「疲れたな」
しくしくと闇に溶け込んだ空から雨粒が降り注ぐ。紫陽花と和菓子が目につく梅雨前線真っ只中の6月。すでに時刻は9時になろうとしていた。お外はすっかり真っ暗。ネオンの光だけが暗闇に鈍く彩り鬱陶しさを漂わせている。水野葵28歳はガタゴトと揺れる電車の座席で、深く腰を沈め、ひとりため息を吐いた。
参った。ゴリラが火を吹いた。
それは今日の昼の出来事であった。そのときの私の頭は、あることが大半を閉めていて、うっかりとしていたのです。
『──こんな簡単な発注ミス、あり得ないんだけど』
50歳を越える、我が社のお局、五里さんに怒鳴られてしまったのは今日の11時50分のことでした。もうすぐお昼ご飯になろうとしているところで、私は青ざめ、深々と頭を下げた。
『すみません』
『謝ったからって、どうにもならないわよ。発注数は50なのに、なんで5なのよ。あり得ない。もう一度、発注すると送料がさらに掛かるし、それに生産に間に合わなかったら、あなたのせいよ。始末書書きなさいよ』
『はい。すみません』
総務課で働く私はポカをしてしまったのです。何かと口やかましく、イビるために粗探しをするようなおばちゃんに、私は、まんまと餌を与えてしまい、口から火が出ていると思えるほど、五里さんに攻められた。
誰だってミスすることはあると思いませんか。
完全な確認ミスではある。ええ、私が悪るぅございます。確かに私のせいだ。しかし、もとはと言えば私の彼氏の亮ちゃんのせいでもあるのだ。
自分の失態を彼氏に擦り付けて、思い出しては私は腹を立てた。
電車で不安定に揺られながら、雨で湿気た前髪を剥ぎとるように額から掻きあげる。
──喧嘩をしたのだ。些細な。
かれこれ付き合って10年になる彼氏の坂田亮。顔も身長もそこそこで、優しいがため意外にモテた。しかし私意外、知らないだろうがズボラだ。そんな彼が私の誕生日デートで……。
『嘘でしょう』
彼はあり得ないほどよれよれの色あせた、いつ買ったかわからない緑の服を着て現れたのだ。あまりの衝撃に私は絶句した。
普段なら軽く流せていた。しかし彼女の誕生日なんです。
『腹減ったな。じゃあ行くか』
驚く私に気がつきもせず、何事もなくポケットに手を突っ込み、私の前を歩く亮ちゃんにイラつきを感じるのは仕方がないことだと思う。それでもエスコートしてくれるならと黙って彼に従った。なのにだ。
着いた場所は、よく彼が通っているラーメン屋ではありませんか。マジかと暖簾を睨めつけた。
いえ、別に高級レストランを期待していたわけではありません。でもその日は、おしゃれして花柄のワンピースを着ていたのだから考えて欲しいと思う。
なんでよっと怒鳴りたい衝動に私は陥る。ラーメンに罪はない。バリ固メンが喉に突き刺さったみたいに、なんだか悲しくなり、激辛ラー油をそのまま腹に流し込んだようにムカついた。
おい、付き合って10年とはいえ、手軽に済ませ過ぎではないだろうか。
折角の記念日が台無しだ。なんだか日頃の感情がちまちまと山となり、いままでの数々の言動が浮かんできてしまったのです。
『リモコン取って』
『味付けが薄い』
『さっさと片付けろよ』などなど。
何故に毎度命令なのか、あかん、腹立つわ。
そうして、とうとう私の限界の怒りが爆発した。
『あのね。私は亮ちゃんのなんなの? 彼女だよね。つき合って長いけど、もうちょっと私のことわかってくれない。誕生日にラーメン屋とかあり得ないんだけど。それに日頃から、私になにかしろって言うけど、私、召使いになった覚えはないし、亮ちゃんが残業で疲れてる、だなんの言うけど、私だってここのところ毎日残業なんだよ。私より早く帰ってきてるんだから自分でやればいいでしょう』
そんなことをポロリと言ってしまったのです。
どこかプライドを傷つけられたのか亮ちゃんも怒り、カンカンと鐘を鳴らして口喧が嘩勃発してしまった。それは洗濯機で回る衣類のように揉みくちゃに言い合った。
『お前、最近、可愛げない』
『亮ちゃんなんか、最近、やたらと女々しいじゃない。男の癖に』
『なんだと!』『なによ』
カンカンカンカン。
お互い、顔も見たくないっとなってしまい、口喧嘩は終了しました。しかしながら、まだ同棲してない私たちは、頑固者同士、そのまま連絡を断ってしまったのです。
そんなわけで仕事中、彼氏のことで頭がいっぱいだった。
私は頭痛でもするように額を押さえた。
「参ったな。あんな簡単なミスするなんて──それにお腹が空いた。ポカのせいで、お昼、食べそこなったんだよね」
落ち込む心に、空腹はさらなる虚しさを倍増させ沈鬱させた。
まったく。仕事に恋愛に散々。こうなれば、やけ食いだ。ダイエット。知ったこっちゃない。ああ、最近太ったんじゃないかって亮ちゃんに言われてたんだっけ。──知るか。食ってやる。
私はそう決め、荒々しく電車を降りた。
駅のホームで慌ただしくすれ違っていく電車。その風にボブカットの髪か靡かれて怒りが少し静まる。急に私はそこに取り残されたような、心を引き裂かれみたいな気分になりました。乱れた髪を耳に掛ける。
─私たち、もう駄目なのかなぁ。
くだらない喧嘩で別れが脳裏を過った。
「はぁ。昔はもっと亮ちゃん優しかったのに……」
初々しく仲睦まじく手を繋ぐカップルを横目で、その寂しさに私は大きなため息をつくと、最寄り駅を出たのでした。
しくしくと闇に溶け込んだ空から雨粒が降り注ぐ。紫陽花と和菓子が目につく梅雨前線真っ只中の6月。すでに時刻は9時になろうとしていた。お外はすっかり真っ暗。ネオンの光だけが暗闇に鈍く彩り鬱陶しさを漂わせている。水野葵28歳はガタゴトと揺れる電車の座席で、深く腰を沈め、ひとりため息を吐いた。
参った。ゴリラが火を吹いた。
それは今日の昼の出来事であった。そのときの私の頭は、あることが大半を閉めていて、うっかりとしていたのです。
『──こんな簡単な発注ミス、あり得ないんだけど』
50歳を越える、我が社のお局、五里さんに怒鳴られてしまったのは今日の11時50分のことでした。もうすぐお昼ご飯になろうとしているところで、私は青ざめ、深々と頭を下げた。
『すみません』
『謝ったからって、どうにもならないわよ。発注数は50なのに、なんで5なのよ。あり得ない。もう一度、発注すると送料がさらに掛かるし、それに生産に間に合わなかったら、あなたのせいよ。始末書書きなさいよ』
『はい。すみません』
総務課で働く私はポカをしてしまったのです。何かと口やかましく、イビるために粗探しをするようなおばちゃんに、私は、まんまと餌を与えてしまい、口から火が出ていると思えるほど、五里さんに攻められた。
誰だってミスすることはあると思いませんか。
完全な確認ミスではある。ええ、私が悪るぅございます。確かに私のせいだ。しかし、もとはと言えば私の彼氏の亮ちゃんのせいでもあるのだ。
自分の失態を彼氏に擦り付けて、思い出しては私は腹を立てた。
電車で不安定に揺られながら、雨で湿気た前髪を剥ぎとるように額から掻きあげる。
──喧嘩をしたのだ。些細な。
かれこれ付き合って10年になる彼氏の坂田亮。顔も身長もそこそこで、優しいがため意外にモテた。しかし私意外、知らないだろうがズボラだ。そんな彼が私の誕生日デートで……。
『嘘でしょう』
彼はあり得ないほどよれよれの色あせた、いつ買ったかわからない緑の服を着て現れたのだ。あまりの衝撃に私は絶句した。
普段なら軽く流せていた。しかし彼女の誕生日なんです。
『腹減ったな。じゃあ行くか』
驚く私に気がつきもせず、何事もなくポケットに手を突っ込み、私の前を歩く亮ちゃんにイラつきを感じるのは仕方がないことだと思う。それでもエスコートしてくれるならと黙って彼に従った。なのにだ。
着いた場所は、よく彼が通っているラーメン屋ではありませんか。マジかと暖簾を睨めつけた。
いえ、別に高級レストランを期待していたわけではありません。でもその日は、おしゃれして花柄のワンピースを着ていたのだから考えて欲しいと思う。
なんでよっと怒鳴りたい衝動に私は陥る。ラーメンに罪はない。バリ固メンが喉に突き刺さったみたいに、なんだか悲しくなり、激辛ラー油をそのまま腹に流し込んだようにムカついた。
おい、付き合って10年とはいえ、手軽に済ませ過ぎではないだろうか。
折角の記念日が台無しだ。なんだか日頃の感情がちまちまと山となり、いままでの数々の言動が浮かんできてしまったのです。
『リモコン取って』
『味付けが薄い』
『さっさと片付けろよ』などなど。
何故に毎度命令なのか、あかん、腹立つわ。
そうして、とうとう私の限界の怒りが爆発した。
『あのね。私は亮ちゃんのなんなの? 彼女だよね。つき合って長いけど、もうちょっと私のことわかってくれない。誕生日にラーメン屋とかあり得ないんだけど。それに日頃から、私になにかしろって言うけど、私、召使いになった覚えはないし、亮ちゃんが残業で疲れてる、だなんの言うけど、私だってここのところ毎日残業なんだよ。私より早く帰ってきてるんだから自分でやればいいでしょう』
そんなことをポロリと言ってしまったのです。
どこかプライドを傷つけられたのか亮ちゃんも怒り、カンカンと鐘を鳴らして口喧が嘩勃発してしまった。それは洗濯機で回る衣類のように揉みくちゃに言い合った。
『お前、最近、可愛げない』
『亮ちゃんなんか、最近、やたらと女々しいじゃない。男の癖に』
『なんだと!』『なによ』
カンカンカンカン。
お互い、顔も見たくないっとなってしまい、口喧嘩は終了しました。しかしながら、まだ同棲してない私たちは、頑固者同士、そのまま連絡を断ってしまったのです。
そんなわけで仕事中、彼氏のことで頭がいっぱいだった。
私は頭痛でもするように額を押さえた。
「参ったな。あんな簡単なミスするなんて──それにお腹が空いた。ポカのせいで、お昼、食べそこなったんだよね」
落ち込む心に、空腹はさらなる虚しさを倍増させ沈鬱させた。
まったく。仕事に恋愛に散々。こうなれば、やけ食いだ。ダイエット。知ったこっちゃない。ああ、最近太ったんじゃないかって亮ちゃんに言われてたんだっけ。──知るか。食ってやる。
私はそう決め、荒々しく電車を降りた。
駅のホームで慌ただしくすれ違っていく電車。その風にボブカットの髪か靡かれて怒りが少し静まる。急に私はそこに取り残されたような、心を引き裂かれみたいな気分になりました。乱れた髪を耳に掛ける。
─私たち、もう駄目なのかなぁ。
くだらない喧嘩で別れが脳裏を過った。
「はぁ。昔はもっと亮ちゃん優しかったのに……」
初々しく仲睦まじく手を繋ぐカップルを横目で、その寂しさに私は大きなため息をつくと、最寄り駅を出たのでした。