千佳さんの話を聞いて、私の頭の中は混乱してしまった。

 この話が本当の真実なんだ。それならなんで篠田先生が言っていた噂話がまだ残っているのだろう……。


 一度は距離をおいて、それでもお互いの存在が諦められなくて。周囲から揶揄されたり後ろめたい気持ちを受けないようにきちんと準備をして。

 最後はお父さんからのプロポーズに、指輪を一番大切な指にはめてもらって嬉し泣きで応えたお母さん。

 もう逆転満塁ホームラン。100点満点だ。いまの両親を見ていても、その光景が連想できる。

 先生に恋をした生徒なんて、空想の中だけだなんて決めつけていた自分が情けない。

 でも、どうしても腑に落ちないことがひとつだけあった。

「彩花ちゃん、まだお母さんの事を不潔だと思う?」

「わかりません……。正直、お母さんとお父さんが羨ましいです。誰からも後ろ指を指されるようなことはなかったんですね……」

「もちろんよ」

「でも、なんでこんな純愛のお話を娘の私にしてくれなかったんでしょうか。私、千佳さんのお話を聞かなければ、お父さんとお母さんをずっと軽蔑し続けてしまったと思います。そんな大恋愛だったのなら、私がもう少し早く生まれていても不思議はありません」

 そうなの。この大恋愛のことを私に話してくれていなかった。そこだけが引っ掛かる。

「そっか……。じゃあ、これは本当は話さないつもりだったけど……」

「はい?」


 千佳さんは、そこで小さく息を吐いた。



「結花ね、彩花ちゃんを授かる前の年に、初めての赤ちゃんを流産してるの。片方の卵巣しかないから、ホルモンのバランスも十分かは保障できない。無理をさせているもう一つの卵巣がいつダメになるか分からない。安全なお産どころか、妊娠できるかすら分からないって言われていて。それでも子どもが欲しくて、先生と二人で必死に頑張って、ようやく授かったのに、お腹の中で亡くなってしまった。先生、幸せにするって約束した結花がこのまま萎れて死んじゃうんじゃないかって、本当に心配していた。そこからも結花はみんなの力を借りて立ち上がったの。そして、ようやく授かったのが彩花ちゃん。あなたなのよ」

「お母さん……」

 その時のお母さんの気持ちを想像するだけで、私には言葉が思い付かない……。

「自分の体よりも、彩花ちゃんが無事に産まれてくれることを祈ってた。何かあれば自分ではなくて赤ちゃんを助けて欲しいって、お医者さんにも、先生にもいつも言っていた。結花にとって、彩花ちゃんは今でも自分の命よりも大事なのよ。彩花ちゃんを初めて抱いたときの結花の顔は本当に幸せそうだったよ。でも、二人目……、正確に言えば三人目よね。今度こそ結花が持たないかもという理由で彩花ちゃんは一人っ子なの。それを聞かれればきっと全てを話さざるを得なくなる。まだ彩花ちゃんには早いと思っていたのかもしれないわね」

 なんでこの真実よりあんな噂話の方を信じてしまったのだろう。昨日聞けばよかったのに……。

 一刻も早く、家に帰って二人の前に手をついて謝らなくちゃならない。


「千佳さん……。私、なんて言って帰ればいいんだろう……」

「いつもどおり、ただいまって、玄関を開ければいいの。そう、もしよかったら、お腹の傷を見せてもらってごらん? 結花が必死に生きてきた証拠だから……」

「うん……」

 千佳さんがお茶を出してくれた。ラップに包んであるおにぎりを食べてみる。本当にいつもと変わらない。

 それなのに自然に涙が止まらなくなった。

「私、大バカです……。お母さん、あんなに酷いこと言ったのに、なんでこんなに優しい味がするんですか……」

「それが、親子ってものだからね。あたしだって、謙太にいろいろ文句言われたって、お弁当はちゃんと作るよ」

 ふと見れば時計はすでに日付をまたいでいた。

「謙太、あんたはもう寝てなさい。母さん彩花ちゃんを送ってくるから」


 私の準備を整えて、玄関に立ったときだった。

 扉の向こう側に微かな人の気配が感じられた。

「結花…………」

 扉を開けた千佳さんが言葉を失う。

 そこには、寒さで唇を青くしながら、泣きはらした顔のお母さんが立っていたんだ……。