する。


 期待したらいけない。
 今日も会えたらいいなんて、決して思ったらいけない。

 そうやって意味もなく期待して、いつだって落胆してきた。だから今回だって期待してはいけないのだ。何度も自分に言い聞かせて足を進める。

 駅に向かうまでの道に咲いている桜が、おだやかな春風とともに出迎えてくれた。桜並木を見上げながら春を吸い込んで歩く。悪口や陰口で濁った心ですら、美しい桜に浄化されていくような気がした。
 前に視線を戻すと、それと同時に足が止まって、途端に目が逸らせなくなる。桜よりももっとわたしの視線を惹きつけるもの……ひと(・・)が、いたのだ。

「せん……っ」

 ふと出そうになった声は喉元で消えた。風にのって、薄紅色の桜がはらはらと舞う。まるで彼の登場を華やかにするための演出かと思うほど、美しかった。この瞬間だけ時が止まっているかのような、世界に彼とわたししか存在していないような、そんな錯覚に陥ってしまう。


……なんて綺麗なひと。


 ここまで桜が似合う人をわたしは知らない。さらさら、さらさら。手を伸ばして花びらに触れようとする彼は、儚く柔らかい表情をしていた。こぼれる桜が先輩の頭にひらりと着地して、淡いピンク色を添える。息をするのも忘れて、わたしはただひたすら、絵画のような瞬間を目に焼き付けていた。

 この美しさがいつまでも色褪せることなく、わたしの記憶に刻まれるように。

 そのとき、透き通った瞳がスッと流れて、立ち止まっているわたしを捉えた。思わず視線を逸らしてしまう。桜を映した目でわたしを見ないでほしい。あんなに綺麗なものの次だと、余計に廃れて見えてしまうだろうから。

「瑠胡! そんなとこで何してんだよ」

 けれど大きな声で呼びかけられて、そろりと視線を戻すと、小さく首を傾げてこちらを見る先輩と再び目が合った。トクン、とわけの分からない音がかすかに鳴ったような気がして、胸元を手で押さえる。

 名前、覚えててくれたんだ。
 たったそれだけのことがたまらなく嬉しかった。自然と口許が緩むのを自覚する。

「先輩……!」

 手招きする先輩に駆け寄る。ふわりと桜の香りが鼻腔をくすぐった。
 ふと、先輩の頭に花びらがついていることに気がつく。わたしの視線が動いたことに気づいた先輩は、「ん?」と小さく首を傾げた。

「花びら、ついてます」
「うそ、どこ?」
「左のほう。もう少し……あ、それはいきすぎです」

 なかなかとれずに何度も髪を触る先輩。そのようすが、クールな顔と合わないほど可愛くて、つい笑みが洩れてしまう。

「先輩、少しかがんでください」

 不思議そうな顔をしつつ、膝を折った先輩に一歩近寄って、少しだけ背伸びをする。

「失礼しますね」
「おう……さんきゅ」
「いえ」

 かなりの急接近だったことに気づいたのは、花びらをとって先輩から離れたあとのことだった。
 取った花びらから手を離すと、風にのってひらりと飛んでいく。白い花びらが、儚く舞っていった。

「普通は俺が取る側だよな……」
「え?」
「いや、なんでもない」

 誤魔化すように笑った先輩は、わたしの顔を覗き込んだ。わたしの表情を確認して、それからにっと笑顔になる。

「今日は泣いてないじゃん。頑張ったな」
「……いつも泣いてるわけじゃ、ないです」

 まるでわたしが毎日泣いているとでも言うような物言いに、ふいと視線を逸らすと「拗ねるなって」と額を軽く弾かれる。そんなものにすら心臓が狂いそうになってしまう今日のわたしは、どこかおかしい。

「昨日は泣いてたじゃん」
「昨日は、偶然です」

 出会いが涙から始まっているので、毎日泣いていると思われていてもおかしくないけれど、それは間違いなのできちんと訂正しておきたかった。
 先輩は「ほーん」と適当な返事をする。必要以上に踏み込んだり言及しないその返しが、とても心地よかった。

「今日は早い時間で帰れるっぽいな」
「ですね」

 駅のベンチに並んで座る。電車がくるまでまだ少し時間がある。たたずむわたしたちの頰をぬるい風が撫でた。

「今日はどうだった?」

 おもむろに先輩が口を開く。反射的な言葉が口から飛び出た。

「楽しかったです」

 すると、先輩の眉間にしわが寄る。嘘をつくな、というような鋭い視線が向けられて、ドキリと心臓が冷たい音を立てた。少し前屈みの姿勢で、先輩が顔を覗き込むようにしてくる。

「本当は?」
「……あまり」

 もう正直に言うことにした。どう足掻いたところで、この人にはすべて見破られてしまう、そんな気がした。いくら隠そうとしても、結局無意味なことなのだろう。

「何がつまんなかったんだ? 授業? 休み時間? それともよく分かんねえ何か?」
「よく分かんねえ何かです」
「あ、汚い言葉遣いが移った。瑠胡がフリョーになっちまう」

 おどけた口調の先輩に、自然と笑みがこぼれる。いつもは意識して口角を上げるのに、今は完全に無意識だった。目を線にして笑う先輩の顔があまりにあどけない。先ほどみた彫刻のような顔は笑っても崩れることがなくて、ふとその造形美が羨ましくなった。

「いつか、夜露死苦!とか言ってきたらどうしよ」
「そこまでいったら、もはや自分で学びにいってますから」

 ツッコミを入れると、お腹を抱えて笑う先輩。あまりに楽しそうに笑うものだから、つられて笑ってしまう。流れるように、片眉を上げた先輩が口を開く。

「不良少女の瑠胡サン、何かお困りで?」
「……人間関係ってほんとうまくいかないもんだな」
「おっ、意外と才能あるよ瑠胡」

 目を丸くする先輩にくすりと笑う。案外さらっとフリョー口調を真似できたことに自分でも驚いた。普段こんな話し方はしないので、どこか違和感があるけれど。

「で、人間関係なあ。確かに俺も苦手だわ」
「……あ」

 無意識のうちに悩みを口にしていて、慌てて口を覆ったけれど、もう遅い。先輩はにやりと悪戯っぽく笑っていた。

「誰かに何かされたのか。嫌なこと言われたのか」
「……逆、です。わたしが傷つけたんです」

 力なく首を振って言葉を落とす。一瞬息を呑んだ先輩は、それから小さく息を吐いて「なるほどな」と呟いた。

「どうせあれだろ? 友達の悪口に同調しちまったとか、そういうことだろ?」
「え、なんで」
「瑠胡は絶対に自分から人を傷つけたりしない。じゃないとそんなつらそうな顔してねえだろ」

 額を指で弾かれる。先輩にはなんでもお見通しだ。わたしが悪口に同調して人を傷つけてしまったこと、それで後悔してまた自分のことが嫌いになっていること。今まで気づいてくれる人がいなかったので、心にあたたかい感情が生まれた。けれど。

「でも、大丈夫です」

 話を聞いてほしいのに、口から出るのはこれまで幾度となく口にしてきた定型文だった。意識よりも先に口からこぼれてしまうその言葉は、今までのわたしを助け、そして何よりも苦しめたものだった。
 それは今も変わらずに、わたしの日常に張り付いてはわたしを苦しめてくる。

 首を横に振った先輩は、わたしの頭に手をのせた。ポン、ポンという二度の後、わたしの目を覗き込む。

「瑠胡はいま大丈夫じゃない。だから嘘つくな、ありのままでいい」

 言い聞かせるようなその口調に、固く閉ざされていた心が開かれていく。自分の気持ちが、素直な思いが繋がって、言葉として口から出ていきそうになる。


「自分の気持ちに正直になれよ、瑠胡」


 ありのままでいい。自分の気持ちに正直でいい。
 そんな言葉をかけられるのは初めてだった。

 自分の中だけに閉じ込めておくつもりだったのに、気づけば口を開いていた。


「人の悪口を聞いていると、自分が言われてるみたいになるんです。苦しくて、つらくて。人のこと悪く言ったところでメリットなんてないはずなのに。でも、その中で一人反論するのは怖いし、同調してる自分のこと、どんどん嫌いになっていくんです」

 彼女たちと離れてしまいたい。だけど、そんなことできるはずがない。すべて今更なのだ。

 入学式の日、ぽつんと一人で席にいたわたしに声をかけてきてくれたのが緋夏だった。派手な子だな、というのが第一印象だったように思う。ハーフツインと呼ばれる髪型で、目元にはキラキラとラメが光っていて。田舎の高校生にしては少々浮くのではないかと思うような、そんな身なりをしていた。

 名前を教えあって、アドレスを交換して、よく話すようになった。休み時間、移動教室、その他諸々において、緋夏はわたしを誘うようになった。それ自体は問題なかった。緋夏がわたしを求めてくれるのなら、わたしも一緒にいたいと思っていたから。

 けれど、わたしは緋夏の特別でも、唯一でもなかった。性格も飛び抜けて明るく、いつも笑顔を絶やさない緋夏の周りには自然と人が集まっていた。そうして形成されたグループは、誰もが緋夏寄りの系統の子たちばかりで、わたしみたいにいつも下を向いているような人間ではなかった。

 わたしだけが、浮いている。明らかにわたしだけが違う。異物のような存在。
 いつしかそんな状態になって、ここにいるべきではないと気づいたときには、すでに何もかも遅かった。

「だけど独りになりたくないんです。もう、どうすればいいのか分からなくて……」


 自分勝手な気持ちの末路だった。
 甘えたことを言うなと、自業自得だと罵られてしまうかもしれない。だけど、こんな思いを抱えていたら、きっと心が死んでしまう。


「……ひとりは、こわい?」


 控えめな先輩の問いに、うなずく。生きるときも死ぬときも結局はひとりなのに、それでもひとりはこわい。馬鹿馬鹿しくて情けなくても、ひとりでいいなんて絶対に言えない。わたしはそこまで強い人間ではない。

「情けないですよね。でも、やっぱりひとりになるのはこわいんです」
「別に情けなくないよ。世の中のやつらの大概はそう思って生きてるよ」

 「じゃないと孤独なんて言葉存在しないはずだろ」と先輩は天を仰いだ。そのときちょうど踏切の音が鳴り出す。

「だから、一人になれとは言わない。だけど、苦しいところにわざわざいる必要もないだろ。今は気がついていないだけで、案外居場所って近くにあるものだからさ」
「居場所……?」
「もし瑠胡が毎日居場所がないって考えてるなら、俺と会ってるこの時間だけは、俺が瑠胡の居場所になるし。必ず一個に絞って、ずっとそこで過ごさなきゃいけねえ決まりなんてないだろ?」

 白い歯を見せて笑う先輩。
 それでも、重かった身体が楽になっていくのを感じる。すうっと何かが抜けていくように、ネガティブな気持ちも言葉も、すべてが解消されていった。


 やっぱり、すごいひと。


 どうしてこんなに心が楽になるのだろう。彼は何か不思議な力を持っているのかもしれない。

「話すだけで楽になれることだってある。ただそれだけなんだよ、瑠胡」

 わたしの心を見透かしたように告げ、立ち上がった先輩。すらりと伸びた背が、夕陽を受けて影をつくる。くるりと振り返り、切長の目を細めた先輩は。

「すっきりしたら笑え。瑠胡は笑顔がいちばん似合ってる」

 と、どこか照れくさそうに、笑った。

──────


 ああ、また(・・)夢だ、と。
 そう唐突に理解したのは、目の前が青で染まっていたから。キラキラと水面に反射する光が、まっすぐにわたしに届いていた。

 さわ、と木の葉が揺れる。ふと何かの気配を感じて振り返ると、柔らかい表情でたたずむ少年がいた。

「あなたは」
『瑠胡ちゃん、はじめまして……ではないか。昨日ぶりだね』
「どうしてわたしの名前を……?」

 目を丸くすると、『昨日言ってくれたじゃない』と微笑む男の子。男性というより、本当に【男の子】という形容が合う少年だった。

 この夢は、前回の夢と繋がっているのだと理解する。やけにリアルで、到底夢だとは思えないけれど、それでもわたしを囲む空気がなんとなく、いつもの世界とは違って、どこか異質なものだった。

「あなたは、だれ?」

 おずおずと問うと、何度か目を瞬かせた彼は、口の端をあげてにこりと笑う。

『ハクトだよ』

 口の中で溶かすようにその名前を呟いてみるけれど、まったく聞き覚えのない名前だった。そもそも、ハクトと名乗るこの子が現実の世界に存在しているのかも分からない。わたしが勝手に脳内でつくりだした虚像である可能性だってある。

「ハクトくんは、いったい何者なの?」
『それはそのときが来たらわかるよ』

 そんな曖昧な返答をされてしまう。いちばん気になっていることを濁されてしまえば、わたしはもう何も彼に聞くことができない。口を閉ざすと、彼はわたしを見たまま少し微笑んで告げた。

『僕は瑠胡ちゃんが幸せになる手助けをしたい』
「どうして?」
『瑠胡ちゃんが幸せになれば、きっとアイツも幸せになれるから。そしたら僕も、幸せになれる』
「……アイツ、って」

 その問いにハクトくんは答えることなく、静かに首を横に振って目を伏せた。誤魔化すようなその仕草は、少年がするにはひどく大人びて見えた。

『ここでは我慢する必要なんてない。ぜんぶ海が受け止めてくれるから』

 叫んでもいい。嘆いてもいい。
 ここは何をしてもいい世界。

 つまりは、そういうことらしい。

『ぜんぶ吐いちゃいなよ。誰も(とが)めたりしないから。素直な気持ちを、ここでは出してもいいんだよ』
「素直な、気持ち」
『頑張りすぎてるからつらいでしょ。発散どころがないと、壊れちゃう』

 それを聞いて、途端に唇が震えだす。ちらりとハクトくんをみると、彼はいいよ、というようにしっかりと頷いてみせた。


 毎日毎日、叫んで逃げ出したくなる日々を過ごしている。けれど学校はおろか、家でさえわたしは自分の気持ちを押し込めて、一言も洩らしてしまわないように堪えている。
 どこかで誰かに聞かれるかもしれない。叫んだら、家族に何か思われるかもしれない。そんな恐怖で、いつもわたしは自分の気持ちが言えない。
 だけど、今は。叫んでも醒めない夢を見ているのだとしたら。

 大きく息を吸って、感情のままに声をだす。

「わたし、独りになりたくない! だけど無理してみんなに合わせるのは疲れた! もうぜんぶやめてしまいたい……!」

 濁流のように押し寄せる思いが溢れていく。今まで封じ込めてきた思い。それを今日は先輩とハクトくんのおかげで、こうして吐き出すことができている。

『もっと言っていいんだよ。瑠胡ちゃんが我慢する必要なんてひとつもない』
「悪口とか陰口とか、そんなのききたくない!! わたしに共感を求めてこないで! もう嫌なの! うんざりする!」

 声が響いたのち、静けさがおとずれる。漣の音が大きくなっていき、なんとなく夢の終わりが近づいていることを悟った。
 少しずつ、胸にたまっていたもやもやした感情が消えていく。自分の気持ちを言葉にしただけなのに、どこか爽快で開放的な気分になった。

『瑠胡ちゃんが困ったとき、つらくなったとき、いつでもここで待ってるから。無理して生きなくてもいいんだ。どんなにみっともない姿でも、周りの人みたいに上手く生きられなかったとしても、死なないでいてくれれば……ただそれだけで』

 眩い光がわたしを包み込む。優しく背中を撫でられているような、そんな感覚だった。

 あたたかい。優しい。

 ほわほわとした感情がわたしの心の中に入ってくる。静かに目を閉じると、意識が急激に吸い寄せられた。
 そしてこの青い夢から、醒める。


─────

「夢……」

 目を開けると、天井が見えた。やはり夢だったのだと理解する。けれど、夢の中で感じた爽快さは夢から醒めても残っており、素直に驚いた。
 毎朝身体と頭がだる重くて、朝一番に「学校行きたくない」という負の感情を抱くのに、今日はなぜかすっきりとしている。
 普段、感情の起伏が激しいわたしにとって、ここまで爽快な朝は久しぶりだった。

 爽快で、心地よくて、そして奇妙な夢だった。

*


 月に一度、我が校では委員会が開かれるらしく、今日の放課後はわたしの所属する環境委員会の集まりがある。

 指定された空き教室に向かって歩いていると、ふと、空にハート型の雲を見つけた。青色の澄んだ空にぷかぷか浮いているそれは、わたしの緊張した気持ちなどつゆ知らず、風にゆったりと流されてゆく。


 入学してすぐのHR活動で、アンケートにより委員会が決まった。学級委員は男女ともに立候補する人がいて、あっさり決定したけれど、その他の委員会は人気が偏るものも多く、かなり時間をかけての決定となった。

 特に体育委員会や文化委員会など、学園祭関連の委員会が人気だった。それらの委員会は業務内容が多く派手なので、とても目立つ。逆に、図書委員会や保健委員会、そして環境委員会といった、活動内容が地味なものは競争率が低く、そこまで揉めることなく決定することができた。


 もともと自主的に花壇の世話をしていたということもあり、早い時間に登校して水やりをすることにそこまで抵抗がなかったわたしは、環境委員会に入ることにした。
 やはり早めの登校と花壇整備は他の人にとっては苦らしく、女子はわたし一人だけの立候補だったのがありがたい。男子はなかなか決まらず、最終的にはジャンケンで決めていた。


 今回が初の委員会となり、三学年を通しての活動でもあるため少し緊張する。【環境委員会】と書かれたファイルを胸の前で抱きしめながら、わたしは空き教室に足を踏み入れた。


 すでに三年生のほとんどは集まっていて、窓側の席が埋まっていた。どうやら窓側から三年生、真ん中が二年生、廊下側が一年生となっているようだ。わたしは何度か髪に指を通しながら、指定された席につく。じゃんけんに負けて環境委員になった真陰(まかげ)くんは、まだ来ていなかった。

 真陰くんはとても明るく目立つ性格をしていて、わたしとは真逆の世界を生きている人だ。サッカー部に所属していて、定期試合にはたくさんの友達が応援に行っている印象がある。緋夏たちとの恋バナでも、過去に何度か名前が登場した。『真陰が』『真陰くんが』という呼び名を聞くたびに、苗字に【陰】が入っているのは違和感だなとこっそり思っていた。

 もちろんわたしは彼と話したことがなかったし、彼もわたしと話そうとする素振りを見せなかったので、ここにはわたしひとりで来た。
 けれど、委員会開始時刻まではあと五分。秒針が動くたびに、真陰くんは間に合うだろうかと不安がよぎる。

「あれ、そこ。男子の委員は?」

 委員長が教卓から声を張り上げ、周囲の視線がわたしに集まる。たらりと背中を冷や汗が伝い、急激に背筋が冷えていく。

「あ……えっと」

 カチ、カチと秒針の音がやけに大きく聞こえる。喉が焼けるように熱を帯びている。
 どうしよう。何か返事をしなければ変に思われる。
 こんなことなら、声をかけて一緒に来たほうがよかったかもしれない。
 
 沈黙を破るのはわたししかいないのに、絞り出した声はか細く、わたしの鼓膜だけを震わせた。
 あ、え、と曖昧なぼやきとも言えるそれを紡ぐことしかできない。
 そのとき、ふいに椅子が音を立てた。

「瑠胡」

 俯いていた視線を上げ、そっと声の主をたどると、そこには先輩の顔があった。先輩の青い瞳はまっすぐにわたしを見ていて、締まっていた喉が徐々にゆるくなっていく。

 お、ち、つ、け。
 わたしだけに見えるように口パクで伝えたあと、先輩は委員長のほうを見て「俺、さっき廊下でみたよ」と告げる。委員長の目が見開かれた。

「真陰、環境委員になったって言ってたんで。ここにいないってことは、空いてる席はどうせ真陰だろ」
「そうなんですか?」

 委員長に問われてこくりとうなずく。先輩は呆れたように眉を寄せながら腕を組んだ。

「ここに来る途中でフラフラしてるところを見た。たぶん、もうすぐ飛び込んでくるぐらいだと……」
「遅れました!!」

 タイムリーに飛び込んできた男子生徒を見て、笑いが起こった。おそらくこの場にいる全員が彼を【真陰】だと認識したのだろう。

 一気に注目を浴びた真陰くんは、「え、なんすか?」 と目を丸くしている。そして一人立っている先輩の姿を見ると、「新木先輩!」とさらに目を丸くした。

「新木先輩、どうしてここに」
「お前なぁ、高校生にもなって時間ギリギリはやめろよ。お前が遅刻しないことは分かってるけど、こっちがハラハラするだろうが」

 先輩にたしなめられた真陰くんは「サーセン」と頭を掻いてわたしのとなりに座った。カチリと時計の針が動き、時間ピッタリに全員集合だ。

 みんな、わたしが言葉に詰まっていたあの瞬間など、もう忘れているみたいだった。地獄のような沈黙は先輩のおかげであっという間に笑いに変わり、おだやかに流れ去っていく。
 ちらと先輩のほうを見ると、先輩はすでに前を向いていた。凛としたその姿勢に薄い光があたり、それがひどく綺麗だった。

 
*

 委員会が終わっても、なお教室に残っている先輩をしばらく見つめていた。声をかけるか、かけないかの二択を何度も頭のなかで繰り返す。
 ようやく答えが出た時には、教室にはわたしと先輩しかいなくなっていた。

「あの、先輩」
「お、来た」

 くるりと振り返った先輩は、笑っていた。どうして笑っているのか分からず困惑していると、先輩の腕が伸びてきてわたしの額を軽くはじいた。

「声かけるかどうか迷ってんのバレバレ。悩みすぎ」
「っ、それは……」
「ま、結果的に声かけてきたから上出来だな。褒めてつかわす」
「なんですか、その言い方……」

 じとりと視線を向けると、まったく気にせず笑ったまま、先輩はとなりの席の椅子を引き、わたしに座るよう促した。

「言いたいことがあったんじゃねえの?」
「……あ」
「待っててやるからゆっくりでいーよ」

 いーよ、というのびやかな口調に安心する。先輩は花壇役割の表に名前を書きながら、わたしに耳を傾けてくれている。

「……助けてくれて、ありがとうございました」

 先輩は、ふっと微笑んだ。心地よい春風が先輩の髪を揺らす。


「まかせろ」

 先輩の口角がくっと上がる。
 あの時、先輩が声を発してくれなかったら、今頃わたしはどうなっていたのだろうか。声を出すこともできずに、ずっと息苦しいままだったかもしれない。

 わたしは弱い。周囲の人よりもずっと心が弱くて、すぐに破滅的な気持ちになってしまう。

「瑠胡」

 ふいに名前を呼ばれて視線を上げると、先輩の柔らかな双眸がわたしを見つめていた。ほんの少し青みがかっていて、凛とした強さを持っているけれど、同時に優しさも溶けている瞳。
 この目に見つめられるたび、わたしはわけもなく安心してしまうのだ。

「焦る必要も、自分を否定する必要もない。瑠胡がピンチの時は、俺がなんとかするから。無理に変わろうとしなくていい」

 心臓が控えめに脈打った。自然と手に力が入って、合わせていた視線が左右に揺れた。

 先輩の目をまっすぐに見つめることができない。


 先輩はまた書類に視線を落として、役割分担表に名前を書き込んでいく。小さな筆記音の隙間に洩れるわずかな呼吸音が、この瞬間のすべてだった。


 あまりの静けさに鼓動の音が聞こえてしまう気がして、思いついた話題を口にしてみる。
 
「あの……真陰くんとはお友達だったんですか」

 すると先輩は表を書きながら「小学校のときの」と呟く。

「同じ学校だったんですか?」
「いや、地域のサッカーチームが一緒だったってだけ。アホそうに見えて、案外頭いいんだな、あいつ」


 きっと先輩は、偏差値のことを考えて言っているのだと思う。この学校に来てから、「人は見かけによらない」と思う機会が増えた。

 人は誰しも、意外な部分があると思う。

 たとえば、真陰くんみたいに普段はおちゃらけているのに学力面では文句のつけようもないほど好成績の人もいれば、普段は物静かなのに部活になると大声を張り上げてチームを引っ張っていく人もいる。
 女子の中で密かに噂されている同級生の男の子は、練習のときはだらだらしているけれど試合になると真面目になり、そこがギャップでかっこいいと、以前緋夏たちが話していた。

「先輩、サッカーしてたんですか」
「ガキの時に少しだけな」

 静かに目を伏せる先輩。
 その表情からは、先輩の心情がよく読み取れなかった。


「あの、どうしてーーーー」

 ーーーー辞めちゃったんですか。
 それを紡ぐ前にいきなり戸が開き、高い声が響いた。


「琥尋!」

 振り返ると、赤いラインの入った靴を履いている女子生徒がこちらを見ていた。ラインの色が赤ということは、先輩と同じ三年生だ。

「今日一緒にどっか行こうと思って待ってたんだけど、琥尋が全然来ないから戻ってきちゃった!」
「は? 何か約束してたっけ」
「してないけど、たまにはリラと遊びに行こうよ」

 自分を『リラ』と名乗った女の子の大きな目が先輩を見ている。

ーーーー先輩しか、見ていない。


 放課後に、約束もしていないのに一緒に出かける関係とはなんだろう。先ほどまで心地よい鼓動を続けていた心臓が、嫌な音を立てた。

「あの……わたし帰ります」

 先輩の顔を見られない。椅子から立ち上がって、うつむきながら『リラ』さんの横を通り過ぎる。通り過ぎる瞬間、ふわんと香った花の香りに、わたしにはない女性らしさを感じた。




「あの子ってさ、さっきの委員会で詰まってた子だよね」




 教室を出る直前、ひそめられた声量で『リラ』さんの声が聞こえた。さっきの、ということは、リラさんも環境委員会に参加していたのだ。先輩のことばかり見ていて、まったく気がつかなかった。

 自分の話題だ、と認識した途端にまた喉が詰まって息がしづらくなる。深い海に放り投げられてしまったように、溺れながら沈んでいく。


「さぁ……忘れた」

 そんな先輩の声を拾って、教室をあとにした。



 お腹の底に、もやもやとした感情が広がっていく。誰に何をされたわけでもない、ただ身勝手な感情なのに、それすら制御できない自分が情けなかった。

 

 夢で、ハクトくんに聞いてもらおう。

 最近すぐに出てくるようになった解決策。現実で溜まりに溜まった思いを、夢の中で発散させる。ここ最近で、いつのまにかそれが習慣化されてきていた。


 だからわたしは、今もまだ夢の中でハクトくんに話を聞いてもらうことでしか、前を向けない。現実世界では先輩に助けられ、夢の世界ではハクトくんに救われて、今日という日を必死に生きている。

 どん底だったわたしの人生は、二人に出会ったことによって少しずつでも向上し始めていた。



ーーーー少なくとも、あの日までは。

「ずっと思ってたんだけどさ」

 それは、四月も下旬に入ったころの、緋夏の一言がはじまりだった。
 放課後、いつものように駅に向かおうとしていたわたしに、緋夏たちが向かい合うよう並ぶ。
 それだけでなんとなく嫌な予感はしていた。
 黙ったまま、スッ、とくるみ色をした瞳が細くなるのを見つめていると、躊躇(ためら)いを微塵も見せない表情で、緋夏が静かに告げた。

「瑠胡って無理して笑ってるよね」

 その瞬間、糸が張ったように教室が静かになった。その言葉だけで教室の騒音が消え、教室中の視線がわたしたちに集まる。
 温度のない声、抑揚のないひどく落ち着いた口調。
 まるでロボットか何かのようだった。
 ドッドッと速くなる心音、あがっていく呼吸。身体の表面が冷たいもので覆われ、ぞくりと悪寒がする。それなのに、身体の中心はなぜだか燃えるように熱い。

「え……なんで?」
「だって瑠胡、全然楽しそうじゃないもん。無理してウチらに合わせる必要とか、ないし」

 ふっ、と蔑むように笑った緋夏は、「これからは絡まないから。だから安心して。ね?」と小首を傾げた。取り巻きたちも腕を組み、同調を示すようにうなずいている。

「いや、あの……っ」
「じゃあそういうことだから。ばいばい、木月さん(・・・・)

 
 呼び名を変えて、はっきりと線を引かれた。もう入ってくるなと、お前の居場所はここではないと、そう言われたような気がした。満足そうな笑みを浮かべた緋夏は、そのまま身を翻して教室を出ていく。取り巻きもそれに続いて、ニヤニヤと気持ちの悪い笑みを浮かべながら出ていった。
 ちらちらと周囲からの視線を感じる。

 かわいそー。だっさ。まじウケる。

 憐れみの目、笑いの対象を蔑む視線、滑稽な存在を嘲笑う声。そんなもので教室中が溢れているような気がして、たまらず目をかたく閉じた。

 今さら捨てられてしまっては、これからの学校生活において独りぼっち生活は不可避だ。グループが確立してしまったこの時期に見放されるなんて、わたしはどうしてこんなに要領が悪いのだろう。惨めでしかない。


 わたしはまた、失敗してしまった。

「……っ」

 何度呼吸をしても息苦しくて、鞄を掴んでそのまま教室を飛びだす。じわりと涙の膜が張り、それは水滴の形になって落ちてしまった。赤い目のまま廊下を走って昇降口へと向かう。すれ違った何人かが驚いたようにわたしを見ていたけれど、止まらなかった。

 もう高校生なのに、恥ずかしい。


 わたしはどうしてこうも弱いのか。ちょっとしたことで涙が出てしまうのか。我慢しようとすればするほど、脳内の自分が自分を(けな)すのだ。

 役立たず。無能。要領が悪い。生きる価値なし。

 そんな言葉が渦巻くから、自己嫌悪に陥って泣いてしまう。一度始まった負のループは止まらない。自分で自分の首を絞め、苦しめてしまう。

「今日は、会えないな……」

 呟いて、視線を落とした。
 こんなみっともない姿、見せられない。やはり泣いてばかりいるのだと呆れられて、嫌われるのが怖かった。
 学校を飛び出して、近くにあったコンビニに入る。顔が見えないようにうつむきながら不織布マスクを買い、すぐにつけた。マスクの中で息がくぐもる。呼吸がしづらくなったその感覚に、なぜだかひどく安心した。
 みじめな顔をこれ以上晒していたくなかった。すべて覆い隠してしまいたかった。
 涙でマスクが濡れてひどく気持ちが悪い。それでも、こんなみっともない泣き顔を晒すよりはマシだった。

 いつもより二本遅い電車に乗ろう。そうしたら、先輩と会うことはきっとないはず。
 公園のベンチに座って、そんなことをぼんやりと考える。泣いたせいで腫れた目は、一向に治りそうになかった。頭がだる重い。まるで大きく重たい石が頭の上にのっているような感覚だ。
 
 これからわたしは、ずっとひとりなのだろうか。

 ハブられた可哀想な人として、認識されてしまうのだろうか。わたしは普通になりたいのに、悪い意味で普通ではなくなってしまった。ひっそりと生きるどころか、完全に悪目立ちしている。
 あとからあとから涙は溢れてくる。どんなに手で拭っても、まったくといっていいほど無意味だった。せめて呼吸だけでも落ち着かせるため、はあ、と深くため息を吐いたそのときだった。

「どうしたの? あの、よかったらこれ使って?」

 ふいに横から声がして肩が跳ねる。鈴を転がしたような可愛らしい声だった。

「急にごめんね。なんだか困ってるみたいだったから、つい声をかけてしまったの」

 ゆっくりと顔をあげると、困ったように眉を寄せてハンカチを差し出す女の子がそこにいた。彼女の整った顔立ちに、思わず息を呑む。
 ぱっちり二重と高い鼻、ピンク色の薄い唇となにより加工アプリのようなツヤ肌。今まで可愛らしい女の子はみたことがあったけれど、誰から見ても「可愛い」と断言できる美貌を見るのは初めてだった。

「今日はたまたま二枚持ってたから、こっちは使っていないの。少し冷やしたほうがいいかなって思って持ってきたんだけど、余計なお世話だったらごめんなさい」

 困惑したままハンカチを受け取って目に当てると、ひやりとした感覚が伝わってくる。じわりと涙が染み込んでいく。

「考えるより先に身体が動いちゃうタイプなの。だからよくおせっかいって言われちゃうけど、今回だけは許してね」

 顔をあげると、にこりと笑みが降ってきた。どきりと心臓が跳ねる。同性をも惹きつける魅力が、彼女の微笑みにはあるようだった。

 同じ制服のはずなのにわたしよりもずっと似合っている彼女は、小さく歯を見せて笑った。ずっとにこやかな笑みを絶やさない彼女は、人を惹きつける魅力がある。
 いったい誰なのだろう。落ち着きようや雰囲気から、もしかすると先輩かもしれない。

「あの……あなたは」

 問いかけると、小さく微笑んだ彼女はまっすぐにわたしの目を見て告げた。

「私、古園琴亜(ふるぞのことあ)。一年五組です」
「……え」

 古園。その苗字には聞き覚えがあった。どくっと心臓が脈を打つ。
 一度耳を通った言葉が記憶となって、濁流のようによみがえってくる。

『小テストじゃなくて、五組の古園さんが嫌いだって話をしてたんだよ』
『なんか調子乗ってると思っちゃうんだよね。自分で自分のこと可愛いとか思ってそうで嫌い』

 以前、緋夏たちとの会話で出てきた女の子。五組、古園。たったそれだけのキーワードだったけれど、すぐにわかった。間違いであってほしいと願いながら、それでも心のどこかで妙に納得してしまう自分もいた。
 だって、彼女は可愛すぎるのだから。あの人たちの嫉妬の対象になってしまうのだってうなずける。

「となり、座ってもいい?」
「あっ……うん」

 目にハンカチを当てたままこくりとうなずく。安堵したように息を洩らした古園さんは、背負っていたリュックを前で抱えるようにして座った。

「お名前は?」
「木月……瑠胡です」
「瑠胡ちゃん。可愛い名前だね」

 えへへと笑う古園さんは、本当に可愛らしかった。どうしてこんな人があんなにも酷いことを言われなければならないのか分からない。それと同時に、わたしはこんなに優しい人を傷つけてしまったのだと罪悪感が渦巻いていく。消え入りそうな謝罪が醜い口からこぼれていく。

「ごめんなさい……ごめんなさ……っ」
「どうして謝るの? 瑠胡ちゃんは何も悪いことしてないのに」

 見えないところで、わたしはあなたを傷つけた。それなのに、なぜか被害者ヅラして泣いている。泣く資格なんてわたしにはないのに。
 眩しい古園さんと、影のようなわたし。緋夏に見放されたくなくて、自分を偽って古園さんを貶したのに、結局緋夏にも見捨てられてしまった。

「泣くのは悪いことじゃないんだよ。いっぱい泣いてすっきりするなら、いくらでも泣いていいんだから」

 あたたかい手が背中をさすってくれる。優しさを感じてしまえば、あとからあとから涙は溢れてきた。いい加減、初対面の人の前で泣くのをやめたい。ぐっと唇を噛むと、久しぶりに痛みを感じた。

「こんなこと初対面で訊くのはおかしいかもしれないけど……瑠胡ちゃんってHSPだったりする?」

 充血した目を向けると、「なんとなく、私と同じような気がして」と告げられる。

「……HSPって、なに?」
「簡単に言うと、繊細な人のことかな。今はネットでもいろんな情報が出てるし、診断もできるみたいだからやってみたらいいかも。もちろんその診断結果が全てではないけど、たぶん瑠胡ちゃんは私と一緒な気がする。まあこれは私の勘だから、あまり気にしないで」

 ふふっと笑う古園さんからは、敵意をまったく感じなかった。

ーー敵意、だなんて。

 わたしはいつからか、周りの人間はすべて敵なのだと思うようになっていた。話すより先に距離をとる。疎ましく思われないために、邪魔だと思われないために。
 ささいな表情の変化で、その人の気持ちというものは案外伝わるものだ。それらを敏感に感じとってしまうから、いつしか人に怯えるようになってしまった。

「生きづらさを感じる人が全員HSPだって決めつけはよくないってことは知ってるの。だけど、知識として知っているか知っていないかだと、きっと前者のほうがいいと思うの。誰だって安心するでしょ? 考えすぎてしまうのは自分の体質なんだって自分を認めることができるから。自分を否定する回数が減るのなら、わたしは調べてみるのもありだと思うな」
「……」
「もし瑠胡ちゃんが周りとうまくいかなくて、苦しむことがあったらね」

 ふうっと息を吐き出した古園さんは、わたしと視線を合わせて微笑んだ。

「そのときは、私が瑠胡ちゃんの味方になるから。きっと、私たちならこの生きにくさを分かち合えると思うんだ」
「古園さん……」
「だからね、瑠胡ちゃん。私の前では我慢しなくていいんだよ」

 あたたかい涙が込み上げてきて、ハンカチで目元を押さえる。すべてを包み込むような優しさを向けてくれる彼女。

 緋夏たちの話とは全然違う。ぶりっ子でも、調子に乗っているわけでもない。心から、こんなにも優しい人だ。それなのに、噂で勝手に決めつけて、見たこともないのに同調して。
 わたしはなんてひどいやつなんだろう。それでいて、どうしてこの子とは何もかもが正反対なのだろう。

「私、琴亜。そう呼んでくれると嬉しいな」

 わたしにその名前を呼ぶ資格があるのだろうか。しばらく黙っていたけれど、宝石を埋め込んだような目をこちらに向ける彼女の圧にあっさりと敗北してしまう。

「……ありがとう、琴亜ちゃん」

 小さく呟くと、琴亜はふわりと嬉しそうに笑った。
 守りたくなるような、無邪気な笑顔だった。


──────


 カタカタと、夜中の部屋に響くタイピング音。両親が起きないように忍ばせながら、息を潜めるようにして指を動かした。

【HSPとは】
【HSP どうなる】
【HSP 改善方法】

 そんな履歴で画面が埋められていく。その中で、【HSP簡単セルフチェック】という記事を見つけ、すかさずクリックする。どうやら表示される質問に答えれば、簡単にHSPかどうかの診断が受けられるようだった。

 質問は本当に簡単なものばかりだった。けれど、わたしが日々思っていることや感じていることに関する質問が多く、自分という存在が紐解かれていくような、そんな気がした。

 診断結果は、HSPである可能性が高いとのこと。無論、これが必ず合っているというわけでも間違っているというわけでもないけれど、知って損はないので、深呼吸をしてから詳細について見ていく。



【HSP(ハイリー・センシティブ・パーソン)】

・感受性が強く、繊細
・音や光など、周囲の刺激に敏感
・環境の変化に弱い
・強い感情に敏感
・HSPは生まれ持った性質のことで、病気ではない

 書いてあること一つひとつが、自分に当てはまっていく。散らばったピースがひとつにまとまるような感覚だった。ここまではっきりと結果に頷ける診断は初めてで驚く。

 特徴やストレス解消方法、向いている仕事や人との付き合い方。そんな情報がどんどん出てきて、夢中になって調べた。
 ノートにメモをとっていく。あっという間にページが埋まり、次のページに書き込んでいく。
 そんな作業を続けていくと、HSPに悩む人は案外多いことがわかった。
 五人に一人。
 数値ではそう出ているらしい。

 意外だった。ものすごく少ないと思っていたのに、知らないだけで同じ思いを抱えている人がたくさんいるのだ。わたしだけじゃない。

 HSPは生まれ持った性質のこと。決して病気ではない。
 だから自分は人よりも繊細なんだと、人となりを受け入れることができれば、今の状態よりも楽になれるかもしれない。

 今まで自分だけが味わっていると思っていた生きづらさは、決して無意味なものではなかった。おかしなことではなかったのだ。
 それだけで、肩の力が抜けていく。

 正直、これが分かったところで今の状況が変わるわけではないし、生きやすくなるわけでもない。けれど、自分の生き方を変えることはできる。ほんの少しでも、微々たる差でも。

 ほんのささいな意識の変化で、世界はガラッと色を変える。

 その第一歩を、自分自身で踏み出せたような気がした。けれどすぐに、明日からは緋夏たちがまわりにいないのだと思い出し、また気分が落ちていく。
 わたしは完全にひとりになってしまった。明日からわたしはひとりで、学校に耐えることができるだろうか。