それから十年の年月が経った。

 大智 秋 三十歳
「すみません、土日と祝日は休みなんです」
「あら、そうなの。残念ねー。本でも持ってきてくつろごうと思ったのに」
 そう言うのは五年前くらいからうちの常連客となったお婆ちゃん。いつも昼時に訪れて暇ができたと思ったら俺か明日奈と話している。
「息子が孫を連れてきたんですよ」
「そうなんですか」
 今日はこんな内容だった。
「子供は休日家にいるので休みになっているんです」
「あらそうだったのね、これ何回か聞いたことあるじゃない」
「そうですよね」
 物忘れがちょっと心配になるけれど人を間違えることはまだ無いしいつも健康そうなお婆ちゃんだ。
「ならまた、来週来るね」
「はい、ありがとうございました」
 お婆ちゃんは店のドアを開いた。
「お母さん、一人でどこにも行かないでよ」
 そんな聞き覚えのある声が聞こえた。
「まさか、星矢ですか?」
 ドア越しにあとお婆ちゃんが最後のお客さんだったからちょっと大きな声を出せた。ドアの向こうに浮かぶ影はふと立ち止まり店内に入ってきた。
「星矢ですか、あなたは」
「星矢は俺の弟だけどどうかしたか」
 ふと頭に映画のように人生が流れる。俺はあのときこんな人と出会えた、俺はあのときこんなことを思った。
「えっと、鉄真?」
「なんで俺の名前わかったの?」
 そういえばこの店で働いていろんな再会があった。
 中学のときの友達がこの店を訪れてきた。
「大智、中学の友達じゃないの」
 こう言われなきゃ俺は気づかなかった。それぐらい彼らの姿は変わっていた。
「あの、蓮と芳昌?」
 誰だという顔を浮かべたのは大して気にならなかった。再開していつぶりだろうか、と最後に会った記憶を、昔の記憶を辿っていく。何十年も経てるはずで自分でさえ彼らが彼ら二人と判断できなかった。ただこうして声を掛けてみるとどこかもの懐かしいあの雰囲気にさせられる。
 そして顔をしっかりと焼き尽くした瞬間、またそれは生まれて俺の目を濡らす。
 雨漏りをしない程度にそれは瞬く間にと……。
 そのあとはあの誕生日プレゼントのことの勘違いを彼らの口から直接聞いてただ謝るけれどそんなこと数十年経ってたら忘れられていた。酷いなとかは思わない。それらは全てあのときの誕生日プレゼントに詰まっていた。丹精込めて贈られた一つの物。
 そして次は高校のあの事件を解決しようと駆けていた時代。
 その一人のメンバー、颯大がお店の端っこで本を読んでいた。雰囲気は変わっていなかったから若かりし頃の俺のセンサーがそれに勘付いて作動する。
 正直、颯大とはあまり話さなかった高校生活だがこのときは楽しく麗しいひととき。こんな未来は存在できてなかった。秀麗に磨かれた今の颯大は今自分の夢であるプログラマーに一筋で、それだけでも時を忘れた。
 別れるのが惜しかったがお互い忙しいことはわかっていた。
「また、あのメンバーで」
 そう言われてなんだか何もいえなかった。柔らかい何かが俺の口に封をした。
 それから数日後に颯大の話を聞き出したそうで結翔が来店。
「久しぶり」
 そう言う結翔の姿は颯大同様何か壮絶な変化はなかった。
 音が消えた瞬間だった。鼓膜がなくなった瞬間だった。周りの音なんてもうなかった。
 俺は仕事中ということも忘れて結翔を抱いていた。
 優しく包んだ記憶がないし力を込めた記憶も薄れて波に流されて白く細々な砂が跡形もなく記憶をさらっていく。夢を見たんだと。
 地平線が見える海、その奥に結翔の姿があった。
 "いってらっしゃい"
 いってはいけないのにそう。俺はもう会えないのだろう。
 あのメンバーから一人抜けた。先に抜けた。
 颯大に謝れよ。可哀想だろ。
 なぜだか俺は笑って今横で手を繋ぐ結翔に問い掛けた。
 優斗が来店してそれを聞かされた。でもなんだか笑みはあって、なぜ笑みと思わずにいられない秒があった。けれどそのときは店が忙しくて話すことはできなかった。
 また会えなくなるんだ、また会えた。凸凹に地面に穴を空けてそれを綺麗に埋めての繰り返し。
 優斗との再会は意外とすぐで奇跡みたいなものだった。
 俺は夜二十二時に目を覚ます。体内時計が異常に狂ったときのことで睡眠が十分に取れない時期だった。いつも通りの二十三時に寝たら起きるのは朝四時。そこからはなかなか眠れず朝七時になると眠いだろうに体は起きていて頭には寝ろという催促で殴られて。
 目の痙攣、立ちくらみ、めまい。
 なんとか仕事を終えて少し座ると寝てしまって目を覚ますと夜遅くて。
 そこで夜道を歩くことにした。静かな夜道は眠りに眠った俺の動物的本能。たまたまコンビニで夜食を買い終える優斗がいたから優斗の家に飲みにいった。
「夜、食べてねえ」
 夜ご飯の有無を聞かれたのでこう答える。彼はさっきコンビニで買ったおにぎりとざる蕎麦を俺に分けてくれた。それと炭酸水と。気を使ってくれてお酒はくれなかったみたいだ。飲みたさそうにしていて申し訳なかったけれど甘えよう。
 蕎麦をつゆにつけて口に入れるが思い通りに流れない。口に残ったようなどうも食べた感の否めない気持ちになる。
 炭酸水を口に流す。口に残った毒が浄化させて流されたみたいだが、舌が痺れる。麦茶を口に流し込む。苦くて痺れが収まる。
「俺らってまだ幼いよな、育児も家事もできないし、全部妻に任せっけりだもんな」
「お前もそんなふうに思うことがあるのか」
「思うわ。てか結婚おめでとうやな」
「それ言われると実感湧くわ。十年前の話だけど」
「ひえー。老いってすぐだねえ」
 今のこの体内時計が狂っているのもどうか老いのせいであってほしい。ペンもないので今机の上にあった箸の入れてあった袋に短冊を書くみたいに書く。
 "妻を大事に"
「なんとなく俺らのしたいことってこれじゃないのか」
 心で呟き、書き、優斗に伝える。
「間違いねー」
 幼い笑いがまた俺を笑わせてくれる。
 
 店の看板商品のパンケーキいきなり五段になった。
「どうしてこんなことに」
「夢に出てきた。理由は言えない」
 明日奈のいきなりの行動は俺だけにとどまらず常連客にも響いて、このパンケーキの売り上げは落ちていき看板商品と名乗っていいのかわからなくなってきた。
 夢を見た。それからパンケーキの段数は四段になった。
 座る仕事だったから。医療に関してあまり詳しくないのでわからないが夢の中で見たあの光景は耐えられなかったのと同時に夜になって本当の自分を曝け出した。
「パンケーキ、四段にしないか」
 明日奈にこう問うと即座に同意してくれた。
 夢で聞いたことのない声を聞いた。
 夢を見た。それからパンケーキが三段になった。
 夢で聞いたことのある声が聞こえた。つい最近聞いたこの声。けれどどこで聞いたか、誰の声だかはわからなかった。
 最愛の妻と子を残した。子が道路に飛び出しそれをかばった。父親として当然の行動なのにいけない行動だとそれを夢ながら目の当たりにしてなかなか野次馬にはなれなかったしその後もなれることはなかった。
 
「それは俺が佐藤大智だから」
「えっと、どなたですか」
 それとあと夢とでケーキは二段になる予定だった。
 俺が残した記憶はパンケーキよりも少ないようだ。パンケーキの方が歴史があった。パンケーキはたくさん思い出を持っていた。
 夢を見た。パンケーキがそのときから三段になった。
 明日奈はこの意見にはもう何も言わなかった。何か言いたげそうな顔だったけれど俺らは、
 "あの星を信じる"
  
 鉄真の弟は星矢だった。高校の鉄真と星矢の苗字は同じだった。
「鉄真は、兄は、記憶喪失になっています。俺の息子と遊んでいて。あれは事故でした」
 家族のことは思い出せるくらいにまでの回復は舌がそれ以上はもう見込めなかった。ただ体だけが残った。
「パンケーキ食べますか?」
 勧めない方が良い気もしたがこれは幸せを運んでくれる。
「幸せの食べ過ぎは体に毒ですよ」
 極夜は暗い。そこに取り残されたい。この地球上で一番の幸せって、この地球上の一番って。ただそれを追い求めるのって。
「俺は今幸せです。咲穂と結婚して子供を授かって。小説家にもなれたんです。なのに、なのに、」
 "これ以上の幸せって必要ですか"
 いつからだろう。俺が俺をなくし忘れたのは。
 胸騒ぎした。胸騒ぎは胸騒ぎのままで、もしくは別のものに。
 明日奈にお迎えが来ることはなかった。
「パンケーキを販売中止にしよう」
 これが功を奏したようだ。明日奈もそして俺らの子供もそして俺もお迎えが来ることはなかった。
 前々から受け継がれてきたものは避けなければ。避けなければならなかったのはこれだったのかもしれない。もっと早く気づいていればよかった。そうしたら高校の友人をなくすことはなかったのかもしれない。
 気づいてよかった、結びつけれた。このどうでもいい星たちのおままごとに幕を下ろすことができて俺は悦ばしい気持ちでいっぱいだった。
「新たな試みをしよう」
 明日奈にそう言った。カフェは跡形もなく消し去った。長らく続いたこのお店は今はどうなったのだろう。九州の大分に俺らは引っ越した。
「俺らって縛り付けられていたのかな」
「私も今そう思ってた。なんだか今はもう体に何もこびりついていなくて」
「お風呂上がりみたいな感じか」
「そうそう、あの無防備な感じ」
「俺も同じだ」
 腕に足に体に。体の中にも張り巡らされた縄をようやく解くことに成功した。ここに来て俺らは普通になれた。全部なくすのは心惜しいしそれはそれで自分自身を変えそうだった。だから明日奈とも一緒にいるし、だから大分に引っ越したんだし。
「温泉行かない?」
「久しぶりだね。いいよ、行こう」
 子供が出来て初めての温泉。あのとき優斗とした"したいこと"を果たす。子供は女の子なんだけど俺は男湯に連れて行くことにした。娘は大変嫌がっていたけれどお構いなしにした行動は周りに迷惑をかけなかった。わかるらしい。俺の考えていることが。わかるらしい。あいつの考えていることが。
 明日奈は今どんな気持ちだろう。男だけの二人だけの約束を知らない明日奈は今どんな気持ちなんだろう。
 また夢を見た。だけどこれが最後の夢だと悟ったのは桜木お爺ちゃんが出てきたから。
「明日奈をよろしく」
 俺の両手は……見れなかった…………。
「おはよう」
「おはよう」
 起きて横を見ると明日奈がいた。本当の横は娘だけどまだ寝てたし体が小さいから明日奈の顔がしっかりと見える。
「明日奈、ちょっと聞きたいことがあるんだけどいいか?」
「いいよ」
 朝日に照らされた屈託のない笑顔は元気を分けてくれる。
「この三人の中で誰かが亡くなるとしたら誰を犠牲にする」
 明日奈と対照的な考えと思考を強いるようになったのはあれから治らない。もう自分の原型がない。けれどそれを全部跳ね返すのが明日奈でだから俺は明日奈を選んだのだ。
「向こうに一人、ここに一人にならないようにする。けれどね、時が変わったらその考えが変わるのを忘れないでね。でも大智と過ごす時間は過去よりも何百倍の価値があるんだ。多分それがあるから今私はこう言えるんだと思う。だからね、ありがとう。私に良い未来を見せてくれて。一生ついて行こうと思います」
「俺はなんて言えば良いんだ」
「自分が思ったことを言えば良いんだよ」 
 口に手を当て笑う明日奈は変わらない。俺は思い出してしまった。あのからかっていたときの懐かしい明日奈を。
「じゃあさ、これからもよろしく」
 優斗と言い合ったことが頭をよぎった。俺が死んだら何も出来ないじゃないか。
「俺、明日奈より長生きするから」
「え、私の方が長生きするから」
 これは幸せ。
「ねえ、飲み会に行くのは良いけど時間通りに帰ってきてよ」
「知らんし、部長に言えよ。俺が帰ろうとしたら止めてくるあいつをどうにかしろよ」
 これはある意味幸せ。
 なんだろう、不幸がわからなくなった。

 大智 不明
 けれど幸せな死に方ができたから俺は、俺らは幸せなのかもしれない。
「俺たち死んだみたいだな」
「そうだね」
 下を見ると車に跳ねられた二人の高齢者の死体があった。もう一方はずっと俺のそばにいてくれて、もう一方は鏡で出会う方。
「明日奈、これは幸せか?」
「私は幸せだよ」
「けれど一人残してしまったよ」
「大丈夫よあの子は。だってもう一つの家庭を持って三人になっているんだし」
「そうか、自立したんだね」
「パートナーがいるけどね。自立は自立だと思うよ」
「俺は自立できたんかな」
「私がいなかったらできたいなかったに一票入れるよ」
 横を見たら最初に会ったときの明日奈の姿があった。
「君はいつでも可愛かったよ」
「そう言って下心を持って君は浮気をしたんだね」
「してないわ」
「知ってる」
 車に跳ねられた後でも明日奈は笑っていられる。それに釣られて俺も笑っていられる。
 幸せって続かないしそれが続いていても面白いとは思わない。幸せの定理は自分だ。あれだけ自分を失くしたのに自分はしっかりとあった。だから明日奈と楽しいを共有できたときも喧嘩したときも幸せと思えた。
「きっと大智だけだよ」
「何が?」
「あれ違ったかも」
「冗談だよ、大丈夫。わかってる」
 自分を少しばかりどこかに置いていったみたいだ。だから言った。
「明日奈、俺は明日奈のことが好きです。守ってやろうと心から思えた俺の大切な人です。なのに守れなくてごめん。ここまで来てわがままなのかもしれない、明日奈と離れたくなかった。好きなら残すべきだった。けれど友達の件があって別れたらもう次はないのかもしれないって思って。本当に俺は子供だ」
 自分の人生はだいぶ複雑でいろんな機械、機材を用意したまだ誰も見ぬ企画を提案ししたんだ。だからこんな変なことになった。自分自身を少しいじった。
「私は幸せだよ。私の言うこと、希望を叶えてくれた。あの子はもう自立しているから私は一人にならなくて済んだ。連れてきてくれてありがとう。孤独死しなくて良かったよ。それに私だってこど……」
 風が吹いた。明日奈が風に飛ばされる。手を手を繋いでいたはずだ。風の勢いは強かった。手を握っていたからとかでは解決できない。
「明日奈」 
 精一杯に叫んだけれど老いてもろくなった体では限界だったらしい。咳がでた。
 "私は幸せだよ"
 なあ、最後でいいから。これは本当かい。明日奈は幸せだったかい。もう会えないのはわかったから、だからこれの答えだけ聞きたい。
 口の中がレモンで酸っぱかった。