ーーデザート、その2ーー

 皿の上には500円ほどの小さな茶色の固まりがありました。心を昔に囚われながら、私は皿を受けとりました。
「えっと、これは」

ーーブラウニーですーー

 習字書きが流れてきて教えてくれました。ブラウニーですか。しかし、いくらなんでもこのデザート小さ過ぎではないだろうか。
 そんなことを思い、気持ちを切り替え、私は行儀悪く手で掴み、ひとくちでぱくりと食べ……。
「げほ。ごほ。なにこれ、塩辛い!」
 っと咳き込むと、ゆっくりと景色が変わっていきました。いったいなんて酷いブラウニーを食べさせられたのだろうかと、ちょっと腹が立ちました。これはお金を取る味ではない。っと。
 私は実家の部屋でぽつりと立ち尽くしていた。
 高校一年の自分は、家のベッドに投げ出すように寝っ転がり、ペンギンのぬいぐるみを抱えて、スマホを片手に、さっちゃんと電話をしているところです。
「バレンタインのチョコレート?」
「そっ。一緒に作ろうよ」
 本命チョコを作ろうと、さっちゃんが相談してきたのです。──そうだ。すっかり忘れていた。そんなこともあったんだ。昔の私は、乗る気ではありませんでした。しかし、さっちゃんの必死の懇願で了承してしまったのです。そこからは断片的に風景が変わりました。
 気がつくと私は母校の一年三組にいました。料理の苦手な昔の私とさっちゃんは料理部の岡田さんに頼み込み了承を得る。さっちゃんは喜び、本番に向けて料理の練習をすることになりました。岡田さんの提案で、溶けないブラウニーを作ることが決定。
 なんでこんなことになってしまったのだろうかと、あのころ優柔不断な自分を呪ったものです。
「──葵。落ちたぞ」
「え」
 次の場所は廊下。移動教室の時間に昔の自分は、さっちゃんとお揃いで買った手のひらサイズの熊の人形を落としてしまい、亮ちゃんはひょいと拾い
「ドジ」
と言い手渡してくれました。
「ドジって酷いな」
「あのさ、放課後、料理部の岡田となんか作って……いや、なんでもない」
 どきりとしました。まさかバレているとは思わなかったのです。決まり悪げに亮ちゃんはした。そこにどこぞの誰かが半開きにした窓から、冷たい悪戯な風が吹き込み、腰まであった昔の自分の髪が靡いた。
「あっ。私の髪が絡まってる」
「げっ。俺のボタンに絡まってんじゃん」
 当時、腰まであった自分の髪が亮ちゃんの学生服に絡まってしまったのです。亮ちゃんは悪戦苦闘しながら外そうとしている。その必死さが可愛くて、くすりと笑ってしまう。
 バレンタインのチョコレート、義理チョコならあげてもいいだろうか。
 そんなことを昔の自分は思ったのを覚えている。しかし……
「なにしてるのよ。亮ってば」
 先に進んでいた、さっちゃんが気がつき、慌てて戻ってくる。我にかえり、義理だろうがさっちゃんに悪いと心に蓋をした。
 絡まったボタンを髪から剥がそうと、さっちゃんまで加わって、さらに絡まり悪化してしまった。まるであのころの心が反映したみたいに絡み合っているようではありませんか。
「いいよ。髪切っちゃえば」
「できねーよ。ばーか」
 ブツ。
 言うと亮ちゃんは自分のボタンを引きちぎってしまったのです。
「ドジ」
 亮ちゃんの大きな手が、昔の自分に伸び、頭を撫でるように触れた。その光景を目の当たりにして私の心臓が、あの頃と同じように高鳴った。知らない男の子のようで、変わらない優しい男の子。亮ちゃんへの感情が溢れそうでした。
ーーどうしようーー
 溢れてきた昔の自分の声。心の声が透けていた。
 好きになんかなるものかと、好きになってはいけない人だと。聞こえてくる。
 馬鹿ですよね。気持ちなんて押さえつけられるものではないのに。
 場面がまた変わりました。
「葵。国語得意だったよね。今度勉強会しようよ。ってかお願い、亮を呼び出すチャンスが欲しいんだ」
「いいよ。さっちゃん」
ーーどうしようーー
「葵さ、亮の部活なかまの新城って知ってる」
「知らないよ」
「そいつが、どうも葵のこと気になってるみたいなんだぁ。どう、会ってみない」
「いいよ。やめとく」
「ええ、いいじゃん。そうだ、今度、四人で出かけようよ」
ーーどうしようーー
「あのさ葵。新城のこと好きなのか」
「そんなことないよ。何言ってるの、亮ちゃん……」
「そっか。だよな……」
ーーどうしようーー
「馬鹿、葵。ヤッパリ熱があるじゃねーか」
「えっ」
「自分で気づかなかったのかよ。悪い、こいつ保健室連れて行く」
「ちょっ。亮ちゃん。手!」
「何だよ、手なんかガキのとき、いくらでも繋いでただろうが」
「……そうだけど」
ーーどうしようーー
 こんな昔の光景を見せられて、私の胸がぎゅっと締め付けられて痛んだ。もう、どうしようもないくらい昔の自分は亮ちゃんを好きになっていった。
 とうとうその日がやってきた。
 岡田さんの家で慣れない手付きで、昔の自分とさっちゃんはチョコレートを切り刻んでいる。
「クルミ入れても、亮って食べてくれるかな?」
「大丈夫だよ。昔と変わらなければクルミ入りのパン、亮ちゃん好きだったから」
「そっかぁ」
 嬉しそうにするさっちゃが、このうえなく眩しく、幸せそうで、胸に刺さった。嫌気がするほどの甘ったるいチョコレートの香りが、部屋中に染み込んでいた。その溶かしたチョコレートにバターを加え、混ぜる。卵に砂糖に牛乳。ラムエッセンスを2、3滴加えて焼く。
 心はそぞろでした。亮ちゃんは、さっちゃんから貰ったブラウニーを嬉しそうに食べるのだろうか。さっちゃんと亮ちゃんはこのまま……。そんな最低な渦が回っていたのを思い出した。
「完成。やったね。なんとか形になったぞ」
 各個人で作ったブラウニーは特徴的。岡田さんはハート型で完璧。さっちゃんはクッキーのように固め。私は……。
「しょっぱい!」
「葵、あんたこれ、砂糖と塩、間違えてるよ」
 もはやお菓子ではありません。折角練習までしたのに。
「これじゃあ、新城にもあげられないじゃん」
「……あげないよ」
「げふ」
「って、葵、なに食べてるのよ。勿体ないけど止めときなよ」
 岡田さんが口直しにお水を持ってきてくれた。昔の私は、あまりの塩辛さに涙目になりながら水をごくごくと飲み干した。
 これでいい。
 亮ちゃんへの甘いふわふわした気持ちは、このブラウニーのように塩で辛くして水に流せばいい。そんなことを思って何度もその塩辛いブラウニーを吐きそうになりながら、あの頃の自分は食べた。
 空気を入れ替えようと岡田さんは、からりと窓を開けた。気持ちが悪いほどの甘ったるいチョコレートの匂いが和らぐ。すでに空は茜色に染まっていた。
 大きな夕焼けが、ふいに回るように歪んだ。ぐるぐると違う絵の具を混ぜるように。──急に目眩がした。気持ちが悪いまま、私は、まほろにいた。
 ちょっと昔の記憶を思い出し過ぎたのだろうか。
 軽い目眩に私は頭を振った。口のなかが、まだ塩辛い。水がベルトコンベアーから流れてきて私は受けとる。ぐっとコップを傾けて水を喉に流し込む。
 馬鹿な葵。こんな水なんかで気持ちなんて流せるわけがないのに。もう、あのころ、どうにもならないほど亮ちゃんを好きになってたくせに……。
「若かったよな」
 このまほろで食べた、酷いブラウニーは、私の作った洋菓子そのままだった。ほろ苦く塩辛い。そしてとても不味い。あの頃の醜い心みたい。
「ごちそうさまでした」